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愛という名の狂気

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だれでも歓迎! 編集
 噎せ返るような濃い血の匂いが蔓延した部屋で何かが転がっていた。ピクリとも動かない。ただ、それを中心に赤い円が歪な形で徐々に広がっている。
 窓に打ち付ける雨は、激しく大きい音をくぐもらせながら部屋の中に侵入させてくる。何かが見えるかと思って窓の外を見てみると、そこには何処までも、それこそ地球の裏側に行っても続いているかのような漆黒だけが見えた。
 痛い。冷静な頭が、痛い、と必死に訴えてる。それなのに体を見回しても私の体にこれと言った外傷は見当たらない。薄暗い宵闇の中で、自分の手を顔に近付けて見てみると、それにも思わず噎せてしまうような血の匂いがべったりと貼りついていて強烈な吐き気が私を襲った。
 視界が揺らぐ。もう一つの手に握る何かに力を込めて、血が止まりそうになるくらいに強く握り締める。僅かな重量感しか持たないそれも、今はズシリと重力と共に私を床に簸れ伏せさせようと、重く圧し掛かる。もう、長くは立っていられそうになかった。
 痛い。どうしようもなく、痛い。外から受けるような痛みではなく、内から私の身体を引き裂こうとしている痛みが、体中に張り巡らされた血管を通じて全身に襲いかかる。頭の中が黒くなっていた。何も考えられなかった。考えたくなかった。
 耳を劈くような轟音が、近くから聞こえた。窓から差し込む漆黒が切り裂かれ、真っ白の閃光が一瞬だけ部屋の中を照らしだした。黒に近い赤が広がる床、その中心で伏せる、肉の塊。赤に染められた、色の原型を見せない糸のような髪の毛。その全てが私を狂わせた。
 気が狂うような血の匂い。膨れ上がって、破裂しそうな何かが限界に近付いてる。全てが夢のような浮遊感に包まれた、幻の世界が完全な闇に飲み込まれて行く。
 夢に居るような非現実的な感覚の中で、私の左手に握られる狂喜の触感が、やけにリアルだった。





愛と言う名の狂気




「ちょっと、こなたに勉強教えに行かないといけないから」
 そう言って私の、勉強を教えて欲しいと言う頼みを断って家を出るお姉ちゃん。断る時の、申し訳なさそうな顔と、罪悪感を滲ませた瞳は、家を出た時には遠足を前日に控えた小学生のように嬉々としたものに変わっていた。
 私は一人取り残された玄関で、そっと呟いた。
「しょうがないよね」




「日下部の買い物に誘われちゃって……悪いけど、また今度ね」
 みゆきを誘ってみれば? それを最後に、電話を切ったお姉ちゃん。朝早くから居なくなって、何時もと同じ時間に目覚めた私はお姉ちゃんに電話を掛けた。さっきまで私とお姉ちゃんを繋げていてくれた携帯電話の電話口では、ツー、と言う音を断続的に繰り返すだけだった。
 私は手に持っていた二枚のテーマパークの招待券を握り締めて、そっと呟いた。
「しょうが……ない、よね」




「あー、ごめん、今はちょっとダイエット中だからさ」
 苦々しい表情を作って、お姉ちゃんは私が差し出した、私が焼いたクッキーを私の手元に戻した。お姉ちゃんの机の上には、可愛らしい包装が成された袋が置かれていた。中には、峰岸さんが焼いてくれたクッキーが入ってる。
 私は、自分の部屋のゴミ箱にクッキーを放って、呟いた。
「こんなにいっぱい、食べれないよね」




「今日はこなたとゲーマーズ寄って帰るから、先に帰ってて」
 私が一緒に帰ろう、と言う前に、お姉ちゃんはそう言った。隣ではごめんね、と合掌するこなちゃんが居た。二人は、仲の良い恋人みたいに、からかい、からかわれながら楽しそうな笑い声の余韻を残して教室を出て行った。
 夕染めの教室の中、一人になった私は呟いた。
「こなちゃんの方が、大事なんだね」




「こなたのお父さんの書いた作品の試し読みに誘われたから、ちょっと行ってくるわ」
 休日、一緒に何処かへ遊びに行く約束をしていたお姉ちゃんは、そんな事忘れたかのようにはにかんだ笑みを私に残してこなちゃんの家に向かった。私も行きたい、その言葉を私に言わせないかのように、お姉ちゃんは早足だった。
 こなちゃんのお父さんは、仕事の取材で家には居ないはずだった。
 嘘を吐かれて、お姉ちゃんの靴が無くなった部屋で、私は言った。
「何で、嘘を吐くのかな」




"かがみんは私の嫁"
 そんな文字が印刷されたプリクラが、お姉ちゃんの机の上から二番目の引き出しに入っていた。傷つかないように、ビニールで保護されているプリクラだった。私は油性マジックでその文字と、こなちゃんの顔を、一枚残らず塗り潰した。
 その後、保護の為に使われていたビニールをゴミ箱に捨てた。ビニールが無くなったプリクラには、猫口顔でお姉ちゃんと頬をくっ付けるこなちゃんと、真っ赤になってカメラの方を見るお姉ちゃんの姿が眼に見えて仲良さそうに映し出されていた。
 それを机の二番目の引き出しに入れ直して、私は壁におでこを打ち付けた。
「私、馬鹿だよね?」




「それで、そしたらこなたがさ――」
 楽しそうにこなちゃんとの間であった出来事を話すお姉ちゃんは、口ではああした方が良い、とか、こなたは受験生としての自覚が足りない、とか言っていたけど、その顔には本当にこなちゃんを咎めているのかどうか分からないほど嬉しげな笑みが終始貼りついていた。
 お姉ちゃんが話の合間にトイレに行った後、私は自分の頭を掻き毟った。何十本と抜けた私の薄い紫色の髪の毛が、手に絡まっていた。お姉ちゃんの話にこなちゃんが出て来る度に、ポケットの中で裁縫針を太股に突き刺していた事を、お姉ちゃんは知らない。
 見てみると、太股の辺りには薄っすらと血が滲んでいた。私はそれをお姉ちゃんに悟られないようにティッシュで拭き取って、手に絡まった髪の毛をゴミ箱に捨てた。そして、裁縫針を元の、ポケットの中に忍ばせて、握り締めた。
「あ、それとさ、この前こなたが――」
 トイレから戻って来たお姉ちゃんが、再び話し始めた。私は顔に笑顔の仮面を作り上げて、ポケットの中に握った裁縫針を太股に突き刺した。痛みは、無かった。




「あいつ、本当に遅刻癖直らないわねー」
 出勤や登校する人達で賑わう駅まで、お姉ちゃんは呆れ気味にそう言った。その顔は、待ち合わせ場所で恋人を恋い焦がれながら待つような、そんな幸せそうな顔だった。何度も自分の腕時計を見たり、駅前に立っている時計を見比べながら、お姉ちゃんはそわそわしていた。
「やあやあ、お待たせー」
 こなちゃんが来ると、お姉ちゃんはすぐにこなちゃんの隣にくっついて、遅刻の事を叱り始めた。その顔は、恋人と一緒に歩いているかのような、幸福感を含んだ顔だった。こなちゃんも、お姉ちゃんにくっついて、次々と降りかかる叱咤の言葉を軽々しく避けていた。
 私は、二人より二メートル離れた位置で、唸るように呟いた。
「……ちゃんの癖に……!」




 休日を翌日に控えた金曜日の夕暮れ時、お姉ちゃんはこなちゃんの家に行ったきり帰って来なかった。夜の帳が住宅街を包んでも、お姉ちゃんは帰って来なかった。家の門の前、私は寒さに耐えながらお姉ちゃんの帰りを待ち続けていた。お父さんや、お母さん、お姉ちゃん達も、私がお姉ちゃんと一緒に居ると思っているのか、連絡して来なかった。
 その時、夜の静寂を切り裂くように、私の携帯の着信音が鳴り響いた。
『もしもし、つかさ? 今日はこなたの所に泊めてもらう事になったから、お母さん達に言っといてくれない? 帰りは明日の夕方になるとおも』
 電話を切った。私の嫌いな音が、電話口でずっと鳴り続けていた。私は、何事も無かったかのように家の敷居を跨いで、帰った事を家族に告げる事もなくお風呂場に向かった。衣服を全部脱いで、シャワーを浴びると、冷え切った体には温かいお湯がひりひりと痛かった。
 シャワーを止めて、色々とお風呂で使う道具が入った籠から、お風呂場の電灯の光を受けて、鈍い光を放つ銀色の刃を手に取った。
「つかさー? 帰ってたの? かがみはー?」
 お母さんの声が曇り硝子越しに聞こえた。ピチャン、と天井から落ちる水滴が立てる水音が響くお風呂場で、私は言った。
「こなちゃんの家に……泊まる……って」
 お母さんが、そうなの、と言って洗面所から出て行った。鈍い光を放つ銀色の刃は、私の腕の手首より少し上の方に食い込んで、今は赤い光を放っていた。刃が食い込んだ場所からは、まるで涙の代わりのように、止めどなく血が流れていた。
 天井から落ちる水滴だけじゃない、水音がお風呂場のタイルに反響して、響いていた。





 お姉ちゃんは翌日の夜に帰って来た。
 私は、自らで付けた傷跡を、長袖の寝巻で完全に隠して、何時も通りにお帰り、と誰よりも先にお姉ちゃんの事を出迎えた。お姉ちゃんは何故か疲れた様子でただいま、と返してくれた。
 そして、すぐにお風呂に入って、ご飯を食べて、自分の部屋に向かおうとした。
 何だか、本当に酷く疲れているように見えた。
 私は全然手に付けていないご飯を前に、ご馳走様、と言ってお姉ちゃんが部屋に行きつく前に話しかけた。お姉ちゃんの部屋の前、下からは心配そうなお母さんの声が聞こえて来ていた。
 私は食欲あまり無いから、もう寝るね、と返してからお姉ちゃんを見つめた。
 私の大好きな、宝石よりも綺麗な瞳、白く透き通るような肌、サラサラで長い、まるで糸みたいな髪の毛。私はそれを全て脳に焼き付けるように見回してから、尋ねた。
「こなちゃんの家で、何してたの?」
 そう聞くと、お姉ちゃんはみるみる内に顔を赤くして、爆発しそうなくらいに真っ赤になった顔で、何度もつっかえながら何にもしてないわよ、と言った。
 嘘を吐いているのは明白で、お姉ちゃんはこなちゃんの物になったしまった、と理解するのに時間は掛からなかった。
 私の大好きな、宝石よりも綺麗な瞳も、白く透き通るような肌も、サラサラで長い、まるで糸みたいな髪の毛も、そして、私が触れた事も見た事もない、大人になった場所も、全部こなちゃんの物になってしまった、と理解したくもない事を、理解してしまった。
「そっか」
 私はそう言って、自分の部屋に入った。未だ顔を赤くしているお姉ちゃんの姿を、こなちゃんのものになってしまったお姉ちゃんの姿をこれ以上見たくはなかった。逃げるようにして、部屋の中に、私だけの世界に、飛び込んだ。
 ドアの鍵を掛ける。今までは無かった鍵、自分で付けた鍵で、勝手にこの扉が開かないように、私は鍵を掛けた。私だけの世界が、壊されないように。
「嘘吐き……!」
 既に傷だらけになった腕を、爪で掻き毟った。肉が抉られるくらい強く、深く。床に血が滴って、それに混じってボトボト、という嫌な音がした。
 壁越しに、お姉ちゃんの部屋の扉が閉まる音がした。


 怪しい月光が部屋を照らしてる。綺麗で怖い、真円を象った月が、ぼんやりと漆黒の中に佇んでいる。まるで、狼男が出て来そうな、そんな怪しい光だった。
 月を隠しては通り過ぎて行く雲は、その光を受けて青白く、その色を変色させていた。群れる星達は、まるでその輝きを恐れるように、その姿と輝きを見せる事は無かった。
 私の肌が、青白く光る。腕を見ると、赤く生々しい傷跡が、ぬらりと光った。それでも痛さは感じない。それどころか、安心さえしてくる。この傷跡と、体に残る他の傷跡が、私を現実に繋ぎ止める唯一の鎖だった。
 窓から差し込む月光を道標に、私は歩を進める。何も纏わない私の体は肌を外気に直接晒して、少し寒い。
 でも、すぐ傍に暖かそうな温もりがある。私の冷めた心も、体も、全て温めて癒してくれる。
 ……だから、取り戻さないと。私以外の他人に、奪われてしまったお姉ちゃんの為にも。きっと、無理やりやられたんだ。お姉ちゃんは拒絶したのに、アイツが無理やりにお姉ちゃんを襲ったんだ。優しいお姉ちゃんはそれを受け入れるしかなかったんだ。本当にお姉ちゃん事を分かって居るのは私、だから選ばれるのも私。違いない、そうに決まってる、間違っているなんて思えない、お姉ちゃんだって、そう思ってる。独り善がりなんかじゃない。ましてや現実逃避なんかでもない、これは紛れも無い真実、それしか有り得ない。
「そうでしょ……お姉ちゃん」
 頬を撫でる。ひんやりとしたお姉ちゃんの頬が、私の掌を受け止めて形を変える。私は慈しむように、何度も何度もお姉ちゃんの頬を撫でた。お姉ちゃんが小さく身じろいで、その仕草が可愛くて、私は撫でるだけじゃ足りない事に気付いた。
 お姉ちゃんも私を求めてくれてる。私もお姉ちゃんを求めてて、その間に立ちはだかる壁なんて、ある訳ない。私はお姉ちゃんが眼を覚まさないように、ゆっくりとお姉ちゃんの温もりを受け継いでいる柔らかい布団の中に入った。
 久し振りだ。この暖かさも、こんなに間近でお姉ちゃんの甘い香りを楽しむ事も。私は、お姉ちゃんと向き合って、一方的に微笑んだ。良かった、お姉ちゃんはやっぱり私を拒まない。受け入れてくれる。だから、これからしようとしている行為も、良く思ってくれる。
 私は、特大という訳ではないけれど、十分に女としての魅力を出している膨らみに手を伸ばす。手に馴染むような柔らかさと、掌を押し返す強い弾力、お姉ちゃんの胸は、触っていてとても気持ちのいいものだった。
「ん……」
 お姉ちゃんが眼を覚ました。慣れない感覚に驚いたのか、それとも服の上から触られるもどかしさに耐えられなかったのか、それは私には分かりはしないけど。お姉ちゃんは寝惚けたようにぼーっとした瞳で私を暫く見つめると、やがて大きく眼を見開いた。
「な、何でつかさがここにいるのよ!」
 飛び起きたお姉ちゃんは、ベッドの端まで私から離れて、壁に背を付けた。
 ……どうしてそんな反応するの? 昔は何時も一緒で、寝る時だって一緒の事も多かった。その時は私を優しく撫でててくれたのに、何で今は私から離れるの? まるで、私に怯えているみたいな、そんな表情を作りながら、私を見ているの?
「何で? 昔は一緒に寝たりしたのに。これぐらい当り前でしょ?」
「そういう問題じゃない! 大体、私に何をしてたのよ!」
 怒気を露わにして、お姉ちゃんが怒鳴る。真夜中だけど、まだ家族の誰かが起きて来る気配は感じられなかった。
 月が雲に隠されていて、私達は私達の姿がお互いに見えなかった。一メートルも離れていないはずのお姉ちゃんの姿でさえ、片鱗すら見えない。
「お姉ちゃんが、汚れちゃったからだよ」
 そうだ。私以外の人がお姉ちゃんに触ったら、お姉ちゃんは汚れてしまう。だから、私が洗ってあげなきゃいけないんだ。
 だって、お姉ちゃんは言ってくれたもの。幼い、遠い過去の話ではあるけれど、"つかさはきっと、世界で一番綺麗だよ"そう、言ってくれたもの。
 だから、お姉ちゃんに触れる事が出来るのは私だけ。他の人なんて、有り得ない。
「は……? 私の何処が……ッ!」
 お姉ちゃんは言葉の途中でそれを切った。見ると、お姉ちゃんの顔がはっきりと見える。雲に隠されていた月が、再び姿を現していた。青白い光が部屋に差し込んで、部屋の漆黒を少しばかり切り裂いてくれている。
「あ、あんた、何で裸なのよ……それに、その傷……」
 私は言われて、自分の腕を見た。青白い光に照らされているそこは、血が固まって、黒く変色している。傷跡には、切り傷とは全然違う、醜い形で肉を抉った跡がある。
 私はこれがどうしたの? と尋ねるようにお姉ちゃんを見た。私にとって、これは薬。私の心を人間のままでいさせてくれる、安定剤。全部お姉ちゃんの為なのに、私が人でなかったら、お姉ちゃんはとっても悲しむだろうから。
 だから、私はずっと綺麗なままで居たのに。
 どうして、そんなに青褪めてるの? お姉ちゃんの為に、私が耐えていた証なのに、これは。だから、何時もみたいに私の頭を優しく撫でて。頑張ったね、と私が求めている言葉を言って。それだけの為に、こうやって耐えていたのに――どうして、そんなに怯えた眼をしているの。全部、お姉ちゃんの為だったのに、全部、全部、全部全部全部!
「いや……来ないで。私から離れて……」
 何でそんなに怯えているの。私は綺麗なんでしょ? 私が純粋で、無垢だからお姉ちゃんは私の事を綺麗って、そう言ってくれたんでしょ? だったらそんなに怯えないで。私は今でも綺麗なままだから。だから、ずっと耐え続けていたんだよ。
「やめてっ! 私に触らないで!」
 私が伸ばした手を弾いて、お姉ちゃんは私を突き飛ばした。再び暗く染まった部屋の中、またお姉ちゃんの顔は見えなくなった。私は、ベッドの下に落ちて、お姉ちゃんが居る方向を茫然と見つめる。何も見えないのに、お姉ちゃんの表情が分かる気がした。
 喜んでる。何時もお姉ちゃんは素直になれないから、だからこんな事をしてしまうんだ。きっと、暗闇の向こうでお姉ちゃんは照れた様子で、顔を真っ赤にしているんだろう。私は、優しい声でお姉ちゃんに呼びかける。そして、もう一度手を伸ばした。
「大丈夫だよ。何も怖がる事なんて無い。だから、大丈夫だよ?」
「嫌……っ、来ないで……。こなた……助けてよ……!」
 ドクン、と心臓が脈打った。長くしまっていた何かが、扉を破って溢れ出す。伸ばしていた手を引っ込めて、その手で自分の体に爪を立てる。視界が歪んだ気がした。体調が悪くなったんじゃない。私の意識はしっかりしているのに、視界がゆらゆらと揺れていた。
 私が発した声は、自分でも驚くくらいに冷たかった。
「何で」
「え……」
「何で……!」
 お姉ちゃんが静かに呻いた。小さな悲鳴が暗闇の向こうから聞こえる。私は、揺らぐ視界の中に暗闇だけを収めて、お姉ちゃんが居る筈の一点を見つめた。
「何でこなちゃんが出て来るの。何で助けなんか求めてるの。私はただ、お姉ちゃんを綺麗にしてあげようとしてるだけなのに」
 そうだ。お姉ちゃんは汚されてしまったんだ。あの、何時も何時もお姉ちゃんをからかって、困らせている、アイツガ汚したんだ。だから綺麗にしなくちゃいけない。他の誰でもない、お姉ちゃんに綺麗だと言われたこの私が。唯一心を許されている私が。
 それなのに、何でアイツに助けを求めているの。何で、私に怯えて、私を拒絶しているの。
「何……言ってるのよ……。あんた、少し落ち着いた方が……」
「私は落ち着いてる! おかしいのはお姉ちゃんだよ!」
 真夜中だと言う事にも構わず、私は叫ぶようにして怒鳴った。お姉ちゃんが、涙を混じらせた声で、息を呑んだ。
 下から物音が聞こえた。誰かが起きてしまったのかもしれない。他のお姉ちゃん達は、今日はそれぞれの用事で出掛けている。恐らく、お母さんかお父さんが眼を覚ましたんだ。
 私は、怒りに震えながらも踵を返した。お母さんかお父さんが来る前に自分の部屋に戻らないといけない。こんな姿を見られたら、心配されるに決まってる。
「もう、いいよ」
 もう、いい。それに全ての言葉の意味を含ませた。お姉ちゃんはアイツに、体はおろか、心まで汚されてしまった。私が助けてあげないといけない。お姉ちゃんは、心の中で、深層意識の中で私に助けを求めている。私が、絶対に救ってあげないといけない。
 すすり泣くお姉ちゃんの声を聞きながら、私は自分の部屋に向かった。暫くしてから、お姉ちゃんの部屋から大きな泣き声が聞こえたけど、私について何かを言っている様子はない。
 お姉ちゃんは、やっぱり優しかった。




 次の日、私は学校を休む事にした。気分は悪くないけど、私にはお姉ちゃんを救う使命みたいなものがあったから。その為に、私は学校を休み、何をしなければならないか、を考えた。
 お母さんは心配そうだったけど、用事があったらしく、家を出た。帰りは遅くなるらしい。私にとっては好都合だった。まつりお姉ちゃんといのりお姉ちゃんは、昨日に引き続き、家に帰って来ないらしい。これも、私にとっては好都合。お父さんも、町全体の会議にでなければならないらしく、今日の夕方には家を出るそうだ。全ては私にとって良い方向に向かっていた。勿論、お姉ちゃんにとってもそれは同じだ。私はお姉ちゃんを救うのだから。
 少し重量のある、蛍光灯の光を受けて光る鈍色。それに指を這わすと、私の指に切れ込みが入った。赤い筋から、どろりと液体が溢れる。痛みよりも、それを越した安心感が私を包んで、静かな安らぎを与えた。
 この赤い血はお姉ちゃんと同じものなのだろうか。そんな事を考えると、私の指を伝って床に落ちる血が、愛しく見えた。お姉ちゃんが私の中を流れている、お姉ちゃんと私は、何時でも一緒なんだ。だって、お姉ちゃんの血にも、私がいるはずだから。
 音が聞こえた。窓の外には大粒の雨が降っている。空に立ち込める暗雲は、今にも凄まじい閃光を落としそうに、ゴロゴロと唸っていた。
 お姉ちゃんが救われる日には、黒く暗い天気。私は淀んだ空を見て、それを忌々しげに睨んだ。これではまるで、何も救われない、と神様に言われたような気がした。





 時刻は黄昏時。もう少しでお姉ちゃんが帰って来る。お父さんは既に家を出ている。お姉ちゃんはその事を知らない。この家に、私以外の人が居ない事を、知らない。
 やっと、今日で全部終わるんだ。お姉ちゃんは救われて、私を見るようになる。汚染された心が元に戻るのだから、当たり前の事だ。きっと、喜んでくれる。今まで汚されていた事に気付いて、私に謝ってくれる。全部元通りになる。……そうしなきゃいけない。
 下から、お姉ちゃんがドアを開けた音がした。時計を見ると、時刻は黄昏時を回って、夜へと近付いている。暗雲が空に立ち込めている所為か、辺りは真夜中にでもなってしまったかのように暗い。私は電気も付けていない自室の中で、ベッドに籠っていた。
 お姉ちゃんは、ただいま、と言うと返事が返って来ないのを不審に思ったのか、色んな部屋を覗いているみたいだった。下から聞こえる物音で、それが分かる。いや、そうじゃない。私だから、お姉ちゃんが何をしているのかが分かる。
 やがて、お姉ちゃんは階段を上がって来た。私の部屋の前で立ち止まり、何もせずに自分の部屋に入る。やっぱり、お姉ちゃんはおかしくなってる。私が学校を休んだ時は、何時も必ずと言って良いほど私を気にかけて、部屋に来てくれるから。優しく頭を撫でて、大丈夫? って聞いてくれるから。





 夜の帳が落ちる。空は雨と雲の所為で、完全な暗闇となっている。私の部屋は、もう何も見えないぐらいに暗かった。
 私は手に握っていた堅い感触を握り締めてベッドから出た。頭は冴えてる。何時もなら不安になってしまうこの暗闇も、今は私に馴染むくらいに親近感が湧いていた。
 扉を出ると、お姉ちゃんの部屋からガタッと音がした。そんなに私が怖いんだね。全部、アイツに毒されてしまったんだよね。私が治してあげるから、もう大丈夫。すぐに、救われるから。だから、今だけは我慢してね? 少しだけの、少しだけの間だけだから。痛いのも、怖いのも、全部、少しの間だけだから。
「お姉ちゃん」
 扉を開く。なるべくお姉ちゃんを怖がらせないように、手は後ろに回して。お姉ちゃんは恐怖で引き攣る顔で、必死に平常を装っているように見えた。
「な、なに?」
 私は答えない。ただ、黙ってお姉ちゃんに近寄る。お姉ちゃんは、それに合わせて後ろに後ずさった。でも、広さには限界があるこの部屋ではずっと後ろには下がっていられない。お姉ちゃんは壁に背中を付けると、潤んだ瞳で私を見つめた。
 私とお姉ちゃんの距離は一メートルくらい。そこで、私は足を止めた。
「お姉ちゃんは、変な病気になっちゃったんだよ」
 アイツの所為で。
「だから、それを治さなきゃ、お姉ちゃんが可哀そう」
 お姉ちゃんは病気にかかっている事に気付いていないから。
「なに……言って……」
 唇が震えてる。言葉が上手く出せないみたいだった。降り頻る雨の音はその激しさを増して、窓を割ろうとするかのように、強く打ちつけていた。遠くで雷が落ちたのか、一瞬部屋に光が差した後、唸るような音が聞こえた。
 お姉ちゃんの部屋は薄暗い。何故か電気を付けていなくて、唯一光を放っていたのは机の上に置かれた電気からのみだった。ぼんやりと、そこから広がる光は私の影を作って、それがお姉ちゃんに圧し掛かるように掛かっていた。
「私が治してあげる。簡単な事だもん」
 そう言って、私は手を体の両側にぶら下げた。途端に、お姉ちゃんが悲痛な悲鳴を洩らす。あまりに怖いのか、膝がガクガクと震えていた。
「な、なによ……それ……どうするつもりなのよ……?」
 私はそう言われて、自分の手を見てみた。私の血で黒ずんだ、狂気を振り撒く凶器が電気の光を受けて、不気味に光る。普段は台所に収められているはずの包丁が、私の手にあった。
「お姉ちゃんの病気を治してあげるんだよ。大丈夫、すぐに終わるから……っ!」
 私はそれを一気に振り上げて、お姉ちゃんに向かって振り下ろした。空気を裂いて、それが一直線に弧を描いてお姉ちゃんに向かった。
「……ッ!」
 短い悲鳴を上げて、お姉ちゃんは身をよじってそれを避けた。ざく、と、堅い物を刺した感覚が手から腕に向かって伝う。痺れる手をきにせずに、私は壁からそれを引き抜いた。思いの外柔らかかった壁には、切れ込みが走っていた。
 お姉ちゃんは、私から距離を取って、それでも入口には遠い壁に背中を付けていた。
「何で……避けるの」
 声が自然と漏れる。お姉ちゃんを怖がらせたくないのに、低い声が言葉を紡いだ。
「それはこっちの台詞よ! 何で……何でこんな事……!」
 お姉ちゃんは震えながら言った。何で、なんて言わなくても分かると思ったけど。だって、一つに括ってしまえば、“お姉ちゃんの為”で括れる。私は、ただそれだけを理由にしてるんだ。なのに……お姉ちゃんは気付いてくれなかった。
「だって、お姉ちゃんは私を見てくれなくなったんだよ」
 あれ? 私、何を言ってるんだろう。こんな事を言うつもりじゃなかったのに。
 お姉ちゃんが眼を見開いた。そんな答えは予想もしていなかった、と言うように。
「何時も一緒で、ずっと一緒にやってきたのに、お姉ちゃんは私を見なくなったんだよ」
 違う。こんな事は言いたくなかった。私はお姉ちゃんの為に、やっている。
「私が幾らお姉ちゃんの眼を戻そうとしても、お姉ちゃんは他の人と……ううん、こなちゃんを見てた。私じゃなくて、こなちゃんを」
 嫌だ、こんなの私の本心じゃない。それなのに、私の唇は止まってくれない。歯止めが効かなくなった、歯車のように回り続けていた。
「私はこんなに好きなのに、お姉ちゃんは全然振り向いてもくれない。お姉ちゃんには分からないよね? 好きな人に振り向いても貰えない、辛さが」
 何で……私はこんな事を……?
 私じゃない私が、わたしの心を読み取って、代弁しているみたい。雨の音が、急に耳に付くようになった。窓に打ち付ける雨が、五月蠅く思えた。
「だから、ダメなの。そんなに辛いのは、もう耐えられない。じゃないと私、壊れちゃうもん」
 違う、違う! これじゃ、これじゃまるで――全部私の為、みたいな――。
「だから、お姉ちゃんが居なくなったら、私は私で居られる。壊れるのは、怖いの」
 私は腕を持ち上げていた。お姉ちゃんはもう震えてはいなかった。私は、これまでずっと、お姉ちゃんの為なんかじゃなく、自分を守りたい一心で、自分の為にやっていた。
 その時、私の中で何かが壊れた気がした。ガラリ、と積み上げた積み木を壊すように簡単に、私が積み上げて来たものが、呆気なく壊れてしまった。
 視界が歪む。自分が何をしているのか分からない。頭の中が真っ白になって、ただ私がお姉ちゃんに向かって駆けているのが風が顔を撫ぜる感覚で分かる。
 叫んでいるのは私なのか、雨の音なのか、全く分からない。
 ただ、その場からお姉ちゃんは、一歩も動かなかった。
 ズブリ、と切るのとは違う音が、嫌な感触と共に手に伝った。
 ぽたぽたと、何かが滴る。荒い息が、お姉ちゃんからも、私からも聞こえる。お姉ちゃんは切なげな息を漏らし、私は獣のそれのように荒々しい息を。
 雷が落ちた。眩しい閃光が私達を一瞬だけ闇に浮かべた。私の手には赤い赤い血が、べっとりと生温い温度で纏わりついていた。
 それなのに、お姉ちゃんはふっと笑って、私に凭れかかった。まだ暖かい体温が、体に伝わる。未だ切なげに吐息を零すお姉ちゃんは、私の耳元で、慈悲に満ち満ちた、優しすぎる声音で、そっと囁いた。
「つかさは……綺麗、だったよ……。本当に、真っ黒で……きれ、い、だった……」
 お姉ちゃんの体が崩れる。前のめりに、私の体を伝うようにして、ゆっくりと床に倒れた。
 足に、生温い液体を感じた。少しだけ後ろに下がるとぴちゃり、と水音が鳴った。
 私は綺麗だった。自分でも気付かないほどに、真っ黒で。お姉ちゃんはそんな“綺麗”を望んではいなかったのに、お姉ちゃんは綺麗だと、そう言ってくれた。
 それは、色んな事を間違え過ぎた私への断罪で、お姉ちゃんが最後に私に残してくれた、私を引き裂く皮肉。
 夢だと思った。夢であってくれるなら、それはどんなに嬉しい事だろう、と。
 けれど、噎せ返るような血の匂いは無くならなくて、暖かった手は次第に冷えて、足もとに広がる水溜りは部屋一面に広がるようだった。
 痛い。付着している血は私のものではないのに、凄く痛い。何かが張り裂けそうな痛み、自傷していた時とは、比べ物にならない痛みが私の中から襲ってくる。逃げ場なんてあるはずがなかった。私の中の痛みは、何処に行ってもこのままだ。
 雨が、荒れ狂う風に乗って窓ガラスを割ろうと猛威を奮っている。すぐ近くに雷が落ちたのか、耳を劈くような轟音と一緒に、真っ白な光が私の網膜を焼いた。視界に広がっていた部屋の中は、ただ寂寥に包まれていて、この漆黒がそれを際立たせている。
 足元に広がる水溜りに、何かが落ちて波紋が広がった。

 それが私の涙だったのか、血だったのか、それはもう、分からない。
 ただ、体中が濡れて、冷え切っている。私は眼を閉じた。
 開けていても、何も見えはしなかったから。





――end.











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  • 怖かったけど、面白かったです!
    実際にヤンデレとは会いたくない
    ですけど… -- チャムチロ (2012-09-06 21:19:17)
  • かなーしみのー、むこーうへとー -- 名無しさん (2010-01-07 02:53:16)
  • ヤンデレつかさ? -- 名無しさん (2008-05-11 04:14:46)
  • 嫉妬で壊れる役回り多いなつかさ…
    でもGJです -- 名無しさん (2008-02-13 03:15:58)

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