郗慮は、後漢後期の人物。幼くして鄭玄に師事した。
 許都朝廷に仕えて三公廃止後の御史大夫となった。
 孔融とは若い頃からの知己であり、互いに賞賛する間柄だったが、孔融が曹操への批判を激しくすると、曹操の意を受けて孔融を罪に陥れた。その他、魏公封爵や献帝伏皇后廃立の勅命の使者となるなど、漢王朝の大官の立場から曹操の地位確保に貢献した。
 玄孫に、晋に仕えた郗鑒がいる。

情報

郗慮
鴻豫
本貫地 山陽郡高平県
家柄 高平郗氏
官歴 侍中光禄勲 御史大夫  免
総達経学、鄭玄より出ずる。また司馬法に明。(孔融)
玄孫 郗鑒


事跡

 少くして鄭玄に受業した。
 建安年間の初めに侍中光禄勲となった。
 同時期、孔融もまた許都に参じており、将作大匠から少府を拝命していた。二人は魯国山陽郡の隣接する郡国の出身であり、若い頃から互いに知る仲だった。許都朝廷にあって孔融は郗慮を、
「名実共にそなえ、経学に総括通達すること鄭玄の学問より出ており、また司馬法に明るい」
 と賛嘆し、
 郗慮もまた孔融を、
「博聞なること奇逸(俗世を超えるほど稀)」
 と賞賛していた。

 ところがある時、献帝が二人に特見した。帝は孔融に問うて、
「鴻豫(郗慮の字)の優れ長じているのはどこだろうか?」
 孔融が答えて、
「ともに道を()くべきも、未だ与にruby(はか){権}るべからず(目指す所は同じでは有りますが、それを達成するための方策を共に図ることはできません)」
 郗慮が笏を挙げて反論し、
「孔融は昔、北海郡に宰した(太守となった)が、(まつりごと)は散じ民は流れた。その権とやらはいずこに在ったのか?」
 そこから孔融と長短を互いに言い合い、このために二人は不仲となった。曹操が書を以って二人を和解したという。
 しかし、曹操が徐々に野心を表に出すようになると、孔融の批判に過激な言葉が多くなった。曹操も孔融を忌むようになり、郗慮はその意向を受け、微罪をもって孔融を免官した。この時は孔融が書によって謝罪したため、一年ほどで太中大夫に復職した。
 建安十三年(208年)、春正月、曹操が司徒の趙温選挙不実のかどで奏した。郗慮が持節して策を奉り、使わされて趙音を免官した。その後、漢朝廷では三公制が廃止され、丞相御史大夫の制度に回帰することになった。
 同年八月丁未(24日)、御史大夫に任じられた。
 その頃、曹操は孔融への嫌忌を積もらせており、再び郗慮に孔融の罪を作らせた。郗慮は丞相軍謀祭酒路粹に罪状を枉げて上奏させ、孔融を大逆不道の罪に落とした。
 同年同月壬子(29日)、に下された孔融は棄市となり、その族はぼされた。

 十八年(213年)五月、献帝より持節として使わされ、丞相曹操を魏公に為す策命を伝えた。
 十九年(214年)十一月、漢皇后の伏氏(献帝伏皇后)を廃する持節の使者となった。華歆がその副となった。
 華歆に宮中から牽き出された伏皇后は、髪を下ろしたまま裸足で献帝に泣きつき、
「生かしていただくわけにはまいりませぬか?」
 帝は、
「我もいつまでの命か知れぬのだ」
 と答え、側に座す郗慮に言って、
「郗公、天下にどうしてこのようなことがあるのか」
 郗慮の返答は記録されていない。
 皇后は暴室に下され、幽閉されて崩御した。
 その後、御史大夫を免じられ、後任は置かれなかった(華歆が着任した説もある)。

 免官後の郗慮の消息は不明で、魏国に仕えた記録もない。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年01月20日 00:30