「過去を殺せ」

(投稿者:ししゃも)







「あら、おかえり」
 ちょうど和服を着た留美子が、座布団に腰を下ろしたところだった。長方形の食卓にはまだ朝食が並べておらず、代わりにやかんと二つの湯呑みが置かれていた。朝の素振りを済ませたアサガワは、いつものように留美子の近くに腰を下ろす。パラドックスジョーヌはまだ姿を見せておらず、それが十分ぐらい続くと、まだ寝ているであろう彼女たちを叩き起こそうと、腰を上げようとした。
「二人は朝食の手伝いをしてもらっている」
 それを先に言って下さいといわんばかりの表情をすると、アサガワはお茶が入ったやかんに手を伸ばした。
「二人とも、MAIDとしての才能は確かだし、女中としての才能も然り」
 アサガワは湯呑みにお茶を注ぎ終えると、留美子の方に湯気が昇っているそれを渡した。その後で、自分の湯飲みにお茶を注ぎ始める。縁台の、居間へ続く廊下から足音が聞こえてきた。アサガワは朝食が運ばれてきたことを悟ると、障子が開いた。
「おはようございます」
 両手でお盆を持った割烹着姿のパラドックスが、無愛想な表情で挨拶を言った。アサガワと留美子は「おはよう」と返事を返すと、パラドックスはそそくさとお盆に乗っている茶碗やお箸を並び始めた。後から続くように、ジョーヌや女中の仁鳥と、その娘――おかっぱ頭で気弱そうな顔をしている彩がアサガワと留美子に挨拶をした。
「真美さんや。この女中さん、ほんと要領が良くて、朝の支度が捗りましたわ」
 先祖代々朝川家の女中として働いている仁鳥は、五十過ぎとは思えない豪快な声で二人のMAIDを褒める。ジョーヌは照れ笑いしながら、パラドックスと共に朝食の準備にかかった。
 もう少しジョーヌは大口を叩くかとアサガワは思ったが、ここが見知らぬ楼蘭皇国の朝川家にお邪魔している以上、身を慎んでいるだろうかと思った。
 そう思っている間に白米、大根の煮付け、味噌汁。懐かしい故郷の料理が並べられる。明朝から素振りをしていたため、アサガワは早くこれらを食べたいという衝動に駆られた。その間に女中たちは支度を済ませると、仁鳥はアサガワの横へ座る。彩は母の横へ座ると、パラドックスとジョーヌは彼女らの対面になるように腰を降ろした。
「お早うございます、女中のみなさん」
 改めるように留美子は挨拶を言うと、仁鳥やパラドックスたちは「おはようございます」と返した。
「それでは、食べましょうか。いただきます」



M.A.I.D.ORIGIN's AfterStory_LAST 「過去を殺せ」



「剣道、ですか」
 朝川宅の庭で、パラドックスは竹刀を持っていた。庭の広さはかなり広く、その場にいるパラドックスとアサガワがお互いに暴れまわっても差し支えないほどだった。剣道着に「たすきがけ」をしたアサガワは後ろ髪を括っており、竹刀を肩にかけている。
 その風貌はまさに「教官」という言葉が相応しかった。
「マイスターシャーレで教えてあげたかったが、あそこは近代戦特化のカリキュラムだからな。白兵戦は銃剣で済まされたし」
 アサガワはそういうと、パラドックスの横で竹刀を振った。風を切り裂く音と同時に竹刀が振り落とされる。
「で、留美子さんと真剣試合ですか」
 朝食を済ませた後、アサガワ本人から真剣試合の内容を聞いたパラドックス。彼女は厄介事になったと思いながら、事の真相を聞こうとする。
「ああ、そうだ。お前とジョーヌを審判員として来てもらう予定だ。女中の仁鳥や彩は物騒ごとは嫌いだからな。ちょうどよかったよ」
 パラドックスは肩をすくめると、アサガワと同じように竹刀を振る。だがそれは乱暴に振っただけで、アサガワは直ぐに素振りをやめて、パラドックスの背後へ回った。
「よし、分かった。まずは肩の力を抜いてリラックスしろ」
 そっとパラドックスの両手に自分の手を重ねたアサガワは、ゆっくりと彼女の両手を上へ押し上げる。
「すり足だ。竹刀を握っている両手が額まで上がったら、右足を前へ滑らすように出せ。同時に竹刀をまっすぐ振るんだ」
 アサガワの素振りよりもやや音が出なかったが、パラドックスが振った竹刀は空を切り、さっきの乱暴に振っていたそれとは別格の音が鳴った。
「振り終わったのと同時に左足を擦って、振る前と同じ位置にするんだ。最後は左足を後ろに伸ばして、元の位置へ戻れ」
 アサガワはパラドックスの左足を優しく蹴ると、彼女のそれは地面を前へ擦った。その後、すぐに左足を後ろへ伸ばして、両足が竹刀を振る前と同じ位置になる。アサガワはそっとパラドックスの背中から離れる。
「これが初歩的な素振りの動作だ。最初はすり足の練習からが基本だが、お前は飲み込みが早いからな。素振りからやらした方が早い。今から素振りを50回やってみろ」
 パラドックスは無言で黙々と素振りを始めた。アサガワはそれを見ながら、パラドックスの素振りでおかしい箇所を指摘する。
「真美は元気だねぇ」
「教官は仕事一筋ですわ。ああやって何か仕込むのが楽しみですのよ」
 縁側でお茶を啜る留美子はそう言うと、先ほどまで朝川宅の掃除を済ませたジョーヌはたすきがけをした和服姿のままで、横に寝そべった。そして、お盆に入れられた煎餅を摘むと、それを食べる。
「ところで、貴女はどこの部隊に所属しているの」
「帝都防空部隊ですわ」
「ああ。あの精強なことで知られている空戦MAIDの」
 煎餅を食べ終わったジョーヌはこくりと頷くと、留美子は「それじゃ、貴女に任せてもいいですね」と意味深な言葉を言った。ジョーヌは何のことがすぐ分かると、お盆からもう一枚、煎餅を摘んだ。



 満月の明かりが、アサガワを照らしている。。1月という肌寒い季節の中、竹に囲まれたアサガワは一心不乱に竹刀を振っていた。隙間風の甲高い音に負けず、アサガワが振る竹刀の音が空を切る。同時に、アサガワの汗が飛び散った。
 残り一時間と迫った、留美子との真剣試合。一歩間違えれば死者が出る危険なものだった。そうでなくても、腕や足が切り落とされる可能性がある。それでも、アサガワは神速を手に入れたかった。
「三百四十六。三百四十七、三百四十八」
 アサガワは、鬱憤とした気持ちをこうして素振りで発散していた。始めてから数十分も経っていないが、既に素振りの回数は三百回を越えている。そして、三百二十五回に差し掛かったところで、アサガワは素振りをやめた。
 アサワガの後ろには、和服を着込んだパラドックスの姿が居た。彼女はアサガワの愛刀であるオロチを抱えており、背中には試合着などの詰め込んだ風呂敷を背負っていた。
「準備が整いました」
 一礼したパラドックスはそう言うとアサガワは一言も発せず、地面に置いていた木刀の鞘を手に取り、それを納めた。
「留美子さん、本当にやるつもりですの」
 被り傘を目深に被ったジョーヌは舟の櫂を漕ぎながら、留美子に是非を問う。船首であぐらをかき、鞘に納められた「神速」を抱きかかえる留美子は満月の煌く明かりを見ながら、静かに息を吐く。
「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」
 高らかな声で留美子はひとつの歌を口に出した。その突拍子もない行動に思わずジョーヌは櫂を漕ぐ手を休んでしまう。直後、我に返った彼女は急いで漕ぎ始めた。
 留美子とアサガワの決闘は、朝川邸の近くを流れている岩木川の上流を上ったところにあった。そこはかつて、留美子の実家があった集落の場所であることをジョーヌは聞かされている。ふとジョーヌは、満月を眺めた。
 アサガワ教官やパラドックスさんも、こうして同じ月を見ているのかしら――ジョーヌは自分らしくないことを思っていた。
「着きました」
 川岸に舟を停泊させたパラドックスは、船首でじっと固まっているアサガワに声をかけた。その間に、パラドックスは風呂敷を背負うと岸へ足を下ろした。湿った地面が平面に続いており、まっすぐ進むと中途半端に整理された道がうっすらと見えた。風と共に「森のざわめき」が、こちらを出迎える。
「行くか」
 オロチを帯刀したアサガワは、舟から降りると歩き出した。パラドックスはアサガワが通り過ぎるまで待つと、そのまま彼女の後ろへ付いて行く形で歩き出した。
 満月の明かりを頼りに、二人は雑草が生えている道を無言で歩く。十分は歩いただろうか、道の先に2メートル前後の鳥居と、その後ろに山道に作られた階段が見えた。さらに、その近くには、倒壊した木造建築の家が点在している。人が生活していた、という気配は全く見えず、それはまさしく廃墟だった。
 そこは、留美子の実家があった朝野集落。農家中心の産業から工業中心の「ごく当たり前」な改革によって男は出稼ぎに、女は嫁ぎ、残ったのは老人だけとなった。
 やがて国からの政策によって、彼らもまた悪くない待遇によってこの集落から出て行くことになった。留美子は寝たきりの母のために、この集落で「最後」に残っていた一人だとアサガワが言ったことをパラドックスは思い出す。
「パラドックス、お供え物を」
 鳥居の脇に一メートルほどの小さな小屋が建てられていた。その小屋には、風化して顔が分からないほどの地蔵が居座っている。それの前には、紅白餅と真新しいコップが一つ置かれていた。それは留美子とジョーヌが先に来ていたという証拠であった。パラドックスは風呂敷から、コップ一杯分の清酒が入った瓶を取り出し、それをアサガワに手渡す。
 アサガワはコルク栓を開け、コップに酒を注ぐ。瓶に残った酒をアサガワは一気飲みすると、空になったそれをパラドックスへ渡した。そして二人は、を地蔵に向かって静かに手を合わせた。パラドックスはマイスターシャーレ時代に楼蘭皇国の「しきたり」について理解をしていたので、特に問題もなかった。
「よし、行くか」
 アサガワは地蔵を一瞥すると、パラドックスと共に鳥居を潜り、階段を昇る。
「お姉ちゃん」
 千早の声が、段を一歩一歩昇るたびに聞こえてくる。夏祭りの季節。お盆の日。朝野集落を築いた先祖たちを祭るために、朝野集落出身の住民が一斉に帰ってきていた。アサガワもその一人で、この山道に作られた階段を千早と一緒に上っていた。この階段を昇った先には、夏祭りの場所となる朝野神社があった。
「お姉ちゃん」
 愛嬌のある顔で、甘えていた千早はもう居ない。剣道の腕はアサガワより劣るものの、才能があった千早はもう居ない。MAIDとなって、人に憎しみを持って、朱を染める悪鬼になった千早しか居ない。しかし、アサガワはそんな彼女を救おうとしている。いかなる手段を使っても。
 階段を駆け上がる真美と千早が、アサガワを横切った。



「来たようだね」
 階段を昇りきったアサガワとパラドックスを見るなり、境内の前で仁王立ちする留美子が居た。白の剣道着と、黒の袴を着た留美子。対するアサガワは、黒一色で剣道着と袴を固めていた。ボロボロになった鳥居を潜ったアサガワとパラドックス。
 それと同時にジョーヌが、鞘に納められた神速を丁寧に留美子のところまで持ってきた。留美子は神速を帯刀すると、アサガワを待つ。パラドックスも同じようにアサガワのオロチを彼女に渡すと、そのまま留美子の正面に来るように位置を合わせた。パラドックスとジョーヌは最後の荷物となった紅白旗を両手に持ち、留美子とアサガワの間を挟むように位置へ着く。
 留美子とアサガワは蹲踞の構えを取り、鞘からお互いの刀を抜いた。白銀の刀身が、満月の明かりによって照らされる。二人は一斉に蹲踞の姿勢から立ち上がると、中段の構えで対面する相手に威圧を与える。
 そのときだった、ジョーヌとパラドックスは留美子が握っている神速から、エターナルコアの輝きを感じ取る。同じくして、留美子の腰まで届く長髪が舞い上がった。
「真美。貴女がこの神速を手にするのに相応しいのであれば」
 神速から放出されるコアエネルギーが留美子を包む。
「どうするか分かっているはずだ」
 目にも留まらぬ速さで、留美子は面打ちを仕掛けた。アサガワは振り下ろされる神速をオロチの刀身を使って弾き、そして胴打ち。留美子は摺り足を使って、横から放たれるオロチの一撃を回避した。刀の切っ先がお互いに交じり合う距離で、両者は円を描くように動きながら睨み合う。
 ジョーヌとパラドックスは、二人の距離に合わせながら、この戦いの行方を見守っていた。「決して介入してはいけない。どちらかが勝ったときに、君はその旗を上げればいい」と留美子が言っていたのをジョーヌは思い出す。
 神速の刀身から、紫色の光が炎のように揺れ動く。それは、アサガワの目にはっきりと映っていた。エターナルコアのエネルギーが肉眼で視認できるほどに。ジョーヌとパラドックスは神速がエターナルコアを埋め込んだ刀ということは事前に知っていたが、ここまでコアエネルギーの力が強力だとは思いもしなかった。
 先に仕掛けたのは、留美子だった。矢のように鋭くかつ正確で素早い突き打ち。アサガワはそれを避けるので精一杯だった。摺り足の形を崩して、まるで逃げるように留美子からの距離を離す。留美子は確実に強い。
 しかし、あの神速のおかげでアサガワが思っている以上に、技の正確さと切れが格段に向上していた。
「逃げるのか、真美」
 距離を離したアサガワに、留美子は中段の構えをしたまま、じりじりと距離を詰める。境内を背後に、アサガワは深呼吸をしながら、ゆっくりとオロチを握る両手両腕を頭より上の高さまで上げた。面打ちを弾き、胴打ちを。胴打ちを回避し、距離を離す。たった四回の行動だけで、アサガワは汗をかき、肩で呼吸をしている。
「上段の構え、ね」
 アサガワの構えを見るなり、留美子は笑う。それに同調してか、彼女の身体を纏うコアエネルギーの輝きが一段と増した。
 留美子の姿を見るなり、アサガワはフロレンツで出会った「時雨」を思い出し、留美子と重ねる。状況は全く似ている。違うのは、留美子は確実にあのときの時雨よりも強いということだけ。
 アサガワは全身全霊の力をこめて、踏み込む。狙うは、留美子の頭――面打ち。
「甘い」
 留美子の叱咤する声がアサガワの耳に届いた瞬間、オロチから繰り出される面打ちを留美子は身体を背けて回避した。冷ややかな目でこちらを見つめる留美子の顔が残像になって見える。アサガワは「不味い」と口走り、留美子から来るであろう反撃に備えて、離れようとする。
 留美子は左斜めに引くように摺り足を行い、距離を調整。そして、臆することなく神速の刀身をアサガワに目がけて振り下ろした。
 離れようとしたアサガワの右肩に、神速の刀身が機械で作られた人工肌に達し、即座に切り落した。留美子、いや神速は切り落しただけでは飽き足らず、余剰となったコアエネルギーを放出し、アサガワを吹き飛ばした。彼女はオイルと義肢の部品を撒き散らしながら、境内の、賽銭箱に続く石造りの階段に背中を打ちつける。
「勝負あり」
 ジョーヌは声をあげ、留美子が勝ったということを示す紅色の旗を高らかに空へ向かって突き上げた。そしてジョーヌは、パラドックスの方を向いた。しかし、パラドックスは紅色と白色の旗を股元で交差――つまり、まだ試合を続けようと――していた。
 ジョーヌはパラドックスの判断に理解できなかった。既に勝負は、アサガワの右腕が叩き切られたことで終わっている。あれがもし義肢ではなかったら、アサガワは鮮血を飛び散らしながら悶絶していたであろう。例え話だとしても、右腕をなくしたアサガワにこの試合を続行できるわけがない。
 ジョーヌは冷静な判断で、留美子が勝ったということを示す紅色の旗を挙げていた。今さっきの斬撃が剣道でいわれている「有効打突」ではないにしろ。
 留美子は禍々しいエターナルコアの魔力を放つ神速を鞘に収めようとしたがパラドックスの両手を見て、それを制止した。そして、一言も発せずに神速を構える。
「そうさ、まだ終わっちゃいない」
 ジョーヌは境内のほうへ振り返ると、土で汚れたアサガワが残った左腕と脚を使って立ち上がった。千鳥足で歩きながら、留美子の前で無残にも切り落された右腕に近づく。
「母上、なぜ貴女が私を確実に殺せる間合いで、『右腕だけ切り落した』のか」
 オロチが握られた右手を強引に剥がし、アサガワは片手の状態でそれを構える。
「こんだけボロボロになって、ようやく分かったのかい。まったく、私に似て強情な子だねえ」
 留美子はくだけた表情になって、鼻で笑うと神速から放出されるエターナルコアのエネルギーが突如として消失する。
「こんな勝負、不公平だっていうのに」
「私は真剣に挑みましたけどね」
 先程までの殺気立った空気から一転して、留美子とアサガワは談笑する。そしてまた、殺気立った表情で留美子は中段の構えを、アサガワは上段の構えを取る。神速からはコアエネルギーは放出しておらず、留美子はそのアドバンテージを失っていた。アサガワの右腕が無くなったとはいえ、戦況は留美子に傾いていた。
 しかし、アサガワの目はそれを感じさせないほど自信に満ち溢れている。パラドックスはそんな彼女を食い入るように見つめていた。



「熟田津に」
 畳が敷かれた大広場で、上座に座った留美子は抑制をつけてその短歌を詠った。
「船乗りせむと」
 鞘に納められた神速を持って、留美子は三メートルほど離れた場所で平伏しているアサガワの手前へ寄る。二人の左右には、事の成り行きを見守る朝川家の親戚縁者とパラドックスとジョーヌが居た。
 アサガワはゆっくりと顔を上げると、留美子は腰を下ろし、両手を使って神速を差し出す。
「月待てば、潮もかなひぬ」
 留美子の短歌の続きをアサガワは詠い、彼女は左手でそれを受け取った。そのまま膝を使って立ち上がったアサガワは、ゆっくりと上座に向かって歩き出した。一方の留美子は先程のアサガワの姿勢になるように彼女の方へ向き、そして平伏す。
「今は漕ぎ出でな」
 ゆっくりと上座に座ったアサガワは最後の言葉を言うと、すぐ側で正座していた朝川家の女中、仁鳥が杯を、彩が清酒が入った瓶を持ってきた。
 仁鳥が持ってきた杯を受け取り、彩がそれに酒を注ぐ。本来ならばその役目は留美子がするはずだったから、彼女の強い要望で今まで世話になった女中の仁鳥、彩がやることになった。
 アサガワは杯に注がれた清酒を一気飲みすると、大きな声で「嗚呼、天晴れ」と叫ぶ。直後、盛大な拍手が鳴った。
 無事にアサガワ――朝川真美が朝川家四十五代当主となったのを見届けたパラドックスとジョーヌは、いつぞやらアサガワ教官として剣道を教えられた庭の縁側で、日向ぼっこをしていた。
「教官、当主になりましたね」
 昼過ぎなのか、餌を求めにやってきた小鳥たちのさえずりを聞きながら、パラドックスはつぶやく。ジョーヌは「仕方ないですわ」とため息をついた。朝川真美が当主となった以上、もうエントリヒ帝国に戻ってくることはないだろう。
 あの神速を持って、何をするのかパラドックスには分からない。
「二人とも、どうしたんだ」
 不意にアサガワの声が聞こえると、二人は一斉に後ろへ向く。そこには、神速を片手に持ったアサガワと留美子の姿があった。
「あ、いえ。少しパラドックスさんとお話を」
 慌てるジョーヌをよそに、アサガワはどっとその場であぐら座りをすると「帰る準備をするぞ」と言った。
「え、え」
 つまり出て行けということなのか、とパラドックスは言葉の意味を理解しようとする。ジョーヌも同じような感じで口をぱくつかせている。
「母上、私の荷物は」
「彩さんが荷造りしているわ。貴女は別にいいけど、この二人が居なくなると寂しくなるわねぇ」
 留美子は冗談を言うと、アサガワは笑う。パラドックスとジョーヌは状況を飲み込み、お互いに顔を見合わせる。
「あれからずっと考えたんだが、母上の言葉もあったし、どうせ楼蘭の義肢じゃ身体に馴染めないしな。頭を下げれば、向こうも許してくれるだろう」
 アサガワの一言の後、パラドックスとジョーヌは立ち上がって、彼女に敬礼をした。アサガワは柔和な笑みを浮かべ、それを返した。
「さぁ帰ろうか。戻るべき場所へ。ライサがちょっと怖いけどな」



 人気が無くなった朝川邸。仁鳥はともかく、彩は真美と離れ離れになったのが辛かったのか、彼女が去った日は寂しさのあまりに泣いていた。留美子はそれにあやしているうちに、泣き疲れた彩は寝てしまった。
 真美がここを立ち去る要因を作ったのは、少なからずこちらにも責任があった。何も見えなかった真美に留美子は、エントリヒ帝国という組織の力が使えないこと。楼蘭のMAID機関は周辺諸国の特務機関よりずっと機密で、下手すれば千早どころではなくなるということを告げた。前者はともかく、後者は少し脚色をつけたが、真美の顔色が段々と青ざめていくのは、笑いを堪えるのに必死だった。
 いずれにせよ、真美にはエントリヒ帝国に帰ってもらうしかなかった。だが、真美がこちらで千早の情報を集めるのには利点があった。千早がこの国で生まれたこと。そして、エントリヒ帝国よりも自由がある。
 その代わり、精神的に辛い部分もあった。留美子の知り合いが現実に耐え切れなくなり、自殺や情報漏えいをしようとした矢先に暗殺された等。
 楼蘭のMAID機関はずる賢く狡猾で、倫理的に問題がある。千早がMAIDになったように、真美に真実を知らせるのはまだ早い。
 縁側を歩いている留美子は、夜空に照らされる月を眺めた。
「今もこうして、真美も千早も同じ月を見ているのでしょうね、貴方」
 亡き夫に語る口調で、留美子は呟く。彼女はそのまま脇の襖を開け、真美と千早の部屋へ入る。
 狭い和室。姉妹喧嘩が絶えなかった。あまりにも喧嘩が続いたので、彩が怒ってしまって真美を叩いた記憶を思い返し、留美子はくすりと笑ってしまう。日本人形が飾られている箪笥のところへ留美子は寄ると、上から二段目の棚を引いた。。きちんと畳まれた千早の私服から、隠していた一枚の写真を取り出す。
 少しボロボロになった白黒写真には、笑顔の留美子とその両脇に手を繋いではしゃいでいる朝川真美と朝川千早が居た。
「真美なら、きっとやってくれますよね。忌まわしい過去を無かったことにして、この写真と同じように私たちが笑顔になれるときが」
 留美子はその写真を眺めながら、神速を手に持ち、過去を殺した朝川真美に期待を寄せた。



END



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最終更新:2011年03月18日 08:51
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