(投稿者:怨是)
1945年9月28日。集中豪雨の降り注ぐ、
エントリヒ帝国南部の市街クリンゲンショーエンにて。
アースラウグは雨宿りしながら、増援の到着を待った。
《こちらペルレ5。また黒旗の屑共にたんまり浴びせられる日が来るとはなぁ。感慨深いよな、野郎共》
《あまり調子に乗りすぎるなよ。時間は限られている》
《解ってますって。にしても、パッセルホフ中隊が居ない空は寂しいもんですね。あの時後ろを守って貰った恩もまだ返せてない》
《隊員の過半数があのドラゴンフライにやられては、解散する他あるまいよ……集中しろ。俺達が飛んでいるのは過去の空じゃないんだ》
《でもですね、地球を一周して流れてきた風はきっと、今此処を流れているんじゃないかって。この機体が感じている風は、あの時と同じ風なんじゃないかって思うんですよ。隊長》
《らしくないぞ、ペルレ5。いつからセンチメンタルの趣味に目覚めたんだ》
《あいつらがこの空から居なくなってからです》
通信機のスピーカーを通して、空軍の人々の会話を盗み聞きながら、アースラウグは天を仰ぐ。雨足は相変わらずで、火気の類いは信頼性に欠けるというのが作戦本部の見解だった為に、この作戦に選定されたMAIDも近接型が大多数を占める。そして、増援の空戦MAIDもまた同じく、
帝都防空飛行隊ではなく近接戦闘を得意分野とするルフトヴァッフェだった。
《こちらルフトヴァッフェ赤の部隊、隊長の
シーアだ。今回の作戦は、対黒旗という点に於いて初の共同作戦だな。よろしく頼む》
シーアという名前は確か、プロミナの日記で出て来た。知り合いなのだろうが、今此処で通信に割り込む気にはなれなかった。通信機のスピーカーから、ペルレ5とおぼしき男の溜め息が聞こえてくる。
《ベーエルデーがしゃしゃり出てくる辺り、俺達ももう終わりかな。ちゃんと俺達の分も残して置いてくれよ、ルフトヴァッフェのMAIDさん》
《あまり歓迎されていないな。仕方ないか……》
《当然だろ。パッセルホフの旦那が生きてたら、お前等の力なんざ借りなくてもどうにかなるってのに》
《ペルレ5! これ以上の無駄口は慎め。本来なら我々も
グレートウォール戦線へ赴かねばならぬ所を、連合軍の好意に甘え、こうして内乱の鎮圧に戦力を割いているんだ。それどころか、ベーエルデーの力まで借りている。寧ろ我々は、礼を云わねばならない立場にあるんだぞ。118度作戦の時もそうだった。彼女らは我々の窮地に駆け付けてくれたじゃないか》
《解っては居ますがね。そもそも空戦MAIDの原料となる、ベーエルデー産のエターナル・コアを提供するなり、コアの採掘所を少しでも分けてくれれば、あいつらが死ぬ事だって無かったかもしれないんです。それを、ベーエルデーの連中が独占しやがるから……》
《悪態はそこまでだと云っている! 歴史に“もしも”は存在しない。起きてしまった事は、永遠に記憶として、記録として残り続けるんだ。多少形は変わるかもしれんがな》
《ちくしょう、ちくしょう、空が泣いているぜ……俺の代わりによぅ》
《すまないな、シーア。こいつは連日の出撃で気が滅入っているらしい。聞き流してくれるか》
《構わんさ》
「空が、泣いている……か」
誰に云うのでもなく、アースラウグはペルレ5の言葉をぼそりと呟いた。先遣部隊が倒していった黒旗兵の死体を、なるべく視界に入れない為にも。
今回の制圧作戦の発端は、今から5日前の9月23日、忌々しいあの黒旗が新兵器の開発実験をこのクリンゲンショーエンで行なっているという情報が、公安SSよりもたらされた事からだ。現場で拾得された成分から、新兵器は毒ガスという調査結果が出た。毒ガスはGへの効果が薄く、現在は対G戦争に於いて殆ど役に立たない物とされている。それでも尚、新しい毒ガスの研究を行なっているという事は、とどのつまり人間を相手に何かをしようとしているという結論に行き着いた。
本部へ報告が為されてからは電光石火の如く早さで部隊が編成され、その日の内に出撃した。
「私こそ泣きたいですよ。慣れるならこんな戦いじゃなく、Gとの戦いに慣れたかったのに」
図書館焼失以来、毎日この調子だ。クロッセル連合軍側も国内での戦闘に兵力を割くエントリヒ帝国を黙認しており、火の粉が連合軍に及ばぬ様にと、寧ろ内乱鎮圧に協力的ですらある。それは大いに助かるが、問題は国内に協力的な存在が少なすぎる事にあった。皇帝派、宰相派が我先にと
挙って配下の部隊を出兵させ、挙げ句に妨害し合うせいで連携が取れないのだ。
努めて冷静に、客観的に状況を把握しようと藻掻いて出て来た結論は、こんな物だった。今までしてきた約束の悉くをアースラウグが破ってしまっているが故に、
ジークフリートはこの結論にも評価を下す事など無いのだろう。
《こちら先遣部隊、陸軍77班! 黒旗は戦車を隠し持っていた模様! 付近の部隊は加勢してくれ!》
《こちらレンフェルク直轄部隊ツァーデン。エンジンの駆動音が聞こえない。誤認ではないのか?》
《雨音に掻き消されているだけだ! 頼む、早くしてくれ! 連中はMAID部隊も保有して――》
《77班応答せよ。77班! ……くそ、散ったか。各員、周囲を警戒せよ》
ぞっとする。アースラウグとてMAIDであるが、歩兵一個小隊を蹴散らすだけの能力を持つ戦車、更にMAID部隊までをも相手取るとなると、敗色が色濃く現れる。
「私
一人ではとても戦える相手じゃない。でも、どうすれば」
同じく付近に居る友軍のツァーデン隊に合流しようにも、何処に居るか解らない。通信機で場所を訊くという手段もあるが、もしこの通信が傍受されていたら、合流する前に殺されてしまうだろう。袋小路だ。
途方に暮れながら歩くと、雨音に紛れて戦車の駆動音が耳に入った。こんなに近くに居たのかと驚嘆しつつも、アースラウグは物陰へと飛び込み、慎重に身を乗り出して様子を覗う。付近には灰色の服とフリッツヘルムにフェイスガードという服装のMAID部隊が随伴し、辺りを警戒していた。MAID部隊のうち一人が、何かに気付く。倒れた人影らしき物が見えるが、此処からでは雨に遮られてよく見えない。灰色MAIDがその倒れた人の脈を測る様な仕草をし、拾い上げる。戦車は少しずつ此方の方角へと向かって来ている。アースラウグは初め、彼女が何を思って倒れた人間を背負ったのか理解しかねた。先遣隊の銃撃を受けた黒旗に生存者でも居たのだろうか、程度に思っていた。
「あ――!」
アースラウグの眼前を戦車と随伴MAID部隊が通った時、全てが理解できた。背負われていたのは連中の仲間ではなく、アドレーゼだったのだ。現実という物は斯くも無情だというのか! 道理で待てども遣ってこない訳だ。黒旗が彼女を意識不明の重体に追い込んだのだから。怒りが自ずと、アースラウグの足を突き動かした。
「待ちなさい、黒旗のMAID! アドレーゼさんを返すのです!」
隊長とおぼしきMAIDが振り向く。後ろ髪で束ねた金髪はずぶ濡れだが、よく手入れされている。
「嫌ですよ。こっちも仕事なんで」
灰色のMAID部隊は情操教育を省略したが故に話が通じない、とアースラウグは聞いていた。それ故に、隊長クラスとはいえそのMAIDの一人が言葉を発したという事実がアースラウグにとっては衝撃的だった。フェイスガード越しにその表情を見る事は出来ないが、あまり良い面持ちではないのは声音で解る。
「言葉は、話せるみたいですね」
「もしかして、馬鹿にしてます?」
戦車の砲塔から煙と共に砲弾が飛来する。咄嗟に横へ飛び退いた為に直撃は免れたが、背後の建物に巨大な風穴が開いた。破片が背中を打つ。
「――戦車砲?! MAIDを相手にそこまでして! 街が壊れても良いのですか!」
「良くないよ。ただね、解りませんかね? 出来ればさっさと此処から立ち去ってくれると、此方としても嬉しいんですよ。一応この赤いのは捕虜として扱う事になってるんだから、心配するなって」
「引き下がるものですか! 私の大切な仲間を、これ以上失ってたまるものですか!」
「稚拙だねぇ。おめでたいよ。助けようとした人質が今此処で殺されたら、貴女は責任を取れますか?」
「――ッ!」
「取れないだろ、責任」
五臓六腑が収縮する錯覚にやられ、眩暈がする。戦車砲は依然として此方を向いたままだ。MAID達もまた、銃を構えている。
「それは……」
「結局お前はね。今あたしが連れ去ろうとしている、この恐らく優秀で忠実な部下が居なければ、何も出来やしないんですよ。では、道を空けましょうか」
思考するより前に武器を捨て、両手を挙げる。恐怖には抗えないこの身体を何よりも憎悪した。だが、一命を賭してまでこの軍勢に挑める腕前が無いのは自分自身でもよく理解している。戦車とMAID達が緩慢にこの場から動いて行く。
「そう。それでいいんですよ。どうせいつかは返すんですから、それまで一人で生き抜く訓練でもする事です」
悪しき軍勢は目の前を通り過ぎようとしている。今まで恐怖に心が折れそうになった事は何度かあった。が、それでも逃げ出す様な真似は一度とて無かった筈だ。
アースラウグは苦悩した。命は確かに惜しい。それでいて、一個小隊規模のMAID部隊に戦車まで、単身で相手取る程の力は自分にはまだ無い。機転を利かせる余裕も、銃弾の雨を凌ぐ障害物も、持ち合わせていない。あのMAIDが云う通り、規定に従うのならば捕虜はいつか帰ってくる。アドレーゼは生きているのだから、此処で無謀な突撃をした挙げ句、死なせてしまうのも愚かしい話ではないか。
「……でも」
ヴィーザルを握り直し、切っ先を見つめる。救えなかった事を悔やんだ瞬間を、嫌という程経験してきたのではなかったか。またしても、救えずに立ち往生するのか。否……母なら、どんなに絶望的な状況であろうとも、迷わず飛び込んでいた筈だ。何度傷つこうとも、手を差し伸べるべき仲間がその場に一人でも居るならば、全力で助けようとした筈だ。その姿を見た事は無いが、在りし日の母を知る仲間達は皆、母について語る時はどこか嬉しそうだった。それが何よりの証拠だ。
「勝機は無くとも、やはり見過ごす訳には行きません!」
果たして運命はアースラウグに味方した。誰かの置き土産なのか、短機関銃が足下に転がっていたのだ。扱いは習っている。残弾確認。装填良し。安全装置は外れている。後は構えて撃つだけだ。MAID部隊の背後から、とにかく弾をバラ撒く。彼女らが呆気にとられて対応が遅れている内に肉薄し、一番近くに居た一人を力一杯に殴り倒す。殴られたMAIDは気を失ったらしく、仰向けに倒れて動かなくなった。奇襲は成功した!
「糞が!」
先程の、言葉を話せるMAIDが怒りを露わにしている。さぞや悔しかろう。屈服させたと思った相手が突如として圧倒的優勢を崩さんとしているのだから。
「そのおめでてぇ頭をこんがり焼いてやらなきゃ解らないのか! それともアルトメリア好みのポップコーンにしてやろうか!」
「選択肢はそれだけですか?」
「何が云いたいんです?」
「私が戦車を打ち破り、アドレーゼさんを取り返すという選択肢をお忘れですよ!」
「挑戦的すぎだろ……無理すんなって」
怒濤の如く押し寄せる火線を走ってやり過ごし、敵の戦車の影へと転がり込む。流石に自分達の装備まで傷付ける度胸は無いのか、MAID部隊は銃を撃たなくなった。敵部隊の足音は途端におそるおそるといった風の、躙り寄る形へと変わる。
「踏み潰して!」
合図と共に戦車は動く。MAIDの脚力に比べるとその巨体から鈍重な印象を受ける戦車だが、間近で動かれると以外と素早いものだ。遮蔽物を失ったアースラウグは次の逃げ場を求めて動いた。めくら撃ちで短機関銃の弾が尽きる。アースラウグは短機関銃を彼女らの方へと投げ捨てた。牽制にもならなかったが、飛んでくる弾の何発かはあれが防いでくれたと信じたい。付近の建物へ逃げたアースラウグは、無線の端末を取り出して共通チャンネルへと発信を飛ばす。
《ルフトヴァッフェのシーアよりアースラウグへ。戦車を発見したのか。場所を教えてくれ》
「煙突が三本ある煉瓦の建物、その南西に居ます!」
《解った。上空からレディを支援するのは、紳士の役目だ》
通信を終えると同時に、大砲で壁が吹き飛んだ。それからすぐに戦車が乗り込んでくる。アースラウグは窓をヴィーザルで貫き、外へと飛び出る。路地裏から大通りへ出る頃には、MAID部隊がアースラウグを包囲していた。
「なるほどね。対地支援があるから安泰とでも云いたい訳ですか」
「えぇ。私だけで戦っている訳ではありませんからね。沢山の仲間達が見守り、支えてくれるからこそ、私は私で居られる。それがやっと解ってきました」
「訳知り顔で頷くな。悟りを開くにゃまだ幼い。なんて説教、どうせ聞く耳持たないんでしょ?」
「無論です」
「おめでたいね。此処が袋小路だと知って――」
云い終えるよりも早く、戦車は何者かに砲塔を踏み抜かれ、動く鋼鉄の棺桶と化した。衝撃で旋回も出来ないのか、戦車は折れ曲がった砲塔を引き摺りながら後退して行く。アースラウグの眼前に、炎の翼を生やした少女が降り立った。
「……糞が。これでまたあのヒス女のお小言が長くなる」
灰色のMAID部隊が次々と小銃を構え、隊長クラスの金髪が悪態を突く。
「貴女がシーアさんですね!」
「あぁ。レディをいたぶる不届き者達に、少しお仕置きをしに来た。敵が戦車だけでないというのは通信で聞いていたからな」
凶弾がアースラウグの頬を掠める。
「ケッ。お仲間に恵まれてさぞや遣りやすいでしょうね、鼻糞二代目のお嬢さんは。おかげでこっちは撤退の準備もままならないと来た」
発砲したのは、この口を開けば罵詈雑言ばかりの灰色のMAIDだ。
「お互い、遣りやすくなっただろう? 戦車が居ては加減が利かない」
「冗談じゃない。解りやすい脅迫手段が一つでも消えると、それだけ被害を出さなきゃ行けないリスクが増えるだけでしょうが。ちっともフェアじゃないですよ」
「まずはフェイスガードを取り、フリッツヘルムを脱ぎたまえよ。顔が見えないと寂しいじゃないか」
「不潔なひび割れマントに見せてやる顔なんて無いですよ。審判100号。やっちまって下さい」
「承知した」
路地裏から出て来たのは、黒く大きな影だった。その巨体を突風へと変え、シーアを殴り飛ばす。
「ぐ――ッ?!」
「シーアさん!」
エースとして名を轟かせたシーアと云えども体格差だけは如何ともしがたく、彼女は枯れた木の葉の如く遠くへ放り投げられた。自由落下中を狙った短機関銃の掃射が、何発もシーアの身体を貫いた。地面に落ちた瞬間、黒い影が目にも留まらぬ速さで彼女を掴み上げ、再び地面に叩き付ける。シーアはもう、動かなくなってしまった。
「ははん? 短い見せ場でしたね。可哀想な英雄様だ」
「翼を失った鳥とは、何と脆いものか……ネルケ1、お前は作戦通りの進路へ戻ると良い。此奴らは俺が食い止める」
「頼みましたよ。じゃ、また後で」
黒い影はMAID部隊が走り去ったのを見届けると、振り向く。アースラウグは呼吸が止まった。頭をすっぽりと覆うその兜は、見覚えがある。
「存外、早い再会となったな。アースラウグ」
兜の角は綺麗に取り去られ、鎧も青銅色から黒へと塗り替えているが、間違いなくテオドリクスだ。背負っている武器は斧ではなく、対戦車ライフル――しかも、弾倉を使わないボルトアクション式の骨董品――へと代わっていた。
「名前を捨てて逃げたりしないで、戻ってきて下さい。帝国はまだ、貴方を必要としています」
「断る! その名は捨てた。俺は最早、何者でもないのだ」
対戦車ライフルが轟音を立て、巨大な銃弾を放つ。熊撃ち等に用いられる散弾が、アースラウグの鎧を容赦なく抉った。通信機から何も聞こえてこない。よく見れば、撃ち抜かれて使い物にならなくなっていた。アースラウグは身がすくむ。テオドリクス――否、審判100号はそんなアースラウグを見て狩人が如く獰猛さを滲ませながら、一歩ずつ足を進めてくる。
「この前の様には行かぬぞ。
プロミナは消えて久しく、増援もこれ以上は呼べぬ。アースラウグ、お前一人では俺を燃やす事など出来まい」
この前……とは、ハーネルシュタイン名誉上級大将の誕生日の事を云っているのだろう。火炎瓶も焼夷弾も手元には無い。
テオドリクスは対戦車ライフルを、それこそ拳銃を扱う様に軽々しく何度も撃ってくる。此方のヴィーザルが届く間合いに、少しも近付けない。幸い、彼が銃の扱いにまだ不慣れな為に急所への命中は免れているものの、いずれは当てられる。時間の問題だった。逃げ回るだけでは勝ち目が無い。ならば、多少の傷など恐れず、前に進むしか道は無い。
「私の正義は云っている! それでも仲間を救えと! 私が今まで助けられた分、今度は私が助けに行く番だと!」
虚勢だった。が、今の言葉がテオドリクスに幾らかの感銘を与えたらしかった。彼はまだ弾の残っているであろう対戦車ライフルを投げ捨て、徒手空拳の構えを取る。
「いいだろう……アースラウグ、お前の正義を検証する」
これからが本番だ。アースラウグは一気に間合いを詰め、ヴィーザルを突き立てんとする。テオドリクスがそれを片手で受け止める。
「……是非とも。離反した理由も、教えて頂きますよ」
「俺は只、この世を食い物にする輩を許せんだけだ」
テオドリクスはヴィーザルを弾き飛ばすが、何とか手放さずに持ちこたえた。だがそれも束の間、更にテオドリクスは体重を乗せた拳をアースラウグへ放ってくる。アースラウグは身を屈めてそれを避け、ヴィーザルを振り回して払い除けた。
「お前も同じだ、アースラウグ。蒙昧なままの、与えられただけの正義では何も守れぬ……命も、矜持も、打ち捨てられた者達の魂も!」
「だからって! それが国家を裏切り、帝都を
血の海に沈める理由になりますか!」
「数多の血税を支払ってでも俺は戦わねばならぬ! この世の汚泥の悉くを滅ぼす為にも!」
拳を握り締め、テオドリクスは吠えた。大気がびりびりと振動する。付近の雨が蒸発する程の熱気が、アースラウグにとって恐怖となった。テオドリクスは間合いを詰め、拳を何度も突き出す。ヴィーザルの切っ先で拳を受け流すも、そもそも体格が違いすぎて防ぎきれない。何発か貰ってふらついた所で、テオドリクスは宙返りでアースラウグの顎を砕かんとする。咄嗟にヴィーザルを横に構えた為に大事を免れたが、ヴィーザルは“く”の字に折れ曲がってしまった。
「俺は、戦う事で生を感じられるのだ。それは、誰にも止めさせん」
「ならば私はそれを全力で阻止してみせる! 例えこの正義が貴方にとって偽りであろうと、私にはもう、これしか残っていないのだから!」
「悲しき正義よな。いずれ崩れ去る事を知りながら尚、それに縋り付く他無いとは」
歪んで不格好になったヴィーザルを指差して嘲うテオドリクスを、アースラウグは睨み続けた。既に鼓動は破裂寸前の様相を呈しており、冷たい空気で喉が痛い。が、知った事か。以前、踏み潰されて内臓破裂寸前になった事を思えば、この程度の疲労はどうにでもなる。それよりもアースラウグが許せないのは、ほぼ直接、母親を侮辱された事だ。曲がったヴィーザルを彼の喉元に切っ先が向く様に構え直し、突進する。
「母様から受け継いだ魂を、そう簡単に崩させてたまるものですか!」
「誰かが崩さずとも、自ずと崩れ去る。貴様が受け継いだとしきりに喚くそれは、所詮、皇帝派の作り出した幻想だ」
テオドリクスは片手でヴィーザルを掴み、押さえた。力の差が余りにも歴然としている。不公平な話だ。どんな物語も、正義が勝ってきた。悪を倒して正義を証明してきたではないか。槍を以てしても徒手空拳を打ち破れないとは、恥ずべき無力だ。
「ならば私は何故、何の為に戦ってきたのですか!」
「他者に答えを求めるな。己の力で辿り着かねば意味が無い。それともお前は、慰めて欲しいのか? 肯定されるだけの人生で何が得られるというのか」
「私が云いたいのは、そんな甘ったれた事なんかじゃない! 貴方の答えを聞き、私が全力を以て反論する! 貴方に認めさせるまで、何度でも!」
勝てぬと知りながらも尚、アースラウグはヴィーザルに力を込めた。状況の打破は望むべくもない。敗北という言葉が、すぐ側で鎮座している。ならば、せめて一撃でも与え、テオドリクスの心に響かせる言葉をぶつけてやらねば。しかし、ヴィーザルは片手で押し退けられ、アースラウグは仰け反った。
「徒労だ! 付き合いきれぬわ!」
その次に出て来たテオドリクスの言葉は、冷たく凍り付いた彼の感情そのものだ。
「いいえ、付き合う義務がある筈です。貴方もまた、かつて母様との絆があったのですから」
「小童風情が訳知り顔で語るな! お前に
ブリュンヒルデの何が解るというのだ!」
「帝国を支えてくれた事! 姉様を守ってくれた事! そして、多くの仲間達を救ってくれた事! 私が直接知らなくても、今居るみんなが笑顔で居てくれる……それこそが、何よりの証拠では無いのですか!」
刺突による攻撃手段では効果が無いと悟ったアースラウグは、薙ぎ払いへと変えた。曲がってしまった分、間合いが短い。只でさえ苦戦する相手であるのに、言葉も、刃も、テオドリクスには届かなかった。
「その笑顔の足下でどれだけの絶望が沈殿しているのか、お前は見た事があるか!」
「ありますよ。悔しいと思ってます。母様の残した数々を、悲劇の為に使われた事が。でも、そこで立ち止まったら、誰がこの罪を清算するのですか!」
「お前を含む皇帝派を罰すれば、それで済む話だ」
「――ッ?! ぐ、あぅ……」
切っ先を掴まれたと思った刹那、腹に何かが貫通した。ふと視線を落とすと、ヴィーザルが突き刺さっていた。いつの間に奪い、刺したのだろうか。それすらも判然としないまま、アースラウグは藻掻く。
「忌々しき幻想の傀儡よ。安らかには眠らせんぞ。苦しみ、逝け」
テオドリクスはアースラウグを地面に叩き付け、抉る様にしてヴィーザルを引き抜いてきた。深紅色の命が、地面にたっぷりと広がる。脳の痺れる感覚に、アースラウグは言葉を失いながら己の非力さを呪い続けた。何か、呪詛めいた言葉をテオドリクスに投げかけようとしたが、それは自分でも聞き取れる類いのものでは無かった。視界が黒ずむ。緩やかな死が、足音も無く忍び寄る。
――終わってしまった。
不思議と、胸は悔しさに満ちる事は無かった。土台、無理な話だったのだ。頼みの綱だったシーアがああして倒れた時点で、アースラウグはたった一人でテオドリクスに挑まねばならない。如何なる言葉もテオドリクスにこびり付いた疑心を洗い流すだけの力は持たず、己の腕もまた未熟そのものである。枯れ葉に岩を当てる様なものだ。あっという間に枯れ葉は潰され、散り散りになる。
「……すまんな、ブリュンヒルデ。俺は、こいつを導けなかった」
まどろみに混じって、声が聞こえる。やがてそれも無くなり、悪寒と共にアースラウグの意識は途切れた。
最終更新:2011年11月30日 13:38