書評 井上浩朗著『私たちの自己責任―水俣病を場として―』 鋤柄雄司
目次 はじめに
前章 水俣病について
1章 リスク、責任概念について
1節 リスク 2節 責任 3節 水俣における応答責任論
2章 現代における責任
1節 現代の個人化 2節 集団をつくる「個人」と排除 3節 社会の責任 4節 ふたつの「暴力」
3章 私たちの自己責任 おわりに
前章 水俣病について
1章 リスク、責任概念について
1節 リスク 2節 責任 3節 水俣における応答責任論
2章 現代における責任
1節 現代の個人化 2節 集団をつくる「個人」と排除 3節 社会の責任 4節 ふたつの「暴力」
3章 私たちの自己責任 おわりに
水俣病の患者が公式確認されたのが1956年。55年が経った今、「終わっていない」と言う人と終わらせたい人、そのどちらにも属さない無関係な人や無関心な人である私たちは、「中立な」立場に立って、チッソや政府を悪とみなしてきたが、私たちに責任はないのだろうか。そのような問題意識に立ち、私たちが負わなければならない責任のあり方とは何なのだろうか、ということを探求する本研究は、まさに私は、ここでいう私たちの一員であると自覚させられた。それとともに、これから私の取るべき責任が多様な条件や作用を伴って生じていることをも自覚した。以下に、その自覚を促された各章・節の重要な箇所を適宜参考にしつつ、私見はイタリックで記述して、最後にその自覚が今後どのような問題意識を生み出すのかを考察して書評とする。
1章 リスク、責任概念
この章ではまず「責任」という概念を考察し、昨今話題になる「リスク」という概念についても触れて、次章以降の現代的な視点を踏まえた問題を考える下敷きとなるようにしている。
この章ではまず「責任」という概念を考察し、昨今話題になる「リスク」という概念についても触れて、次章以降の現代的な視点を踏まえた問題を考える下敷きとなるようにしている。
1節 リスク
ルーマン(1990、1991)はリスクRisikoと危険 Gefahr と区別し、リスクは未来の損害の可能性が、自らがおこなった決定の帰結とみなされる。そして、危険は自分以外の誰かや何かによって引き起こされたものである。何かが起こったとき、現代ではそれが損害をこうむった個人の選択に帰責されるのか、もしくは他の誰かのせいにされるのかということがその時々に左右される。
ルーマン(1990、1991)はリスクRisikoと危険 Gefahr と区別し、リスクは未来の損害の可能性が、自らがおこなった決定の帰結とみなされる。そして、危険は自分以外の誰かや何かによって引き起こされたものである。何かが起こったとき、現代ではそれが損害をこうむった個人の選択に帰責されるのか、もしくは他の誰かのせいにされるのかということがその時々に左右される。
2節 責任
まず、「責任」を「押しつけられる」責任と「応答する」という側面に注目して捉えている。
責任の構造 (瀧川 2003)は責任規範、責任原因、答責者、問責者、責任対象、責任負担である。
ここで、責任規範とは、「責任実践において参照される規範」責任原因とは、「責任の帰属根拠となる事態」これでは「押しつけられる」責任と「応答する」責任の区別はできないため概念についても定義付ける必要がある。それは瀧川の負担責任、責務責任、関与責任である。負担責任は、負担や不利益を意味し、損害賠償なども含まれる。責務責任は、「人がある立場・地位・役割を占めることによって発生する何らかの責務」を意味する。関与責任は、「過去の出来事に対する何らかの作用・生成・連関・関与」を意味する。以上が責任概念の分類であり、その前の「責任」の分類と合わせて、これを元に今後議論を進めている。
「応答する」ことに目を向けた責任実践のあり方でも過去のことに関し、問責者から問われることに対し答えるということから始まる責任実践を応答責任論としており、これには7つの契機がある。証し立て、対面性、理由、人格、根源的責任、責任過程、第三者、である。ここで後の議論で重要になる証し立て、根源的責任、責任過程、第三者についてみている。
「責任実践において答責者が理由応答を行うのは、他者が理性的には拒絶できない理由に基づいて自らの行為を正当化したいという欲求が答責者にあるから」であるとし、このような欲求を証し立ての欲求であるとする。これと同じく、応答責任論を最深部で支えるとされるのが、根源的責任である。これは、「理由応答が不可避であるがゆえに責任実践が成立する。この理由応答の不可避性の背景にある」ものであり、「他者との関係にあって初めて立ち上がってくる責任」である。根源的責任は、理由応答が営まれるなかで確証される「問われたならば、応答しなければならない」という責務責任であり、ゆえに「究極的責任」ではないとされる。
応答責任論においては理由応答という過程が重視されるため、負担責任はあくまで正当化ができない場合に課されると解釈され、コミュニケーションの一部であるとされる。また、その過程では第三者の存在が重要であり、理由応答の正当性は問責者だけでなく第三者にも認められなければならない。それにより、公共性が保障され、それは結果として第三者にも影響を与え規範形成を促すことになる。
ここで、リスクの話が出てくるのが唐突な感じがする。先に責任の構造と概念の分類を一節増やして最初に置いてからリスクと責任が深い関係性があると述べて応答責任論につなげた方が、通りがよいように思う。もしくは、まずリスクを考えると先に記述するのが良いと思う。
まず、「責任」を「押しつけられる」責任と「応答する」という側面に注目して捉えている。
責任の構造 (瀧川 2003)は責任規範、責任原因、答責者、問責者、責任対象、責任負担である。
ここで、責任規範とは、「責任実践において参照される規範」責任原因とは、「責任の帰属根拠となる事態」これでは「押しつけられる」責任と「応答する」責任の区別はできないため概念についても定義付ける必要がある。それは瀧川の負担責任、責務責任、関与責任である。負担責任は、負担や不利益を意味し、損害賠償なども含まれる。責務責任は、「人がある立場・地位・役割を占めることによって発生する何らかの責務」を意味する。関与責任は、「過去の出来事に対する何らかの作用・生成・連関・関与」を意味する。以上が責任概念の分類であり、その前の「責任」の分類と合わせて、これを元に今後議論を進めている。
「応答する」ことに目を向けた責任実践のあり方でも過去のことに関し、問責者から問われることに対し答えるということから始まる責任実践を応答責任論としており、これには7つの契機がある。証し立て、対面性、理由、人格、根源的責任、責任過程、第三者、である。ここで後の議論で重要になる証し立て、根源的責任、責任過程、第三者についてみている。
「責任実践において答責者が理由応答を行うのは、他者が理性的には拒絶できない理由に基づいて自らの行為を正当化したいという欲求が答責者にあるから」であるとし、このような欲求を証し立ての欲求であるとする。これと同じく、応答責任論を最深部で支えるとされるのが、根源的責任である。これは、「理由応答が不可避であるがゆえに責任実践が成立する。この理由応答の不可避性の背景にある」ものであり、「他者との関係にあって初めて立ち上がってくる責任」である。根源的責任は、理由応答が営まれるなかで確証される「問われたならば、応答しなければならない」という責務責任であり、ゆえに「究極的責任」ではないとされる。
応答責任論においては理由応答という過程が重視されるため、負担責任はあくまで正当化ができない場合に課されると解釈され、コミュニケーションの一部であるとされる。また、その過程では第三者の存在が重要であり、理由応答の正当性は問責者だけでなく第三者にも認められなければならない。それにより、公共性が保障され、それは結果として第三者にも影響を与え規範形成を促すことになる。
ここで、リスクの話が出てくるのが唐突な感じがする。先に責任の構造と概念の分類を一節増やして最初に置いてからリスクと責任が深い関係性があると述べて応答責任論につなげた方が、通りがよいように思う。もしくは、まずリスクを考えると先に記述するのが良いと思う。
3節 水俣における応答責任論
責任概念や実践について著者の問題意識と水俣に照らして考えている。
応答責任論の実践により、かつて負担責任論に基づき顕わになった責任が明らかになり、負担責任論よりもスムーズに、そして早期に裁判は進んだであろうし、何よりも被害にあう人の数が格段に減ったであろうと考えている。現在行われている救済に関しても、年齢制限、地域制限、認定基準といった問題点を解決するひとつの方策となりうるはずであるという一方、筆者は、かし、これだけでは不十分だと私は思う。まず原理的なものを考えると、「正当化したいという欲求」や「根源的責任」がどのようにして生成されるのか、何に担保されるのか、ということである。これに関し、澤は以下のように述べる。
1つめは、例えば死者や動物などの「声」が聞くことができないものの「声」をどうするのか、物理的に距離が離れているがゆえに「声」を聞けないことをどうするか、という問題。
2つめは、問いを発する他者がいないと責任はないのか、ということである。
責任概念や実践について著者の問題意識と水俣に照らして考えている。
応答責任論の実践により、かつて負担責任論に基づき顕わになった責任が明らかになり、負担責任論よりもスムーズに、そして早期に裁判は進んだであろうし、何よりも被害にあう人の数が格段に減ったであろうと考えている。現在行われている救済に関しても、年齢制限、地域制限、認定基準といった問題点を解決するひとつの方策となりうるはずであるという一方、筆者は、かし、これだけでは不十分だと私は思う。まず原理的なものを考えると、「正当化したいという欲求」や「根源的責任」がどのようにして生成されるのか、何に担保されるのか、ということである。これに関し、澤は以下のように述べる。
1つめは、例えば死者や動物などの「声」が聞くことができないものの「声」をどうするのか、物理的に距離が離れているがゆえに「声」を聞けないことをどうするか、という問題。
2つめは、問いを発する他者がいないと責任はないのか、ということである。
2章 現代における責任
この章では、リスク社会論をはじめとする現代社会の分析を用い、私たちがどういう時代を生きているのかを示すことで、前近代では直面しなかったような問題を私たちが抱えているということを確認し、本論文で取り上げている「私たち」の責任を問うことの必然性を示すことを目指している。
この章では、リスク社会論をはじめとする現代社会の分析を用い、私たちがどういう時代を生きているのかを示すことで、前近代では直面しなかったような問題を私たちが抱えているということを確認し、本論文で取り上げている「私たち」の責任を問うことの必然性を示すことを目指している。
1節 現代の個人化
誰もが責任の帰属とされうる社会だという視点に立った場合、極端な2つの立場が明らかになるように思う。ひとつは、それでも責任を個人や特定のものに帰属させようという立場である。
誰もが責任の帰属とされうる社会だという視点に立った場合、極端な2つの立場が明らかになるように思う。ひとつは、それでも責任を個人や特定のものに帰属させようという立場である。
2節 集団をつくる「個人」と排除
「個人化」という言葉が表すのは、単に共同体が崩壊し、個人がばらばらになったということだけではない。それとは反対の作用である、国家に象徴される奇妙な「共同体」に個人が統合されていくということも表す。
我々は何か大きな事故や事件が起こったとき、何か理由を見つけて、それが現代から逸脱したもの、もしくは前近代的なものであるとみなし、現在への自信を回復していっているのではないだろうか。この視点が大変私にとって示唆的であり、歴史から学ぶという言葉を思いださせた。
「個人化」という言葉が表すのは、単に共同体が崩壊し、個人がばらばらになったということだけではない。それとは反対の作用である、国家に象徴される奇妙な「共同体」に個人が統合されていくということも表す。
我々は何か大きな事故や事件が起こったとき、何か理由を見つけて、それが現代から逸脱したもの、もしくは前近代的なものであるとみなし、現在への自信を回復していっているのではないだろうか。この視点が大変私にとって示唆的であり、歴史から学ぶという言葉を思いださせた。
3節 社会の責任
このような「さしあたり」の解決に対して疑問を呈しているのが、「極端な2つの視点」のもう片方の視点である。それはつまり、ある特定のものにではなく、「社会」に責任があることを強調するような立場である。
誰も責任を感じなくていいようにシステムは組み立てられて、駆動しているのである。「既成事実への屈服」と「権限への逃避」から成る「無責任の体系」と呼ばれる事態はこの国に今も存在しているのである。
このような「さしあたり」の解決に対して疑問を呈しているのが、「極端な2つの視点」のもう片方の視点である。それはつまり、ある特定のものにではなく、「社会」に責任があることを強調するような立場である。
誰も責任を感じなくていいようにシステムは組み立てられて、駆動しているのである。「既成事実への屈服」と「権限への逃避」から成る「無責任の体系」と呼ばれる事態はこの国に今も存在しているのである。
4節 ふたつの「暴力」
「無責任の体系」を克服するにはどのような視点が必要なのか。ここで、圧倒的多数の第三者が生む暴力について簡単に整理したいと思う。これは主に2種類あると著者は思っている。
ひとつは、「無関係の暴力」である。この暴力は、主に「個人化」の結果として生まれ、この場合の第三者は「外野席から無責任な野次を飛ばす人々」(斎藤 2004)である。もうひとつは、「無関心の暴力」である。無関心を装うことで自らを納得させ、「既成事実への屈服」がなされるわけであるがこれは正しい表現ではない。それは、「屈服」ではなく、「支援」である。
現実においてこれらは深く関わっており、「無関係の暴力」が成り立つことで「さしあたり」の責任追及は可能となり、「無関係」な人たちの内部で「無関心の暴力」は強化されることになる。逆に、「無関心の暴力」によって生み出されたものが問題として顕在化し、「関心」を持たざるをえなくなったときに、「無関係の暴力」も発動する。
では、水俣病においては、「第三者」は具体的にどのように関わってくるのだろうか。
まず挙げられるのが、ほとんどすべての日本国民がチッソの経営を支えていた事実である。
そして、次の点を著者は重視している。漁民たちが集結し、要求を掲げて工場に乱入したときの、市民の世論が漁民の要求を支持するとき「第三者」としてそれを言っていることである。あるリスクを回避したところで、それがまた新たなリスクを生み出すのであり、「第三者」がそのようにあるリスクのみに目を向けて言葉を発するとき、「第三者」は新たなリスクに対して無責任であり、そのような無責任な発言は、対立する立場のより強固な団結に繋がることもしばしばある。このことは、敵対関係をよりはっきりとさせ、対話の機会をなくすことで問題の解決をより遅くしてしまいがちである。前章および、第一章のリスクと危険の定義から、水俣病を場としたリスクの構造としての説明として以下の文が提示されるとわかりやすいのではないか。
希釈原理を最後まで支持し、「無関心」を装い続けてきたのは、科学者や企業の人でもなく、私たちである。
加えて、現代の私たちは、水俣病などの公害を過去のものだとみなし、線を引くことで自らをそれと「無関係」だとし、差異以外には「無関心」を貫いている。そして新たな公害、災害が起こればまるでそれが「最初に遭遇した災禍」であるかのように振舞うのである。
以上が水俣病に関する「第三者」「無関心」「無関係」である。水俣と私たちには何のつながりもないとは言えないし、むしろ「暴力」をもつ存在として「私たち」はある。何よりも、「第三者」として私たちが存在すること、それが一番の問題である。「第三者」である限り、私たちは永遠に免責されたままである。私たちが問うべき責任の形は「逸脱」ではなく内部を、「差異」ではなく「同一性」をもとに、「第三者」自身を問う視点である。それは「社会」を問うのではなく、「私たち」自身を問うということでもある。
「無責任の体系」を克服するにはどのような視点が必要なのか。ここで、圧倒的多数の第三者が生む暴力について簡単に整理したいと思う。これは主に2種類あると著者は思っている。
ひとつは、「無関係の暴力」である。この暴力は、主に「個人化」の結果として生まれ、この場合の第三者は「外野席から無責任な野次を飛ばす人々」(斎藤 2004)である。もうひとつは、「無関心の暴力」である。無関心を装うことで自らを納得させ、「既成事実への屈服」がなされるわけであるがこれは正しい表現ではない。それは、「屈服」ではなく、「支援」である。
現実においてこれらは深く関わっており、「無関係の暴力」が成り立つことで「さしあたり」の責任追及は可能となり、「無関係」な人たちの内部で「無関心の暴力」は強化されることになる。逆に、「無関心の暴力」によって生み出されたものが問題として顕在化し、「関心」を持たざるをえなくなったときに、「無関係の暴力」も発動する。
では、水俣病においては、「第三者」は具体的にどのように関わってくるのだろうか。
まず挙げられるのが、ほとんどすべての日本国民がチッソの経営を支えていた事実である。
そして、次の点を著者は重視している。漁民たちが集結し、要求を掲げて工場に乱入したときの、市民の世論が漁民の要求を支持するとき「第三者」としてそれを言っていることである。あるリスクを回避したところで、それがまた新たなリスクを生み出すのであり、「第三者」がそのようにあるリスクのみに目を向けて言葉を発するとき、「第三者」は新たなリスクに対して無責任であり、そのような無責任な発言は、対立する立場のより強固な団結に繋がることもしばしばある。このことは、敵対関係をよりはっきりとさせ、対話の機会をなくすことで問題の解決をより遅くしてしまいがちである。前章および、第一章のリスクと危険の定義から、水俣病を場としたリスクの構造としての説明として以下の文が提示されるとわかりやすいのではないか。
希釈原理を最後まで支持し、「無関心」を装い続けてきたのは、科学者や企業の人でもなく、私たちである。
加えて、現代の私たちは、水俣病などの公害を過去のものだとみなし、線を引くことで自らをそれと「無関係」だとし、差異以外には「無関心」を貫いている。そして新たな公害、災害が起こればまるでそれが「最初に遭遇した災禍」であるかのように振舞うのである。
以上が水俣病に関する「第三者」「無関心」「無関係」である。水俣と私たちには何のつながりもないとは言えないし、むしろ「暴力」をもつ存在として「私たち」はある。何よりも、「第三者」として私たちが存在すること、それが一番の問題である。「第三者」である限り、私たちは永遠に免責されたままである。私たちが問うべき責任の形は「逸脱」ではなく内部を、「差異」ではなく「同一性」をもとに、「第三者」自身を問う視点である。それは「社会」を問うのではなく、「私たち」自身を問うということでもある。
3章 私たちの自己責任について
この章では、「私たち」にどのような責任があるのか、をまず明らかにしていく。その上で、ではそのような責任が生まれるにはどうすればいいのか、哲学や倫理学の視点から述べていく。
私たちに責任がある、というとき、まずはこの責任が関与責任(有責責任)、負担責任、責務責任のどれであるのかをはっきりと分けて考えなければならない。このとき、「法廷」にあがれない者の関与責任はどう考えるべきなのかというとき、「事実的他行為可能性」である、「他の行為をすべきであった」のに、どうして他の行為をしなかったのか、という問いが必要である。チッソがメチル水銀を含む廃液を流すことができた、流すことを選んだ背景には、私たちの責任は、間接的であり、これまでの因果関係の図式では捉えることができない。なぜなら、権力は原因としてではなく、「触媒の複合的な機能に比べられるべきもの」(ルーマン 1986)であるからである。私たちの生み出す権力は、バイアスをかけるものとして機能している。このような機能に一見、責任があるとは思えない。しかし、「責めを負うことを、道徳的に過失として理解したり、あるいは一種の作用(Wirken)として解釈したりしがち」であるが、そうではなく、「責めを負うことは、誘―発すること〔Ver-an-lassen〕」(ハイデガー 2009)なのである。このハイデガーの引用は私たちの関与責任を認識する土台になるとともに、私たち各自の関与責任が最終的な問題発生への条件の一部をなしているという自覚を持たせる。その上で私たちが現代権力構造を出発点に歴史を参照してリスクをとれるよう改善していくのが、私たちの責務責任ではないかと思った。
この章では、「私たち」にどのような責任があるのか、をまず明らかにしていく。その上で、ではそのような責任が生まれるにはどうすればいいのか、哲学や倫理学の視点から述べていく。
私たちに責任がある、というとき、まずはこの責任が関与責任(有責責任)、負担責任、責務責任のどれであるのかをはっきりと分けて考えなければならない。このとき、「法廷」にあがれない者の関与責任はどう考えるべきなのかというとき、「事実的他行為可能性」である、「他の行為をすべきであった」のに、どうして他の行為をしなかったのか、という問いが必要である。チッソがメチル水銀を含む廃液を流すことができた、流すことを選んだ背景には、私たちの責任は、間接的であり、これまでの因果関係の図式では捉えることができない。なぜなら、権力は原因としてではなく、「触媒の複合的な機能に比べられるべきもの」(ルーマン 1986)であるからである。私たちの生み出す権力は、バイアスをかけるものとして機能している。このような機能に一見、責任があるとは思えない。しかし、「責めを負うことを、道徳的に過失として理解したり、あるいは一種の作用(Wirken)として解釈したりしがち」であるが、そうではなく、「責めを負うことは、誘―発すること〔Ver-an-lassen〕」(ハイデガー 2009)なのである。このハイデガーの引用は私たちの関与責任を認識する土台になるとともに、私たち各自の関与責任が最終的な問題発生への条件の一部をなしているという自覚を持たせる。その上で私たちが現代権力構造を出発点に歴史を参照してリスクをとれるよう改善していくのが、私たちの責務責任ではないかと思った。