【オウム真理教】
- オウムの凶行の秘密は、みえない抑圧社会が生む虚構感覚に裏打ちされた「他者消去」願望にある。
- 競争のシステムがすべてであり問題はそこでの勝敗だけだ、という社会通念とそれに照応した社会諸制度が圧倒的になり、そうしたシステムへの対抗勢力の姿が見えなければ、強い社会的閉塞感が生まれ、こうした状態にたいする抵抗やそこからの離脱の願望が内攻するのは不思議なことではない中西新太郎はこの文化と心理が持つラディカルな内攻性を、「他者の観念的消去」をキーワードとして解明しようとする。中西はこれを「意図的であるかどうかを問わず、社会生活のなかで否応なく触れ合う他者の実質を感じとれず受けとめられない(経験として内化できない)意識や態度のあり方」と規定する。しかもこれはいわゆる「オタク」だけに固有なものではなく、日本型大衆社会のマスカルチャーに即した形で典型的な自己追求や幸福追求(「自分探し」)のいとなみをする際に、ほとんど不可避的にともなわれる内面的機制だという。マスカルチャーが一元的に支配する文化状況は、「文化的自閉性」を一般化させた。
- 実際には「他者の観念的消去」により自己は脆弱なものとなるため、より「強いわたし」が絶えず求め続けられることになる。だが、こうした「(より強い)自分探し」が、企業主義が作り出す能力主義的な抑圧体制に回収されてしまわないために、「努力による自分の能力の成長」という形式は忌否され、むしろ、これまでの内分を捨てて、「変身」「転生」することへの願望となる。これまでの、己を捨て「超越することによる対他関係の解体」、あるいは、自己超越のために対他関係を解体する「強さ」の獲得が課題となり、そうした「強さ」を体現するものが求められる。企業社会秩序の抑圧からのこうした形態での離脱の努力は、結局、「他者への実質的な酷薄さ」を生みだす。これは「能動的・抑圧的ニヒリズム」の一形態となる。
- 「「よい子」の幸福論の破綻」『離脱願望/唯物論で読むオウムの物語』労働旬報社
【亀山風土論との関係】
- この背景となっているのは、2000年およびその前後に相次いで発生した凶行を起こした、17歳前後の少年たち、通称「キレる17歳」の存在である。付言すると、キレる17歳と言われた世代(主に1982-1985年生まれ)は現在、「草食系男子」などと呼ばれる「おとなしい」世代として認識されている)
- フツーの“良い子”が突然キレて信じ難い問題や犯罪を引き起こすことに関して、若年世代の多くが個性の実現や他者への配慮(気遣い)を非常に重視する一方で、それがストレスになっているという構造を示す[(太田)しかしこれは地球上のどの社会にもありうる構造ではないか?]。この原因として、中村は、彼らが現代の人間疎外を直観していることに求める。
- 親も子も、潜在的に人間疎外が進行していることを直観するからこそ、大人や親は子どもに対してその顕在化を防ごうといろいろ努力する。食事のしつけ、スポーツクラブ、芸術などの習い事、学習塾など。だが、それがかえって親子ともどもストレスとなるという悪循環をなす。現代において欠如(未形成)が懸念されるあれこれの人間性・人間的能力を、個々バラバラのまま、子供を育成しようとしても結局は無理だということである。これを紐帯するものとして(人間疎外を回復するものとして)、風土の構築が求められる。
- 『若者たちに何が起こっているのか』花伝社,2004
【教育に関して】
- 「学ぶ主体の形成をめざす教育の課題」、『日本の科学者』1968 年、日本科学者会議
- 中西は「知識の開かれた在り方」を「コミュナルな知」とよび、その特徴は「自然に分かちあうことができる知」であるという。知識を獲得するということがひとりひとりの学習目標とされ、知識を持つ事でもたない人の間に優劣の差がうまれるような、今日におけるごく普通の学校における知のあり方においては、知を共有するという自体は生まれない。ゆえにコミュナルな知は、既存の知のあり方におけるオルタナティブな知の様相であるといえよう。
- 「学校的知識からコミュナルな知へ」『競争の教育から共同の教育へ』青木書店,1989 年、
