八坂神社 - (2008/08/26 (火) 14:34:29) の1つ前との変更点
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&sizex(6){&bold(){八坂神社}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『八坂神社の研究』(臨川書店・1974)、『重要文化財八坂神社本殿修理工事報告書』(京都府教育委員会・1964)、『国宝・重要文化財大全』12(毎日新聞社・2000)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、京都国立博物館編『祇園・八坂神社の名宝』(八坂神社・2002)ほか
&ref(ujigamijinjya.jpg) &ref(ujigamijinjya2.jpg) &ref(ujigamijinjya3.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){八坂神社}(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側にある神社。素戔嗚命(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらみこがみ)を祀る。神仏分離以前は祇園感神院・祇園社と称していたため「祇園さん」の愛称で呼ばれる。二十二社のひとつで、旧社格は官幣大社。疫病退散・無病息災・家運長久・商売繁昌などのご利益があるとされ、朝廷や幕府、京の市民の信仰を集めた。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
八坂神社の名称は明治元年(1868)に始まるが、歴史的には祇園感神院・祇園社の名称が長い間使われてきた。貞観18年(876)に僧円如が興福寺の末寺として堂宇を築いたのが始まりとされるが、社伝では斉明天皇2年(656)の創建という。御霊信仰の高まりとともに諸階層の信仰を集め、[[祇園祭]]の前身である6月の[[御霊会>祇園祭]]([[祇園会>祇園祭]])も盛大に行われるようになった。10世紀後半に、当時の別当良算がすぐ東にあった[[延暦寺]]の末寺の紅葉の枝を観賞用に折ろうとして双方が紛争し、それを契機として[[延暦寺]]・興福寺間で抗争・訴訟があった結果、[[延暦寺]]の支配下になったという。以降、[[延暦寺]]と祇園感神院との関係は密接であり、感神院別当が天台座主に直属し、座主の任免に伴って交代、社僧では権長吏・社務執行がおかれた。比叡山僧兵の強訴の際には、祇園感神院は京都における基地的役割を果たしている。祭神の素戔嗚命は、牛頭天王(ごずてんのう)とも同神とされた。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、[[薬師如来]]の垂迹といわれる。頭に牛の角をもち、形は人間に似る。祇園精舎を守護することから社名が祇園社となり、その門前町が祇園と呼ばれるようになった。現在の社名は地名(八坂郷)によるもの。また八坂神社は古くより蘇民将来の信仰でも有名である。蘇民将来とは『備後国風土記』の説話によると夜叉国から千里ほどはずれたところの粗末な庵に住む老翁。牛頭天王が妃を娶るために遠く摩詞陀国から8万里も離れた龍宮へ旅をした際に、一夜の宿を提供した上、瞬時に数万里をも進むとされる隼鷂という宝船を譲る。のちにこのことに対する礼として天王から夜叉国を与えられ、さらにその子孫には「蘇民将来の子孫です」と云えば、疫病から守られることを約束されたという。そのことから祇園祭で売られる粽には「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符が付いており、疫除けとして信仰されている。
&sizex(5){&color(red){建築物}}
文正元年(1466)に篝火の残り火による火事で焼失し、わずかに残った建物も応仁元年(1467)に[[建仁寺]]の塔頭とともに全焼した。文明元年(1469)には[[応仁の乱]]によって[[御霊会>祇園祭]]までもが中止された。祇園社僧の要請で明応5年(1496)にようやく再建事業が着手され、現在の楼門はこの時に再建された。のち正保3年(1646)にも本社・拝殿・中門・神輿屋・末社が焼失、承応3年(1654)に再建された。旧時代の境内地は約1万5千坪であったが、[[円山公園]]を造営するためなどに供出させられ、明治31年(1898)の調査では約4,000坪に減少している。
***本殿
かつて別棟だった本殿と拝殿をひとつの大屋根の下に収めた構造である祇園造と呼ばれる珍しい様式を持つ。入母屋造、檜皮葺。内部の床は内々陣のみが一段高くなっている。礼堂は桁行7間、梁行2間。向拝は3間で、階段及び板間の周囲には高欄が設けられている。承応2年(1653)に再建工事に着手、翌年に上棟・正遷宮が行われた。貞享3年(1686)、明和7年(1770)、寛政元年(1789)、文政4年(1821)、明治37~38年(1904~1905)・昭和37~38年(1962~1963)、平成14年(2002)に修復工事がおこなれている。
***楼門(西楼門)
四条通の東の突き当たりにある三間一戸の楼門で、切妻造、本瓦葺。明応5年(1496)再建に着手し、翌年に完成した。切妻造の楼門はたいへん珍しい。
***蛭子社
楼門から本殿へ向かう参道の途中にある末社。一間社流造の背側に屋根を付加した社殿を備える。正保3年(1646)の再建。
***舞殿
本殿の正面にあり、数々の奉納行事の舞台となる。通常の神社の拝殿が舞台として独立した形式である。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
本殿 楼門 末社蛭子社社殿 石鳥居
***重要文化財(美術工芸品)
木造狛犬(伝[[運慶>慶派]]作) 太刀(銘 豊後国行平作) 太刀(銘 出羽大掾藤原国路、金具御大工躰阿弥) 紙本著色祇園社絵図 祇園執行日記 八坂神社文書 算額
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区祇園町北側625
電話番号 075-561-6155
拝観時間 境内自由
拝観料 境内自由
アクセス 市バス「祇園」下車すぐ
駐車場 徒歩圏内(約1分)に市営駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な祭事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「切り口が八坂神社の紋とよく似ていることから、祇園祭の間は口にしないといわれるものは何か。 (ア)なすび (イ)とうがらし (ウ)かぼちゃ (エ)きゅうり」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、現在京都市役所で行われているが、江戸時代はどこの寺社で行われていたか。 (ア)恵美須神社 (イ)八坂神社 (ウ)六角堂 (エ)革堂」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「八坂神社の神輿が渡御して、四条寺町東で一時滞在するところを何というか。 (ア)御影堂 (イ)脇本陣 (ウ)宿坊 (エ)御旅所」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
八坂神社オフィシャル http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/
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&sizex(6){&bold(){八坂神社}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『八坂神社の研究』(臨川書店・1974)、『重要文化財八坂神社本殿修理工事報告書』(京都府教育委員会・1964)、『国宝・重要文化財大全』12(毎日新聞社・2000)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、京都国立博物館編『祇園・八坂神社の名宝』(八坂神社・2002)ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){八坂神社}(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側にある神社。素戔嗚命(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらみこがみ)を祀る。神仏分離以前は祇園感神院・祇園社と称していたため「祇園さん」の愛称で呼ばれる。二十二社のひとつで、旧社格は官幣大社。疫病退散・無病息災・家運長久・商売繁昌などのご利益があるとされ、朝廷や幕府、京の市民の信仰を集めた。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
八坂神社の名称は明治元年(1868)に始まるが、歴史的には祇園感神院・祇園社の名称が長い間使われてきた。貞観18年(876)に僧円如が興福寺の末寺として堂宇を築いたのが始まりとされるが、社伝では斉明天皇2年(656)の創建という。御霊信仰の高まりとともに諸階層の信仰を集め、[[祇園祭]]の前身である6月の[[御霊会>祇園祭]]([[祇園会>祇園祭]])も盛大に行われるようになった。10世紀後半に、当時の別当良算がすぐ東にあった[[延暦寺]]の末寺の紅葉の枝を観賞用に折ろうとして双方が紛争し、それを契機として[[延暦寺]]・興福寺間で抗争・訴訟があった結果、[[延暦寺]]の支配下になったという。以降、[[延暦寺]]と祇園感神院との関係は密接であり、感神院別当が天台座主に直属し、座主の任免に伴って交代、社僧では権長吏・社務執行がおかれた。比叡山僧兵の強訴の際には、祇園感神院は京都における基地的役割を果たしている。祭神の素戔嗚命は、牛頭天王(ごずてんのう)とも同神とされた。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、[[薬師如来]]の垂迹といわれる。頭に牛の角をもち、形は人間に似る。祇園精舎を守護することから社名が祇園社となり、その門前町が祇園と呼ばれるようになった。現在の社名は地名(八坂郷)によるもの。また八坂神社は古くより蘇民将来の信仰でも有名である。蘇民将来とは『備後国風土記』の説話によると夜叉国から千里ほどはずれたところの粗末な庵に住む老翁。牛頭天王が妃を娶るために遠く摩詞陀国から8万里も離れた龍宮へ旅をした際に、一夜の宿を提供した上、瞬時に数万里をも進むとされる隼鷂という宝船を譲る。のちにこのことに対する礼として天王から夜叉国を与えられ、さらにその子孫には「蘇民将来の子孫です」と云えば、疫病から守られることを約束されたという。そのことから祇園祭で売られる粽には「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符が付いており、疫除けとして信仰されている。
&sizex(5){&color(red){建築物}}
文正元年(1466)に篝火の残り火による火事で焼失し、わずかに残った建物も応仁元年(1467)に[[建仁寺]]の塔頭とともに全焼した。文明元年(1469)には[[応仁の乱]]によって[[御霊会>祇園祭]]までもが中止された。祇園社僧の要請で明応5年(1496)にようやく再建事業が着手され、現在の楼門はこの時に再建された。のち正保3年(1646)にも本社・拝殿・中門・神輿屋・末社が焼失、承応3年(1654)に再建された。旧時代の境内地は約1万5千坪であったが、[[円山公園]]を造営するためなどに供出させられ、明治31年(1898)の調査では約4,000坪に減少している。
***本殿
かつて別棟だった本殿と拝殿をひとつの大屋根の下に収めた構造である祇園造と呼ばれる珍しい様式を持つ。入母屋造、檜皮葺。内部の床は内々陣のみが一段高くなっている。礼堂は桁行7間、梁行2間。向拝は3間で、階段及び板間の周囲には高欄が設けられている。承応2年(1653)に再建工事に着手、翌年に上棟・正遷宮が行われた。貞享3年(1686)、明和7年(1770)、寛政元年(1789)、文政4年(1821)、明治37~38年(1904~1905)・昭和37~38年(1962~1963)、平成14年(2002)に修復工事がおこなれている。
***楼門(西楼門)
四条通の東の突き当たりにある三間一戸の楼門で、切妻造、本瓦葺。明応5年(1496)再建に着手し、翌年に完成した。切妻造の楼門はたいへん珍しい。
***蛭子社
楼門から本殿へ向かう参道の途中にある末社。一間社流造の背側に屋根を付加した社殿を備える。正保3年(1646)の再建。
***舞殿
本殿の正面にあり、数々の奉納行事の舞台となる。通常の神社の拝殿が舞台として独立した形式である。
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***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
本殿 楼門 末社蛭子社社殿 石鳥居
***重要文化財(美術工芸品)
木造狛犬(伝[[運慶>慶派]]作) 太刀(銘 豊後国行平作) 太刀(銘 出羽大掾藤原国路、金具御大工躰阿弥) 紙本著色祇園社絵図 祇園執行日記 八坂神社文書 算額
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区祇園町北側625
電話番号 075-561-6155
拝観時間 境内自由
拝観料 境内自由
アクセス 市バス「祇園」下車すぐ
駐車場 徒歩圏内(約1分)に市営駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な祭事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「切り口が八坂神社の紋とよく似ていることから、祇園祭の間は口にしないといわれるものは何か。 (ア)なすび (イ)とうがらし (ウ)かぼちゃ (エ)きゅうり」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、現在京都市役所で行われているが、江戸時代はどこの寺社で行われていたか。 (ア)恵美須神社 (イ)八坂神社 (ウ)六角堂 (エ)革堂」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「八坂神社の神輿が渡御して、四条寺町東で一時滞在するところを何というか。 (ア)御影堂 (イ)脇本陣 (ウ)宿坊 (エ)御旅所」
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八坂神社オフィシャル http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/
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