宮本常一の民俗学
「生きた生活」を捉える
宮本常一(1907-1981)の民俗学における一貫した姿勢は、地域における人びとの「生きた生活」を捉えることであった。つまり「人の生活そのものを実感を通して観察し、総合的に捉える」 ことである。そしてそれは、多様な地域における多様な生活のあり方への注目という意味で、“瑞穂の国日本”という統一的な日本のイメージを定着させた柳田民俗学への批判でもあった。このような姿勢は「一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではなかろうか」 という言葉に端的に表れている 。
以前風土研でも輪読した『忘れられた日本人』における老人や子ども、女性、遍歴民への着目は、「生きた生活」におけるそれら「忘れられた」人びとの役割に注目してのことだし、同書の東日本と西日本の差異への着目をはじめ、他著書における海洋民や山地民(非農業民)への注目、北方(アイヌ)文化と琉球文化の分析といったものも、「生きた生活」への注目と“統一的な日本”像へのアンチテーゼとして捉えられる。そしてこの姿勢は宮本自身の足で歩いた豊富なフィールドワークによる、各地の人びととの対話に裏付けられていることも忘れてはならないだろう。
こうした宮本の仕事は、小松和彦や赤坂憲雄の“異人”への注目に繋がるものであり、赤坂は『東北学』においてその継承を試みているといえる。
以前風土研でも輪読した『忘れられた日本人』における老人や子ども、女性、遍歴民への着目は、「生きた生活」におけるそれら「忘れられた」人びとの役割に注目してのことだし、同書の東日本と西日本の差異への着目をはじめ、他著書における海洋民や山地民(非農業民)への注目、北方(アイヌ)文化と琉球文化の分析といったものも、「生きた生活」への注目と“統一的な日本”像へのアンチテーゼとして捉えられる。そしてこの姿勢は宮本自身の足で歩いた豊富なフィールドワークによる、各地の人びととの対話に裏付けられていることも忘れてはならないだろう。
こうした宮本の仕事は、小松和彦や赤坂憲雄の“異人”への注目に繋がるものであり、赤坂は『東北学』においてその継承を試みているといえる。
宮本常一における“異人”
宮本は、老人、子ども、女性について、それぞれに村での役割を持ち尊重される存在として描き出した。例えば老人については、
(略)世話役は人の行為を単に善悪のみでみるのではなく、人間性の上にたち、人間と人間との関係を大切にみていく者でなければならない。そしてそういう役割はすでに家督を子どもに譲って第一線から退き、隠居の身になって、世間的な責任を負わされることのなくなった老人にして初めて可能なことであった。
というように村の中での人間関係の調整役という社会的役割が与えられていた。
小松(1995)の中で「女性」が“異人”的な存在として論じられるように、老人、子ども、女性といった存在は“異人”的性格がある。しかし宮本の仕事では、一見“異人”として現れるような人びとは目に入ってこない。それは一つには宮本が常にそれぞれの立場の人びとの視点から物事を語るために、その文章を読む者の主観的には“異人”として移りにくいということがあるだろう 。しかしそれだけではなく、宮本の見てきた共同体においては、“異人”的性格を持つ人びとが共同体内部や外部において何らかの役割を与えられる/持つことで、すでに“異人”ではなくなっているという状態が成立していたのではないだろうか。
小松(1995)の中で「女性」が“異人”的な存在として論じられるように、老人、子ども、女性といった存在は“異人”的性格がある。しかし宮本の仕事では、一見“異人”として現れるような人びとは目に入ってこない。それは一つには宮本が常にそれぞれの立場の人びとの視点から物事を語るために、その文章を読む者の主観的には“異人”として移りにくいということがあるだろう 。しかしそれだけではなく、宮本の見てきた共同体においては、“異人”的性格を持つ人びとが共同体内部や外部において何らかの役割を与えられる/持つことで、すでに“異人”ではなくなっているという状態が成立していたのではないだろうか。