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 岑晊は、後漢後期の人物。後漢後期の名士「八友」の一人。父は岑豫
 南陽太守の成瑨によって功曹に任じられ、政事を委ねられて治績を挙げた。


情報

岑晊
公孝
本貫地 南陽郡棘陽県
家柄 良家の子に非ず。
岑豫
幼年評 年少にして未だ名を知られず。 これを大いに奇とす(宗慈
官歴 功曹成瑨) 亡命 赦 察挙(不就) 辟召(不就) 党錮
高才を有す。
死去 建寧二年(169)以降、江夏山中に終えると云う。
,渾名 八友


事跡

 年少の頃は名声ある人物ではなかった。
 ある時(安帝建光元年、西暦121年か)、同郡の宗慈を訪れた。宗慈はちょうど有道に推挙されて徴召されたところで、賓客が門に満ちていて、岑晊は良家の子ではなかったため、まみえることができなかった。門下に留まること数日して、晩に引き入れられて会うことができた。宗慈はともに語らい、岑晊を大いに奇として、ともだって洛陽へ至り、太学で受業することができた。
 岑晊は高才を有し、郭泰朱穆らが皆友とし、李膺王暢は有幹国の器を有すと称えた。閭里に在り&footnote(故郷に帰って仕官せず在野であること。)といえども慨然として天下を董正(督し正す)する志を持っていた。
 南陽太守の成瑨が下車(着任)すると、威厳を振るうことを欲して、岑晊の高名を聞き、請うて郡の功曹に任じた。また張牧賊曹史とした。成瑨は心を岑晊、張牧に委ね、善を褒めて違を糾し、朝府(郡府)を肅清した。
 この頃、汝南太守の宗資もまた功曹の范滂に政事を任せており、二郡ではこれを、
「汝南太守は范孟博(范滂)、南陽の宗資は画諾を主る。南陽太守は岑公孝(岑晊)、弘農の成瑨はただ座して嘯す」
 と謡った。
 郡治宛県には富賈(大商人)の張汎という者があり、桓帝美人の外親&footnote(母方の親戚)だった。張汎は雕鏤玩好の物の製作が巧みで、中官に頗る賄賂を贈り、以これによって顕位を得て、その伎巧を恃みに権勢を縦横ほしいままにしていた。
 岑晊は張牧とともに、成瑨に張汎らを収捕することを勧めた。
 張汎はに遇った&footnote(大赦の時期に巡り合わせた?)が、岑晊はこれを無視して誅し、併せてその宗族賓客を収監して二百余人を殺し、全てが終わってから朝廷に奏聞した。
 中常侍侯覽が張汎の妻に上書させてその冤罪を訟えさせた。桓帝は大いに震怒し、成瑨は徴され、下獄死した。岑晊と李牧は間&footnote(漢代の徐州・青州・兗州・豫州の狭間。泰山の辺りか。)に亡匿した。やがてに会って出てきた。

 後に州郡が察挙し、三府にこもごも辟召したが、岑晊はいずれも就かなかった。
 霊帝の建寧二年(169)十月、李膺杜密らが中常侍侯覽の諷によって誅を受けて党錮が、始まると、また逃竄した。江夏山の山中で生を終えたと云う。

 また、汝南郡王儁とは親善した間柄だった。


年表




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最終更新:2016年03月28日 23:48