岑晊は、後漢後期の人物。後漢後期の名士「
八友」の一人。父は
岑豫。
南陽太守の
成瑨によって
功曹に任じられ、政事を委ねられて治績を挙げた。
情報
事跡
年少の頃は名声ある人物ではなかった。
ある時(
安帝建光元年、西暦121年か)、同郡の
宗慈を訪れた。宗慈はちょうど
有道に推挙されて
徴召されたところで、賓客が門に満ちていて、岑晊は
良家の子ではなかったため、まみえることができなかった。門下に留まること数日して、晩に引き入れられて会うことができた。宗慈はともに語らい、岑晊を大いに奇として、ともだって
洛陽へ至り、太学で受業することができた。
岑晊は高才を有し、
郭泰、
朱穆らが皆友とし、
李膺、
王暢は有幹国の器を有すと称えた。
閭里に在り&footnote(故郷に帰って仕官せず在野であること。)といえども慨然として天下を董正(督し正す)する志を持っていた。
南陽太守の成瑨が下車(着任)すると、威厳を振るうことを欲して、岑晊の高名を聞き、請うて郡の
功曹に任じた。また
張牧を
賊曹史とした。成瑨は心を岑晊、張牧に委ね、善を褒めて違を糾し、朝府(
郡府)を肅清した。
この頃、
汝南太守の
宗資もまた功曹の
范滂に政事を任せており、二郡ではこれを、
「汝南太守は范孟博(范滂)、南陽の宗資は
画諾を主る。南陽太守は岑公孝(岑晊)、弘農の成瑨はただ座して嘯す」
と謡った。
郡治の
宛県には富賈(大商人)の
張汎という者があり、
桓帝の
美人の外親&footnote(母方の親戚)だった。張汎は雕鏤玩好の物の製作が巧みで、
中官に頗る賄賂を贈り、以これによって顕位を得て、その伎巧を恃みに権勢を縦横ほしいままにしていた。
岑晊は張牧とともに、成瑨に張汎らを収捕することを勧めた。
張汎は
赦に遇った&footnote(大赦の時期に巡り合わせた?)が、岑晊はこれを無視して誅し、併せてその
宗族賓客を収監して二百余人を殺し、全てが終わってから
朝廷に奏聞した。
中常侍の
侯覽が張汎の妻に上書させてその冤罪を訟えさせた。桓帝は大いに震怒し、成瑨は徴され、
下獄死した。岑晊と李牧は
斉・
魯間&footnote(漢代の徐州・青州・兗州・豫州の狭間。泰山の辺りか。)に亡匿した。やがて
赦に会って出てきた。
年表
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最終更新:2016年03月28日 23:48