鈍い刃で

(投稿者:神父)


1945年、12月。
その男は飾り気のない黒服に身を包み、ニーベルンゲの大通りを歩いていた。ひどく寒い。
彼は何気ない風を装って立ち止まり、反対側から新聞を手にして歩いてくる浮浪者風の男を待った。
浮浪者は新聞を口元にあてがうようにして彼の横に立ち止まり、「13時20分、SS本部玄関」と独り言のように呟いた。
彼はただ黙って頷き、それと同時に再び歩き始めた。本当に寒い日だ。特に、彼や彼の同類にとっては。

いや、()という人称代名詞を当てはめる事自体が間違っているのかもしれない。
この人間の形をした存在は人類ではなく、有り体に言ってしまえばGの一種―――プロトファスマである。
奇跡的にも捕食したMAIDのコアを保持する事に成功したGは、MAIDの持っていた人格をその肉体に合わせて変容させる事がある。
Gとしての基本性質、既知の生物で言うところの本能は抑圧され、その代わりにエターナルコアの影響が支配的となるのだ。
それが現在のグ・ローズ・ヌイ―――かつてはデスモアと呼ばれた存在だった。

彼は二年ほど前に将校を殺して手に入れた懐中時計を黒服―――もとい、黒服に擬態した表皮の下から取り出し、時刻を確認した。
11時40分。武器を手に入れてから本部へ向かっても充分間に合う。
彼は半年ばかり前からこのニーベルンゲで反体制派の協力を受けており、数人の要人を殺害する事に成功していた。
もっとも反動家たちは彼の正体を知ってはいない。ヴォストルージアあたりから流れてきた暗殺者だと思っているらしい。
実際、腕利きの暗殺者と彼とが能力的にそれほどかけ離れているというわけでもない。
本来の姿に戻ればMAIDに対しても優勢を保って戦えようが、擬態したままでは苦戦は避けられない。
かのジークフリートのような強大なMAIDに正面から抗しようものならば鎧袖一触とばかりに両断されるだろう。
Gの強靭な身体とエターナルコアを持ち合わせているにもかかわらず、彼らは強力だとは言いがたかった。
だからこそ、生き残るために擬態能力を得たのだ。人間を模する事ができるという事実は、彼らにとって計り知れないほどのメリットを生む。
つまり―――

「おい、あんちゃん、おれの大事な服を踏むんじゃあねえよう」

彼は路傍に座り込んだ浮浪者の、ぼろきれと化したコートの裾を踏みつけていた。……ここ数年、浮浪者の数は少しずつではあるが増えている。
長引く戦争のために、宰相の必死の努力にもかかわらず失業率がじりじりと上がり続けているのだ。
ともかくこのタイミングでの面倒事は御免だった―――彼は小銭をくれてやるような仕草で、その顔前に手を突き出した。
ぶつくさと文句を垂れていた浮浪者は、一瞬身をこわばらせ、そして静かになった。恐らくは永遠に。
この大通りの雑踏の中にもかかわらず、誰も不審げな様子を見せるものはいない。
彼は何事もなかったかのように歩き出した。

「……」

彼はその能力のすべてを以て周囲を警戒していた。
だが、それでもその道に精通した密偵の目には見つかってしまうものだ……特に、その国家の支援を受けた相手には。
鋭い眼光を山高帽の下に隠した男は、外套の襟の下に仕込んだマイクに何事かを呟き、グ・ローズ・ヌイの後を追った。



反動家たちの隠れ家である地下室には、かなりの武器が揃っていた。
この戦時下である。大量に製造される武器弾薬の中には、その行方がわからなくなるものも少なからずあるのだ。
大小さまざまな火器が雑然と並べられており、中にはGew1913やRUzB54MG42-45Vなどといった大物も混じっている。
立てかけられたGew91のそばに、彼の目的のものが転がっていた。
ヴァトラーPPK自動拳銃、フルマ・ヴェルケFMP44省力短機関銃……砲兵や将校向けの軽火器である。
彼がGそのものの容姿を曝していればはるかに強大な火力が必要だったろう。人間側に警戒されては目的の達成は難しい。
軍隊を侮ってはならない。彼らは少なくとも一人当たり三千マクスもの金をつぎ込んで訓練され、統率された動きで目標を屠殺する一個の機械なのだ。
ゴ・ルバ・チョフやス・ター・リン、ブ・レジ・ネフは彼らを侮り、そして容赦なく砲火を浴びせられて死んでいった。
しかしそれも彼が人間……特に軍隊にとって守るべき対象である国民として振舞えば話は別だ。
そして国民というものは手に武器をぶら下げたりはしない。つまり、隠し持つ事のできる武器が必要なのだ。
そこで彼は地下室の壁にかけられていた外套を着込み―――ややかび臭いが彼は気にしなかった―――その下に銃を仕舞い込んだ。
彼は出入り口を守る若者、すなわち彼らの言うところの活動家見習いに用件が済んだ事を告げ、再び表通りへ出て行った。

「グローズヌイさん……幸運を!」

若者の興奮気味の声が背中にかけられ、彼は片手を挙げてそれに応じた。
彼の名はヴォストラビア系の名前だと思われているらしく、それが彼のうわべの経歴に信憑性を与えていた。
再び懐を探って時刻を確認すると、12時20分を回ったところだった。
彼は怪しまれぬよう、また面倒事に巻き込まれぬよう、ゆっくりと注意深く歩き出した。



テオバルト・ベルクマンはSS本部の長官執務室でベルクマン夫人……すなわち彼の細君との電話に苦慮していた。
エッダ・ベルクマンと彼との夫婦の営みは絶えて久しかったが、それでも彼女は何かと彼の身を案ずるのだった。

「……ああ、わかっているとも。エッダ、心配する事など何もない。私には信頼のおける部下がいるし、護衛のMAIDまでいるのだからな」

元気づけるような彼の言葉に、電話口からか細い声が二言三言答える。

「ああ、うむ、もちろんだ。……怪我? いや、そんな事はありえんよ。お前も私の運の強さは知っているだろう。
 ……いや、もちろん運に頼っているわけではない。常に万全の態勢を整えて……おっと、出発の時間だ。
 ……わかっている、もちろん心配させた分の埋め合わせはする。だが……いや、まあいい。
 なに、二時間後には会えるんだからな。それまでにエーファと一緒にお茶の準備でもしながら待っていなさい。……切るぞ」

電話の向こうで心配している夫人をどうにかなだめる事に成功し、テオバルトは盛大に嘆息した。
黒塗りの受話器が冷ややかな音を立ててホルダに納まる。彼は「ううむ」と唸りながら眉間を揉み、軍帽を被り直した。
部屋の戸口にはホラーツ・フォン・ヴォルケンが辛抱強く待っており、その隣ではそれ以上に辛抱強くドルヒが立ち尽くしていた。
彼女は戦意のはけ口を必要としていた―――しかし長官の護衛という立場ではその機会は非常に限られていたのだ。
テオバルトは彼女の冷静な仮面の下にはやる心を見て取った。

「ドルヒ」
「なんでしょうか」
「準備はできているかね」
「もちろんです、閣下」
「よろしい。……ヴォルケン中将、例の報告はあったかね」
「は。目標は予定通りこちらに向かっているとの事です。しかし……」
「しかし、なんだね? 事態がここまで来ている時に、まさか中止しろとは言うまいが」
「私が言いたいのはまさにそれです。長官自らの身を危険に曝すとは、正気の沙汰ではありません」
「正気の沙汰で戦争が務まるものか。それにこれは君が思っているほど危険でもない。……無論、もしもの時の備えは必要だがね」
「……」
「狙撃兵の配置は」
「……済んでいます」
「よろしい」

テオバルトは満足げに頷き、ホラーツに向けてひょいと片手を上げた。「下がってよし」の意思表示である。
ホラーツは肉付きのよい身体を揺すって曖昧に嘆息し、「では、予定通りに」と告げて退出した。
テオバルトはデスクの引き出しを開け、灰色の光沢を放つヴァトラーP38拳銃を取り出した。
手慣れた動作で弾倉に8発の9mmパラベラム弾が収まっている事を確認し、しっかりと安全装置をかけてから懐中のショルダーホルスターに収める。
腰のベルトには儀礼用の装飾短剣だけが下がっている―――通常、SS隊員は右腰にヒップホルスターを吊るしている。
これ見よがしに自らの力を誇示するというのは彼のやり方ではなかった。もっとも、その護衛はひどく物騒な武器を腰に下げているのだが。
彼は静かに引き出しを閉め、ともすれば震えそうになる拳を握り締めて立ち上がった。
ホラーツにはああ言ったが、リスクはあまりにも高かった。彼は、Gの眼前に己が身を曝そうとしているのだった。



事件が―――予定通りに―――発生したのは、SS本部玄関に止められたハードトップのシュタイアー1500にテオバルトが乗り込んだ直後だった。
彼は帝国の威信云々と称しての余計な出費を嫌っており、彼が長官に就任する以前に建築されたSS本部の豪華な内装はともかくとしても、
彼が直接関わる範囲においては可能な限り費用を倹約するように努めていた。
このシュタイアーもその一環であり、つまりこの車両は彼のような大物が乗るべき高級車ではなく、前線向けの丈夫が取り柄の車両であった。
ドルヒが運転席に座り、彼が革張りの後部座席に腰を落ち着けた時、その男はやってきた。

「……来たか」

薄汚れた外套を着た男が表通りを外れ、門番の制止を振り切って突入してくるのがテオバルトの目に入った。
驚くべき速度だ―――距離にして50m、噴水の配されたロータリーをものの数秒で突っ切り、懐から二挺のFMP44を抜き放つ。

「始めろ、ドルヒ」
諒解(ヤヴォール)

テオバルトの、短く断固とした命令と同時に、ドルヒが運転席のドアを蹴り開けた。
その男がフルオートで放ったマガジン二本分の銃弾、即ち64発の9mmパラベラム弾はテオバルトを真っ直ぐに狙っていたが、彼に届く事はなかった。
それどころか、彼の乗り込んでいたシュタイアーの防弾鋼板を、いや表面のプレス鋼板すら傷つける事はできなかった。

「……!」

男は沈黙を守り通した。しかしその驚愕はいかに彼が無表情と言えども明らかであった。
彼の眼前には、凶兆を匂わせるSSの制服を着込んだ少女が立ちはだかり、そして64発の銃弾をすべて身体で受け止めていたのである。
制服に穿たれた穴から頭部の変形した銃弾がこぼれ落ち、小柄な少女は不味い飴玉を吐き出すような気軽さで、口中の弾丸を一発、吐き捨てた。
全身を弾丸で抉られた事は疑いようもないのに、血の一滴すら流れてはいない。

「いつも思うんですが」と誰に聞かせるでもなく呟く。
「鉛弾って本当にまずいんですよね。鋼芯弾は血の味に似てて割といけ( ・・ )ますが」

言うが早いか、ドルヒは腰に吊るされたM571拳銃を引き抜き、発砲する。
男―――今回の作戦の要であるグ・ローズ・ヌイは間一髪で弾道から身をかわす事に成功した。
背後の、恐らくは噴水が砕ける鋭い音が響く。今の一発を受けていれば彼とてただでは済まなかったろう。

「なるほど、MAIDか」と、確認するかのように言う。
「そうでなければ」とドルヒが応じ、左手でこれまた巨大なナイフを抜く。「何だと言うのです?」

グ・ローズ・ヌイは即座に飛び退り、ドルヒの振るう短剣の切っ先をかわした。
部分的に擬態を解き、外套の下からもう一対の腕を伸ばして空になった弾倉を交換する。
二本しか腕のない者には真似のできない芸当だ―――二挺拳銃などという離れ業をまともに演じたければ、それに倍する数の腕が必要になる。
彼がもう一度突進しようと身構えた時、本部建物内から何人かの兵士が現れた。

「あの男だ! 撃て、撃て!」

彼は更なる後退を余儀なくされた。
兵士たちは身を低くし、あるいは建物の陰に隠れ、小銃で巧みに狙い撃ってくる。
射撃速度は決して高くはないが、正面のMAIDの存在と合わせるとそれは脅威と言って差し支えなかった。

「……」

彼は兵士たちへ向けてFMP44を横薙ぎに撃った。だが障害物の配置を知り尽くした相手に素早く身を隠されては、当たる弾も当たらない。
そしてそのつど、側面からの弾丸が彼の身に突き刺さるのだ。
エターナルコアによって強化されたGの甲殻とて、銃撃を受けてまったく無傷でいられるわけではない。
ただ単に貫通しづらくなるというだけで、確実にダメージは受ける。
だが、と彼は再び弾倉を交換しつつ考えた。あのMAIDはその法則を確実に無視している。

「あなた、あまり面白くないですね。もっとしゃんとしたらいかがです?」

グ・ローズ・ヌイに勝るとも劣らぬ速度でドルヒが踏み込み、短剣を振るった。
とっさに振り上げた右手に持ったFMP44にその切っ先が食い込み、楔を打ち込まれたかのように銃身が折れ曲がった。
彼は使い物にならなくなった銃が手から離れるに任せ、短剣を振り抜いて隙だらけになったドルヒに残された全弾を叩き込んだ。
今度こそ、確実に仕留めたはずだった。
エターナルコアによる身体の強化作用と武器の火力増大作用はほぼ同程度である。
つまりMAID同士が撃ち合いをやれば、周囲の被害の差こそあれど、人間同士が銃撃戦をやるのと同じ結果になるという事だ。
MAIDよりも多少打たれ強いが、プロトファスマにおいてもこれは原則的に変わらない。

「……!」

だがこのMAIDは異常だ。
コアエネルギーによって強化された銃弾を一度に32発も受けて無事で済むはずがない。
しかしいまや銃弾によってずたずたに引き裂かれた制服の下には、傷一つない真っ白な素肌が覗いているのだ。

「どこ見てるんです、異常性愛者さん?」

馬鹿馬鹿しいほど巨大な拳銃から放たれた銃弾―――いや、砲弾が彼の外皮を抉り、腹腔で炸裂した。
イジェクションポートから飛び出した薬莢は、明らかに20mmという突拍子もないサイズのものだった。
喉の奥から苦いものがこみ上げるのを押さえ、彼は弾の尽きたFMP44をドルヒの顔面に向けて叩きつけた。
彼女はそれをまともに受け、鼻骨から眼底、頭骨までもが陥没する鈍い水音が響いた。
しかしその直後、銃を放した彼の目に映ったのは、彼を見返す冷ややかな視線だった。

「……な」
「何故死なないのか? それはもちろん私がそういう( ・・・・ )MAIDだからですよ。平たく言えば不死身なんですね」

手首を返して振るわれた刃先が顎に当たり、甲高い音を立てた。
もはや擬態にこだわる理由などどこにもない。
彼の身体が瘴気を吐きながら膨張し、外套を引き裂いて巨大な爪を備えた四本の腕が出現した。
PPKがベルトを引きちぎられたホルスターごと石畳に転がったが、そんなちっぽけな銃はいまや無用だ。
圧縮されていた質量は解放され、元より仮面じみていた顔はまさしく仮面と化した。
遠く、兵士たちの驚愕と恐怖の叫びが聞こえる。

「ああ、やっと本気になってくれたんですか。ではたっぷりとお相手を―――」

そして、本人が不死身だと言明した以上、このMAIDに関わっている理由もない。
彼としては背後から撃たれるリスクを排除しておきたかったのだが、もはやそれだけの余裕はなかった。
グ・ローズ・ヌイは地面を抉りながら跳躍し、テオバルトの乗り込んだ車の横に着地した。

「な―――閣下!」

ドルヒが叫び、グ・ローズ・ヌイの背中に砲弾を見舞う。しかし彼女の願いむなしく弾道は目標を外れ、はるか彼方の石壁を撃ち砕いた。
彼は口々に何事かを叫んで必死に銃撃を続ける兵士たちを無視し、防弾ガラスに腕を突き入れて瘴気を流し込んだ。
高濃度の瘴気は瞬く間に車内に充満し、割れた窓から逆流し始めた。
エントリヒ帝国皇室親衛隊全国指導者テオバルト・ベルクマンの殺害が、反動家たちの依頼であった。
人類を組織的に絶滅するという目的と合致したために、彼はその依頼と彼らの支援を受けたのだ。

彼は、目的の達成を確信した。



最終更新:2009年01月12日 23:37
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