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春屋妙葩
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春屋妙葩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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概略
春屋妙葩(しゅんおくみょうは・しゅんのくみょうは)は室町時代の臨済宗?の禅僧で、天龍寺や臨川寺の住職を歴任。師である夢窓疎石を勧請開山とし、第二世住職(事実上の開山)として相国寺を開き、臨済宗五山派を興して五山版の刊行なども行い、五山文化の発展に寄与した。諡号は知覚普明国師。応長元年~元中5年/嘉慶2年(1311~1388)
春屋妙葩(しゅんおくみょうは・しゅんのくみょうは)は室町時代の臨済宗?の禅僧で、天龍寺や臨川寺の住職を歴任。師である夢窓疎石を勧請開山とし、第二世住職(事実上の開山)として相国寺を開き、臨済宗五山派を興して五山版の刊行なども行い、五山文化の発展に寄与した。諡号は知覚普明国師。応長元年~元中5年/嘉慶2年(1311~1388)
人物史
甲斐国(山梨県)の生まれで、姓は平氏。7歳のとき、母方の叔父である夢窓疎石について出家。夢窓に随侍し己事の究明に励んだ。観応2年(1351)に夢窓が77歳で没すると、すでに一流の禅僧に成長していた春屋は、『夢窓国師年譜』を撰し、教えを集めた法語集『西山夜話』を世に出した。室町幕府初代将軍足利尊氏は夢窓の後継者として春屋に目をつけ、延文2年(1357)には等持寺?に請じている。同3年に天龍寺が焼失した際は、自ら復興の幹事を務め、土木の労役の先頭に立った。その熱意と誠意でほどなく旧観に復したという。康安元年(1361)に今度は臨川寺が災いにあうと、同門諸老の間に「春屋でなければとても復興の見込みなし」との意見が一致。春屋は再三辞退したものの、11月に住職を託され復興工事を完成されるに至った。天龍寺の住職当時、五山第一の南禅寺造営の命を受けたが、楼門(山門)の新築に際しての関銭徴収をめぐって園城寺(三井寺)が抗議。比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や春屋の配流を求めたことから、紛争は政治問題にまで発展した。応安2年/長慶24年(1369)に幕府管領の細川頼之は楼門を撤去させる。春屋は頼之と対立して天龍寺住職を辞し、勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲し、和解をも拒否。康暦元年/天授5年(1379)の政変で頼之が失脚した後、春屋は再び入京、南禅寺住職として復帰した。その後、3代将軍足利義満の帰依を受け、初代の僧録となる。晩年は相国寺の初代住職となったが、落慶に間に合わず示寂した。
甲斐国(山梨県)の生まれで、姓は平氏。7歳のとき、母方の叔父である夢窓疎石について出家。夢窓に随侍し己事の究明に励んだ。観応2年(1351)に夢窓が77歳で没すると、すでに一流の禅僧に成長していた春屋は、『夢窓国師年譜』を撰し、教えを集めた法語集『西山夜話』を世に出した。室町幕府初代将軍足利尊氏は夢窓の後継者として春屋に目をつけ、延文2年(1357)には等持寺?に請じている。同3年に天龍寺が焼失した際は、自ら復興の幹事を務め、土木の労役の先頭に立った。その熱意と誠意でほどなく旧観に復したという。康安元年(1361)に今度は臨川寺が災いにあうと、同門諸老の間に「春屋でなければとても復興の見込みなし」との意見が一致。春屋は再三辞退したものの、11月に住職を託され復興工事を完成されるに至った。天龍寺の住職当時、五山第一の南禅寺造営の命を受けたが、楼門(山門)の新築に際しての関銭徴収をめぐって園城寺(三井寺)が抗議。比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や春屋の配流を求めたことから、紛争は政治問題にまで発展した。応安2年/長慶24年(1369)に幕府管領の細川頼之は楼門を撤去させる。春屋は頼之と対立して天龍寺住職を辞し、勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲し、和解をも拒否。康暦元年/天授5年(1379)の政変で頼之が失脚した後、春屋は再び入京、南禅寺住職として復帰した。その後、3代将軍足利義満の帰依を受け、初代の僧録となる。晩年は相国寺の初代住職となったが、落慶に間に合わず示寂した。
その他