広隆寺 - (2008/08/21 (木) 16:14:58) の1つ前との変更点
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&sizex(6){&bold(){広隆寺}}
出典: 橋川正編纂『太秦広隆寺史』(京都太秦聖徳太子報徳会・1923)、追塩千尋『平安・鎌倉期広隆寺の諸相』(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭司と仏教』吉川弘文館・1995)、林南寿『広隆寺の創建と移転』(『日本歴史』611・1999)『蜂岡寺と秦寺の本尊』(中央公論美術出版・2003)『太子信仰の寺への変貌』(『広隆寺史の研究』中央公論美術出版・2003)ほか
&ref(kouryuji.jpg) &ref(kouryuji2.jpg) &ref(kouryuji3.jpg) &ref(kouryuji4.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){広隆寺}(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺院。山号は蜂岡山。現在、[[真言宗]][[御室>仁和寺]]派の別格本山。京都最古の寺院で、聖徳太子が建立した七大寺のひとつとされる。帰化人である[[秦氏]]の氏寺でもあり、古くは秦寺・大秦公寺・秦公寺・太秦寺・蜂岡寺・葛野寺・桂林寺などとも呼ばれた。創建当初は[[弥勒菩薩]]を本尊としていたが、[[平安京]]遷都前後からは[[薬師如来]]を本尊とする。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像。有名な[[弥勒菩薩]]半跏像をはじめとして国宝8件、重要文化財33件を有することでも知られる。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
『日本書紀』によると広隆寺は、推古天皇11年(603)に聖徳太子から仏像を譲り受けた[[秦河勝>秦氏]]が、仏像を安置するために建立した蜂岡寺を起源とする。一方、承和5年(838)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622)、同年に死去した太子の供養のために建立されたとある。創建年に関して20年近い開きがあるが、推古天皇11年(603)に広隆寺が草創され推古天皇30年(622)に至って完成したとする解釈と、推古天皇11年(603)に建てられた蜂岡寺と、推古天皇30年(622)に建てられた広隆寺という別々の寺院が後に合併したとする解釈とがある。創建当初の蜂岡寺の所在地については確証はないものの、[[平野神社]]の500mほど南の地域から飛鳥時代の寺院跡である「北野廃寺跡」が発見され、旧地の蜂岡寺であると推測された。このことから蜂岡寺の寺領が延暦12年(794)の[[平安京]]遷都の際に収公され、現在の太秦の地に移転し(もしくは二ヵ寺が合併して)現広隆寺になったとされている。いずれの寺も[[秦氏]]と深く関連している。[[秦氏]]は欽明~推古朝より官人として宮廷に進出するが、漢人系と結ぶ蘇我氏に対抗するため、敏達天皇や聖徳太子が[[秦氏]]を起用したことによるという。[[秦氏]]は[[弥勒菩薩]]を信仰し、蜂岡寺には[[泣き弥勒>弥勒菩薩]]が、広隆寺には[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]([[弥勒菩薩]]半跏像)がそれぞれ本尊として祀られていたとされ、合併して広隆寺となった際に本尊として[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]が祀られたという。『日本書紀』にも「推古天皇31年(623)新羅と任那の使いが来日し(伝本によっては推古天皇30年(622)とも)、請来した仏像を葛野秦寺に安置した」とあり、これが今も広隆寺に残る2躯の[[弥勒菩薩]]像のいずれかに該当するのではないかという。弘仁9年(818)の火災により伽藍を焼失するが、[[空海]]の弟子道昌によって再興された。道昌は承和3年(836)に第9代広隆寺別当に就任し、以後、41年間にわたり広隆寺の復興に尽力した。道昌は[[秦氏]]出身と伝わり、別当就任以降広隆寺は急激に[[真言>真言宗]]化していく。道昌は当時の[[薬師>薬師如来]]信仰流行の時勢に乗って本尊を[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]から霊験[[薬師仏>薬師如来]]に変更したため、貴賎を問わず信仰をあつめ、特に女性には願を成就する霊験ある寺院として尊崇を集めることとなった。平安末期には[[末法思想]]から[[浄土思想]]の信仰が興り、四天王寺で発見された聖徳太子筆『荒陵寺御手印縁起』に「四天王寺の西門が極楽の東門にあたる」と記されていたことから、同寺に参詣する者が相次ぎ、また太子は観音の化身であり、太子の墓に参詣する者は極楽往生疑いなしという太子信仰が[[浄土>浄土思想]]信仰と結びつき、法隆寺や四天王寺のみならず、太子建立七大寺の中で唯一京都に存在した広隆寺においても信仰を集める。久安6年(1150)の火災で霊験[[薬師仏>薬師如来]]は焼失してしまうが、太子ゆかりの[[弥勒菩薩]]像を全面的に押し出すことによって人々の耳目を集め、再建を容易にした。これより広隆寺は[[薬師>薬師如来]]霊験の寺院から太子信仰の寺院へと変貌を遂げ、再興された伽藍に新たに太子堂が含まれていることからもそれが窺える。さらに建長3年(1251)頃には太子建立の宮との伝承をもつ桂宮院が建立されている。明治の廃仏毀釈により荒廃するも、明治23年(1890)より諸殿舎の修復が行われ、伽藍が現在の姿に整えられた。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***上宮王院太子堂(本堂)
入母屋造、檜皮葺で正面に向拝のついた宮殿風建築で、享保15年(1730)の建立。堂内外陣の格天井には草花や楽器などが極彩色で描かれており、内陣の厨子には本尊の聖徳太子立像を安置する。この像には元永3年(1120)の造立銘があり、太子33歳の時の姿を写したとされ、下着姿の像の上に着物を着せている。堂内は通常非公開であるが、毎年11月22日の「御火焚祭」のときに開扉される。
***講堂
永万元年(1165)に再建されたときの唯一の遺構。「赤堂」とも呼ばれ、柱に丹塗りの色が残る。当初は旧規模を踏襲した七間四間で檜皮葺であったという。永禄8年(1565)の改築により五間四間に縮小され、寄棟造、本瓦葺となっている。母屋の二重虹梁蟇股の架構などに再建時の姿を遺す。本尊の[[阿弥陀如来]]は丈六の一木造の坐像(像高約2.6m)で承和年間(834~848)の作。重厚な量感と充実した体躯や面貌に平安初期の彫刻の特色が顕著に現れており、技法的・作風的類似から、大阪の観心寺[[如意輪観音]]像と同一工房の作と思われる。『広隆寺縁起資財帳』によれば、淳和上皇女御であった永原御息所の発願とされ、承和7年(840)の上皇崩御に際しての造立と推測されている。脇侍として観音・勢至像ではなく道昌の作と伝わる[[地蔵菩薩]]像と[[虚空蔵菩薩]]像を安置する。
***桂宮院
築地塀と竹林に囲まれた境内の西北隅にある。建長3年(1251)頃に聖徳太子を祀る堂として再興された。法隆寺の夢殿にも似た八角円堂という形式で、床板張、回縁付、檜皮茸。内部には柱がなく八方に勾配をつけた鏡天井を張り、中央に春日厨子をおく。厨子内に安置されていた聖徳太子像(現在は新霊宝殿に安置)は鎌倉時代の作。太子16歳の姿を写したとされる像で、椅子に腰かけている。建物は以前に4・5・10・11月の日祝のみ外観が公開されていたが、現在修復中のため非公開。
***南大門(仁王門)
元禄15年(1702)の建立と伝わる3間1戸の楼門。屋根は現在瓦葺であるが、創建当初はこけら葺もしくは檜皮葺であったとされる。正面両脇に室町時代の作という仁王像を安置する。
***新霊宝殿
広隆寺に伝わる多くの宝物を保存・展示するため、昭和57年(1982)に建てられた。2躯の[[弥勒菩薩]]半跏像(宝冠弥勒と泣き弥勒)をはじめ、近年まで講堂に安置されていた平安時代作の[[不空羂索観音]]像と[[千手観音]]像、[[定朝]]の弟子長勢の工房で造られたという日光・月光菩薩像や十二神将像など50数躯の仏像のほか、絵画や史料が展示されている。久安6年(1150)に焼失したのち復刻された霊験[[薬師仏>薬師如来]]は館内の厨子内に安置され、11月22日のみ公開されている。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
木造[[弥勒菩薩]]半跏像(宝冠弥勒※) 木造[[弥勒菩薩]]半跏像(泣き弥勒※) 木造[[阿弥陀如来]]坐像 木造[[不空羂索観音]]立像 木造[[千手観音]]立像 木造十二神将立像 広隆寺縁起資材帳 広隆寺資材交替実録帳 桂宮院本堂
#blockquote(){※広隆寺には国宝の2躯の弥勒菩薩半跏像がある。
(1)宝冠をいただき、台座とともに赤松の一材から彫成されている。一部に漆箔が残るが、本来は各所に乾漆を盛って仕上げていたとする説もある。細作りの体で清楚な気品があり、その作風はソウルの韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩像に通じる。加えて飛鳥時代の木彫像がすべて楠材を用いているのに対し、本像のみ例外であることから朝鮮半島での制作ともいわれている。像高123.3cm。
(2)楠材の一木造で、漆箔天衣と裳裾の一部に獣皮を用いた異色作。朝鮮半島には現存しない楠材製であるところから7世紀末~8世紀初頭に日本で制作されたものと考えられている(異説も多い)。宝冠弥勒と同様のポーズをとるも、宝冠はなく像高はやや小さい。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。全高90.5cm。
}
***重要文化財(建造物)
講堂
***重要文化財(美術工芸品)
紙本著色能恵法師絵詞 絹本著色十二天像 絹本著色准胝仏母図 絹本著色三千仏図 塑造[[弥勒仏>弥勒菩薩]]坐像 木造[[薬師如来]]立像 木造[[地蔵菩薩]]立像 木造[[持国天>四天王]]・[[広目天>四天王]]・[[増長天>四天王]]立像 木造[[阿弥陀如来]]立像 木造[[毘沙門天>四天王]]立像 木造[[吉祥天]]立像(像高184.5cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高168.0cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高164.6cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高142.2cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高106.8cm) 木造聖観音立像 木造[[虚空蔵菩薩]]坐像(伝道昌作) 木造[[地蔵菩薩]]坐像(伝道昌作) 木造神像(伝[[秦河勝>秦氏]]像) 木造女神坐像(伝[[秦河勝>秦氏]]夫人像) 木造聖徳太子半跏像 木造[[大日如来]]坐像(像高95.5cm) 木造[[大日如来]]坐像(像高74.5cm) 木造日光・月光菩薩立像 木造[[不動明王>明王]]坐像 木造菩薩立像 木造[[千手観音]]坐像 木造五髻文殊菩薩坐像 木造[[多聞天>四天王]]立像 木造蔵王権現立像(像高100.4cm) 木造蔵王権現立像(像高96.4cm) 木造[[如意輪観音]]半跏像 鉄鐘
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市右京区太秦蜂岡町32
電話番号 075-861-1461
拝観時間 9:00~17:00(12月~2月は19:00~16:30)
拝観料 境内自由、新霊宝殿拝観700円、桂宮院拝観200円(現在拝観休止)
アクセス 京都バス「太秦広隆寺前」下車すぐ
駐車場 無料駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
1月1日 元旦祈願
1月2日 手斧(ちょうな)始め(開催未定)
2月22日 太子正当忌(一般非公開)
10月10日 牛祭(開催未定)
11月22日 聖徳太子御火焚祭・本尊聖徳太子像開帳・勅封薬師如来像特別開扉
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像を所蔵する寺院はどこか。 (ア)広隆寺 (イ)大覚寺 (ウ)清水寺 (エ)平等院」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「(前略)国宝指定第一号の( )は飛鳥時代を代表する仏像で、わずかに微笑んだ表情が美しい。(後略)」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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&sizex(6){&bold(){広隆寺}}
出典: 橋川正編纂『太秦広隆寺史』(京都太秦聖徳太子報徳会・1923)、追塩千尋『平安・鎌倉期広隆寺の諸相』(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭司と仏教』吉川弘文館・1995)、林南寿『広隆寺の創建と移転』(『日本歴史』611・1999)『蜂岡寺と秦寺の本尊』(中央公論美術出版・2003)『太子信仰の寺への変貌』(『広隆寺史の研究』中央公論美術出版・2003)ほか
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&bold(){広隆寺}(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺院。山号は蜂岡山。現在、[[真言宗]][[御室>仁和寺]]派の別格本山。京都最古の寺院で、聖徳太子が建立した七大寺のひとつとされる。帰化人である[[秦氏]]の氏寺でもあり、古くは秦寺・大秦公寺・秦公寺・太秦寺・蜂岡寺・葛野寺・桂林寺などとも呼ばれた。創建当初は[[弥勒菩薩]]を本尊としていたが、[[平安京]]遷都前後からは[[薬師如来]]を本尊とする。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像。有名な[[弥勒菩薩]]半跏像をはじめとして国宝8件、重要文化財33件を有することでも知られる。
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『日本書紀』によると広隆寺は、推古天皇11年(603)に聖徳太子から仏像を譲り受けた[[秦河勝>秦氏]]が、仏像を安置するために建立した蜂岡寺を起源とする。一方、承和5年(838)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622)、同年に死去した太子の供養のために建立されたとある。創建年に関して20年近い開きがあるが、推古天皇11年(603)に広隆寺が草創され推古天皇30年(622)に至って完成したとする解釈と、推古天皇11年(603)に建てられた蜂岡寺と、推古天皇30年(622)に建てられた広隆寺という別々の寺院が後に合併したとする解釈とがある。創建当初の蜂岡寺の所在地については確証はないものの、[[平野神社]]の500mほど南の地域から飛鳥時代の寺院跡である「北野廃寺跡」が発見され、旧地の蜂岡寺であると推測された。このことから蜂岡寺の寺領が延暦12年(794)の[[平安京]]遷都の際に収公され、現在の太秦の地に移転し(もしくは二ヵ寺が合併して)現広隆寺になったとされている。いずれの寺も[[秦氏]]と深く関連している。[[秦氏]]は欽明~推古朝より官人として宮廷に進出するが、漢人系と結ぶ蘇我氏に対抗するため、敏達天皇や聖徳太子が[[秦氏]]を起用したことによるという。[[秦氏]]は[[弥勒菩薩]]を信仰し、蜂岡寺には[[泣き弥勒>弥勒菩薩]]が、広隆寺には[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]([[弥勒菩薩]]半跏像)がそれぞれ本尊として祀られていたとされ、合併して広隆寺となった際に本尊として[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]が祀られたという。『日本書紀』にも「推古天皇31年(623)新羅と任那の使いが来日し(伝本によっては推古天皇30年(622)とも)、請来した仏像を葛野秦寺に安置した」とあり、これが今も広隆寺に残る2躯の[[弥勒菩薩]]像のいずれかに該当するのではないかという。弘仁9年(818)の火災により伽藍を焼失するが、[[空海]]の弟子道昌によって再興された。道昌は承和3年(836)に第9代広隆寺別当に就任し、以後、41年間にわたり広隆寺の復興に尽力した。道昌は[[秦氏]]出身と伝わり、別当就任以降広隆寺は急激に[[真言>真言宗]]化していく。道昌は当時の[[薬師>薬師如来]]信仰流行の時勢に乗って本尊を[[宝冠弥勒>弥勒菩薩]]から霊験[[薬師仏>薬師如来]]に変更したため、貴賎を問わず信仰をあつめ、特に女性には願を成就する霊験ある寺院として尊崇を集めることとなった。平安末期には[[末法思想]]から[[浄土思想]]の信仰が興り、四天王寺で発見された聖徳太子筆『荒陵寺御手印縁起』に「四天王寺の西門が極楽の東門にあたる」と記されていたことから、同寺に参詣する者が相次ぎ、また太子は観音の化身であり、太子の墓に参詣する者は極楽往生疑いなしという太子信仰が[[浄土>浄土思想]]信仰と結びつき、法隆寺や四天王寺のみならず、太子建立七大寺の中で唯一京都に存在した広隆寺においても信仰を集める。久安6年(1150)の火災で霊験[[薬師仏>薬師如来]]は焼失してしまうが、太子ゆかりの[[弥勒菩薩]]像を全面的に押し出すことによって人々の耳目を集め、再建を容易にした。これより広隆寺は[[薬師>薬師如来]]霊験の寺院から太子信仰の寺院へと変貌を遂げ、再興された伽藍に新たに太子堂が含まれていることからもそれが窺える。さらに建長3年(1251)頃には太子建立の宮との伝承をもつ桂宮院が建立されている。明治の廃仏毀釈により荒廃するも、明治23年(1890)より諸殿舎の修復が行われ、伽藍が現在の姿に整えられた。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***上宮王院太子堂(本堂)
入母屋造、檜皮葺で正面に向拝のついた宮殿風建築で、享保15年(1730)の建立。堂内外陣の格天井には草花や楽器などが極彩色で描かれており、内陣の厨子には本尊の聖徳太子立像を安置する。この像には元永3年(1120)の造立銘があり、太子33歳の時の姿を写したとされ、下着姿の像の上に着物を着せている。堂内は通常非公開であるが、毎年11月22日の「御火焚祭」のときに開扉される。
***講堂
永万元年(1165)に再建されたときの唯一の遺構。「赤堂」とも呼ばれ、柱に丹塗りの色が残る。当初は旧規模を踏襲した七間四間で檜皮葺であったという。永禄8年(1565)の改築により五間四間に縮小され、寄棟造、本瓦葺となっている。母屋の二重虹梁蟇股の架構などに再建時の姿を遺す。本尊の[[阿弥陀如来]]は丈六の一木造の坐像(像高約2.6m)で承和年間(834~848)の作。重厚な量感と充実した体躯や面貌に平安初期の彫刻の特色が顕著に現れており、技法的・作風的類似から、大阪の観心寺[[如意輪観音]]像と同一工房の作と思われる。『広隆寺縁起資財帳』によれば、淳和上皇女御であった永原御息所の発願とされ、承和7年(840)の上皇崩御に際しての造立と推測されている。脇侍として観音・勢至像ではなく道昌の作と伝わる[[地蔵菩薩]]像と[[虚空蔵菩薩]]像を安置する。
***桂宮院
築地塀と竹林に囲まれた境内の西北隅にある。建長3年(1251)頃に聖徳太子を祀る堂として再興された。法隆寺の夢殿にも似た八角円堂という形式で、床板張、回縁付、檜皮茸。内部には柱がなく八方に勾配をつけた鏡天井を張り、中央に春日厨子をおく。厨子内に安置されていた聖徳太子像(現在は新霊宝殿に安置)は鎌倉時代の作。太子16歳の姿を写したとされる像で、椅子に腰かけている。建物は以前に4・5・10・11月の日祝のみ外観が公開されていたが、現在修復中のため非公開。
***南大門(仁王門)
元禄15年(1702)の建立と伝わる3間1戸の楼門。屋根は現在瓦葺であるが、創建当初はこけら葺もしくは檜皮葺であったとされる。正面両脇に室町時代の作という仁王像を安置する。
***新霊宝殿
広隆寺に伝わる多くの宝物を保存・展示するため、昭和57年(1982)に建てられた。2躯の[[弥勒菩薩]]半跏像(宝冠弥勒と泣き弥勒)をはじめ、近年まで講堂に安置されていた平安時代作の[[不空羂索観音]]像と[[千手観音]]像、[[定朝]]の弟子長勢の工房で造られたという日光・月光菩薩像や十二神将像など50数躯の仏像のほか、絵画や史料が展示されている。久安6年(1150)に焼失したのち復刻された霊験[[薬師仏>薬師如来]]は館内の厨子内に安置され、11月22日のみ公開されている。
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***国宝
木造[[弥勒菩薩]]半跏像(宝冠弥勒※) 木造[[弥勒菩薩]]半跏像(泣き弥勒※) 木造[[阿弥陀如来]]坐像 木造[[不空羂索観音]]立像 木造[[千手観音]]立像 木造十二神将立像 広隆寺縁起資材帳 広隆寺資材交替実録帳 桂宮院本堂
#blockquote(){※広隆寺には国宝の2躯の弥勒菩薩半跏像がある。
(1)宝冠をいただき、台座とともに赤松の一材から彫成されている。一部に漆箔が残るが、本来は各所に乾漆を盛って仕上げていたとする説もある。細作りの体で清楚な気品があり、その作風はソウルの韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩像に通じる。加えて飛鳥時代の木彫像がすべて楠材を用いているのに対し、本像のみ例外であることから朝鮮半島での制作ともいわれている。像高123.3cm。
(2)楠材の一木造で、漆箔天衣と裳裾の一部に獣皮を用いた異色作。朝鮮半島には現存しない楠材製であるところから7世紀末~8世紀初頭に日本で制作されたものと考えられている(異説も多い)。宝冠弥勒と同様のポーズをとるも、宝冠はなく像高はやや小さい。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。全高90.5cm。
}
***重要文化財(建造物)
講堂
***重要文化財(美術工芸品)
紙本著色能恵法師絵詞 絹本著色十二天像 絹本著色准胝仏母図 絹本著色三千仏図 塑造[[弥勒仏>弥勒菩薩]]坐像 木造[[薬師如来]]立像 木造[[地蔵菩薩]]立像 木造[[持国天>四天王]]・[[広目天>四天王]]・[[増長天>四天王]]立像 木造[[阿弥陀如来]]立像 木造[[毘沙門天>四天王]]立像 木造[[吉祥天]]立像(像高184.5cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高168.0cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高164.6cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高142.2cm) 木造[[吉祥天]]立像(像高106.8cm) 木造聖観音立像 木造[[虚空蔵菩薩]]坐像(伝道昌作) 木造[[地蔵菩薩]]坐像(伝道昌作) 木造神像(伝[[秦河勝>秦氏]]像) 木造女神坐像(伝[[秦河勝>秦氏]]夫人像) 木造聖徳太子半跏像 木造[[大日如来]]坐像(像高95.5cm) 木造[[大日如来]]坐像(像高74.5cm) 木造日光・月光菩薩立像 木造[[不動明王>明王]]坐像 木造菩薩立像 木造[[千手観音]]坐像 木造五髻文殊菩薩坐像 木造[[多聞天>四天王]]立像 木造蔵王権現立像(像高100.4cm) 木造蔵王権現立像(像高96.4cm) 木造[[如意輪観音]]半跏像 鉄鐘
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住所 京都市右京区太秦蜂岡町32
電話番号 075-861-1461
拝観時間 9:00~17:00(12月~2月は19:00~16:30)
拝観料 境内自由、新霊宝殿拝観700円、桂宮院拝観200円(現在拝観休止)
アクセス 京都バス「太秦広隆寺前」下車すぐ
駐車場 無料駐車場あり
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1月1日 元旦祈願
1月2日 手斧(ちょうな)始め(開催未定)
2月22日 太子正当忌(一般非公開)
10月10日 牛祭(開催未定)
11月22日 聖徳太子御火焚祭・本尊聖徳太子像開帳・勅封薬師如来像特別開扉
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像を所蔵する寺院はどこか。 (ア)広隆寺 (イ)大覚寺 (ウ)清水寺 (エ)平等院」
平成17年(2005)第2回京都検定2級出題
「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「(前略)国宝指定第一号の( )は飛鳥時代を代表する仏像で、わずかに微笑んだ表情が美しい。(後略)」
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