情報
事跡
祖先の
金日磾が
莽何羅を討って以来、忠誠は顯著で名節は累葉(累代)であり、金禕自身も自らが世々漢臣の家系であることをおもっていた。
漢の
祚がまさに
魏氏へ移ろうとしているのを観て、季興(衰退からの再興)させねばならぬとおもい、
喟然発憤して 耿紀・韋晃・吉本、吉本の子の
吉邈、その弟の
吉穆らと結謀した。彼らは金禕を慷慨(不正に憤り意気盛んな性質)にして金日磾の風が有るとし、また
丞相長史の
王必と親善していたことから、これに因って間隙を突くことにした。
建安二十三年(218年)、時に
荊州では
関羽が強盛であり、魏王曹操は魏の国都である
魏郡鄴県に在って、王必を留めて兵を
典らせ
許中事を督させていた。もし王必を殺せば、天子を挾んで魏(鄴県)を攻め、劉備に南援を欲する予定だった。
春正月、金禕らは遂に反した。
吉邈らが雑人、及び
家僮千余人を率い、夜、門を焼いて王必の営を攻めた。金禕は人を遣して内応とし、王必を射させて肩に中てた。王必は攻めた者が誰か知らず、素から金禕と善くしていたことから、走って金禕のもとに投じた。夜に「德禕!」と
喚ぶと、金禕の家はこれが王必であると知らず、吉邈らとおもい、
錯って応じて曰く、
「王長史はすでに死んだか? 卿曹の事は立ったぞ!」
王必は他の路に更めて奔走した。
別の一説に曰く、王必は金禕に身を投じることを欲したが、その
帳下督が王必に謂うには、
「今日の事では、つまるところ、誰の門に投入する(のが良い)のか、知れるのでしょうか?」
こううして王必は帳下督に扶けられて南城へ奔り、
潁川典農中郎将の
厳匡と共に戦った。天が明るくなり、王必はなお健在だったが、吉邈らの衆は散り散りとなり、故に敗れた。
金禕ら首謀者は捕えられ、
夷三族となった。
その後十余日して、王必はついに
創によって死んだ。
年表
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最終更新:2016年02月27日 01:06