暗雲の切れ間

(投稿者:神父)


数時間の浅い眠りから覚め、ウェンディは自らの身に何も起きていない事を確認して胸を撫で下ろした。
……寝息を立てるサバテに抱きすくめられたままの姿勢で。
サバテを起こさないように腕を解き、不意に彼女に向かって微笑みかけている自分に気がついたウェンディは、
同じく目を覚まして伸びをしているライラの目の前で自らの頬を鉄拳で殴りつけた。
唐突に起こった激しい打擲音に、ライラの眠気が吹き飛んだ。

「……ウェンディ、おはよう……?」

習慣的に挨拶をしてはいるが、ライラは何が起こったのかわけがわからない、という顔をしていた。
ウェンディは拳の跡がくっきりと残った頬を気にも留めず、済ました顔で「おはようございます」と挨拶を返した。

「う、ウェンディ、何してたの、今?」
「なんでもありません」
「え、だって、ほっぺたが」
「なんでもありません」
「……あ、そう、なんでもないんだ」

ウェンディが同じ事を二度言った場合、それ以上突っ込んではならない―――ライラが短い期間で覚えた法則の一つである。
一方ウェンディはというと、言わば死刑囚に対して看守が抱くようなある種の感情を頭の隅―――コアの隅と言うべきか―――に押し込み、
今日一日分の現実に立ち向かう心構えをしていた。……しかし。

「あ……おはようございます、ウェンディさん、ライラさん」

いささか寝ぼけ気味の顔で朝の挨拶をしたサバテにウェンディが返したのは、自らの頬にもう一度、今度は反対側に叩き込んだ鉄拳の音であった。



テオバルト・ベルクマン長官直々に呼び出されたハインツは、執務室の前を落ち着きなく歩き回っていた。
彼はいらいらと数十歩ばかり歩いては懐中時計を取り出し、まだ数分も経ってない事を確認してまた歩き出す事を繰り返していた。
彼の焦燥も無理はない。サバテが突然にいなくなってから二日、何の音沙汰もないのだ。
担当MAIDの失踪など前代未聞である……このままサバテが見つからなければ、彼は教育担当官として最悪の失態を犯した事になる。
相応の処分を覚悟しなければならないだろう。下手な抗弁をしようものならば銃殺刑に処されかねない。
六十年近く生きていてもまだ存外に生への執着が残っているものだ、などと考えていると、執務室の扉が開いて「入りたまえ」と呼ぶ声が聞こえた。
彼は焦りを隠して扉をくぐり、右手を掲げた。

「ジークハイル。SS中尉、ハインツ・ヘルメスベルガー、ベルクマン長官の呼び出しにより出頭しました」
「ジークハイル。中尉、そこにかけたまえ。寄る年波には勝てまい」
「老体を気遣って頂けるとは、実に痛み入りますな。しかし遠慮しましょう……長官閣下直々にわしを呼び出したとは、一体何事です?」
「君の担当MAID―――サバテについての話だ」

ハインツは悟られぬように奥歯を噛み締め、全身を緊張させた。
別段、長官に食ってかかろうというわけではない……単に心構えの問題である。

「サバテは、一昨日の昼から行方が知れなくなっておりますな。長官もご存知でありましょう」
「無論、知っているとも。彼女が今ここにいない原因の一端は私にあるのだからな」
「……なんですと?」
「技術部のマイネッケ大尉が出動を要請したのだ。裁可はしたが……君に連絡が行っていなかったようだな。済まない」
「いや、何があったのかわかれば充分です。それで、彼女は今どこに?」
「今朝方連絡があってな、グロースヴァント山中で連合のMAID分隊に保護されたそうだ」

ハインツは気取られぬよう緊張を解いた。少なくとも、これで処罰の可能性はなくなった。
しかし解せないのは、何故グロースヴァント―――グレートウォールなどにいたかという事だ。彼は問うた。

「しかし何故彼女はグロースヴァントにいたんでしょうな。そもそも、マイネッケ技術大尉というのは一体何者なんです?」
「ああ、君は知らないのか。ブルクハルト・マイネッケ技術大尉は彼女の生みの親だ」
「ほう、サバテの? 育ての親として、一度会って話をしてみたいものですな」
「残念だが、それは不可能だ。今朝の報告で戦死が確認された」
「……技術部の士官が、戦死ですと?」
「やはり気になるかね……だがサバテの件も含め、これは機密事項に該当する。これ以上は何も言えん」
「サバテがそれをわしに喋るとは思わんのですかな?」
「無論、大いにありうる。だから呼び出したのだ……中尉、君はサバテに対し、一昨日から今朝までに起こった事を問うてはならない。
 また、サバテ自身に対しても機密を漏らさぬよう厳命する。……これについては君を介しての命令となる」
「ふむ……いや、何も言いますまい、諒解しました」
「釈然としないだろうが、これもわが国のためだ。納得してくれとは言わん……しかし理解はしてもらいたい。
 ……さて、ではもう一つ命令がある。中尉、ルインベルク国境までサバテを迎えに行きたまえ」
「昔ながらの飴と鞭、という奴ですかな?」
「そう勘繰ってくれるな。連合に保護されたのはいいが、ひどく弱っているらしい。
 君も育ての親との自負があるならば、彼女を元気付けてやる事くらい朝飯前だろう?」
「……一本取られましたな。その様子だと、車から何から用意はできているのでしょうな?」
「無論だとも」
「では、早々に行ってくるとしましょう。……ジークハイル」
「ジークハイル」

ハインツが右手を掲げ、テオバルトもそれに応じる。出てゆくハインツの背中を見送ってから、テオバルトはおもむろに声を発した。

ドルヒ
「は」

部屋の片隅に佇立した少女の像……もとい、彫像のごとく不動で立ち尽くしていた少女が答えた。
ハインツは彼女の存在に気付きもしなかっただろう。テオバルト自身、彼女の存在をしばしば忘れるくらいなのだから。
特別誂えの小さなSS制服に身を包み、腰には不釣合いな対装甲短銃と戦闘短剣を吊り下げている。
……言うまでもなく、彼女はMAIDだ。テオバルト・ベルクマンSS長官の護衛として教育された、選り抜きの。

「あの中尉をどう思うかね?」
「どう、と言いますと?」
「ドルヒ、質問を質問で返していいと教育した覚えはないが」
「ベルクマン長官閣下、至極残念な事ですが、私の教育担当官はあなたではありません。
 従って、あなたが私を教育した覚えがないのも無理からぬ事ではないかと存じます」
「……相変わらずひねくれた小娘だな、君は」
「お褒め頂き光栄に存じます、閣下」
「褒めとらん。……しかしそんな事はどうでもいい、あの中尉について君が思う事を適当に述べたまえ」
「いささか歳を取りすぎていて好みではありませんね。私としては閣下くらいのお歳がちょうど……」
「もういい、次」
「彼はMAIDに感情移入しすぎているように思われます。私としては閣下くらい突き放した態度の方が……」
「もういい。他にないのか、他に」
「……彼は命令に反するのではないかと思われます」

ドルヒと呼ばれた少女は淡々と意見を述べていたが、テオバルトが片方の眉を上げたところで口を切った。

「命令に反する?」
「はい。件のサバテというMAIDは、十人も殺しておいてそれに黙って耐えられるような性質ではないでしょう。
 あのお人よしの教育担当官はいずれ例の話を聞き出します。……しかし彼が永爆の件を言い触らすというのも考えにくいところです」
「ふむ……通信記録の抹消は済んでいるのだったな?」
「無論です。もっとも、記録が断片的にでも残っていたおかげでサバテがあれ( ・ ・ )の原因だという事がわかったのですが」
「調査の遅滞作業はどうなっている?」
「年明けまで引き伸ばせます。いつまでやりますか?」
「半月でいい。……となれば、証拠さえなければ永爆を揉み消す事は充分に可能だな。中尉の件も心配は無用か。
 例の飛行場の連中に、多少時間をかけても抜かりなく証拠をきれい( ・・・ )にするよう伝えてくれ」
「承知致しました。……しかし閣下、よろしいのですか?」
「何がだね?」
「ヘルメスベルガー中尉の件です。彼が命令に反するであろう事を知りながら、何故放置するのですか?」
「ああ、それが問題にならんからだ。彼は大陸戦争からの歴戦の勇士だと、聞いていなかったかね?
 下手に処分してしまえば我々は優秀な狙撃兵を失うばかりか、兵士たちの戦意を多かれ少なかれ削ぎ落とす事になる」
「……? いまひとつ、理解できないのですが。違反は違反なのではありませんか?」
「世の中、四角四面に規則を守っているだけでは上手く回らない。こういった目こぼしが必要になる時があるという事だ」
「……人間から作られた私が言うのもどうかとは思われますが、人間とは難しいものなのですね」
「ならば学ぶ事だ。いずれその知恵が必要になる時が来る……君にとっても、私にとっても、だ」



結局、ウェンディとライラはルインベルク大公国までサバテに付き添う事になった。
サバテは困惑しきりの様子だったが、彼女があれほど恐れていた処罰とやらは影も形もなかったのである。
即座に調査に出たのにもかかわらず翌朝には不可解な撤収命令が下され、
しかも専門の調査隊は命令系統の混乱と称していまだに編成の気配すらない。
しかしアクスーグヌート山麓に唐突に開けられたニッチェの穴はGの生態にかなりの影響を及ぼしたらしく、
Gが山を越えて向かってくる様子はなかった。
そして現場の混乱と流言飛語、そして意味不明な上層部からの命令の結果として、
二人は編成を解かれる事なくサバテの「保護者」扱いとなっていたのである。
……もっとも、相手が生後二ヶ月のMAIDなのだからあながち間違っているとは言えないのだが。
ウェンディが借り出したグランシャリオ製の軍用車でいくつかの国境を越え、三人はルインベルクに入っていた。
オープントップのため、道行く人々が時折怪訝な顔つきで三人を、特にサバテを見ていたが、
本人はと言えば美しい街並みに目を取られてそれどころではなかった。
サバテは後席の中央に座り、膝の上にライラを乗せてあれやこれやの話を聞いていた。
最初のうちはライラも打ち解けなかったが、サバテの胸をヘッドレスト代わりにすると快適だという事を知った途端、彼女の膝の上に移動したのだ。
実に現金なものである。ウェンディは渋い顔をしていたが、サバテが喜んで膝の上を提供している手前、無理に引き剥がすわけにもいかなかった。

「……でね、ライラはここのMAIDとも友達なんだよ。リリーっていうの。ラジオ番組の……えーと……」
「収録?」
「うん、しゅうろく( ・・・・・ )ね、その時にも会うんだ」
「友達、ですか……」
「サバテ、友達いないの?」
「え? いえ、いないという事は……ジークさんは多分、友達だと思います。……一度しか会った事がありませんけれど」
「一人? 他にはいないの?」
「……はい」

サバテがうつむき、肩を落としたのを、ライラは素早く察知した。もっとも、膝の上に座っていれば当然ではあるが。
彼女は珍しく思案げな顔をして何事かを考えていたようだったが、やがて首を仰のかせてサバテの視線を真正面から受け止めた。

「それじゃ、今からサバテもライラの友達!」
「え……?」

満面の笑みとともに送られた友好宣言に、サバテの思考は一瞬固まった。
が、すぐに彼女は柔らかな笑みを浮かべ、ライラの華奢な身体を抱きしめた。

「ありがとう……」
「わ、サバテ、くすぐったいよ……あ、でも、なんかいいにおいがする……」

眉間に皺を刻みながらハンドルを握っていたウェンディの忍耐力がついに尽きた。
バックミラー越しに二人をねめつけ、「いい加減になさい」と脅す。サバテはぎくりとして身を引いたが、ライラは口を尖らせた。

「だって、友達が一人しかいないなんて寂しいよ。……あ、わかった、ウェンディもサバテと友達になりたいんだ?」
「そんな事を言ったわけでは……」

言葉の途中で、サバテとミラー越しに目が合った。明らかに何かを期待している眼差しである。
両者は数秒の間見つめ合っていたが、やがてウェンディが根負けした。……前を見て運転しなければならないという事もある。

「……まあ、いいでしょう」
「やったあ! よかったね、サバテ、今度はラジオのみんなにも会って……どうしたの?」
「いえ……その、嬉しくて……涙が……」

サバテは涙がこぼれないよう、顔を上に向けた。
二人には自分が誰かを犠牲にして作られたという決定的な負い目がない。
たとえ知ったとしても、Gを守るために日々戦っている事が免罪符となるだろう。
サバテはそのどちらにも当てはまらなかった。それでも、友達だと言ってくれる無邪気な善意は何にもましてありがたかった。

「ほら、もうすぐ国境だよ。そんな風に泣いてたら、ハインツさんって人にも笑われちゃうぞ?」
「はい……もう、大丈夫です。二人とも、本当に、ありがとう……」

国境検問所の前に、黒い制服の男が待っていた。ハインツだ。
サバテがオープントップから身を乗り出して手を振ると、ハインツは小さく手を上げて返答した。
膝の上のライラも一緒になってぶんぶんと腕を振る。

「ね、また会えるよね、サバテ!」
「はい、きっと……」
「んもう、きっとじゃなくて、約束だぞ!」

対G戦線に身を投じる二人ともう一度会う事はないだろう事を、サバテは知っていた。
だが、自らの心を励まし、相手の心を傷つけないための小さな嘘は許されるだろうと、彼女は良心の痛みをこらえた。

空は青く深く、静かに澄み渡っていた。これが仮初めでしかない事を知ってなお、サバテは平穏を享受した。
来るべき厳しく寒い時代にあっても、この日の思い出は彼女の心を暖めるだろう。



最終更新:2008年11月10日 01:03
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