現代(1989年)の私たちは、一人ひとりが、そう、いわばロビンソンなのだ。ロビンソンとは、周知のデフォーの物語の主人公、ロビンソン・クルーソーである。難破して絶海の孤島で自分の生活を自分自身の知恵
と労力によって創っていった、あのロビンソン・クルーソーである。私たちもまた、今はかのように立ちいふるまいせざるをえない。ただし、彼とちがって、私たちのまわりには、無数のロビンソンがいる。私たちは、無数のロビンソンとネットワークをつくり、諸個人の協同のなかでこそ“ロビンソンする”ことができる。
と労力によって創っていった、あのロビンソン・クルーソーである。私たちもまた、今はかのように立ちいふるまいせざるをえない。ただし、彼とちがって、私たちのまわりには、無数のロビンソンがいる。私たちは、無数のロビンソンとネットワークをつくり、諸個人の協同のなかでこそ“ロビンソンする”ことができる。
現代(1989年)のロビンソンにとってこの“醒めた”眼が何よりも肝心である。自分の眼で、自分の体験を通して、実感をたいせつにしつつ、自分らしさ、人間らしさを根底から問いなおすこと、いいかえれば、世間であたりまえとされていることを問い直すこと。ここから“ロビンソンする”ことは始まる。豊かな暮らしは人並みの暮らし? いい大学へはいる、偏差値を上げるってあたりまえ? 女だったら結婚するのってフッーのこと? 科学技術の発達は良いことに決まってる?お金がなくっちゃほんとに生きられないの?
本書は三部からなっている。
第一部「揺らぎのなかの生の試し」では、“ロビンソンする”ことの、いわば原イメージとその思想的革新を、中世から近代への転換の時代を生きたデカルトの射た波をとおしてとらえようと試みている。
そこでは、できあがった彼の思想体系よりも、彼の生と彼の時代の人々の生活感覚とのかかわりのなかでの思想形成に焦点をあてた。そのなかで、あわせて、現代の新たな“常識”としてその克服がいわれる合理主義の意味をとらえかえそうとした。くわえて、生活・体験のなかの問題を、体験的に論ずることと思想的ないし学的に論ずることのちがいと関連も考えて承ようとした。
第二部「価値への視座」では、“ロビンソンする”眼で価値をみようとするときに問題となるであろう基礎的論点をとりあげている。
そこでは、価値観の多様化・異なる価値への寛容をよしとする立場から、なお共通の(ないし「普遍」的な)価値はありうるのか、あるとすればそれは何に由来するのか、ということを考えてみた。あわせて、私たちの日常生活のなかでしばしばみられる価値への見方・価値論のタイプとの関連づけを考えてみた。
第三部「欲求と疎外」では、“ロビンソンする”一人ひとりの生活感覚にもとづいて共通の(ないし「普遍」的な)価値、とくに規範や倫理・道徳がどう考えられるのをみた。
そこでは、まず、価値にとっての欲求の意味、とくに人間的欲求の二重性に注目することでアプローチしようとした。そこからさらに、私たちが生きている現代社会を疎外としてとらえその特徴をみることで、その現実的可能性をさぐろうとしている。
第一部「揺らぎのなかの生の試し」では、“ロビンソンする”ことの、いわば原イメージとその思想的革新を、中世から近代への転換の時代を生きたデカルトの射た波をとおしてとらえようと試みている。
そこでは、できあがった彼の思想体系よりも、彼の生と彼の時代の人々の生活感覚とのかかわりのなかでの思想形成に焦点をあてた。そのなかで、あわせて、現代の新たな“常識”としてその克服がいわれる合理主義の意味をとらえかえそうとした。くわえて、生活・体験のなかの問題を、体験的に論ずることと思想的ないし学的に論ずることのちがいと関連も考えて承ようとした。
第二部「価値への視座」では、“ロビンソンする”眼で価値をみようとするときに問題となるであろう基礎的論点をとりあげている。
そこでは、価値観の多様化・異なる価値への寛容をよしとする立場から、なお共通の(ないし「普遍」的な)価値はありうるのか、あるとすればそれは何に由来するのか、ということを考えてみた。あわせて、私たちの日常生活のなかでしばしばみられる価値への見方・価値論のタイプとの関連づけを考えてみた。
第三部「欲求と疎外」では、“ロビンソンする”一人ひとりの生活感覚にもとづいて共通の(ないし「普遍」的な)価値、とくに規範や倫理・道徳がどう考えられるのをみた。
そこでは、まず、価値にとっての欲求の意味、とくに人間的欲求の二重性に注目することでアプローチしようとした。そこからさらに、私たちが生きている現代社会を疎外としてとらえその特徴をみることで、その現実的可能性をさぐろうとしている。