ここを読んでいるという事は、君は恐らくD-76に愛想を尽かしたのだという事だと思う。すまない。だが君の為なんだ。
D-76は確かに万能だ。世の中の大抵の写真用フイルムを可もなく不可も無く現像できる。現像データだって世の中に溢れている。T粒子フイルムは少し苦手だが、それ以外なら何だって出来ると言ってもいい。
だがそれだけだ。それ以上の物ではない。
粉末式である以上希釈は手間だ。粉を溶かして一晩待てるような余裕があるならばそれで良い。だがその瞬間に現像したい時もあるだろう。ならば溶かしてボトルに詰めておく?液の量が減ればあっという間に劣化する。微粒子かと言われれば現在の超微粒現像液を使った時程の微粒子にはならない。粒子の立ったパンチの効いた画が欲しいならばRodinalやFX-1を使った方が良い。静止現像のような現像方にも向かない。T粒子フィルムが普通に現像できたらどんなに良いかと考えたこともあるだろう。そこで君に薦めたい物がある。HC-110だ。きっと満足してくれる物と思う。
HC-110とは
Kodakが誇る濃縮一般現像液の一つ。黄色くドロリとした液体状で1Lボトル入りが販売されている。初登場は1962年頃とされ、当時から高速での現像が可能な現像液として宣伝されていた。その後一般撮影用や特にフォトジャーナリストから汎用現像液として愛用され、現在も生産が続けられている。
HC-110自体はKodakにおける現像液としても異端の命名規則を持っている。"HC"は恐らくHighly Concentrated (高濃縮の)であろうと推測されているが、同時にHC-110はKodakのペーパー用フイルム用を問わず唯一のHC銘を抱く現像液である。一般的な現像液であればDやDK銘、又はデクトールやエクストールのようなスタイルで命名される筈であるが、何故HC-110がその例から外れているのかは定かではない。
元々欧州向けと他の全世界向けで組成が異なっていた物の、2019年現在では同一の物に統一されている。特徴はその経済性と保存性で、最も多様されるB希は原液対水の比率が1:31、静止現像等用とするならば1:200でも現像を行う事が可能。保存性に関しても原液状態であるならば半永久的な保存が可能という凄まじい現像液。特性としてはD76に近く、2003年度版のKodak Professional Catalogには
Negative quality is similar to that produced with KODAK PROFESSIONAL Developer D-76 but with shorter development times.
=ネガの品質としてはD-76と同等だが、より短かい現像時間を得るとの記載がある。
一般的にフイルムの粒状性が問題となるのは135フィルムのような小型フォーマットに於いてである。中判以上、ましてや4x5やそれ以上の大フォーマットでは当然ながら大面積のフィルムが多少の粒状性の悪化をカバーするため、極端な微粒子が求められる事はよほど限定的な状況でない限り無いと言って良いだろう。HC-110は保存性が良く、経済的で、かつ実用的なレベルの粒子感を得られる現像液として非常に使い勝手が良い。
Linhof Super Technika V, Fujinon SW90/8, Kodak T-MAX100, HC-110(H)
保存性について
現像液は一般的に空気と反応して劣化し、その現像力を失う。その為保存時には小分けのビンに保管するなどして可能な限り空気と触れないようにする必要性がある。が、HC-110は数少ない例外である。HC-110の原液、ドロリとした黄色い液体の状態であれば、半永久的な保存が可能なのである。勿論酸化が進むと液は黄色から赤褐色に変化して行く。が、ただそれだけである。赤褐色に変化したHC-110は黄色の際と変わらぬ現像力を持ち、現像時間や希釈率に関しても特に変更を加える必要は全くない。
写真は期限が切れて更に酸化が進み赤褐色となったHC-110と、新品未開封のHC-110の比較である。この両者で現像力の差は全く無いと言ってよい。
入手について
HC-110の組成についてKodakが公式に説明した事は無い。勿論米特許やMSDSからある程度の組成を予測する事は可能であるが、厳密な所は2019年現在でも不明である。その為か日本では正規にはほぼ流通しておらず、特に家電量販店での入手は不可。新宿のヨドバシでは明確にHC-110の取扱が不可能である旨を掲示している始末。その為HC-110は凄まじく入手性の悪い現像液となっている。
日本国内で購入する場合はウェブ通販の利用を推奨。とはいえ需要の関係から割と高いので、纏まった数を海外から個人輸入しても良いかもしれない。
本家コダックのボトルでは原液1リットルの物のみが販売されているが海外の各種メーカーより互換現像液が販売されている。おそらくこれら互換現像液はコダックが公開している特許のものベースになっていると思われるが、実使用上に大きな違いは無い。互換現像液の現像時間及び希釈についても本家のものが流用できる。HC-110の極端なまでに長い保存耐性は溶媒に水を含まないことで達成していると考えられているが、その代償として非常に粘度が高くまた水にも溶けづらい。*1対照的に互換現像液は一般的に成分の中に水を含んでおり保存性としては劣るものとなっているが、より粘度が低く扱いやすい。とは言えもともとが非常に保存性の良い現像液であるためこれら互換現像液も多少酸化が進み液の色が変わった程度ではその現像力を失う事は無い。
*1: 2019年末-20年頭頃にKodakがHC-110の処方を変更し、長年親しまれた黄色い液体から透明でよりサラサラした物へ変化している。恐らく互換現像液に近い処方になった物と推測される。
互換現像液は本家よりもパッケージが小さく、大量に使用しないのであればこちらの方が便利。現像タンクメーカーのステアマンとLegacy Proからそれぞれほぼ同じものが発売されている。
希釈率について
HC-110の基本的な用法は希釈してのワンショット利用である。即ち、D-76などで行われる一度現像した液を再度使い回すような用法は想定されていない。実用上は適切に現像時間を延長する事で2-3回程度の再利用は出来るようだが、原則としてワンショット用とする方が良いだろう。
HC-110の大きな特徴は、その柔軟な希釈率である。A希釈 (1:15), B希釈 (1:31)に始まりF希釈(1:79)や H希釈(非公式, 1:63)、果ては静止現像用の1:100や1:200に希釈しても使用が可能である。静止現像時はRodinalよりブロマイド線(Bromide drag)が発生し辛いとされる。
A希釈〜F希釈までがごく一般的に使用される希釈率であるが、1:15と言う強度で使用するA希釈はあまりに現像時間が短くなりがちであり常用するのは厳しい。また原液の使用量が増えるためHC-110の特徴である経済性も大きく損われる。最も汎用的に使用されるのが1:31のB希釈で、これはコダックが意図するところのD-76に最も近い描写をする希釈率である。多くの場合HC 110での現像といった場合このB希釈用にデータが用意されていることが多い。
D-76を希釈して使用する時と同じくHC-110も希釈率を高めることによって見かけ上のシャープネスの増加やシャドウの情報を引き出すことができるようになる。B希釈の2倍の希釈率に相当する通称H希釈はその典型で、現像時間を長くすること結果のばらつきを抑えつつも見た目のシャープネスを上げることが可能であることから、海外ではB希釈と並び広く使用されている。特にこのH希釈はT粒子のフィルムとも相性が良く、T-MAX400と組み合わせた際シャドウのディティールが豊富かつそれなりに微粒子の結果を得ることができる。
特殊な使用法
Rodinalと並びHC-110は現像力の強い薬品である。この為、希釈率の低いA希釈であればペーパーすら現像できる。もちろん専用のペーパー現像液と比べてその処理可能数は著しく劣るものの、例えばキャビネ版を10枚程度と言うのであればHC-110は十分にその役割を果たすことができる。
海外ではHC-110のA希釈に対してアンモニア水と各種ケミカルを混ぜることによりモノバス化する手法が存在することが知られている。極端に入手性の悪い薬剤は一切使われていないため場合によっては調合を考えても良いかもしれない。
最終更新:2020年02月26日 22:13