アットウィキロゴ

 耿紀は、後漢後期の人物。耿秉の曾孫。
 許都朝廷において侍中守少府だったが、吉本韋晃金禕らと共に曹操に叛乱した。敗れて夷三族となった。


情報

耿紀
季行
本貫地 右扶風茂陵県
家柄 茂陵耿氏
曾祖父 耿秉
幼年評 (おさな)くして美名を有す。
起家 辟召(曹操?)
官歴 侍中少府
甚だ敬しこれを異とす。(曹操
死去 耿紀、韋晃らを収め、まさにこれを斬らんとすると、
紀は魏王の名を呼びて曰く、「恨らむらくは吾が自ら意を生まず、竟に羣兒の誤る所と為っただけだ!」


事跡

 (おさな)くして美名を有した。
 公府丞相府か)に辟召された。曹操に甚だ敬を受け異(異才)とされた。
 (やや)して侍中少府に遷った。
 曹操がまさに漢を簒奪しようとしているのを見て、建安二十三年(219年)、大医令吉本丞相司直韋晃金禕共に曹操に反乱して南の劉備の援けを求め、丞相長史王必の営を焼いて王必は辛くも逃れて南城へ走った。
 しかし、夜明けまでに王必を倒せず、耿紀らの軍は散り散りとなり、王必と潁川県典農中郎将厳匡によって捕えられた。
 まさに斬られようとすると、耿紀は魏王曹操の名を呼びつけ、
「恨むのは吾が自ら意を生まず、(つい)に羣児(小僧ども)の誤る所と為ったことだけだ!」
 首謀者達は夷三族となった。この時、衣冠盛門(官に仕える羽振りのよい一族)で、耿紀の罪にに座して禍いに罹り滅んだ者が(おお)かった。


年表




所属項目(タグ)


関連項目・人物

「耿紀」をタグに含むページは1つもありません。



-
最終更新:2016年02月25日 04:22