扶桑

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扶桑」(2014/12/11 (木) 15:04:51) の最新版変更点

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#image(No026.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 藤田咲 ---- *史実情報 ---- 1915年竣工 1944年沈没 日本初の自国設計・自国建造の純国産超弩級戦艦である扶桑型戦艦の1番艦として呉海軍工廠で建造された。 35.6cm連装砲塔6基・12門 の重武装、当時としては高速の22.5ノットの扶桑型戦艦は世界最大・最強の戦艦となる  ……はずであったのだが、時は西洋に追い付け追い越せの明治末期。日本初の試みがそう簡単に期待通りの結果を生みはしなかったのである。 35.6cm連装砲塔6基を船体に万遍なく配置した扶桑型は被弾危険箇所が非常に多く、装甲防御に致命的な欠点を有していた。また、自慢の攻撃力もバラバラに配置された主砲の射撃指揮が難しく、一斉射撃を行うと爆風と衝撃により艦の上部構造物、艦橋等に傷害を与えるというありさま・・・。日本海軍の大きな期待を背負って建造された扶桑型戦艦であったが、このようにあまりにも大きな欠点を持っていたため、4隻の建造予定だったものが2番艦の山城でキャンセル。残りの2隻は再設計の上で伊勢型戦艦として建造されることになる。 なお、設計の段階で35.6cm連装砲を製造したヴィッカース社から35.6cm三連装砲の開発プランが提示されていたらしい。 だが砲弾散布界の拡大(要するに命中率の低下)や機構的な信頼性を鑑みて、日本海軍はそれを却下し、35.6cm連装砲6基のレイアウトを選んだと言う。 もしこの時に三連装砲を採用していたなら、もしかすれば扶桑型の使い勝手や活躍も異なっていただろう。 さて、このような欠陥を抱えていたとしても作ってしまった以上は使うしかない。何とか使い物になるよう、二回の大規模改修を含めた度重なる改修を行い、その結果生まれたのがあの50mを超す高さの独特な艦橋である。いくら問題が多い艦とはいえ、最初からあのような形だったわけではない。1番艦であったために、2番艦の[[山城]]よりもスムーズに改修が行われたのは幸か不幸か。 そのような経緯を辿ってきたこともあり、また開戦時の時点で艦齢はすでに25年を超えていたため、大きな任務が与えられる事は少なかった。建造当時は世界最速だった速力もこの時は既に足手まといになる遅さであり(改修で24.7ktまで上がっていたが、それでも低速な部類になってしまっていた)、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦も後方部隊に留まり、主戦力とはならなかった。以降は主に練習艦として後方で任務にあたる。なお、ミッドウェー海戦にて空母を喪失し航空戦力が問題となった際、姉妹間の[[山城]]、伊勢型戦艦の[[伊勢]]・[[日向]]と共に航空戦艦への改造が計画されていたが、結局は伊勢型2隻の改造に留まっている。  ※ただし実測25ノットという速度は艦齢20年を超える戦艦としてみた場合充分に高速である。この速度を持つ旧式戦艦は日本海軍の改装戦艦群以外では実質作り直しに近い大改装(魔改造レベル)をやらかしたイタリア戦艦コンテ・ディ・カヴール級、カイオ・デュイリオ級のみという点には注意が必要。  扶桑型の実質的ライバルであるアメリカ海軍のペンシルヴァニア級戦艦、ニューメキシコ級戦艦、テネシー級戦艦はいずれも最高速力20ktから21kt程度なのを考えれば十分すぎるほどに優速である。 しかしながら、戦局の悪化はこのような旧式艦にさえ休ませることを許さなかった。 1944年10月、米軍のフィリピン奪還作戦に伴うレイテ沖海戦が発生。&bold(){扶桑}は西村祥治中将の指揮のもと、第二艦隊第三部隊として、旗艦[[山城]]と共にレイテ湾を目指してブルネイ泊地から出撃した。米軍の戦力が戦艦[[武蔵]]・[[大和]]を擁する栗田艦隊に集中したため、比較的損傷が少ないままにスリガオ海峡に到着する。同時に突入するはずだった主力の戦艦[[大和]]、[[武蔵]]などの新鋭戦力を有する栗田艦隊が米航空部隊の猛攻で到着が遅滞していたため、西村中将は単独でスリガオ海峡に突入することを決意。25日未明にスリガオ海峡に達した西村艦隊だったが、そこで待ち伏せていた米艦隊の集中攻撃を受ける。&bold(){扶桑}は右舷に魚雷4本が命中し、電源断絶により通信も不能になったらしく沈黙したまま落伍([[山城]]はこの時姉が落伍したことに最期まで気づかなかった)。そして約20分後、弾薬庫に引火し大爆発を起こして艦体は真っ二つに割れるという壮絶な最期となったと言われている。言われていると書いているのは、[[山城]]と同じく艦長以下大部分の乗員が未帰還となってしまったために詳しい最期は分かっていないからである。当時[[山城]]主計長であった江崎大尉によれば、生存者の数は山城と同じく10名程であった。 なお、2つに割れた艦体は数時間の間海上に浮かんでいたという米軍の記録が残っている。 おまけ 扶桑型艦容の変遷 #image(fuso1.jpg) 竣工前後の姿。艦橋には目立った設備は施されていない。 #image(fuso2.jpg) 近代化改装直前の姿。砲戦理論や技術の発達により、艦橋には各種施設が継ぎ足されている。 #image(fuso3.jpg) 1933年 近代化改装を終えた姿。艦橋設備を&bold(){整理・再構成}した結果、このような艦橋となった。上記2枚と比べると見た目が全然違うが、同じ艦である。 基部が抉れているのは第3主砲の定位置を正面とした為。背面に向けていたら、山城のような艦橋になっていのかもしれない。 #image(fuso4.jpg) 1941年春、応急注排水装置をテストする姿。艦橋最頂部は航空機の発達により防空指揮所に作り変えられ、気流の流れを制御する遮風板がつけられた。 また、第二砲塔直上には張り出しが増設されている。これ以降の改装は電探搭載や対空機銃増備にとどまり、見た目の大きな変化はなかった。 |>|>|艦歴| |>|>|大日本帝国海軍| |発注|>|| |起工|1912年3月11日|呉海軍工廠で起工| |命名||| |進水|1914年3月28日|| |竣工|1915年11月8日|| ||1923年9月6日~22日|関東大震災救援行動に参加| ||1928年4月9日~14日|香港まで親善訪問| ||1930年4月19日~1933年5月12日|呉海軍工廠で第一次近代化改装| ||1934年9月16日~1935年2月19日|呉海軍工廠で第二次近代化改装| ||1939年秋~1941年春|太平洋戦争出師準備改装| ||1941年12月8日~|連合艦隊主力部隊に所属し、第二次世界大戦に参加| ||1942年4月18日~22日|東京空襲の米空母機動部隊追撃| ||1942年5月29日~6月17日|ミッドウェー作戦支援| ||1942年11月15日~1943年1月15日|候補生実習艦として実戦から外される。| ||1944年2月25日|第一艦隊解散により連合艦隊付属に編入| ||1944年5月27日|米軍ビアク上陸を受け、渾作戦間接援護隊旗艦として出撃| ||1944年7月15日|呉工廠に入渠し、機銃・電探の増備工事開始(8月14日出渠)| ||1944年9月10日|第二艦隊第二戦隊に編入(西村艦隊二番艦)| ||1944年10月4日|栗田艦隊にリンガ泊地で合流| ||1944年10月8日|ブルネイ進出| ||1944年10月22日|レイテ沖海戦に参加。出撃(15:30)| |沈没|1944年10月25日|スリガオ海峡にて米駆逐艦の雷撃を受け沈没| |除籍|1945年8月31日|| ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|扶桑型超弩級戦艦、姉の扶桑です。妹の山城ともども、よろしくお願い致します。| | |秘書クリック会話①|提督…? そんなに触ると、弾薬庫がちょっと心配です…。|扶桑は弾薬庫の誘爆により轟沈| |秘書クリック会話②|提督、いい天気ですね…|| |秘書クリック会話③|はぁ…空はあんなに青いのに…|| |戦績表示時|提督にお知らせがあるみたい。|| |編成選択時|戦艦扶桑、出撃致します。|| |装備時①|近代化改装ですね。私には必要かも…。|改修のはずだが、なぜか改装という扶桑姐さん。後日修正入るかも。| |装備時②|妹の山城の近代化改修も、お願いします。|| |装備時③|いけるかしら…。|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|かすり傷程度よ、心配いらないわ|| |ドック入り(重傷)|砲塔が大きいと肩がこるの…しばらくお休みしますね。|| |建造時|新しいお仲間が来るみたいね|| |艦隊帰投時|提督、艦隊が帰投しました。|| |出撃時|戦艦扶桑、出撃致します。|| |戦闘開始時|主砲、副砲、打てー!|| |航空戦開始時|伊勢、日向には負けたくないの…|改のみ・夜戦攻撃時と同じ&br()伊勢、日向は本来扶桑型の三番艦・四番艦になる予定だった| |攻撃時|山城、大丈夫?砲撃戦よ。|| |夜戦開始時|西村艦隊の本当の実力、見せてあげる!|レイテ沖開戦時、西村中将旗下、山城や最上などと艦隊を組んだ| |夜戦/航空攻撃時|伊勢、日向には負けたくないの…!!|航空戦開始時と同じ| |MVP時|主砲の火力だけは自慢なの。…へ?防御力と速力…?そんなの…欲しい…けど…|何度近代化改修を受けても、防御力と速力の問題は扶桑型のアキレス腱として残り続けた| |被弾小破①|きゃぁぁぁ!?|| |被弾小破②|きゃぁぁ…!やだ…火災発生…!?|| |被弾カットイン|こんな姿じゃ、レイテ沖突入は無理ね…。|レイテ沖戦時、スリガオ海峡突破を図るも、米艦隊に阻止され、撃沈した。| |撃沈時(反転)|COLOR(white):やっぱり私、沈むの…?山城は無事だといいけれど…|COLOR(white):扶桑と山城は共にスリガオ海峡で同じ日に撃沈したが、扶桑の方が先に沈んでいる| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/扶桑) ---- *外部リンク -[[Wikipedia:扶桑(戦艦)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]] //-[[ニコニコ大百科:扶桑(戦艦)>>扶桑]] //-&link_atpedia(扶桑){@PEDIA:扶桑} ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No026.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 藤田咲 ---- *史実情報 ---- 1915年竣工 1944年沈没 日本初の自国設計・自国建造の純国産超弩級戦艦である扶桑型戦艦の1番艦として呉海軍工廠で建造された。 35.6cm連装砲塔6基・12門 の重武装、当時としては高速の22.5ノットの扶桑型戦艦は世界最大・最強の戦艦となる  ……はずであったのだが、時は西洋に追い付け追い越せの明治末期。日本初の試みがそう簡単に期待通りの結果を生みはしなかったのである。 35.6cm連装砲塔6基を船体に万遍なく配置した扶桑型は被弾危険箇所が非常に多く、装甲防御に致命的な欠点を有していた。また、自慢の攻撃力もバラバラに配置された主砲の射撃指揮が難しく、一斉射撃を行うと爆風と衝撃により艦の上部構造物、艦橋等に傷害を与えるというありさま・・・。日本海軍の大きな期待を背負って建造された扶桑型戦艦であったが、このようにあまりにも大きな欠点を持っていたため、4隻の建造予定だったものが2番艦の山城でキャンセル。残りの2隻は再設計の上で伊勢型戦艦として建造されることになる。 なお、設計の段階で35.6cm連装砲を製造したヴィッカース社から35.6cm三連装砲の開発プランが提示されていたらしい。 だが砲弾散布界の拡大(要するに命中率の低下)や機構的な信頼性を鑑みて、日本海軍はそれを却下し、35.6cm連装砲6基のレイアウトを選んだと言う。 もしこの時に三連装砲を採用していたなら、もしかすれば扶桑型の使い勝手や活躍も異なっていただろう。 さて、このような欠陥を抱えていたとしても作ってしまった以上は使うしかない。何とか使い物になるよう、二回の大規模改修を含めた度重なる改修を行い、その結果生まれたのがあの50mを超す高さの独特な艦橋である。いくら問題が多い艦とはいえ、最初からあのような形だったわけではない。1番艦であったために、2番艦の[[山城]]よりもスムーズに改修が行われたのは幸か不幸か。 そのような経緯を辿ってきたこともあり、また開戦時の時点で艦齢はすでに25年を超えていたため、大きな任務が与えられる事は少なかった。建造当時は世界最速だった速力もこの時は既に足手まといになる遅さであり(改修で24.7ktまで上がっていたが、それでも低速な部類になってしまっていた)、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦も後方部隊に留まり、主戦力とはならなかった。以降は主に練習艦として後方で任務にあたる。なお、ミッドウェー海戦にて空母を喪失し航空戦力が問題となった際、姉妹間の[[山城]]、伊勢型戦艦の[[伊勢]]・[[日向]]と共に航空戦艦への改造が計画されていたが、結局は伊勢型2隻の改造に留まっている。  ※ただし実測25ノットという速度は艦齢20年を超える戦艦としてみた場合充分に高速である。この速度を持つ旧式戦艦は日本海軍の改装戦艦群以外では実質作り直しに近い大改装(魔改造レベル)をやらかしたイタリア戦艦コンテ・ディ・カヴール級、カイオ・デュイリオ級のみという点には注意が必要。  扶桑型の実質的ライバルであるアメリカ海軍のペンシルヴァニア級戦艦、ニューメキシコ級戦艦、テネシー級戦艦はいずれも最高速力20ktから21kt程度なのを考えれば十分すぎるほどに優速である。 しかしながら、戦局の悪化はこのような旧式艦にさえ休ませることを許さなかった。 1944年10月、米軍のフィリピン奪還作戦に伴うレイテ沖海戦が発生。&bold(){扶桑}は西村祥治中将の指揮のもと、第二艦隊第三部隊として、旗艦[[山城]]と共にレイテ湾を目指してブルネイ泊地から出撃した。米軍の戦力が戦艦[[武蔵]]・[[大和]]を擁する栗田艦隊に集中したため、比較的損傷が少ないままにスリガオ海峡に到着する。同時に突入するはずだった主力の戦艦[[大和]]、[[武蔵]]などの新鋭戦力を有する栗田艦隊が米航空部隊の猛攻で到着が遅滞していたため、西村中将は単独でスリガオ海峡に突入することを決意。25日未明にスリガオ海峡に達した西村艦隊だったが、そこで待ち伏せていた米艦隊の集中攻撃を受ける。&bold(){扶桑}は右舷に魚雷4本が命中し、電源断絶により通信も不能になったらしく沈黙したまま落伍([[山城]]はこの時姉が落伍したことに最期まで気づかなかった)。そして約20分後、弾薬庫に引火し大爆発を起こして艦体は真っ二つに割れるという壮絶な最期となったと言われている。言われていると書いているのは、[[山城]]と同じく艦長以下大部分の乗員が未帰還となってしまったために詳しい最期は分かっていないからである。当時[[山城]]主計長であった江崎大尉によれば、生存者の数は山城と同じく10名程であった。 なお、2つに割れた艦体は数時間の間海上に浮かんでいたという米軍の記録が残っている。 おまけ 扶桑型艦容の変遷 #image(fuso1.jpg) 竣工前後の姿。艦橋には目立った設備は施されていない。 #image(fuso2.jpg) 近代化改装直前の姿。砲戦理論や技術の発達により、艦橋には各種施設が継ぎ足されている。 #image(fuso3.jpg) 1933年 近代化改装を終えた姿。艦橋設備を&bold(){整理・再構成}した結果、このような艦橋となった。上記2枚と比べると見た目が全然違うが、同じ艦である。 基部が抉れているのは第3主砲の定位置を正面とした為。背面に向けていたら、山城のような艦橋になっていのかもしれない。 #image(fuso4.jpg) 1941年春、応急注排水装置をテストする姿。艦橋最頂部は航空機の発達により防空指揮所に作り変えられ、気流の流れを制御する遮風板がつけられた。 また、第二砲塔直上には張り出しが増設されている。これ以降の改装は電探搭載や対空機銃増備にとどまり、見た目の大きな変化はなかった。 |>|>|艦歴| |>|>|大日本帝国海軍| |発注|>|| |起工|1912年3月11日|呉海軍工廠で起工| |命名||| |進水|1914年3月28日|| |竣工|1915年11月8日|| ||1923年9月6日~22日|関東大震災救援行動に参加| ||1928年4月9日~14日|香港まで親善訪問| ||1930年4月19日~1933年5月12日|呉海軍工廠で第一次近代化改装| ||1934年9月16日~1935年2月19日|呉海軍工廠で第二次近代化改装| ||1939年秋~1941年春|太平洋戦争出師準備改装| ||1941年12月8日~|連合艦隊主力部隊に所属し、第二次世界大戦に参加| ||1942年4月18日~22日|東京空襲の米空母機動部隊追撃| ||1942年5月29日~6月17日|ミッドウェー作戦支援| ||1942年11月15日~1943年1月15日|候補生実習艦として実戦から外される。| ||1944年2月25日|第一艦隊解散により連合艦隊付属に編入| ||1944年5月27日|米軍ビアク上陸を受け、渾作戦間接援護隊旗艦として出撃| ||1944年7月15日|呉工廠に入渠し、機銃・電探の増備工事開始(8月14日出渠)| ||1944年9月10日|第二艦隊第二戦隊に編入(西村艦隊二番艦)| ||1944年10月4日|栗田艦隊にリンガ泊地で合流| ||1944年10月8日|ブルネイ進出| ||1944年10月22日|レイテ沖海戦に参加。出撃(15:30)| |沈没|1944年10月25日|スリガオ海峡にて米駆逐艦の雷撃を受け沈没| |除籍|1945年8月31日|| ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|扶桑型超弩級戦艦、姉の扶桑です。妹の山城ともども、よろしくお願い致します。| | |秘書クリック会話①|提督…? そんなに触ると、弾薬庫がちょっと心配です…。|扶桑は弾薬庫の誘爆により轟沈| |秘書クリック会話②|提督、いい天気ですね…|| |秘書クリック会話③|はぁ…空はあんなに青いのに…|| |戦績表示時|提督にお知らせがあるみたい。|| |編成選択時|戦艦扶桑、出撃致します。|| |装備時①|近代化改装ですね。私には必要かも…。|改修のはずだが、なぜか改装という扶桑姐さん。後日修正入るかも。| |装備時②|妹の山城の近代化改修も、お願いします。|| |装備時③|いけるかしら…。|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|かすり傷程度よ、心配いらないわ|| |ドック入り(重傷)|砲塔が大きいと肩がこるの…しばらくお休みしますね。|| |建造時|新しいお仲間が来るみたいね|| |艦隊帰投時|提督、艦隊が帰投しました。|| |出撃時|戦艦扶桑、出撃致します。|| |戦闘開始時|主砲、副砲、打てー!|| |航空戦開始時|伊勢、日向には負けたくないの…|改のみ・夜戦攻撃時と同じ&br()伊勢、日向は本来扶桑型の三番艦・四番艦になる予定だった| |攻撃時|山城、大丈夫?砲撃戦よ。|| |夜戦開始時|西村艦隊の本当の実力、見せてあげる!|レイテ沖開戦時、西村中将旗下、山城や最上などと艦隊を組んだ| |夜戦/航空攻撃時|伊勢、日向には負けたくないの…!!|航空戦開始時と同じ| |MVP時|主砲の火力だけは自慢なの。…へ?防御力と速力…?そんなの…欲しい…けど…|何度近代化改修を受けても、防御力と速力の問題は扶桑型のアキレス腱として残り続けた| |被弾小破①|きゃぁぁぁ!?|| |被弾小破②|きゃぁぁ…!やだ…火災発生…!?|| |被弾カットイン|こんな姿じゃ、レイテ沖突入は無理ね…。|レイテ沖戦時、スリガオ海峡突破を図るも、米艦隊に阻止され、撃沈した。| |撃沈時(反転)|COLOR(white):やっぱり私、沈むの…?山城は無事だといいけれど…|COLOR(white):扶桑と山城は共にスリガオ海峡で同じ日に撃沈したが、扶桑の方が先に沈んでいる| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=扶桑/コメント) ---- *外部リンク -[[Wikipedia:扶桑(戦艦)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]] //-[[ニコニコ大百科:扶桑(戦艦)>>扶桑]] //-&link_atpedia(扶桑){@PEDIA:扶桑} ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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