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  • 第四章 『沙石集』の仏教思想と民衆の自然観

亀山ゼミwiki(非公式)

第四章 『沙石集』の仏教思想と民衆の自然観

最終更新:2012年03月30日 21:40

ogasawara

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だれでも歓迎! 編集
第一節 『沙石集』に見られる、変容した神婚譚
 古代の神話において、蛇は神の化身あるいは神そのものであった。しかし、『日本霊異記』中巻第8縁と第12縁では、蛇は置染臣鯛女(おきそめのおみたいめ)によって放生された蟹に退治されてしまう。古代の神話では、蛇神と人間の女(神と結婚するので、巫女と思われる。)は結婚するのだが、『日本霊異記』では、行基から五戒を授かり、聖(ひじり)の化身から蟹を譲られ、それによって五戒の具体的な実践としての蟹の放生をすることで、蟹が蛇を退治し、女は蛇と結婚せずに済んだ 、という話になっている。つまり、五戒を守るという仏教的な実践が、神の力に勝つことを意味している。さらに、題材を同じくする話である『今昔物語集』巻16第16話では、女は只人ではなく、観音の化身であったと改変されていることから、『日本霊異記』の話よりも、仏と神の対決と仏の勝利という構造がより強調されている。
 『沙石集』は、上記の蟹満寺説話(『日本霊異記』中巻第8縁、第12縁と、『今昔物語集』巻16第16話をさす。)を受け継いでいないが、蛇が登場する説話は4つ(巻第7の2、巻第7の3、巻第7の4、巻第7の5)あり、そのうちの2つ(巻第7の3、巻第7の4)は神人通婚譚を変形したものになっている。
 『沙石集』巻第7の3「継女(ままむすめ)ヲ蛇(じゃ)ニ合セムトシタル事」は、以下のような内容である。
 下総国のある女が、12、3歳の継娘を、大きな沼の畔に連れて行き、この沼の主に「この娘を差し上げます」と度々言っていた。後に、本当に大蛇が家に来てしまうと、「父、下﨟(げらふ)ナレドモ、サカサカシキ物ニテ」、「この娘は私の娘である。母は継母である。私の許しがないのに、どうして(娘を)取れるだろう。母の言葉に依ってではなく、妻は夫に随う物なので、母を好きにしなさい。取りなさい。」と言った。そこで、大蛇は母にまとい付いた。
 この説話の無住によるまとめは、「人ノ為ニ腹悪キハ、軈(やが)テ我身ニヲイ侍ルニコソ。因果不可疑(いんがうたがうべからず)。」と結ばれている。ここでは、古代の神話において、蛇神と巫女の神人通婚譚だったものが変容して、因果の道理のもとに語られている。因果の道理とは、簡単に表現すると、悪い行いをすると、その報いとして自分にも悪いことが起こる、という法則のことである。こうして、神話世界の話が、仏法が働く仏教世界の話に変容する。仏教世界の中では、蛇への嫁入りに神聖さはなく、恐ろしいもの以外の何物でもない。それどころか、悪報でさえある。
 もう一つの、『沙石集』巻第7の4「蛇ノ人ノ妻ヲ犯シタル事」は、以下のような内容である。
 遠江国の山里で、ある日、妻が昼寝しており、夫が帰ってきて見ると、5、6尺ほどの蛇が妻にまとわりついて、口をさしつけて臥せていた。そこで、「親のかたきは前世のかたきというもので、是非もなく、殺すものだが、今度ばかりは許そう。今後、このような不当なことがあれば、殺してしまうぞ。」と杖で打って山に捨てた。5、6日後、夥しい数の蛇が、庭先に集まった。そこで夫は、威儀を正して以下のように、「皆様は何をしにこのように集まられたのでしょうか。知りがたいことでございます。ただし、ある日、妻が昼寝しているところを、蛇が犯したことがございました。目の当たりに見つけて、前世のかたきである上は殺すところを、慈悲をもって助け、後にこのようなことがあれば命を絶つぞと言って、杖で少し打って、捨てたことがございました。このことを皆様がお聞きになって、私の僻事だと思っておいでになったのでしょうか。人と畜生は異なるといっても、物の道理は変わるものではございません。妻を犯されて、恥ずかしいことに遭い、情けで命を助けたのに、僻事として、不当に殺傷なさることは、恥知らずなことでございます。このことは三宝も知見し、天神地祇、梵王帝釈、四大天王、日月星宿(星座のこと)等も、日本の諸神もご覧になったでしょう。一つの虚偽もありません。」と筋道を通すと、蛇は帰っていった。
 この説話での無住のまとめには、「サカサカシク道理ヲ申述(まうしのべ)テ、災ヲ遁(のが)レタリケルコソ、カシコク覚ユレ。道理ヲモ申述(まうしのべ)ズシテ、トカク拒(ふせ)ガマシカバ、ユヽシキ災ナルベシ。物ノ命ヲ害スル事、慎ムベキ物ナリ。」とある。
 夫の弁説に含まれる、「三宝」、「梵王帝釈」、「四大天王」は、仏教的世界観のもとに生まれる発言である。そして無住のまとめにある、「物ノ命ヲ害スル事、慎ムベキ物ナリ。」とは、蛇を打ったことで夫自身に災いが降りかかったという因果の道理と、五戒の筆頭である不殺生戒が元になっていると考えられる。
 以上、二つの説話の内容と、それらに含まれる仏教的要素を概観してきた。大和国三輪山の蛇神が女の許に通う、三輪山伝説以来の神人通婚譚は、嫁入りすることが忌避されるばかりか、聖性を剥奪された存在となる。夫がいる女を襲うという話のパターンはもはや、蛇神とそれに奉仕する巫女という、三輪山伝説以来の構造をさらに離れてしまっている。そして、よりこの構造から遠ざかったところに、巻第7の2「妄執ニヨリテ女(むすめ)蛇(じゃ)ト成ル事」がある。蛇というモチーフが、聖性ではなく、妄執の表現に用いられるようになるのである。さらに、それぞれの説話から引用した、「サカサカシ」、「道理」、「カシコシ」は、仏教的要素以上に説話の展開において重要な働きをしている。次節では、このことについて『沙石集』の「道理」感覚を中心に分析する。


第二節 無住の「世間の道理」
 無住は出家であるが、民衆感覚を持った出家である。民衆や俗世間に対するまなざしが現れている説話は、本論文における課題である民衆の仏教理解の論理が表れている説話でもある。本節では、無住が民衆の生活世界から見て取った「世間の道理」 を扱う。
 巻第5本の7「学生世間(の)事無沙汰(の)事」では、常州の寺法師の学生(がくしょう)が、別の年若い僧が馬糞を田に入れようと運んでいるところを制して、「その肥をどうしようというのか。法師は祈って、仁王経 を読むものだ。仁王経が馬糞に劣ることがあろうか。」と言ったという。この学生は、『沙石集』の中で、「世間ノ事ハ、無下無沙汰也(むげにぶさたなり)。」と記述され、田に肥を入れることは、「田舎ノ習(ならい)」と呼ばれる。
 亀山によれば無住は、「真俗二諦論によって経典・仏法で世間のことを処理しようとすることを誤りとするとともに、経験的合理性を世間の道理として高く評価している」 という。
 このことと関連して、『沙石集』拾遺75 では、ある山寺に賊人(ぬすびと)が入り、法師がそれを見つけて捕まえたが、なかなか助けが来なかったので、賊人(ぬすびと)を逃がしてしまった。その話を無住は、「賊人(ぬすびと)ヲモ刃傷殺害シ、我モ損ジタラマシカバ、罪ナルベシ。中々罪ナキ事ハ、ヲコガマシキ所アルベシ。」と結ぶ。これは、『日本霊異記』や『今昔物語集』では見られないコメントである。『日本霊異記』や『今昔物語集』では、説法の聞き手である民衆に、いかにこの世界の「因果の道理」が逃れがたいものなのかを説くことに重点が置かれていて、「因果の道理」以外の道理感覚を、説話内において積極的に認めることはなかった。「罪ナキ事」とは、「因果の道理」に基づいた行動(不殺生)を取ることである。それが、「世間の道理」にはそぐわないこともあると、無住はここで明言している。民衆の経験的合理性である「世間の道理」を積極的に認める姿勢と、「因果の道理」が万能でないことを認める姿勢は、無住の革新性である。そして、この無住の姿勢は、民衆へのまなざしなしには生まれなかったものである。

第三節 悪人往生と草木国土悉皆成仏
 日本における不殺生思想の受容と言う問題を考える上では、たとえば『梵網経』巻下に、「若(なん)ぢ仏子、慈心を以ての故に放生の業を行ずべし。応に是念を作(な)すべし。一切の男子は是れ我父、一切の女人は是れ我母、我れ生々に是に従つて受生せざること無し。故に六道の衆生は皆是れ我父母なり。而るを殺し而も食せば、即ち我父母を殺し亦我故身を殺すなり。」 とあることや、行基の歌と言われてきた、「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」 の古歌に見られるように、山野河海の生きものは我が父母の生まれ変わりであるかもしれないがゆえに殺すべからず、という説明付けが大きな効果を発揮してきた。そうした語り口は、『日本霊異記』でパターン化して語られているように、前世の悪業の報いで牛馬などに転生して苦しんでいる父や母のために供養を行ない、その苦しみから救出できた話としても広く浸透していた。
 『日本霊異記』の説話のほうは、転生先の動物が牛馬といった家畜になっていることが多い 。しかし、日本での輪廻転生譚のその後の展開としては、牛馬などの家畜に生まれ変わるというパターンは多くはなく、山野河海の動物に転生することさえそれほど多くはなくなり、人間はあくまで人間にしか生まれ変わらないというのが日本での転生イメージの大勢として定着していく。従って、仏教的もしくはインド的な六道輪廻の観念がそのままの形で日本に受容されたとは言い難い。
 古代・中世の日本においては、人と動物との境界は、輪廻思想の影響もあって、きわめて不分明なものであった。そうした状況は、三輪山型の神人通婚譚の世俗版といっていい各種の異類婚姻説話や、それを背景に語られる動物始祖伝承の数々などで確認できる。そこでは、神と人と動物は緩やかに接続し、相互に乗り入れ可能な存在としてイメージされていた。
 このような人と動物の連続性についてのイメージは、伝承や信仰の次元にかぎったことではなく、現実の世界にも直接間接に影響を及ぼさずにはおかない。すなわち、神との関係はさておくとしても、人と動物との連続性、相互乗り入れ可能な関係が意識されればされるほど、それを殺害したり、食用に供したりすることに対する忌避と自責の感情は大きくなる。
 ところが、そのような人と動物の連続性についての意識が、「一切衆生悉有仏性」や「草木国土悉皆成仏」 という天台本覚論的な万物平等観を根付かせていったと思われる反面、同じ本覚論的思想が、実践レベルにおいては善悪不二というテーゼを字義通りに受け入れさせる状況をつくりだし、仏教本来の不殺生概念を逆転してそれとは正反対の殺生善根論 をさえ生み出すことになった。後述の、悪人正機を掲げる親鸞教団の反戒律的な主張が、肉食妻帯を積極的に行うばかりか、そうした悪行をひけらかす本願誇りの風潮を生み出していった。
 人と動物との差異を極小化していくような観念が主流となっていけば、それに応じて狩猟や漁撈の獲物となる生きものの生命を奪うことも、当然、種を同じくする人の生命を奪うことと類比的にとらえられ、断罪されていく。言い換えれば、そこでは新たに、動物殺しに伴って生じる罪責感情にどのように対処するかという難問が浮上する。
 日本ではとりわけ近世以降、そのような動物殺しの罪責感を軽減する宗教上の装置として、動物供養が積極的に導入されることになった。そこでは、主として狩猟・漁撈の獲物となる動物たちが、人間の死者供養に準じて供養の対象となっていった。
 一方、遊牧・牧畜社会では、共同体の富の源泉である家畜を殺し、それを食用などの共同体成員の生存のための資源として利用する場合、そこで生じる動物殺しの罪責感は動物供犠の儀礼によって解消するのが原則だった。単純化して言えば、そこでは共同体の財である家畜のうちから特別に貴重な個体を選び出し、それを祭祀の場で神にささげるべく血を流して屠ることにより、それ以外の自分たちの日常的な動物殺しを神によって是認された行為とみなす。
 そうした動物供犠の祀りは、古代ユダヤ教やバラモン教、あるいはその他の宗教の多様なイケニヘ儀礼として、地球上に存在している。しかし、動物供養が一般化した日本の社会では、それら供犠の文化における動物殺しの罪責感の解消方法とは別個の方法が採用されている。このことについて、中村禎里は、人間は己の生存維持のために動物を殺さざるをえないが、それにともなう罪責の思いや心の痛みについて、それを消去する仕組みが各々の文化には備わっていて、それらを大別すると、4つの文化に分類できると言う。すなわち、一つ目は、動物を神からの賜物と理解することで罪責感を消す文化で、これはキリスト教やイスラム教のような創造神を持つ一神教に典型的である。二つ目は、殺した動物の霊を弔う文化で、こちらは今日の日本にも広く普及している。三つ目は、動物を利用するものと動物を殺すものとを社会的に分化させ、前者が動物殺しの罪責感を後者の人々に押し付けることで「心の痛み」を回避する仕組みの分業システムの文化で、洋の東西を問わず普遍的に存在してきた。四つ目は、動物を殺すことに全く罪責感を持たない文化で、四つ目に関しては中村は、こういう文化もありうるだろう、と示唆するに留めている 。中村生雄はこれを受けて、己の生存のために動物を殺さざるを得ない人間が、それにともなう罪責の思いや心の痛みをどのように解消するかという観点に立って、中村禎里が提起した前述の4パターンのうち、前半の2パターンを、供犠の文化と供養の文化と言い換えている 。
 いずれにせよ、そうした動物供養の伝統とそれにまつわる観念を再検討することが、日本仏教における不殺生の原則の変容を見定めるうえでの不可欠の作業である。とくにその供養の対象は、人から動物へ、さらには無生物にまで拡大される。
 ただし、人と動物の連続性が意識されるなかで定着していった動物供養の観念とその制度は、ただちに人と動物の関係の実態を変化させ、両者の平和共存をもたらしたわけではない。むしろ、実態は逆であった。動物を人間の死者と同様に供養の対象とし、手厚く弔うことが、逆に各種の動物利用の正当化、効率化を促進し、本来それにともなうはずの罪責感を無化することに力を貸した。また、中世以降の全国の狩猟者のあいだで、狩りにともなう動物の殺生が諏訪明神の明徳によって免罪されるとの信仰が絶大な支持を得ていったことも、これらの変化を予告する事実として挙げられる。
 すなわち、中世の諏訪信仰が本地垂迹説を巧妙に利用して、垂迹としての神にそなえられる動物の贄が、最後には本地としての仏の慈悲につつまれ成仏にいたるとの畜生成仏思想を提示した。また、それに先立って、平安後期の浄土教思想は、たとえば殺生肉食などの反仏教的な行為であっても、念仏さえ称えれば、阿弥陀仏が浄土往生を保証してくれるとの教えで、武士や非農業民の支持を勝ち得ていった。また『沙石集』や『古今著聞集』といった中世の仏教説話集が、賀茂や伊勢の贄となる鮒や蛤に出離の可能性を認める話を収録していることにも窺われるように、中世の宗教世界はこうした浄土教的、ことに専修念仏的な脱戒律と悪人往生思想の流れを前提にし、それらを本地垂迹説による神と仏の親縁性という理念に結びつけた。
 その結果、絶大な救済力を持った仏・菩薩の垂迹として自己を定位することによって、土着的で周辺的な神々が新たな救済の主体として再生し、活性化していった。そして、諏訪信仰の例に見られるように、神前に供えられる贄の運命に即して展開された救済説が、新しい仏教的善因を作った。
 古代社会においては山野河海の生きものは、祝詞の「毛の和物(にこもの)・毛の荒物」「鰭(はた)の広物・鰭(はた)の狭物(さもの)」のことばどおり、贄であった。それらは、基本的には支配と収奪のための貢納品であるか、神の祀りのための御饌であり、人による人の支配、神による人の支配のための手段でしかなかった。
 だが、諏訪信仰をはじめとする中世の神仏習合状況のなかで形成された畜生成仏思想における動物は、かつてのように単なる消費と儀礼の対象ではなく、成仏の主体となった。そして、個々の動物がそのような仏教的な世界観の中で主体の位置を獲得した。
 天台本覚論的な「一切衆生悉有仏性」、「草木国土悉皆成仏」の理念も一面では、このような人と動物の関係の大幅な転換が下地となって初めて一般性を保持しえたものである。すなわち、本覚論的な人と動物の不二一体的な理解(「一切衆生悉有仏性」、「草木国土悉皆成仏」)とそれに基づいて展開される神仏習合的な実践のなかで、人と動物はともに、苦しみに満ちた穢土を脱し、彼岸の浄土を志向する存在として同一地平にあると了解された。


第四節 悪人と殺生肉食の『沙石集』以降の展開
 仏教的な輪廻思想と不殺生の観念により、生きものの生命を断つ殺生の所業が宗教上の悪として忌避され断罪されるようになった。それは言い換えれば、殺生罪業観念の浸透であり、またそれと表裏一体の関係として、それらの所業を避け得ない人々に対する社会的・宗教的な賤視と差別が強化され、実体化されることであった。
 そこで、顕密仏教的な表向きの解釈の流れとは別に、浄土系仏教、とりわけ専修念仏教団による脱戒律の在俗志向と悪人往生思想が登場する。例えば『歎異抄』では、「海・河にあみをひき釣りをして世をわたるものも、野山にししを狩り鳥をとりて命をつぐともがらも、商ひをし田畠をつくりて過ぐる人も、ただおなじことなり。」 と述べることで、農民・商人の日々の生業が狩猟・漁撈の民の殺生行為と同列の罪深いものであるとし、他ならぬ阿弥陀仏の救済はそれら悪人にこそ向けられているとする。
 また、そのようにして殺生の罪業を己の生業として引き受けざるをえないものを、親鸞自身は『唯信抄文意』において「屠沽(とこ)の下類」と名づけ、その意味を、「屠はよろずの生きたるものを殺し屠るものなり、これは猟師といふものなり。沽はよろづのものを売り買うものなり、これは商人なり。これらを下類といふなり。(中略)猟師・商人さまざまのものは、みな石・瓦・礫のごとくなるわれらなり。」 と述べている。すなわち、自らも石・瓦・礫に例えられるような存在なのであり、屠沽の下類に他ならないと、親鸞は明言した。
 しかし、そのように親鸞が自らの悪人性を積極的に肯定し、それを狩猟・漁撈における殺生の業と異ならないとする立場は、顕密仏教の側からすれば、異端以外の何者でもない。そして、親鸞の後継者らも、この異端性を引き継いでいった。そのことは、15世紀になって真宗教団を巨大化させた本願寺中興の祖である蓮如が、教団の社会的な立ち位置を表明するに当たって、次のように親鸞の言葉を繰り返していることからも察せられる。「ただあきなひをもし、奉公もせよ、猟すなどりもせよ。かかるあさましき罪業にのみ朝夕まどひぬる我らごときのいたづらものを助けんと誓ひまします阿弥陀如来の本願にてましますぞと深く信じて(後略)」
 蓮如においても、真宗教団の社会的基盤は「猟すなどり」という殺生を必須とするものたちを中心にしていると理解されたのであり、そういう異端的な性格を強調することで教団組織の緊密な結束力も強化され、教団に固有の救済理論も存在意義を持ちうると考えた。
 ちなみに、このような真宗教団の異端的な性格は、石山戦争終結後の本願寺の織豊政権への屈服、次いで余儀なくされた本願寺の東西分立、教団の政治的認知と引き換えに要請された幕府の寺社統制システムへの組み入れなどを経て、さらに変質を遂げていくが、これ以上ここでは詳しく述べない。


第五節 『沙石集』の中に殺生善根論が現れるまで
 『神道集』の「諏訪縁起」には、以下のようにある。「嘉禎3年(1237年)に、ある僧が、諏訪の明神は垂迹神で仏菩薩の貴い化身であるはずなのに、どうして多くの獣を贄として要求するのかと不審を抱きつつ、夢を見る。その夢には、諏訪明神の神前に贄としてかけられていた鹿・鳥・魚などの動物がみな金の仏となって雲上に昇る光景が現れ、それを指して、明神自ら、『野辺にすむけだものわれに縁なくは憂かりし闇になを迷はまし』と歌を詠んだ。また明神は、続けて、『業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果(ごうじんうじょう すいほうふしょう こしゅくじんてん どうしょうぶっか)』という偈を唱え、明神の神前に贄として捧げられる生き物は、たとえその場では命を失うことになっても、その後、必ず諏訪の神の垂迹神としての仲立ちによって仏果を得て、成仏に至ると保証する。
 この偈は、有情としての命は寿命が尽きれば否応なく終わってしまうものだが、逆に神の贄となって諏訪明神の神徳に出会う機縁に恵まれるならば、少々の延命など比べ物にならない無上の幸運を授かると説いている。
 一見したところ、これは、生き物の命を奪って神の贄とする殺生の行為を正当化するための理屈と見える。しかし、中世の諏訪信仰に典型を見るごとく、仏教の殺生罪業観によるかぎり、仏の救いからは見離された存在である狩猟・漁撈の民にとっては、意味のあるものであったと考えられる 。つまり、中世日本の神仏習合的観念が、現実の生活者に向けて、最重要の救済の論理を提示したことになる 。
 神前に贄を捧げる殺生の業が、贄とされる生き物にとっては、垂迹の神を介して本地の仏の救いにあずかる貴重な機縁だという考えは、その後、『沙石集』巻1第8の、加茂の神の贄についての説話でも語られる。ただし、こうした主張があるからといって垂迹としての神の贄祀りが全面的に肯定されていたわけではなく、それとともに、神々は不殺生戒に反して贄を取る罪深い所業のゆえに苦しみを受けているのだという考えも、根強く維持されていた 。とはいえ、このような殺生肯定の論理は、中世の説話世界や寺社縁起の世界にとどまらず、のちには日本各地の狩猟者が共有する信仰ともなり、前述の諏訪の神文も、狩猟者の間でさまざまな形に訛って生き続けてきた 。
 従って、中世の狩猟民・漁撈民に限らず、一般に日常的に殺生を生業として生を送る他ない山野河海の民にとって、このような殺生肯定の論理とは、顕密仏教での堕地獄の恐怖から自らを解放してくれるものであった。贄として神に献じられた生き物が、実はその神の本地たる仏の広大な力によって悟りに導かれるというこの解釈は、神々に動植物の贄を供えることを基本とする古来の日本の神祀りと、殺生を極悪と見なしひたすら慈悲行を推奨する仏教倫理との矛盾相克を回避する論法として、大いに活用された。
 平安時代後期に成立した本地垂迹説は、不殺生思想が大きく変容していく契機となった。前述の諏訪信仰の隆盛に見られるように、狩猟者の殺生行為を免罪する地方神が中世東国を中心に支持されるようになるとともに、『沙石集』などの説話において、殺生行為そのものが生類の成仏を確実にするという殺生善根論 が教説化された 。


第六節 『沙石集』と民衆の自然観
 これまで、蛇神の零落、因果の道理と世間の道理、草木国土悉皆成仏、殺生と悪人往生、本地垂迹と殺生善根論 などをキーワードに、『沙石集』の内容をまとめた。無住は、「因果の道理」と「世間の道理」、「この二つの道理を体得するのが智恵であり、そのような実践的智恵を備える人が賢者」 であると評価する。本節では、以上のような亀山の整理した無住の姿勢に至るまでの、無住及び民衆の道理感覚の展開の順を推測し、4つの段階に分けて論じる。
 まず一つ目の段階では、生業において必然的に殺生をすることになる人のための、念仏往生が登場 した。景戒により提示された逃れられない仏法の一つに、輪廻転生がある。この概念により、説話内では、現世で作った悪因の報いを、来世で受けなくてはならなくなった。これは、輪廻転生が逃れられないことによる。この輪廻転生を断ち切り、仏国土に生まれることが往生であり、民衆に実行困難な経の読誦に代わり、民衆が実行可能な易行である念仏で往生できるとするのが、念仏往生である。
 二つ目の段階では、本地垂迹説から殺生善根論 が生じた。本地垂迹説とは、簡潔に述べれば、神は仏(本地)が姿を変えて、この世に現れた(垂迹)ものであるという考え方である。そして殺生善根論とは、一つのパターンとしては、垂迹としての神に生業で得た魚などを供えることで、殺生の罪は本地としての仏が引き受け、殺生された魚は成仏するので、このような殺生自体を善行だと評価 し、もう一つのパターンとしては、僧などが魚を殺生して食べることで、僧が修行を行うと、食べられた魚も修行したことになって往生すると評価 する。ここでは殺生が、悪因ではなく善因だと捉えられている。
 三つ目の段階では、これら念仏往生と殺生善根論が、「因果の道理」の空洞化をもたらした。それまで生業における殺生の規制の論理となっていた因果、現報、輪廻転生、宿報が、現世・来世で悪果をもたらさなくなり、無住も使用するフレーズである「因果の道理」は、民衆の現世での行動規範としては存在感が薄れたことが挙げられる。
 四つ目の段階では、「因果の道理」感覚が薄れた現世での、民衆の行動の規範として、「世間の道理」が台頭してきた。言い換えれば、無住が民衆へまなざしを向けた際に、「世間の道理」を汲み取って、説話に採用した。
 以上のように、4つの段階を経て、『沙石集』の中に、民衆の「因果の道理」と「世間の道理」が立ち現れてきたと考えられるのである。

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