情報
事跡
孝廉として朝廷へ
和帝の永元十五年(103年)生まれ。
父は
定陶県令となり、三千万銭の資産を持っていた。父が卒すと、种暠はその財産を宗族や邑里の貧者に悉く
賑卹し、名誉や利益を追求することに熱心な者とは一切交通しなかった。
始め洛陽県の
門下史となった。
時の河南尹
田歆の外甥の
王諶は、人を知る者として名声があった。田歆が王諶に問うて、
「(河南尹の私は、今年)六人の
孝廉を推挙すべきなのだが、
貴戚(有力な
外戚)の書命を多く預かっており、これに違うことはできない。しかしせめて一人の名士を自ら用い、もって国家に報いたいのだ。汝はこの人材を求めて私を助けてはくれないか。
明日、王諶が自分の客人を大陽郭へ送った際、种暠を見かけ、これを異(特別な人材)と考えた。還って田歆に告げて、
「尹の為に孝廉を得ました。近く洛陽の門下史であります」
田歆は笑って、
「山澤に隠滞する名士を得るべきなのに、洛陽の吏なのか?」
王諶は曰く、
「山澤に必ずしも異士が有るわけではなく、異士は必ずしも山澤に在るわけではありません」
そこで田歆は种暠を河南尹の庭(政堂)に召し、職事について質問した。种暠の辞対は整然として序列があって、田歆ははなはだこれを知り(理解し評価して)、召して
主簿に
署し、その後孝廉に
察挙した。
朝廷に入ると
太尉府に
辟召されて属吏となり、
高第(治績優秀)に挙げられて転出した。
順帝の末、
侍御史となった。
侍御史として官吏を律する
漢安元年(142年)八月、順帝は
杜喬・
周挙ら
八使を州郡に分遣して地方官吏の不正汚職を検挙させた。糾弾の上奏は多かったが、
大将軍の
梁冀や諸
宦官が互いのために救いを請い、事は
寑遏(議題となるのを取り下げ)された。种暠は自身の侍御史が刺挙(官吏の非法の検挙)を主る職であることから、それらの案件を再び調査して弾劾し、
蜀郡太守の
劉宣らの罪悪は明らかであり、宜しく歐刀(斬刑)に伏すべし、とした。
また別に上奏して、近臣(有力な
外戚や宦官などの皇帝に近侍する臣)の父兄や親族で
刺史・二千石(
郡太守)となりながら、残穢(不正汚職)の甚だしく任に堪えない列挙させ、罷免して罪状を取り調べる勅命を四府(大将軍と三公の府)に出すようにと請うた。
順帝はこれらの上言に従った。
太子に仕える。
建康元年(144年)四月、皇子の
劉炳(後の沖皇帝、当時二歳)が皇太子に立てられると、种暠は
承光宮にて太子の監督に選ばれた。
中常侍の
高梵が、宮中から
駕車(帝王の車)一台のみを伴って出て、太子を迎えに来た。その形式が簡素で礼に適わないことから、時の
太子太傅の杜喬らは疑い、従うことを躊躇ったが、うろたえ惑ってなすところを知らなかった。种暠は剣を手にし車に当てて曰く、
「太子は国の
儲副(副君にして万一の備え)であり、人命の係る所である。今、常侍が来たるが、
詔信も無い。何をもって姦に非ざると知るのか?(要求には応じられない。)今日、死有るのみだ」
高梵は答えに窮して争うことができず、馳せ帰って順帝に上奏した。あらためて詔が報いて、太子はようやく赴くことができた。杜喬は事が終わって歎息し、种暠の事に臨んで惑わない態度に対してうろたえた自分を恥じた。順帝もまた、种暠の礼法を守って重く揺るがないことを嘉し、日頃から善と称えていた。
州郡を治める
外へ出て
益州刺史と為った。种暠は素から慷慨(不正に憤り意気盛んな性質)で、功を立て事を立てることを好んだ。
在職三年、遠く蛮夷に恩を広め、風俗を開拓して、
岷山の雑落はみな漢の徳に懐いて服した。
白狼・
槃木・
唐菆・
卭・
僰の諸国は前の刺史の
朱輔(朱酺)の死後に断絶していたが、种暠が至ると、また種族を挙げて帰化に向かった。
時の
蜀郡太守が、洛陽へ上る
計吏によせて順帝からの信任厚い宦官の
曹騰に表敬を試みた。种暠は
函谷関にてその
牋(信書)を探し得て、太守の行状を上訴し、併せて曹騰が
内臣であるにも拘らず外と交わったのは不当であると奏して免官し罪を裁くことを請うた。順帝は曰く、
「牋は外より来たり、曹騰の書は出でず。その罪に非ずなり」
こうして种暠の奏は
寝となった。曹騰はこのことを意に介せず、常に种暠を称賛感嘆し、上に
事える節を得ているとした。
また、
永昌太守が黄金を冶鋳して文蛇(絢のある蛇)を作り、梁冀に献上した。种暠は糾弾して逮捕し、
駅伝を馳せて上言したが、
司徒・
司空の二府は梁冀の権勢に畏懦してこれを案(審理)せず、訴えは取り上げられなかった。梁冀はこのことから种暠に怒りをふくむようになった。
ちょうどその頃、
巴郡人の
服直(あるいは服宜)が私党数百人を聚めて、「天王」を自称した。种暠と巴郡太守の
応承が討捕したが、鎮圧できず、吏人が多く傷害を被った。
梁冀はこれによって二人を陥れ、种暠・応承を伝逮(逮捕して駅伝によって召還)した。
太尉の
李固が上疏して弁護して曰く、
「臣が伏して聞きますに、討捕して傷つける所は、もとは暠・承の意に非ず、実に
県吏が法を懼れ罪を畏れ、迫逐すること深苦であった(賊を追撃すること深く厳しかった)由で、この不詳に至ったのであります。
比、盗賊が羣起し、処々で未だ絶えません。种暠・応承が首となって大姦を挙げようとしたことを以って、而るに相随って罪を受けるとすれば、臣は州県の糾発の意を
沮み
傷ない、更に共に飾り匿くして、また心を尽くすことがなくなるのを恐れるものであります」
梁太后は奏を省て、种暠・応承の罪を赦し、免官のみとした。
後に
涼州の
羌が揺動したため、种暠を涼州刺史とした。ここでも百姓の歓心を得ること甚だしいものがあった。皇帝の
徴を受けて他官に遷ろうというときに、州の吏人が
洛陽宮の
闕まで上ってきて、种暠の留任を請うた。太后は歎じて曰く、
「刺史が人心を得て、かくの若くを未だ聞かない」
として、留任を許した。种暠はまた一年留まってから、
漢陽太守に遷ることになった。戎夷の男女が送って漢陽郡の境界まで至り、种暠とあい揖謝して別れた。この送別に応じるため种暠は千里も乗車できずに徒歩することになったという。
漢陽郡に到ると、化は羌胡に行われ、侵掠は禁止された。
使匈奴中郎将に遷った。
時に
遼東烏桓が叛乱し、
遼東太守に転じた。烏桓は种暠の威風を望んで種族を率いて服属し、郡の境界上に迎えに来て拜した。
後に事件に座して免じられ、家に帰った。
司隸校尉によって
賢良方正に挙げられたが、応じなかった。
徴されて
議郎を拜し、
南郡太守に遷り、宮廷に入って
尚書となった。
匈奴が
并州涼州二州を寇したのに際して、
桓帝は种暠を択んで
度遼将軍とした。种暠は屯営地に到ると、先に朝廷の恩信を宣べ、諸胡を誘って降し、服さぬものが有ればその時初めて討伐を加えた。先にに郡県に獲質(捕虜)となった羌虜があれば、ことごとく彼らを還した。
种暠は誠心で懐撫し、信賞は明確で、これに由って
羌胡・
龜茲・
莎車・
烏孫らはみな来たって順服した。种暠は乃ち
烽燧(のろし台)を去り、
候望(見張り台)を除き、辺境は安らかとなり警めが無くなった。
公卿に至る
朝廷に入って
大司農となった。
延熹四年(161年)、
司徒に遷った。人に語って、
「今日、公と為ったのは、すなわち曹常侍(曹騰)恩である」
とした。名臣の
橋玄・
皇甫規らを推薦した。職に
称う相であったという。
延熹六年(163年)、在位三年、年六十一で薨じた。并州・涼州の辺人はみな彼の為に哀を発した。匈奴は种暠が卒したと聞くと、国を挙げて傷惜した。その
単于は朝賀で洛陽に入るたびに、道すがら种暠の墳墓を望見し、
哭泣して祭祀したという。
年表
所属項目(タグ)
関連項目・人物
「种暠」をタグに含むページは1つもありません。
-
最終更新:2016年02月09日 23:25