耿紀は、後漢後期の人物。
耿秉の曾孫。
許都朝廷において侍中守少府だったが、
吉本・
韋晃・
金禕らと共に
曹操に叛乱した。敗れて
夷三族となった。
情報
| 耿紀 |
| 姓氏 |
耿 |
| 諱 |
紀 |
| 字 |
季行 |
| 本貫地 |
右扶風茂陵県 |
| 家柄 |
茂陵耿氏 |
| 曾祖父 |
耿秉 |
| 幼年評 |
少くして美名を有す。 |
| 起家 |
辟召(曹操?) |
| 官歴 |
侍中守少府 |
| 評 |
甚だ敬しこれを異とす。(曹操) |
| 死去 |
耿紀、韋晃らを収め、まさにこれを斬らんとすると、 紀は魏王の名を呼びて曰く、「恨らむらくは吾が自ら意を生まず、竟に羣兒の誤る所と為っただけだ!」 |
事跡
少くして美名を有した。
公府(
丞相府か)に
辟召された。曹操に甚だ敬を受け異(異才)とされた。
稍して
侍中守少府に遷った。
曹操がまさに漢を簒奪しようとしているのを見て、建安二十三年(219年)、
大医令吉本、
丞相司直の
韋晃や
金禕共に曹操に反乱して南の劉備の援けを求め、
丞相長史王必の営を焼いて王必は辛くも逃れて南城へ走った。
しかし、夜明けまでに王必を倒せず、耿紀らの軍は散り散りとなり、王必と
潁川県典農中郎将厳匡によって捕えられた。
まさに斬られようとすると、耿紀は魏王曹操の名を呼びつけ、
「恨むのは吾が自ら意を生まず、竟に羣児(小僧ども)の誤る所と為ったことだけだ!」
首謀者達は夷三族となった。この時、衣冠盛門(官に仕える羽振りのよい一族)で、耿紀の罪にに座して禍いに罹り滅んだ者が衆かった。
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年02月25日 04:22