郗慮は、後漢後期の人物。幼くして
鄭玄に師事した。
許都朝廷に仕えて
三公廃止後の
御史大夫となった。
孔融とは若い頃からの知己であり、互いに賞賛する間柄だったが、孔融が
曹操への批判を激しくすると、曹操の意を受けて孔融を罪に陥れた。その他、魏公封爵や
献帝伏皇后廃立の勅命の使者となるなど、漢王朝の大官の立場から曹操の地位確保に貢献した。
玄孫に、晋に仕えた
郗鑒がいる。
情報
事跡
「名実共にそなえ、経学に総括通達すること鄭玄の学問より出ており、また
司馬法に明るい」
と賛嘆し、
郗慮もまた孔融を、
「博聞なること奇逸(俗世を超えるほど稀)」
と賞賛していた。
ところがある時、
献帝が二人に特見した。帝は孔融に問うて、
「鴻豫(郗慮の字)の優れ長じているのはどこだろうか?」
孔融が答えて、
「ともに道を適くべきも、未だ与にruby(はか){権}るべからず(目指す所は同じでは有りますが、それを達成するための方策を共に図ることはできません)」
郗慮が笏を挙げて反論し、
「孔融は昔、
北海郡に宰した(太守となった)が、
政は散じ民は流れた。その権とやらはいずこに在ったのか?」
そこから孔融と長短を互いに言い合い、このために二人は不仲となった。
曹操が書を以って二人を和解したという。
しかし、曹操が徐々に野心を表に出すようになると、孔融の批判に過激な言葉が多くなった。曹操も孔融を忌むようになり、郗慮はその意向を受け、微罪をもって孔融を免官した。この時は孔融が書によって謝罪したため、一年ほどで
太中大夫に復職した。
建安十三年(208年)、春正月、曹操が司徒の
趙温を
選挙不実のかどで奏した。郗慮が
持節して策を奉り、使わされて趙音を免官した。その後、漢朝廷では
三公制が廃止され、
丞相・
御史大夫の制度に回帰することになった。
同年八月丁未(24日)、御史大夫に任じられた。
その頃、曹操は孔融への嫌忌を積もらせており、再び郗慮に孔融の罪を作らせた。郗慮は丞相
軍謀祭酒の
路粹に罪状を枉げて上奏させ、孔融を
大逆不道の罪に落とした。
同年同月壬子(29日)、
獄に下された孔融は
棄市となり、その族は
夷ぼされた。
十八年(213年)五月、献帝より
持節として使わされ、
丞相曹操を魏公に為す
策命を伝えた。
十九年(214年)十一月、漢皇后の伏氏(
献帝伏皇后)を廃する持節の使者となった。
華歆がその副となった。
華歆に宮中から牽き出された伏皇后は、髪を下ろしたまま裸足で献帝に泣きつき、
「生かしていただくわけにはまいりませぬか?」
帝は、
「我もいつまでの命か知れぬのだ」
と答え、側に座す郗慮に言って、
「郗公、天下にどうしてこのようなことがあるのか」
郗慮の返答は記録されていない。
皇后は
暴室に下され、幽閉されて崩御した。
その後、御史大夫を免じられ、後任は置かれなかった(華歆が着任した説もある)。
免官後の郗慮の消息は不明で、魏国に仕えた記録もない。
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年01月20日 00:30