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(つかう)るなり。数は一に始まり十に終わる。一に(したが)い十に(したが)う。孔子曰く、「十を推して一に合するを士と為す」。凡そ士の属は皆从(従)士。(説文解字)


 は、の象形、に仕える戦士階級を示す儀器という*1
 伝統的には、天子や諸侯に仕えて民を治める大夫・士の身分序列の一つとされる。しかし、春秋時代以降にはこの身分秩序が崩れ、各国を遊説し、議論や一芸を以って仕官を試みる者、君侯に仕える意思と能力を持つ者を「士」と呼ぶようになる。

統治・教養階層としての士

 秦漢時代に官僚制が発展すると、民を治める身分としては専ら「」の語が使われるようになる。他方、「士」(人士・士人・士大夫)は、処士、隱士、志士、烈士、義士、賢士、壯士、奇士等と言われ、様々な形で郷里社会での声望と影響力を持つ階層を指すこととなった。
 漢朝廷は彼等「士」を官吏の供給源として、察挙による登用を盛んに行った。章帝の辟士四科を始めとして、「直言極諫之士」「忠良之士」「術蓺之士」「有道之士」「至孝篤行之士」といった例である。
 しかし、後漢の中後期に至ると、これに儒学の基礎学問としての普及が大きな影響を及ぼし始めた。儒学は心を価値の最上に置き、父母や恩人が侮辱を被れば報復し、善政救民のためには時には君命を枉げることも厭わず、君主に対してもに基づいて言行の抑制を求め、再三の諫言が報いられなければ危険を避けて去って良いとする学問である。実際に安逸を犠牲に高節を保ち、危難にあって命を賭すほどの「士」は少数であったにしても、儒学を幼い頃から学び続けた大農豪族)・中農層が彼等の生き方を支持し、賞賛したのである。特に大きな求心力を勝ち得た者は名士とされ、郷論を左右するまでになった。
 これにより、「士」は官吏となって高位に昇ることだけでなく、郷里社会で名声を博することに地位基盤の比重を傾けていく。時に、災異の禍が激しく、宦官の専横が政事を混乱させていた。「士」の中でも特に儒学を奉じる者達清流儒士は、その教養と倫理を用いて宦官を、時には彼等を重用する皇帝をも糾弾の的とする。
 糾弾は激しさを増していき、やがて桓帝霊帝党錮という皇帝・宦官の反撃で破局に至る。しかし、官界から排除され、利得・権益を失う打撃を受けてもなお、清流が抵抗活動を続け得たことは、在地社会の「士」に対する支持基盤が確固としたものとなっていたことを示すだろう。
 後に後漢の統治体制が崩壊すると、群雄達が天下を割拠した。しかし、百年近くに渡る混乱の末に瓦解した在地社会は軍事力のみで支配するのは不可能なまでに疲弊していた。そのため在地社会を経済・土地の面から掌握する豪族、及び、思想・言行・学識の面で求心力を持つ名士をその統治体制に取り込んでいく。やがて成立する魏・呉・蜀漢の三国に於いても統治に不可欠な存在と認められた両者は官僚体制の高位を占有しつつその融合の度を深めていき、晋・南北朝の貴族社会へと発展していくのである。



戦士としての士

 君侯に仕える戦士階級として発祥した「士」であるが、周の封建制の崩壊と共に世襲階級としての戦士は解体され、徴兵制の普及によって戦場の主力は農民兵へと移行していく。
 しかし、「戦士としての士」の用法は、「士大夫としての士」と並行して残り続けた。
 秦代には軍事階級として二十等爵制が敷かれ、そのうち公士から不更(第一級から第四級)が「士」階級とされた。ただし、これは爵とは称しても世襲は出来ず、一代限りのものだった。
 漢代の二十等爵は庶民に広く賜うものとなり、軍事と切り離されたが、「士」の語は騎士楼船士、などという職名の中に残った。
 その「士」とは、徭役に従事する者全般を言うのうちの精鋭、主力戦闘員であることを示す、という*2。漢代兵制に於ける「士」とは、統治側の存在ではなく、非統治側の存在に属する「兵士」であった。
 漢官儀は前漢徴兵制を記して、

民は二十三歳でとなり、一年をもって衛士となり、一年をもって材官騎士となる。(中略)五十六歳で老衰し、免じられて民となり田に就く。合選に応じて亭長となる」

 とする。ここでの騎士とは、徴兵をその一部とする徭役の中で務める職である。
 後漢のことではあるが、百官志衛尉卿条や五校尉条等の注が引く『漢官』には

屯騎校尉一人 (中略)漢官曰:「員吏()百二十八人、領士()七百人。」
越騎校尉一人 (中略)漢官曰:「員吏()百二十七人、領士()七百人。」
  :

と、「吏」と「士」を別にする記述が多数見られ、太僕卿の条では、

漢官に曰く:「員七十人。その七人四科、一人が二百石、文学が八人百石、六人が斗食、七人が佐、六人が騎吏、三人が假佐、三十一人が学事、一人が官医。」

 と、有秩斗食の吏に混じって「騎吏」なる存在が記されている。
 漢書韓延壽伝では、

延壽が射室に座し、騎吏は戟を持して陛を夾んで列立し、騎士從者は弓鞬を帯びて後に羅(なら)んだ。

 とあるから、この騎吏は吏と言っても文官ではなく武官、現代の軍隊で言う「士官」に相当する者である。史書に「軍吏」「武吏」と称される者は総じてこの類であろう。漢では武職であっても官の俸給を受ける者、いわゆる職業軍人はと呼んだわけである。

 それでは、士卒と総称されることも多い「士」とは、漢の兵制では同等の一般兵卒に過ぎないのだろうか。
 居延漢簡によると、張掖郡に所属した辺郡騎士は、軍吏と共に現地張掖郡の出身者でほぼ占められている。これは内郡から辺戍によって一年間のみ赴任する雑卒(戍卒)とは明確な区別があるものである。また、戍卒を基本単位とする監視台に分散して配置されていたのに対して、辺郡騎士は諸郡都尉の下に集中配備され、対匈奴戦闘の主力を担った*3
 このように騎士は、の隊長となるわけではないあくまで上級兵的な地位であったものの、「卒」とは明らかに異なる待遇と練度を有していた。ために、五十六歳の定年まで勤めて免じられれば、亭長の資格という恩典が与えられたのである*4

 この士・卒の関係は、他の兵科にも存在し、

三月丁酉、詔に曰く「今、國は眾軍を有し、精勇並び多し。宜しくしばらく輕車、騎士、材官、樓船の士、及び軍假吏を罷め、令して民伍に環復すべし」(光武帝紀建武七年)

天暑多雨に会い、樓舩卒、水に居りて櫂を撃つ、未だ戦わずして疾死者半ばを過ぎる。(厳助伝)

 前者では「樓船士」が軍仮吏と並んで免役の対象となる上等の存在とされているのに対し、後者では「樓船卒」が櫂を漕ぐ雑卒とされているのである*5

 なお、「六郡良家の子より羽林、期門を選び給す」「良家の子騎射を善くするを以って羽林と為る」などとして選抜される羽林郎期門郎らは、禁中に宿営し秩石比三百石という高禄を得て武具車馬等を自弁で用意した言わば近衛将校であり、ここに言う騎士とは全く異なる階級の武官であった。



 このように、「統治・教養階層としての士」と、「戦士としての士」は、周制の崩壊と共に二分し、同じ文字ながら全く異なる地位を示すものとなった。これには、古代には重んじられていた戦士・武職が、徴兵の導入と儒学等学問の隆盛によって軽んじられる職となってしまったことが理由の一つにあるだろう。
 魏晋南北朝に至って、前者の「士」の末裔は貴族として反映する一方、後者の「士」は後漢末の乱で土地を失い兵役に拘束される家系、士戸の名として残ることになってしまう。


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関連項目・人物


参考

西村元佑氏「漢代の騎士─士・卒の問題に関連して」竜谷史壇(44)
東京大学出版会




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最終更新:2016年02月27日 01:58

*1 白川静氏「字統」

*2 西村元佑氏「漢代の騎士─士・卒の問題に関連して」

*3 注同上

*4 この「上級兵」を「あくまで徭役中の上級兵」と見るか「職業軍人」と見るかは見解が分かれているようである。私見では、毎月定額の俸給の有無がこの分かれ目になると考えるが、居延漢簡に「士奉出入簿一封敢言之」の記述があるものの、これが辺境騎士の特典や一時金の可能性もあり、判断できない。

*5 しかしながら、武帝期に南越が反して南方楼船の兵士二十余万人が動員された同一の事について、『史記』平準書は樓船卒と書き、『漢書』食貨志は樓船士と書いている。歴史書の上では士・卒は混用され易い語であったのも確かだろう。