小熊英二『社会を変えるには』総括
『社会を変えるには』のポイントまとめ
▼日本社会の現状
工業化社会:1965年から1993年
大量生産、安定雇用・高賃金、画一化
↓
日本型工業化社会:70年代から80年代半ば
強い「中核」が「周辺=弱い環」を支える
↓
ポスト工業化社会:1990年代後半から
グローバル化、非正規雇用、多様化
⇒「自由」で「多様」な個人:カテゴリーの無効化
大量生産、安定雇用・高賃金、画一化
↓
日本型工業化社会:70年代から80年代半ば
強い「中核」が「周辺=弱い環」を支える
↓
ポスト工業化社会:1990年代後半から
グローバル化、非正規雇用、多様化
⇒「自由」で「多様」な個人:カテゴリーの無効化
▼「個体論」から「関係論」へ
カテゴリーの無効化により、「作り作られる」再帰性の増大
⇒「個体論」から「関係論」への転換
⇒「個体論」から「関係論」への転換
- 個体論:主体と客体の独立を前提とする
- 関係論:まず関係があり、主体と客体は事後的に生成される
▼「われわれ」を作る
運動が正統性を得るためには、「われわれ」を作ることが必要
しかし、地縁共同体的な「われわれ」は期待できない(「いい幹事」より「鍋を囲む」)
⇒「楽しさ」の共有に基づく「われわれ」によって社会を変える
しかし、地縁共同体的な「われわれ」は期待できない(「いい幹事」より「鍋を囲む」)
⇒「楽しさ」の共有に基づく「われわれ」によって社会を変える
コメント
何らかの運動・行動を適切に継続するためには、まず①現状を認識し、②目標を設定する。そして③方法を選び、④実行し、⑤=①’その効果を検証して、それにより②’目標を修正する、というプロセスが重要である。本書のテーマは“社会を変えるにはどうしたらいいのか”、“社会を変えるとはどういうことか”なので、「社会を変える」ことが何らかの運動によるとするなら、やはり以上のプロセスを踏まえる必要があるだろう。
そこでまず本書の提起する意義は①の段階にある。現在起きていることがどのような歴史を持ち、何がなされてきたのかを知ることで、現状を相対化し、向かうべき(でない)方向性が見えてくるのである。本書「あとがき」にあるように、従来の発想を転換することが求められているときには、まず「自国の歴史や他国の思想から、違った発想のしかたを知り、それによって従来の自分たちの発想の狭さを知」った上で、改めて「従来の発想をどう変えるか、どう維持するか」を考えることが重要である。人文社会系の意義の1つはこのことにある。
さらに歴史を知ることで③においてもより適切な方法を選ぶことができる。例えば「1968年」の運動が日本社会全体に継続的に広まることはなく、最終的には先鋭化して瓦解したが、その失敗と積極面から現在の運動は多くを学ぶことができる。
そこでまず本書の提起する意義は①の段階にある。現在起きていることがどのような歴史を持ち、何がなされてきたのかを知ることで、現状を相対化し、向かうべき(でない)方向性が見えてくるのである。本書「あとがき」にあるように、従来の発想を転換することが求められているときには、まず「自国の歴史や他国の思想から、違った発想のしかたを知り、それによって従来の自分たちの発想の狭さを知」った上で、改めて「従来の発想をどう変えるか、どう維持するか」を考えることが重要である。人文社会系の意義の1つはこのことにある。
さらに歴史を知ることで③においてもより適切な方法を選ぶことができる。例えば「1968年」の運動が日本社会全体に継続的に広まることはなく、最終的には先鋭化して瓦解したが、その失敗と積極面から現在の運動は多くを学ぶことができる。
しかし問題もある。その1つは本書において著者自身の目標設定(どのような社会にしたいのか)が見えないことである。第1章において戦後以来の原発体制を批判しているが、これは現在の経済状況から原発が維持できないということを述べているにとどまる。再帰性や「関係論」への転換という議論も現状追認に過ぎない。これは本書の趣旨(「社会を変える」とはどういうことか)から、目標設定については各自により多様でかまわないのだと考えられるが、それでは結局は「私生活主義化」を招くだけではないだろうか。このことは次の問題にも関わる。
もう1つの問題点は、「われわれ」を成立させるための根拠を「楽しさ」に求めることにある。「鍋会」のように好きな人達で好きなテーマで集まることが小熊の理想とする運動の形であるとするなら、その運動が社会全体に広まることは二の次になる。そうだとするならその運動が社会全体のために問題を取り上げる必要はなくなり、結局は自分自身と「鍋を囲む」仲間のことだけを考えるような狭く独善的な運動になるのではないか。「楽しさ」を根拠として成立する「われわれ」のスケールは1つの鍋を囲むほどでしかないが、それが社会全体の「われわれ」となるための方法は本書では何1つ示されていない。
また、当然だが「何を楽しいと感じるか」を人びとに強制することはできず、「そんなものは楽しくない」という相手に対して著者の「われわれ」は何もできない。そのようにそれぞれがそれぞれの「楽しいこと」を追求してきた結果が現在のこの社会なのではないだろうか。著者は「個体論」的な「啓蒙」を批判して「関係論」的な「エンパワーメント」が必要だと述べるが、「われわれ」の乗ってこない人々に対して最後には捨て台詞を吐くことしかできない(第7章末尾)ならば、その「エンパワーメント」には何も意味がないだろう。見通しが持てずに立ち往生する人に対して「変われ」と言ったところでその人は動き出すことはできない。
それは1つの「鍋会」においても同様で、楽しくなくなったらそれは解散することになるが、そのような運動がどのような影響力を持ちうるのだろうか。
問題点をまとめると、われわれ」の成立の根拠を「楽しさ」に求めると、1つの「鍋会」に閉じ篭る私生活主義化を招くのではないか、またその「われわれ」はどうやって「社会」へ繋がるのか、その継続性はどう担保するか、ということである。
「どのような」社会に変えるべきなのかという展望(=究極的な目標設定)を広く社会に認められるような形で示すことができなきればならない。
もう1つの問題点は、「われわれ」を成立させるための根拠を「楽しさ」に求めることにある。「鍋会」のように好きな人達で好きなテーマで集まることが小熊の理想とする運動の形であるとするなら、その運動が社会全体に広まることは二の次になる。そうだとするならその運動が社会全体のために問題を取り上げる必要はなくなり、結局は自分自身と「鍋を囲む」仲間のことだけを考えるような狭く独善的な運動になるのではないか。「楽しさ」を根拠として成立する「われわれ」のスケールは1つの鍋を囲むほどでしかないが、それが社会全体の「われわれ」となるための方法は本書では何1つ示されていない。
また、当然だが「何を楽しいと感じるか」を人びとに強制することはできず、「そんなものは楽しくない」という相手に対して著者の「われわれ」は何もできない。そのようにそれぞれがそれぞれの「楽しいこと」を追求してきた結果が現在のこの社会なのではないだろうか。著者は「個体論」的な「啓蒙」を批判して「関係論」的な「エンパワーメント」が必要だと述べるが、「われわれ」の乗ってこない人々に対して最後には捨て台詞を吐くことしかできない(第7章末尾)ならば、その「エンパワーメント」には何も意味がないだろう。見通しが持てずに立ち往生する人に対して「変われ」と言ったところでその人は動き出すことはできない。
それは1つの「鍋会」においても同様で、楽しくなくなったらそれは解散することになるが、そのような運動がどのような影響力を持ちうるのだろうか。
問題点をまとめると、われわれ」の成立の根拠を「楽しさ」に求めると、1つの「鍋会」に閉じ篭る私生活主義化を招くのではないか、またその「われわれ」はどうやって「社会」へ繋がるのか、その継続性はどう担保するか、ということである。
「どのような」社会に変えるべきなのかという展望(=究極的な目標設定)を広く社会に認められるような形で示すことができなきればならない。
(菊地)