■『存在と時間』において「道具」はどのように考察されているのだろうか?
世界は「道具的連関」によって見出される。ハイデッガーにおいて、もの-道具はただ人間に所有されるだけではなく、「配慮的な気遣いのなかで出会われる存在」のことであり、「世界内部的な存在者との交渉」の手がかりとなり、そして交渉相手となるものである。文房具、裁縫具、仕事や常用や測量のための道具はそれを通じて世界を見出させる(『存在と時間』[第一篇・第三章・A 環境世界性と世界性一般との分析]より。和辻が『風土』を書くにあたって、この章の、とりわけ自然物へハイデッガーが向ける視点を意識していたことは、具体的な例の挙げ方の類似からも推察することができる)。とはいえ、世界には一つ一つの道具がばらばらにあるのではない。
世界は「道具的連関」によって見出される。ハイデッガーにおいて、もの-道具はただ人間に所有されるだけではなく、「配慮的な気遣いのなかで出会われる存在」のことであり、「世界内部的な存在者との交渉」の手がかりとなり、そして交渉相手となるものである。文房具、裁縫具、仕事や常用や測量のための道具はそれを通じて世界を見出させる(『存在と時間』[第一篇・第三章・A 環境世界性と世界性一般との分析]より。和辻が『風土』を書くにあたって、この章の、とりわけ自然物へハイデッガーが向ける視点を意識していたことは、具体的な例の挙げ方の類似からも推察することができる)。とはいえ、世界には一つ一つの道具がばらばらにあるのではない。
厳密にいえば、ひとつの道具が「ある」のでは決してありません。道具が在るということには、いつも道具全体が属していて、そのなかでこそこの道具が、そのあるがままにありうるのです。道具は、本質的には、<なになにのためのなにか(etwas, um zu…)>です。この<ために>の様々のあり方、すなわち、便利さ、有用さ、使いやすさ、手頃さなどがひとまとまりの道具立ての全体性を構成しています。
マルティン・ハイデッガー『存在と時間』岩波書店, 1960, p.133(一部改訳)
■「ひとまとまりの道具立ての全体性」とは何だろうか?
たとえば、「部屋」は「四つの壁の間」としての部屋ではなく、「住むための道具」としての部屋として現れる。この道具としての部屋から一定の「方向づけ」が現れて、ペン、インク、用紙、下敷き、机、スタンド、家具、窓などの個々の道具が現れる。このとき、個々の道具はそれぞれだけで出現するのではなく、それ以前に「ひとまとまりの道具立ての全体性」としての「住むための道具」=部屋が見出されている、とハイデッガーは指摘する。
また、「ハンマー」を例にしてハイデッガーは以下のように述べる。
「ハンマーをもって打つこと」が「交渉」であり、その「交渉」はハンマーに対する「理論的」知識ではなく、とにかくハンマーで「実践的」に打つことである。その「交渉」によって道具はますます赤裸々に出会われるのであり、「手ごろさ」を暴露する。そうした存在様式をハイデッガーは「手元にあること-道具的存在性」と名づけるのだが、これは「眺めやる」だけでは暴露できない。
たとえば、「部屋」は「四つの壁の間」としての部屋ではなく、「住むための道具」としての部屋として現れる。この道具としての部屋から一定の「方向づけ」が現れて、ペン、インク、用紙、下敷き、机、スタンド、家具、窓などの個々の道具が現れる。このとき、個々の道具はそれぞれだけで出現するのではなく、それ以前に「ひとまとまりの道具立ての全体性」としての「住むための道具」=部屋が見出されている、とハイデッガーは指摘する。
また、「ハンマー」を例にしてハイデッガーは以下のように述べる。
「ハンマーをもって打つこと」が「交渉」であり、その「交渉」はハンマーに対する「理論的」知識ではなく、とにかくハンマーで「実践的」に打つことである。その「交渉」によって道具はますます赤裸々に出会われるのであり、「手ごろさ」を暴露する。そうした存在様式をハイデッガーは「手元にあること-道具的存在性」と名づけるのだが、これは「眺めやる」だけでは暴露できない。
事物をただ「理論的に」眺めやる視線は、手元にあること(zuhandenheit)を了解する働きを欠いています。しかし使用したり、取り扱う仕事をしたりする交渉は、それに固有な見る(sicht)仕方をもっているのであって、この固有な見る仕方が、ものを取り扱う仕事をすることを導き、その働きに特殊な事物性格(Dinghaft)を与えるのです。道具との交渉は、多種多様の「なになにのために(um zu…)」の指示に従います。そのような[見る仕方]に対応している見方が、目配り-慎重さ(Umsicht)なのです。
ハイデッガー, 1960, p.135(一部改訳)
それぞれの道具の、それぞれ固有な働きを導く「配慮的な気遣いがもっている」「目配り-慎重さ(Umsicht)」。それは使用したり、取り扱う仕事をしたりする交渉において、「なになにのために(um zu…)」の指示に従うことと併走する。
さらに、道具-手元にある存在するものは、釘なら鉄、ハンマーなら鋼や木材などの「原料」からの指示もまた同時に兼ね備えており、そして、鉄、木材、岩石であるとかはそれ自体、「自然」を伴い、「自然」で成り立っているものであると言えます。しかし、それはいわゆるところの、外から見られた、自然ではない。つまり、「目の前にあること(Vorhandenheit)」としての自然ではなく、「道具によって見出された」「手元にあること(zuhandenheit)」としての自然である。
もう一つ、道具-手元にある存在するものは、「製品」からも、さらに新たな指示を持っています。たとえば靴が二足セットで売られていたり、服がぴったりのサイズに裁断されているなどのように、着用者や利用者への構成的な指示を「配慮的な気遣いのうちで」同時に兼ね備えている。
これとともに、着用者と消費者がともにそのうちに住んでいる世界、すなわち同時に私たちのものである世界が出会われるのです。つねに配慮された製品は、いわば仕事場という親しい世界においてしか道具的に存在していない-手元にないのではけっしてなく、公共的な、世界においても道具的に存在しています。この公共的世界とともに環境的自然にも見出され、誰にでも近づきうるものになる。(cf.ハイデッガー, 1960, p.138)
さらに、道具-手元にある存在するものは、釘なら鉄、ハンマーなら鋼や木材などの「原料」からの指示もまた同時に兼ね備えており、そして、鉄、木材、岩石であるとかはそれ自体、「自然」を伴い、「自然」で成り立っているものであると言えます。しかし、それはいわゆるところの、外から見られた、自然ではない。つまり、「目の前にあること(Vorhandenheit)」としての自然ではなく、「道具によって見出された」「手元にあること(zuhandenheit)」としての自然である。
もう一つ、道具-手元にある存在するものは、「製品」からも、さらに新たな指示を持っています。たとえば靴が二足セットで売られていたり、服がぴったりのサイズに裁断されているなどのように、着用者や利用者への構成的な指示を「配慮的な気遣いのうちで」同時に兼ね備えている。
これとともに、着用者と消費者がともにそのうちに住んでいる世界、すなわち同時に私たちのものである世界が出会われるのです。つねに配慮された製品は、いわば仕事場という親しい世界においてしか道具的に存在していない-手元にないのではけっしてなく、公共的な、世界においても道具的に存在しています。この公共的世界とともに環境的自然にも見出され、誰にでも近づきうるものになる。(cf.ハイデッガー, 1960, p.138)
このような日常的・実践的な「交渉」によって私たちは道具は出会うこととなる。自らが「なになにのために(um zu…)」あるのかを自らによって呈示し、それを目の前にした現存在(-私たち)の行為に導きを与え、行為を促す。こうした存在様式が「手元にあること-道具的存在性」であり、認識作用とはそのような存在様式を前提として初めて成立する。このことを、ハイデガーは以下のように解説する。
認識作用は、配慮的な気遣いのうちで手元にあるもの-道具的に存在するものを超えてこそはじめて、ただもう目の前にあるだけのものの展示へと迫っていくのです。手元にあるもの-道具的存在性は、「それ自体で」あるがままに存在するものの存在論的=カテゴリー的規定なのです。
それでは以上の論旨を継承したとされる和辻の『風土』において「道具」性はどのように考察されているのだろうか。そして、風土性が見出されるとは、いかなる事態なのだろうか。