京都観光データベース@ wiki内検索 / 「に」で検索した結果
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に
寺院 西本願寺(にしほんがんじ) 二尊院?(にそんいん) 仁和寺(にんなじ) 神社 城・御所離宮 二条城(にじょうじょう) 地名・園池 人物 仏像 如意輪観音(にょいりんかんのん) 語句 -
応仁の乱
...略 応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代、8代将軍足利義政のときに起こった内乱である。室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(出家して宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、日本が戦国時代に入るきっかけとなった。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。 乱の推移 義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、幕政は実力者の管領家細川勝元・四職家山名宗全、正室日野富子に左右されていた。飢饉や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、29歳になって後継男子がないことを理由に将軍職を僧となっていた実弟の義尋に譲ることを思い立った。義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍就任要請を固辞し続けたが、「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させない」と説得され、寛正5年(1464)、還俗して名... -
二条城
... 概略 二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区にある城。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と徳川家康が建てた慶長年間の建築、徳川家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された、いわゆる桃山時代様式の建造物が現存する。明治17年(1884)に宮内省の所管となり二条離宮(にじょうりきゅう)と改称。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 ※日本の歴史において「二条城」と呼ばれるものは複数ある。 (1)室町幕府第13代将軍足利義輝の居城 (2)織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城 (3)織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸 (4)徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城 現存する二条城は(4)の城である。 (1)と(2)は、同じ場所に作られたが連続性がない。(2)と(3)は同じものと見... -
徳川氏
...くがわし)は、信憑性に乏しいが系図上では新田氏系得川氏の流れを汲む清和源氏の末裔という。徳川家康が創始し、ルーツは三河国(現愛知県)の領主松平氏に婿養子に入った時宗?の遊行僧、徳阿弥。還俗して松平親氏と名乗った。松平親氏を初代とした九代目が家康で、永禄9年(1566)に朝廷の許可を得て、「徳川」に復姓(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。覇権を賭けた豊臣家との関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開く。家康個人の男系子孫たる徳川氏諸家(尾張・紀伊・水戸の御三家、一橋・田安・清水の御三卿など)は、松平の名乗りのみを認められた家康子孫の諸松平家(越前松平家・会津松平家など)とともに親藩を構成し、15代将軍慶喜まで約260年間、日本の支配層として君臨。明治維新の後も、徳川氏は武家の最上流として華族(宗家は公爵、御三家は侯爵、御三卿は伯爵)に... -
豊臣氏
...権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓。公卿の姓である源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏?・橘氏の総称)や菅原氏・賀茂氏・中原氏・大江氏などと並ぶ新姓として朝廷から天正14年(1586)に下賜されたことに始まる。平民の出自である秀吉は本能寺の変や山崎の戦いを経て天下統一に乗り出す。一門衆家臣団を持たなかった秀吉は、有力家臣である大名や全ての武家に任官の際に豊臣朝臣を賜姓授与し、羽柴の名字を与えて「羽柴何豊臣朝臣某」と名乗らせて一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治した。秀吉は弟秀長や甥秀次を後見に実子鶴松を後継者と定めていたが、天下統一を果たした直後に秀長、鶴松を相次いで失う。朝鮮出兵に加えて関白職を譲った秀次を実子秀頼との後継者問題で切腹させるなど混乱が続いたため、秀吉の死後は徳川家康が台頭し、関ヶ原の戦いで豊臣政権擁護派の諸大名を家康に打倒されて政権の座を失う。慶長19~20... -
足利氏
...を汲む武家。平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男義国が下野国足利荘(現栃木県足利市)を領有し、子の義康から足利氏を称する。義康の子、義兼が源頼朝の挙兵に参加、源平合戦、奥州藤原氏討伐まで頼朝の側近として戦い、鎌倉幕府の有力御家人として源氏将軍家に次ぐ地位を得る。義兼が頼朝の妻、北条政子の妹を妻に迎えたのをはじめとして、鎌倉時代には北条氏と縁戚関係を結ぶが、平家の流れを汲む北条氏は源氏の名家である足利氏を常に警戒していたという。のちに足利高氏(尊氏)が京都に幕府を開き、15代義昭まで続く室町幕府を成立させる。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。3代義満は南北朝の合一を達成し、中国の明から「日本国王」として冊封を受け、天皇に迫る権威を確立して足利氏の全盛期を迎えた。6代義教が守護大名に暗殺されたのち将軍の権威は失墜。8代義政は応仁の乱により政治力を失う... -
円山公園
...、京都府京都市東山区にある公園。知名度の高い寺社の集積する東山にあり、庭園を囲んで料理屋が並び、花見席をはじめ四季折々の愉しみを有する、全国でも有数の優れた都市公園である。なお「円山」という山があるわけではなく、長楽寺?山の中腹から西麓方面を円山と呼ぶ。この円山は安養寺?の山号「慈円山」の略で、古くは「丸山」とも称された。札幌の円山公園は京都の円山公園をモデルにしている。 歴史 江戸末期の円山界隈は現在の風景とは大きく異なり、安養寺?や長楽寺?などの時宗?寺院の境内で、特に安養寺?においては急斜面を活かした庭園と建築をもつ6つの塔頭が建ち並び(六阿弥)、席貸を営んで文化活動のできる名所として知られていた。山辺の下部は、大きな境内を持つ祇園社(現在の八坂神社)が占めていた。明治4年(1871)正月に布告された上知令(全国の社寺に対し、境内を除くすべての領地と免租地の上知を命じ... -
嵐山
...る。京都市街の西の端に位置し、古くには嵯峨野もしくは嵯峨と呼ばれた。風光明媚故に平安貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地として、また桜や紅葉の名所として親しまれている。嵐山の中心部を流れる川に架かる渡月橋(とげつきょう)は嵐山の象徴になっており、四季折々の景観が美しい。なお渡月橋をはさんで上流が保津川で下流が桂川、橋の周辺が大堰川と呼ばれている。 歴史 美しい自然や清らかな流れが多くの歌人に愛され、歌にも詠まれた嵐山の地は、平安時代より貴族の行楽地や別荘地として、また大堰川は舟遊びの場として賑わった。山の嵐山(標高375m)は桜の時期の景観が有名で、この桜は後嵯峨上皇の亀山殿造営の際に奈良の吉野から移植されたものであるという。室町時代には天龍寺が建立され、一帯は門前町として発展し、花見や紅葉狩りの名所として茶屋が建ち並ぶこととなる。慶長11年(1606)には角倉了... -
大覚寺
...都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。 歴史 空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)に、嵯峨天皇の皇女である淳和天皇皇后正子内親王が寺院とした。前身である嵯峨院の創立時期は不詳であるが、嵯峨天皇の皇子時代の山荘として造営され、即位後は離宮として利用されたという。承和元年(834)には嵯峨院内に新造御所を設... -
広隆寺
...は、京都市右京区太秦にある寺院。山号は蜂岡山。現在、真言宗?御室派の別格本山。京都最古の寺院で、聖徳太子が建立した七大寺のひとつとされる。帰化人である秦氏の氏寺でもあり、古くは秦寺・大秦公寺・秦公寺・太秦寺・蜂岡寺・葛野寺・桂林寺などとも呼ばれた。創建当初は弥勒菩薩?を本尊としていたが、平安京?遷都前後からは薬師如来を本尊とする。現在の広隆寺本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像。有名な弥勒菩薩?半跏像をはじめとして国宝8件、重要文化財33件を有することでも知られる。 歴史 『日本書紀』によると広隆寺は、推古天皇11年(603)に聖徳太子から仏像を譲り受けた秦河勝が、仏像を安置するために建立した蜂岡寺を起源とする。一方、承和5年(838)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622)、同年に死去した太子の供養のために建立... -
智積院
...、京都市東山区東瓦町にある真言宗?智山派総本山の寺院。山号は五百仏頂山(いほぶっちょうさん)、本尊は大日如来、開基・開山は玄宥(げんゆう)である。川崎大師の通称で知られる平間寺や成田不動として知られる成田山新勝寺などを末寺に持つ。長谷川派による国宝の金碧障壁画を所蔵することで特に有名。 歴史 智積院の創建には、紀伊国(現和歌山県)にあった大伝法院と、豊臣秀吉が建立した祥雲寺という2つの寺が関係している。智積院はもともと根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭寺院である。大伝法院は真言宗?の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野山に創建したが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)に大伝法院を根来山に移して新義真言宗?を打ち立てた。南北朝時代に大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が智積院を建立、根来山内の学問所という位置づけであった。近世には根来山は広大な伽... -
高台寺
...京都市東山区下河原町にある臨済宗?建仁寺派の寺院で、正しくは高台寿聖禅寺と称する。山号は鷲峰山(じゅぶざん)、本尊は釈迦如来。豊臣秀吉の正妻である妻北政所(出家して高台院)が、夫の菩提を弔うために開創した。禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。 歴史 高台寺は康徳寺を前身とする。その間の事情は明らかでない。両者は創建年代等を異にするが、康徳寺は天正より慶長にかけて北政所が生母のために建立した曹洞宗の寺院であったらしい。寺町にあった康徳寺が東山に移転したのは慶長10年(1605)で、この日に北政所も康徳寺に移った。時の権力者、徳川家康は北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命したという。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。創建当時の高台寺の仏殿は、前述の康徳寺の堂を... -
醍醐寺
...は、京都市伏見区醍醐にある真言宗?醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、伽藍は山上の上醍醐と山麓の下醍醐にわかれて建ち並んでいる。寺宝10余万点、うち国宝・重要文化財107件約4万点を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると、創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が霊感を得て笠取山に登り、准胝観音?並びに如意輪観音を造って祀ったのが最初という。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。延喜7年(907)には醍醐天皇の御願寺となって飛躍的に発展し、薬師堂や釈迦堂(金堂)、五重塔など多くの伽藍が建ち並ぶ寺容を整えた。院政期には源氏の座主が続き、永久3年(11... -
聚楽第
...い)は、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都の内野(平安京?大内裏跡で現在の京都市上京区にあたる)に建設した城郭。京都における豊臣政権の中心地として存在した。秀吉、次いで甥の秀次の居城となったが、秀次の失脚後、秀吉の命により破却された。 歴史 関白に就任した秀吉の京都の居館として、天正14年(1586)2月に着工、翌年9月に完成した。瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったというが、全貌を伝えているのは「聚楽第図屏風」に描かれた鳥瞰図のみで、それらによると天守のそびえる城郭であり、本丸を中心に二の丸などの曲輪と堀を巡らした平城としての性格も備えていたことがわかる。天正16年(1588)4月14日には、後陽成天皇の行幸を迎えて、諸大名に天皇と天皇の代理である関白秀吉に忠誠を誓わせたという。また天正少年使節や徳川家康との謁見もここで行われた。天正19年(1591)12月に秀吉が関白職を退... -
毘沙門堂
...市山科区安朱稲荷山町にある天台宗?延暦寺派の寺院で天台五門跡?のひとつ。毘沙門天を本尊とすることから毘沙門堂(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。 歴史 文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路に5間の堂を3棟建立し、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺になぞらえて一寺としたのが毘沙門堂の起こりである。中世後半には戦乱などで廃絶する。慶長16年(1611)に天海が僧正叙任の際にこの門室を賜ったが生前に... -
三千院
...、京都市左京区大原?にある天台宗?の門跡?寺院。円融房、梨本門跡、梶井門跡などとも称する。青蓮院、妙法院?、曼殊院?、毘沙門堂とともに、天台五門跡?のひとつに数えられている。山号は魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄。境内の往生極楽院は元来別の寺院で12世紀から大原?の地にあったもの。明治4年(1871)に三千院の本坊が移転した際に、その境内に取り込まれた。 歴史 三千院は天台五門跡?の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788)に延暦寺を開いた時に、東塔南谷に「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。当時、比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていた。貞観2年(860)、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山麓の東坂本に円融房の里坊を設けて「円徳院」と称したという。円... -
真如堂
...市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。 歴史 『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(992)に寺としたのが起源という。正暦5年(994)には一条天皇により勅願寺となり、仁安元年(1166)には覚快親王、養和元年(1181)には天台座主を4回務めた慈円が別当となっている。往時は堂塔伽藍も壮麗をきわめ、正中2年(1325)には後醍醐天皇より仏舎利の寄進もうけた... -
相国寺
...じ)は、京都市上京区にある臨済宗?相国寺派大本山の寺院。山号は万年山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家ゆかりの禅寺であり、京都五山?の第二位に列せられている。五山文学の中心地でもあり、画僧周文や雪舟を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の境外塔頭である。 歴史 室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた義満によって建てられたことが所以という。義満は禅の師であった天龍寺の春屋妙葩に開山となることを要請したが、春屋はこれを固辞。師である... -
鞍馬寺
...京都市左京区鞍馬本町にある単立寺院で、鞍馬弘教の総本山。本尊を「尊天」と称し、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊の三身一体であるという。山号は松尾山(しょうびさん)、開基(創立者)は鑑禎(がんてい)。山の精霊である天狗が住むという鞍馬山の南斜面に位置し、牛若丸(源義経)が修行をした地として著名。なお寺への輸送機関としてケーブルカーを運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者である。 歴史 寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、鑑真と共に唐から渡って来た高弟8名のうちの最年少であった鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。山背国の北方に霊山があるという霊夢を見た鑑禎は、その霊山を尋ねて出掛け、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は鬼に襲われて殺されそうになるが、あわやという時、... -
梅宮大社
...は、京都市右京区梅津にある神社。酒解神・洒解子神・大若子神(おおわくご)・小若子(こわくご)神の四座を本殿に、橘清友・その娘の嘉智子(嵯峨天皇皇后、檀林皇后)・嵯峨天皇・仁明天皇の四柱を相殿に祀っている。式内社、二十二社のひとつで、旧社格は官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社で、酒造の神として、また子授けや安産の神としても信仰されている。 歴史 正確な鎮座年は不明である。橘氏の祖である県犬養三千代が祀った神を、その子の橘諸兄が建立した円提寺(井手寺とも)に橘氏出身の檀林皇后橘嘉智子が祀り(橘諸兄が祀ったという説もある)、宮人に神託が下って大幣に預からなかったことを怒ったため円提寺より現在地に移されたという。平安期には二十二社中の17番目に列せられ、治承4年(1180)には正一位を授けられている。橘氏の氏神でもあるため、祭日には橘氏が五位1人を奉幣使としたが、県犬養三千... -
長谷川等伯
...土桃山期から江戸初期に活躍した天才絵師。狩野派に対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り、一代で長谷川派という地位を築き上げた。天文8年~慶長15年(1539~1610) 人物史 能登国(現石川県)七尾生まれ。能登国の戦国大名畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたという。現存する作品では26歳筆の落款があるものが最も古く、これらには「信春」印が捺されており、若年期には信春(長谷川信春)の名で活躍していたと考えられている。特に奥村家の菩提寺である本延寺など日蓮宗寺院に多くの作品が残るが、等伯自身が熱心な法華信者だったためという。33歳で養父母を相次いで亡くし、それを機に妻子を連れて上洛したのではないかと思われ、上洛後は本延寺の本山である本法寺?の塔頭教行院に住し、制作活動を行う。... -
鹿王院
...都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗?系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は釈迦如来、開山(初代住職)は春屋妙葩、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である足利義満。 歴史 鹿王院は、康暦2年(1380)に足利義満が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の春屋妙葩は夢窓疎石の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵の塔主となった。夢窓の没後、春屋妙葩は義堂周信とともに夢窓門下の中枢として天龍寺・臨川寺焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に延暦寺衆徒の強訴に端を発して管領細川頼之と対立し、春屋は丹後国に隠棲した。康暦元年(1379)に細川頼之が失脚したのち、天龍寺雲居庵に復職。南禅寺に住み、足利義満の信任を得て全国の禅僧を統轄した。宝幢寺と鹿王院の建立は春屋が復帰した康暦元年(1379)のこととみられている。至徳2年(1385)に... -
知恩院
...ん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。 歴史 知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?は比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を建て、そこを念仏道場とした。草庵は地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと呼ばれるようになる。専修念仏とは、いか... -
清凉寺
...は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。棲霞寺草創から数十年後、宋に渡って五台山清凉寺で修行していた奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧が、宋への渡航中に台州の開元寺... -
苔寺
...は、京都市西京区松尾にある臨済宗?の寺院。一般には通称の苔寺(こけでら)で知られる。山号を洪隠山(こういんざん)。開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は西方寺と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然?などが入寺したと伝える。近くにある松尾大社?の宮司藤原親秀?は、暦応2年(1339)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを西芳寺と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由... -
善峯寺
...市西京区大原野小塩町にある天台宗?系単立の善峯観音宗の寺院。山号は西山、本尊は千手観音、開基(創立者)・開山は恵心僧都の高弟、源算。西国三十三箇所観音霊場の第20番札所で、桜や紫陽花、紅葉の名所としても有名。 歴史 草創は寺伝によると天台宗?の僧、源算が長元3年(1030)に伽藍を建立した(長元2年(1029)とも)のが始まりという。源算は因幡国(現鳥取県)の人で、出家して比叡山で授戒した。源算が比叡山を降り、西山に道場を建立しようとしたところ、霊夢に助成の申し出があり、その夜、数千匹の猪が境内地にあった邪魔な岩を砕いたという。本尊の千手観音は長久3年(1042)に洛東の鷲尾寺に安置されていたものを、後朱雀天皇の命によって移したもの。平安後期、後三条天皇の皇后が懐妊のときこの像に祈祷して後の白河天皇を出産したといい、白河院政期には幾つかの荘園が寄進され、平安末期には50余の... -
天龍寺
...すすきのばばちょう)にある、臨済宗?天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正式に天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山?の第一位とされてきた。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺?があった。その後、荒廃していた檀林寺?の地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇が離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統... -
法観寺
...京都市東山区八坂上町にある寺院。山号は霊応山、宗派は臨済宗?建仁寺派。本尊は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、無量寿如来、不空成就如来)。現在は五重塔と若干の建造物のみが残存し、塔は八坂塔(やさかのとう)の通称で知られる。 歴史 『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によると、推古天皇の御世に聖徳太子が四天王寺建立のための材木を山城愛宕郡に求めたときに一寺を建立し、五層の宝塔を設け、仏舎利を奉安して法観寺あるいは八坂寺と称したことを起源としている。塔の周囲の発掘調査でも飛鳥時代の瓦が発見され、この時代の建立が確実視されている。天暦年間(947~57)に天台宗?の僧、浄蔵が入寺した。強盗数十人が押し寄せた時に霊験で強盗を拘束したという説話や、塔が宮中の方角に傾いていたのを、祈祷によって直したという説話で知られる。治承4年(1180)に雷火のため焼失するが、のちに源頼朝によって再... -
八坂神社
...都市東山区祇園町北側にある神社。素戔嗚命(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらみこがみ)を祀る。神仏分離以前は祇園感神院・祇園社と称していたため「祇園さん」の愛称で呼ばれる。二十二社のひとつで、旧社格は官幣大社。疫病退散・無病息災・家運長久・商売繁昌などのご利益があるとされ、朝廷や幕府、京の市民の信仰を集めた。 歴史 八坂神社の名称は明治元年(1868)に始まるが、歴史的には祇園感神院・祇園社の名称が長い間使われてきた。貞観18年(876)に僧円如が興福寺の末寺として堂宇を築いたのが始まりとされるが、社伝では斉明天皇2年(656)の創建という。御霊信仰の高まりとともに諸階層の信仰を集め、祇園祭?の前身である6月の御霊会?(祇園会?)も盛大に行われるようになった。10世紀後半に、当時の別当良算がすぐ東にあった延暦寺の末寺の紅葉の枝を観... -
恵心僧都
...暦寺の横川(よかわ)にある恵心院で修行したため、恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)とも呼ばれる。浄土真宗?が言うところの七高僧の一人で、鎌倉時代の浄土教?や民衆仏教に大きな影響を与えた。源信の作と伝わる仏像も数多い。天慶5年~寛仁元年(942~1017) 人物史 大和国(現奈良県)当麻生まれ。父は卜部氏、母は清原氏。父の死後、信仰心の篤い母の影響により9歳で延暦寺中興の祖である良源(元三大師)の門に入り、止観業、遮那業を学ぶ。学識豊かな論議の名手として知られ、15歳のとき、村上天皇により法華八講の講師のひとりに選ばれたが、母の教えに従って人目に立つことを避け、比叡山横川の恵心院に籠もる。その後は学問と念仏に没頭するようになった。43歳で執筆を開始したといわれる『往生要集』は、現世の悪や浄土の美、地獄の恐ろしいありさまを具体的に描きだし、浄行三昧念仏を唱えるこ... -
東福寺
...は、京都市東山区本町にある臨済宗?東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家?、開山(初代住職)は聖一国師?、円爾弁円?(えんにべんねん)である。京都五山?の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。 歴史 東福寺が建つ地には、延長2年(924)に藤原忠平?によって建てられた藤原氏?の氏寺、法性寺?の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1236)、九条道家?(鎌倉4代将軍藤原頼経?の父)は、この地に高さ5丈(約15m)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立す... -
関山慧玄
...)として妙心寺の創建に関わる。明治天皇から無相大師と追諡された。師の南浦紹明?(大応国師?)や宗峰妙超(大燈国師)から受け継がれた純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗?はほとんどこの法系に属する。建治3年~正平15年/延文5年(1277~1361) 人物史 信濃国(現長野県)の出身で、信濃源氏の一族とされる。徳治2年(1307)に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明?に師事。慧眼の法名を授かり、南浦?寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅する。建長寺開山の蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じた際、ここで宗峰妙超を紹介され、大徳寺で宗峰妙超に師事。やがて「雲門の関字」の公案で開悟し、宗峰妙超がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のちに美濃国(現岐阜県)の伊深に草庵を結んで隠棲する。建武4年(1337)に花園... -
定朝
...ょう)は平安時代後期に活躍した仏師。彫りが浅く、平行して流れる衣文や瞑想的な表情などの作風は「仏の本様」と称せられる。のちに「定朝様」として日本の彫刻の規範とされ、定朝の表現を踏襲した作例が多く造られた。?年~天喜5年(?~1057) 人物史 初めて寺院から独立した工房を構え、有力貴族や寺院の造像を行った康尚の子といわれる。藤原道長?の法成寺の造像に加わり、道長?の没後は子の頼通?のもとで活躍する。永承3年(1048)には興福寺中金堂・南円堂の復興造像を手掛け、天喜元年(1053)には平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造像するなど、藤原氏?一族の造仏に従事した。万寿3年(1126)には後一条天皇の中宮威子の御産御祈の等身仏の造像を手掛ける。その際、統率下に20人の大仏師と各5人の小仏師が組織されていたことが記録に知られており、すでに充実した工房組織を持ち、大規模かつ大量な造像をこ... -
千本釈迦堂
...、京都市上京区溝前町にある真言宗?智山派の寺院。俗に千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)、北野釈迦堂とも呼ばれる。山号は瑞応山、本尊は釈迦如来。本堂は旧京都市街に現存する本堂建築としては最も古く、また重要文化財の仏像19躯を有する中世彫刻の宝庫でもある。 歴史 承久3年(1221)に猫間中納言藤原光隆?の従者、岸高が藤原秀衡の孫にあたる僧、求法上人義空に土地を寄進し、小堂に仏像を安置したことに始まる。昭和26年(1951)の解体修理で発見された義空の願文によれば、上棟は安貞元年(1227)2月26日である。嘉禎元年(1235)に綸命を受け、倶舎・天台?・真言?三宗弘通(ぐずう)の道場となったが、その後天台宗?となり、近世初期には庶民の信仰を集めた。天正9年(1581)には豊臣秀吉より寺領100石を朱印され、江戸時代にも同石高の朱印を受けているが、住僧の違法を理由に京都所司代の板... -
四天王
...聞天をいう。武器を手に甲胃をつけた武将形で、邪鬼を踏みつけるように立つ。日本において、多聞天のみが独尊像として造像安置される場合は毘沙門天と呼ぶのが通例で、民間信仰においては七福神のひとつにも数えられている。 名称 東方の持国天は「国を支える者=持国」という意味である「ダータラシュトラ」が和名となって提頭頼咤天(だいずらいた・Dhrtarastra)に、南方の増長天は「大きく育つ=増長」という意味である「ヴィルーダッカ」が毘楼勒叉天(びるろくしゃ・Virudhaka)に、西方の広目天は「千里眼を持つ者=広目」という意味である「ヴィルパクシャ」が毘楼博叉天(びるばくしゃ・Virupaksa)、北方の多聞天は「すべてを一切聞きもらさぬ=多聞」という意味である「ヴァイシュラヴァナ」が毘沙門天(びしゃもん・Vaisravana)となった。なお像名と立ち位置の覚え方に「トン・ナン・シ... -
萬福寺
...じ)は、京都府宇治市にある黄檗宗?大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦(いんげんりゅうき)、本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗?の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物、仏像、儀式作法から精進料理に至るまですべて中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは全く異なった雰囲気を持ち、普茶料理、煎茶道、唐様書道など、隠元のもたらした中国文化は日本の文化全体に大きな影響を与えた。なお「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」である。 歴史 隠元隆琦は中国明時代の万暦20年(1592)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元が招かれて来日するのは63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取ってはいたが、長崎港のみは開かれて明人が居住し、崇福寺、... -
西本願寺
... 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺という位置づけだったため、本願寺の活況は延暦寺宗徒の反感を買い、堂舎はたびたび破却され、各地に移転を繰... -
哲学の道
...照寺(銀閣寺)の参道にある銀閣寺橋から、南は若王子神社?付近の若王子橋に至る約2kmの小径で、琵琶湖疏水?の分流に沿って続く。疏水?の両岸に植えられた桜や紅葉の美しさは見事であり、また夏には蛍が飛び交うことから、四季を通じて多くの観光客で賑わう。 歴史 明治23年(1890)に東山山麓に琵琶湖疏水?に続く分流が開通し、疏水?沿いに小径が造られた。もともと「思索の小径」と呼ばれていたが、大正時代に活躍した京都帝国大学の講師だった西田幾多郎、田邉元ら哲学者が好んで散策し、思索にふけったことなどから「哲学の道」や「哲学の小径」と呼ばれるようになった。また、疏水?より東の山際にある細い道が、ドイツのハイデルベルクの「哲学者の道」と地形がそっくりなため、元来の「哲学の道」だったが、それがいつの間にか疏水?べりの道がそう呼ばれるようになった、という説もある。哲学の道から法然院?へ上がる... -
建仁寺
...概略 建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗?建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。日本最古の禅寺であり、京都五山?の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。 歴史 建仁寺は日本に臨済宗?を正式に伝えた栄西が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗?の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は天台?、真言?、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では真言?、天台?の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)に宋僧の... -
角倉了以
...桃山時代から江戸初期にかけて活躍した京都の豪商。海外貿易や河川開発事業に活躍したことで知られる。琵琶湖疏水?の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名。本姓は吉田光好といい、了以は号。天文23年~慶長19年(1554~1614) 人物史 角倉家は本姓を吉田といい、近江国(現滋賀県)佐々木氏の分家であるという。室町中期に上洛して幕府お抱えの医者をつとめ、医業で得た財を元に土倉(質屋・高利貸し)を営むようになる。了以の祖父である宗忠の代には洛中の帯座座頭職を取得、京都の帯の販売権を把握して経済的基礎を固めた。宗忠は長男に土倉業を継がせ、了以の実父である次男の宗桂に医者を継がせる。宗桂は2度も明(中国)に渡って先進医術を学んだ開明派の人物で、父親から諸外国の経済事情を聞かされた了以は、家長となった18歳の頃から海外貿易がもたらす莫大な利益に着目するようになる。文禄元年(1... -
貴船神社
...ゃ)は、京都市左京区にある神社。貴船川?の上流にあり、雨水をつかさどる水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、雨乞・止雨の神として崇敬された。晴れを願うときには白馬が、雨の場合は黒馬が奉納されたといい、のちに馬に代わって馬を描いた木板が奉納されたことから、絵馬が発祥したという。縁結びの神としても知られ、一方で丑の刻参りでも有名である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣中社。日本全国に約450社ある貴船神社の総本社である。 歴史 創建の年代は不詳であるが、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って鴨川から貴船川?を遡って彼の地に上陸し、水神を祭ったのに始まるという。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が玉依姫命が乗ってきた船と伝わる。「気の産まれる根源」が転じて気生根になったともいい、貴布禰... -
勧修寺
...じ)は、京都市山科区にある門跡?寺院で真言宗?山階派の大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。 歴史 創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母藤原胤子?の追善のため、胤子?の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の千手観音像を安置したという。寺名は外祖父藤原高藤?の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する宮門跡?寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを焼失し... -
最澄
... 近江国(現滋賀県)に生まれ、12歳で近江国分寺に入り出家。15歳で得度し、最澄と名付けられた。20歳からは比叡山に篭り、学問と修行に専念する日々を送る。延暦7年(788)、現在の延暦寺の根本中堂となる一乗止観院を設立。その後、桓武天皇に認められ、天皇の側に出仕して祈念や仏法を講じる内供奉(ないぐぶ)に就任。桓武天皇は国内での天台宗?の興隆を求めたが、最澄は経典の不備等を理由に延暦23年(804)に唐へ渡り、経典を入手するとともに密教?を学んだ。延暦25年(806)に日本天台宗?の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台?の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏... -
空海
...嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。宝亀5年~承和2年(774~835) 人物史 讃岐国(現香川県)の豪族・佐伯氏の子として生まれた。母親は阿刀氏の出身。15歳で桓武天皇の皇子、伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学び、18歳で京の大学に入った。大学での勉学だけでは飽き足らず、20歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示し、正式に大学を辞した。これ以降、入唐までの空海の足取りは不明である。吉野の金峯山や四国の石鎚山などを中心に山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだという。空海の得度に関しては、延暦12年(793)に槇尾山寺で出家した、という説が古くからとなえられてい... -
豊国神社
... 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区茶屋町にある神社。俗に「ほうこくじんじゃ」「ほうこくさん」とも呼ばれる。祭神は豊臣秀吉(豊国大明神)。旧社格は別格官幣社。ご利益は立身出世、開運招福など。秀吉に関連のあった土地にも同名の神社がある(大阪城公園・滋賀県長浜市・名古屋市中村区など)。 歴史 慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が没すると、遺命により遺体は方広寺?の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に葬られた。その麓に方広寺?の鎮守社として建立されたのに始まる。同年9月に起工し、翌年(1599)3月中旬に落成、4月16日に仮殿遷宮、18日には後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られた。同日正遷宮の式が行われ、徳川家康が豊臣秀頼の名代として社参。この正遷宮の式が行われた4月18日と豊臣秀吉の命日である8月18日には慶長20年(1615)まで毎年祭礼が盛大に行われたと... -
妙心寺
...は、京都市右京区花園にある臨済宗?妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄である。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周囲には46ヵ寺に及ぶ塔頭寺院が建ち並ぶ。日本にある臨済宗?寺院約6,000ヵ寺のうち約3,400ヵ寺を妙心寺派が占めており、寺院運営に秀でた妙心寺は俗に「妙心寺のそろばんづら」とも呼ばれる。 歴史 京都の禅寺は、五山十刹?に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」と呼び、妙心寺は大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする林下の代表的寺院である。建武2年(1335)に開基である花園上皇が剃髪して法皇となり、離宮萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の師は大徳寺開山の宗峰... -
金戒光明寺
...、京都市左京区黒谷町にある黒谷浄土宗?の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。知恩院・清浄華院?・百万遍知恩寺?とともに浄土宗?大本山のひとつとして高い格式を誇り、「黒谷(くろだに)さん」の俗称でも知られる。幕末には会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を置いて家臣と共に駐屯した。 歴史 寺伝によれば、承安5年(1175)に法然?が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされる。草庵の地はもと延暦寺の寺領であり、この地にあった白河禅房を法然?が師より譲りうけて念仏道場とした。なお比叡山の黒谷(元黒谷)に対して新黒谷と呼ばれたが、現在は新黒谷は使われず単に黒谷と呼ばれる。寺号の紫雲山は、法然?がこの地に紫雲光明の発するのを見たことに由来するとされる。法然?の没後、弘安9年(1286)頃には仏殿や御影堂などの伽藍が整備されていたようで、8世... -
伏見稲荷大社
...市伏見区深草薮之内町にある神社で、稲荷神を祀る全国4万余の稲荷社の総本社。稲荷山の麓に本殿があり、山全体を神域とする。祭神は宇迦之御魂大神。旧社格は官幣大社。ご利益は五穀豊穰、商売繁盛など。 歴史 創建については『二十二社註式』によると和銅4年(711)のこととされる。『山城国風土記』には、秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が餅を的としたところ、白鳥となって飛び立ち「伊祢奈利(いねなり=稲)」が生えたので、それを社の名としたという(餅が新たな稲を生むという、稲荷神の農耕神としての性格がみえる)。稲荷神は当初稲荷山の山頂三ヶ峰に鎮座していたが、永享10年(1438)に現在のように山上から現在地に移った。延久4年(1072)3月には後三条天皇の行幸があり、以降鎌倉時代にわたって歴代天皇が行幸する慣例となる。嘉禄2年(1226)、稲荷上中両社の御旅所の火災により神体が焼失。応仁2年... -
銀閣寺
...じ)は、京都市左京区にある臨済宗?相国寺派の寺院で相国寺の境外塔頭。通称銀閣寺、山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍足利義政、開山は夢窓疎石とされている(実際には夢窓疎石は創建より100年ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という)。慈照寺の名は足利義政の法名にちなむ。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 室町幕府8代将軍の足利義政が嗣子義尚(よしひさ)に将軍職を譲ったのち、文明14年(1482)に東山の月待山麓に山荘東山殿を造営した。東山殿は祖父足利義満の北山殿(金閣)にならい、義政が自らの美意識を投影して8年の歳月を費やし建立。簡素で枯淡の美を真髄としたその意匠は、後世に東山文化と呼ばれる。当時は応仁の乱が終結した直後で、京都の経済は疲弊していたが、庶民に段銭(臨時の税)や夫役を課して造営が進められた。東山殿の完成を見... -
仁和寺
... 概略 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗?御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」の別名があり、桜の名所としても知られる。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年死去した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888)に落成し、年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に御室と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」の別称がある。なお、御室の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。宇多天皇が入道親王として初代住職を務めて以... - @wiki全体から「に」で調べる