長谷川等伯 - (2008/08/21 (木) 11:27:32) の最新版との変更点
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&sizex(6){&bold(){長谷川等伯}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){長谷川等伯}(はせがわとうはく)は安土桃山期から江戸初期に活躍した天才絵師。[[狩野派]]に対抗し、自ら「[[雪舟]]五代」を名乗り、一代で長谷川派という地位を築き上げた。天文8年~慶長15年(1539~1610)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
能登国(現石川県)七尾生まれ。能登国の戦国大名畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたという。現存する作品では26歳筆の落款があるものが最も古く、これらには「信春」印が捺されており、若年期には信春(長谷川信春)の名で活躍していたと考えられている。特に奥村家の菩提寺である本延寺など日蓮宗寺院に多くの作品が残るが、等伯自身が熱心な法華信者だったためという。33歳で養父母を相次いで亡くし、それを機に妻子を連れて上洛したのではないかと思われ、上洛後は本延寺の本山である[[本法寺]]の塔頭教行院に住し、制作活動を行う。[[本法寺]]には当時の住職日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と「信春」印が確認されている。京都で仕事をするには避けられないであろう[[狩野派]]の門をくぐったこともあったが、等伯と[[狩野派]]の美意識とはかなり異なったため肌に合わず、一派から離れて対立する立場となった。この頃多くの文化人たちが集い、茶の湯も流行していた堺で[[千利休>千家]]と親しくなり、大陸との貿易で栄えていた堺で中国の優れた絵師による軸や絵画などに触れることによって様々な技法を消化吸収することができた。また[[利休>千家]]との関係で[[大徳寺]]への出入りを許され、所蔵の名画に接しながら独自の画風を創造していく。52歳の時に[[仙洞御所>京都御所]]の障壁画の仕事が決定するが、[[狩野派]]の圧力により阻止されたという事件が、公家の[[勧修寺晴豊>藤原氏]]の日記『晴豊公記』に記されている。直後に[[狩野派]]の長である[[狩野永徳>狩野派]]が没したため、[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の金碧障壁画の仕事が舞い込んでくる。障壁画のうち「楓図」が等伯自身の筆によるもので、金碧障壁画でありながら[[狩野派]]にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に[[狩野派]]に対抗するまで至った。しかし完成前年に良き理解者であった[[千利休>千家]]が自刃した上、完成直後には等伯の片腕だった息子の久蔵が、26歳という若さで亡くなってしまう。その悲しみを背負って描いたのが「松林図」であるとされ、故郷七尾の松林を描いたという水墨画に等伯の心情が映し出されているといわれる。60歳代になっても次々と大作を手掛け、[[妙心寺隣華院>妙心寺]]「山水図」、[[大徳寺真珠庵>大徳寺]]「商山四晧図」「蜆子猪頭図」、[[南禅寺天授庵>南禅寺]]「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作している。この頃になると等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されている。京都三大涅槃図のひとつにも数えられる[[本法寺]]「大涅槃図」には「[[雪舟]]五代」「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は[[雪舟]]から数えて五代目なのだ」ということを強く打ち出し、長谷川派の結束をより一層固めようとしたとみられている。70歳の時、親しくしていた日通上人が亡くなった頃から心身が衰えだし、慶長15年(1610)、[[徳川家康>徳川氏]]に江戸へと呼ばれるが、道中長旅による衰弱で病に冒され、江戸到着後2日目に没した。等伯の没後、長谷川派は急速に衰退し、等伯が他界した翌年には、後継者であった次男の宗宅も急逝したため、以後、流派としての結束は弱まった。しかし、門弟のひとり長谷川等胤が仙台藩主伊達政宗に重用されたように、遺志を受け継いだ絵師たちの活動はしばらく続いた。さらに各地に散った絵師たちによって、等伯の生み出した作風は描き続けられ、江戸時代初期の屏風絵などに再現されることになる。著書に『等伯画説』など。
&sizex(5){&color(red){作風と代表的な作品}}
等伯は南宋の画家、牧谿(もっけい)の様式に倣った山水画法を基に、ハーフトーンを使った柔らかな質感表現などの独自の技法を取り入れ、桃山美術のシンボル的大作を残した。中でも東京国立博物館が所蔵する「松林図」は水墨の濃淡のみを用い、荒々しい筆致によって一気呵成に仕上げたような作風で、霧に包まれた松林の雰囲気が見事に表現され尽くしている。わが国水墨画を代表する遺品のひとつである。
松林図 東京国立博物館所蔵 国宝
等伯一門「祥雲寺障壁画」 現[[智積院]]所蔵 国宝
[[大徳寺]]三門天井画・柱絵 [[大徳寺]]所蔵 重要文化財
[[大徳寺三玄院>大徳寺]]「山水図襖」 現[[高台寺圓徳院>高台寺]]および樂家所蔵 重要文化財
竹林猿猴図屏風 [[相国寺]]所蔵 重要文化財
等伯一門「[[妙蓮寺]]障壁画」 [[妙蓮寺]]所蔵 重要文化財
枯木猿猴図 [[妙心寺龍泉菴>妙心寺]]所蔵 重要文化財
山水図襖 [[妙心寺隣華院>妙心寺]]所蔵 重要文化財
妙法尼像 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
仏涅槃図 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
日堯上人像 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
波濤図 [[禅林寺>永観堂]]([[永観堂]])所蔵 重要文化財
弁慶・昌俊図絵馬 [[北野天満宮]]所蔵 重要文化財
商山四皓図襖・蜆子猪頭図襖 [[大徳寺真珠庵>大徳寺]]所蔵
商山四皓図・禅機図 [[南禅寺天授庵>南禅寺]]所蔵
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「智積院の「楓図」(国宝)の作者は誰か。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
作品を収蔵する博物館・美術館
京都国立博物館オフィシャル http://www.kyohaku.go.jp/
東京国立博物館オフィシャル http://www.tnm.jp/
承天閣美術館オフィシャル http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/
石川県七尾美術館オフィシャル http://www.city.nanao.ishikawa.jp/nanabi/
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&sizex(6){&bold(){長谷川等伯}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
&ref(chikurinenkouzu.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){長谷川等伯}(はせがわとうはく)は安土桃山期から江戸初期に活躍した天才絵師。[[狩野派]]に対抗し、自ら「[[雪舟]]五代」を名乗り、一代で長谷川派という地位を築き上げた。天文8年~慶長15年(1539~1610)
&sizex(5){&color(red){人物史}}
能登国(現石川県)七尾生まれ。能登国の戦国大名畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたという。現存する作品では26歳筆の落款があるものが最も古く、これらには「信春」印が捺されており、若年期には信春(長谷川信春)の名で活躍していたと考えられている。特に奥村家の菩提寺である本延寺など日蓮宗寺院に多くの作品が残るが、等伯自身が熱心な法華信者だったためという。33歳で養父母を相次いで亡くし、それを機に妻子を連れて上洛したのではないかと思われ、上洛後は本延寺の本山である[[本法寺]]の塔頭教行院に住し、制作活動を行う。[[本法寺]]には当時の住職日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と「信春」印が確認されている。京都で仕事をするには避けられないであろう[[狩野派]]の門をくぐったこともあったが、等伯と[[狩野派]]の美意識とはかなり異なったため肌に合わず、一派から離れて対立する立場となった。この頃多くの文化人たちが集い、茶の湯も流行していた堺で[[千利休>千家]]と親しくなり、大陸との貿易で栄えていた堺で中国の優れた絵師による軸や絵画などに触れることによって様々な技法を消化吸収することができた。また[[利休>千家]]との関係で[[大徳寺]]への出入りを許され、所蔵の名画に接しながら独自の画風を創造していく。52歳の時に[[仙洞御所>京都御所]]の障壁画の仕事が決定するが、[[狩野派]]の圧力により阻止されたという事件が、公家の[[勧修寺晴豊>藤原氏]]の日記『晴豊公記』に記されている。直後に[[狩野派]]の長である[[狩野永徳>狩野派]]が没したため、[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の金碧障壁画の仕事が舞い込んでくる。障壁画のうち「楓図」が等伯自身の筆によるもので、金碧障壁画でありながら[[狩野派]]にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に[[狩野派]]に対抗するまで至った。しかし完成前年に良き理解者であった[[千利休>千家]]が自刃した上、完成直後には等伯の片腕だった息子の久蔵が、26歳という若さで亡くなってしまう。その悲しみを背負って描いたのが「松林図」であるとされ、故郷七尾の松林を描いたという水墨画に等伯の心情が映し出されているといわれる。60歳代になっても次々と大作を手掛け、[[妙心寺隣華院>妙心寺]]「山水図」、[[大徳寺真珠庵>大徳寺]]「商山四晧図」「蜆子猪頭図」、[[南禅寺天授庵>南禅寺]]「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作している。この頃になると等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されている。京都三大涅槃図のひとつにも数えられる[[本法寺]]「大涅槃図」には「[[雪舟]]五代」「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は[[雪舟]]から数えて五代目なのだ」ということを強く打ち出し、長谷川派の結束をより一層固めようとしたとみられている。70歳の時、親しくしていた日通上人が亡くなった頃から心身が衰えだし、慶長15年(1610)、[[徳川家康>徳川氏]]に江戸へと呼ばれるが、道中長旅による衰弱で病に冒され、江戸到着後2日目に没した。等伯の没後、長谷川派は急速に衰退し、等伯が他界した翌年には、後継者であった次男の宗宅も急逝したため、以後、流派としての結束は弱まった。しかし、門弟のひとり長谷川等胤が仙台藩主伊達政宗に重用されたように、遺志を受け継いだ絵師たちの活動はしばらく続いた。さらに各地に散った絵師たちによって、等伯の生み出した作風は描き続けられ、江戸時代初期の屏風絵などに再現されることになる。著書に『等伯画説』など。
&sizex(5){&color(red){作風と代表的な作品}}
等伯は南宋の画家、牧谿(もっけい)の様式に倣った山水画法を基に、ハーフトーンを使った柔らかな質感表現などの独自の技法を取り入れ、桃山美術のシンボル的大作を残した。中でも東京国立博物館が所蔵する「松林図」は水墨の濃淡のみを用い、荒々しい筆致によって一気呵成に仕上げたような作風で、霧に包まれた松林の雰囲気が見事に表現され尽くしている。わが国水墨画を代表する遺品のひとつである。
松林図 東京国立博物館所蔵 国宝
等伯一門「祥雲寺障壁画」 現[[智積院]]所蔵 国宝
[[大徳寺]]三門天井画・柱絵 [[大徳寺]]所蔵 重要文化財
[[大徳寺三玄院>大徳寺]]「山水図襖」 現[[高台寺圓徳院>高台寺]]および樂家所蔵 重要文化財
竹林猿猴図屏風 [[相国寺]]所蔵 重要文化財
等伯一門「[[妙蓮寺]]障壁画」 [[妙蓮寺]]所蔵 重要文化財
枯木猿猴図 [[妙心寺龍泉菴>妙心寺]]所蔵 重要文化財
山水図襖 [[妙心寺隣華院>妙心寺]]所蔵 重要文化財
妙法尼像 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
仏涅槃図 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
日堯上人像 [[本法寺]]所蔵 重要文化財
波濤図 [[禅林寺>永観堂]]([[永観堂]])所蔵 重要文化財
弁慶・昌俊図絵馬 [[北野天満宮]]所蔵 重要文化財
商山四皓図襖・蜆子猪頭図襖 [[大徳寺真珠庵>大徳寺]]所蔵
商山四皓図・禅機図 [[南禅寺天授庵>南禅寺]]所蔵
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「智積院の「楓図」(国宝)の作者は誰か。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
作品を収蔵する博物館・美術館
京都国立博物館オフィシャル http://www.kyohaku.go.jp/
東京国立博物館オフィシャル http://www.tnm.jp/
承天閣美術館オフィシャル http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/
石川県七尾美術館オフィシャル http://www.city.nanao.ishikawa.jp/nanabi/
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