エクスノール移転戦争

この茶番は統一歴202年に発生しましたが、細かい時期については未定です。


エクスノール移転戦争
Exnoal Transfer War
  目次
  1.概要
  2.移転の背景
  3.開始
  4.開始後の推移
  5.完了
  

  概要
分類 戦争
年月日 統一歴202年月 - 年月
場所 北アメリカ 旧エクスノール および 大西洋
結果 領土移転完了
エクスノール移転内戦は、エクスノール移転派とそれを支援したモスクワ第二抵抗亡命政府・スカーレット王国・村評議会・ドイツ国、エクスノール現行派と旧エクスノール国民、嵩沙技工・靈封寺運営会、反モスクワ亡命政府のアークランド軍事統制国・西アフリカ合衆国・モスクワ軍政国を中心とした戦争である。なお本記事ではハニカム公国の誤射事件もこの戦争に含める。

  背景
当時のエクスノール国内では、軍事力を背景に臨時大統領に就任した廿浦大統領に対し、国内外からの批判が集まっていた。同時期にはモスクワ第二帝国亡命政府を受け入れたことや、それによる首都・守谷空襲や第二帝国要人暗殺により、エクスノールは北米、さらには世界的にも孤立を深めていた。
ノースバンクーバー市との境界。当時は通行が制限されていた。

  開始
エクスノールの現状に匙を投げた四貴族会議は、選抜された数十万人を伴ってエクスノールを脱出、ハプスブルク家とともにオーストリアに新国家を建てる計画である「カシオペア計画」を進めた。移転派と呼ばれる富裕層や廿浦配下の軍人や政治家、さらにはモスクワ第二帝国亡命政府、スカーレット王国、村評議会といった国家がこれに協力した。この時点の計算では、1度で移送可能な人数はわずか50万から100万人と考えられていたため、計画が進むにつれ人道の観点から移転を拒む現行派が生まれていた。しかし、移転実行直前の統一歴年月日時分エクスノールのメディアを通して軍部の移転計画が露呈。畑の焼き払いや大都市と兵器の徹底的な破壊、さらには一般市民の放棄が記されていたことにより国民は激怒した。騒ぎは収まることなくエクスノール中に広まり、数日後には内戦に発展した。
地方へ向かうドローン兵器。

  開戦後の推移
   レカントラス包囲とバンクーバー爆撃
特に情報の巡りが速かった首都の鳴灯では、早くも民衆が暴徒化。下級の兵や州兵、警察も加わり、早くもレカントラスは包囲された。脱出用意中のレカントラスでは、脱出予定者の8割以上と100隻以上の艦艇が集中*1していたが、戦闘可能な人員は移転派の軍人や海兵を含めても10万人に届かず、すでに人数で劣勢であった。数日中に脱出計画を強行しようと試みる領土移転派に対し、政府内でも脱出に反対であった勢力は民衆を組織、破壊されなかった僅かな兵器*2と自作の兵器での襲撃を計画していた。同時にバンクーバー軍政国では300隻ともいわれるモスクワ亡命政府の艦艇がレカントラスへの出発準備を進めていたが、民衆の蜂起とほぼ同時のアークランドとモスクワ軍政国による爆撃により、数百人が死傷。複数艦艇が損傷し、出港が遅れた。
ウィーン軍事ロボット技術博物館に唯一現存する「機械仕掛けの神」。レカントラス防衛戦で大戦果を上げた海軍パイロットが使用した機体である。
   レカントラス防衛戦
統一歴年月日時ごろ、続々と鳴灯に集結していた民衆はついに500万人に到達。早くも混乱による物資不足が問題となった現行派政府は、ついにレカントラスへ突入。100万にも及ぶ人々が一斉になだれ込んだ。これに対し、移転派が配置した7万人の将兵と数百人のアンドロイドに加え、褒賞を期待した数千人の民衆*3がレカントラスの防衛戦力として対峙した。序盤は民衆への発砲を禁止していた移転派も、数時間での東最外区画喪失に伴い、ついに無制限の攻撃を許可した。しかし、すでに要塞内部に侵入した民衆に対しては効果は薄く、封鎖で対応した。それでも、後続の足止めには効果を発揮し、民衆側に10万人以上の死傷者を出した。また、予想以上の混乱と、多数兵士の反逆により、地方における畑の焼き払いは滞った。戦いは8日間の膠着状態にあり、その間にスカーレット王国と村評議会の移転支援艦艇がレカントラス近海に到着した。現行派のレカントラス突入から9日後の明け方、バンクーバー軍政国を出港したモスクワの軍艦による鳴灯への艦砲射撃と、特別空路部隊のオーストリア到達の知らせを聞くと、レカントラス内の移転派は一斉に乗船した。同時に各大都市に仕掛けた爆弾を総務軍が起爆、その7割が正常に起爆し、甚大な被害を与えた*4。一方で移転派にもこの時点で8000人近い死者が出ている状態だった。
   血みどろの海戦と大滝砲撃
エクスノール移転派とモスクワ亡命政府、スカーレット王国と村評議会からなる400隻以上の艦艇は、出港直後に待ち構えていた民衆の改造船と交戦することになる。押し寄せたその数は1万隻、140万人に及んだが、艦隊への攻撃を目的とするものは少なく、ほとんどは追随するか、軍艦への乗り移りを試みていた。一部の軍艦はこれに対して容赦ない攻撃を開始し、数時間でそのほとんどを物言わぬ塊に変えた。その後他港からの軍艦と合流した艦隊は、態勢を整え、南を目指した。途中、海岸に集結していた民衆は、破壊されなかった兵器や自作兵器を用いて艦隊へ攻撃を開始。一部は船を用いての攻撃を行ったが、いずれも艦隊へ被害を与えることはなかった。艦隊の保有していた大口径砲はその間、休む間も無く海岸への砲撃を継続し、特に民衆の努力により被害が僅かであった大滝特別区とセントロイドポートへ容赦なく攻め立て、約20万人の死傷者を出した。その間、有事に備えてミサイルや小口径砲は温存されていた。
軽巡海猫(現シーガル)の甲板。
   セブンンスアリア決戦
統一歴年月日昼。艦隊は国内最後の寄港地であるセンブンスアリア航空要塞に到着した。しかし、セブンスアリア航空要塞は民衆により完全に包囲されており、すでに敗走寸前だった。また、艦隊のセブンスアリアへの寄港を予想していた現行派は、現地の兵士に対し、なぜか一切破壊されていなかった人対艦特攻兵器「明刻」を約5000艇使用させた。これにより艦隊はセイリッシュ海に追い詰められた。艦隊は対潜戦闘を継続しながら、レカントラスにおける死者分の枠をセブンスアリアの兵士から回収する作戦を決行。全砲門を解放しての艦砲射撃に、セブンスアリアを包囲していた地上の民衆は総崩れとなった。同時に、海上では移転派の軽空母が操るドローン兵器も猛威を振るい、明刻を足止めした。その結果、艦隊は丸い1日で乗員の補充を完了させ、セイリッシュ海を離脱した。なお、ドローンを突破した明刻も、遅れながらの自爆と、使用者の練度の低さから、艦隊側へ与えた撃沈被害は0隻に終わった*5。この戦いにおける移転派の死者は1万1000人以上*6、民衆側の死傷者は32万人弱とされる。
   パナマ運河小戦闘
統一歴年月日未明、パナマ運河を利用するべくペルラス列島に到着した艦隊は、最前衛のうなばら型護衛駆逐艦のひょうかいと賽栄型海防艦の23番艦と24番艦を斥候として送り、待機した。当時管理する国家のいなかったパナマ運河では、地元住民が管理経営していた。そのため、軍艦でも料金さえ支払えば通行可能であったため、3隻もそうして進入した。途中、事情説明のため、3隻は運河内で寄港した。実はこの時点ですでに運河の管理組織は嵩沙技工の兵士によって制圧されており、防衛戦力のPMCも壊滅していた中で現地関係者は強制的に働かされている状態だった。事情説明のため送った部隊の帰還を待つ間、海兵や移転派には30分の休憩時間が与えられていた。その中でも海兵を中心として、甲板上や波止場に出るもがいた。6時ごろになると、3隻の接岸を嗅ぎつけた嵩沙技工の兵士数十名が接近してきたが、当時ひょうかいの砲雷長であり、この戦いで捕虜となったマイケル・ポール中尉は後のインタビューで、彼らを運河側の兵力だと勘違いしていたと語っている。6時10分、23番艦から数十メートルの位置で喫煙中だった野薔薇 暮明准将が嵩沙技工兵士に射殺された。艦の外にいた海兵が状況を把握する前に、波止場にいた4、5名の海兵も射殺された。その後、嵩沙技工の兵士は応戦する海兵を押しつつ移転派側の十数名を殺害した。一部の兵士はひょうかいの甲板にも侵入、移転派の民間人への攻撃を行った。なんとか艦内への侵入は防いだ3隻は、即時出航を決定し、直ちに艦隊との合流を目指した。しかし、嵩沙技工の別動部隊により運河の出入り口付近の砲台は占拠されており、3隻に容赦のない攻撃を加えた。最終的には靈封寺運営会による[編集済]の一時解放により、ひょうかいを除く2隻は大破着底し、ひょうかいも降伏した。パナマでの事件の報告をひょうかいから受けていた艦隊は、直後に南アメリカを迂回しての航路に予定を変更した。嵩沙技工や靈封寺運営会も直後に撤退し、旧エクスノールに帰還した。この事件における移転派側の死者、行方不明者は合計311名*7、嵩沙技工と靈封寺運営会側は20名の負傷者を出した。
靈封寺運営会がSNSに投稿した写真。ひょうかいとみられる軍艦が写っている。
   大西洋大海戦
パナマ以降、移転派の艦隊は順調な航行を続けていた。ドレーク海峡を通過した時点でも出航前の用意周到な準備が功を奏し、目立った問題は発生していなかった。大西洋はモスクワ亡命政府の敵であるアークランドの行動範囲となることを考慮した移転派上層部は、戦闘時に400隻以上が集合していると身動きが取れなくなることを警戒し、艦隊を20~50隻の分艦隊に分解し、陣形を組んで大西洋を通過する計画を実行した。各分艦隊には旧エクスノールの艦隊長および副艦隊長が指揮官として割り振られた。統一歴月日時分、移転派の旗艦であったてんくう型護衛駆逐艦のてんくうへアークランドと西アフリカの連名でモスクワ亡命政府の引き渡しと、即時降伏を要求する内容の文章が送られてきた。これに対し移転派の軍部は黙殺を決定し、警戒を各分艦隊に指示した。これを受け、一時間後にはアークランドと西アフリカの連合軍が移転派に宣戦布告した*8。宣戦布告から9分後の時分、最前衛に西アフリカのものと思われる早期警戒機が発見された。その後は15分間の静寂が訪れたが、西アフリカの潜水艦を最前衛が補足したことで、移転派は身構えた。まもなく最前衛と潜水艦隊は接敵したが、移転派の予想に反し最前衛は短時間で駆逐艦と軽巡洋艦9隻が全艦行動不能もしくは沈没し、潜水艦隊には1隻の撃沈被害と2隻への損傷しか与えられなかった*9。この報せを受けた移転派は、異常な惨敗に混乱した。切迫した空気が広がる中、時分には東北東に連合軍の大艦隊が捕捉されたが、西側の前方に位置していた第三分艦隊と第五分艦隊はすでに連合軍の射程圏内に収まっていた。いずれもモスクワ艦を中心とする40隻から成る第三分艦隊と、32隻から成る第五分艦隊は、旧第二艦隊司令官の佐賀 吾郎丸大将や旧第六艦隊司令官の十条院 つきみ中将が率いていた。佐賀大将は事前に西アフリカの哨戒機と見られる航空機を警戒していたが、最前衛の開戦を受け攻撃を開始していた。時分になると、連合軍はミサイルの一斉攻撃を開始した。第三分艦隊は通常通りの防空を行い、数に物を言わせて迎撃したが、そこに罠を仕掛けていた連合軍による追撃のミサイルの一斉射撃と、戦艦や重巡洋艦、艦載機も加えた攻撃により、防空網を突破された。第三分艦隊は善戦し、艦隊への被害は抑えたが、完全に防戦一方となり、連合軍の突入への反撃に割く余裕がなくなった。これにより、突入してきた打撃部隊に対応できず、最終的には38隻が沈没した。総崩れになった第三分艦隊へは、のちに第五分艦隊や遊撃部隊からの増援が到着したが、いずれも追加攻撃への相手で手一杯となり、12隻という応戦した連合軍より多くの被害を出した。想像以上の戦果に沸いた連合軍では、中央の第一分艦隊へ攻撃する案が上がったが、結局は実行せず、急速に離脱した。一部では偶然接敵した他分艦隊と連合軍による交戦も発生したが、いずれも大した被害なく終結した。この戦いにおいて移転派は、民間人を含む34,486名の死者と3,405名の重軽傷者、3,721名の行方不明者を出した。戦艦や空母を含む59隻の軍艦が沈没し、11隻が大破もしくは中破した。また、佐賀大将をはじめとした15名の将官が戦死し、十条院中将は重傷を負った。乗船していたが戦闘には参加しなかった著名人では、エクスノールの兵器開発を一手に担っていた御伽 モカ博士や、国家ページ編集者のアトラス・ディスカ少将、高次犯対策室室長の王 诗涵が、重傷を負った。対するアークランド西アフリカ連合軍では16隻が沈没し、49機が被撃墜、2000名以上の死傷者が発生した。連合軍が救助した移転派のエクスノール人948名は、講和会議後に全員返還された。
てんくう型の第一主砲射撃の様子。移転派により、大西洋大海戦前後で撮影されたとされている。
   へきくう誤認事件
統一歴年月日、大西洋で演習中だったハニカム公国の公国海軍第2艦隊が、エクスノール移転派の軍艦を捕捉した。エクスノール艦はセブンスアリアで特に損傷し、艦隊から落伍していたてんくう型護衛駆逐艦のへきくうであった。第2艦隊の指揮艦であったザップ・ライデン大尉はエクスノール移転派と行動を共にしているモスクワ亡命政府への警戒から、不明なてんくう型に対して最大の警戒をとった。この段階ではレーダー上でのみてんくう型を確認していたため、損傷まではわからなかった。第2艦隊が警戒態勢に入る中、へきくう側のレーダーもを捕捉した。へきくうの艦長であった卯月 高志少佐は、付近に敵艦がいる*10ことを艦隊通信で認識していたため、まず一発艦砲による威嚇射撃を行い、同時に進路を変更した。これを攻撃と勘違いした第2艦隊は一斉に反撃を開始した。中破状態かつ移転派をギリギリまで詰めこんでいたへきくうに継戦能力はなく、船体を酷使した結果約10分で全兵装が停止、その後すぐ沈没した。第2艦隊のディップ級駆逐艦は生存者の捜索を行い、卯月少佐を含む69名を救出した。その際第2艦隊はへきくうの損傷と所属を知った。生存者は大オーストリア帝国建国後すぐに返還されたが、この事件の処理は戦後まで持ち越されることとなる。
ハニカム公国のディップ級駆逐艦。

  終戦
大西洋での熾烈な戦闘を潜り抜け、デンマークで合流したと移転派は、その後ドイツを経由してオーストリアに到着した。ドイツやオーストリアの住民は彼らを温かく迎えたという。ドローン操縦士として移転派側で戦争に参加していた八縞 ナギ中尉は、手記内でこの戦争を「まるで映画の様だった」と評した。大オーストリア帝国建国から後の統一歴年にプラハで行われた講和会議へは、移転派の代表であるリーゼロッテ・マリエル・アルトドルファー=アドリオン外務筆頭事務官*11と大オーストリア帝国代表のグレシア・ハプスブルク=ロートリンゲンが主要な人物として参加した。移転派とオーストリア政府は特に現行派と旧エクスノールとの和解を目指していたが、レカントラスや大滝やセブンスアリアにおける旧エクスノールの被害は大きく、統一歴年にモスクワ軍政国の助けを得て旧エクスノールに成立していたエクスノール平和国は白紙講和と和解には応じたものの、平和国の国民の多くは納得しなかった。モスクワ軍政国はモスクワ亡命政府の人物や兵器の返還を求めていたが、結局はなあなあで処理され、モスクワ軍政国への帰国を希望する人物の返還のみにとどまった。アークランド軍事統制国と西アフリカ合衆国はこの戦争がオーストリアとの関係悪化に及ばないかと危惧していたが、結果的には遺恨を残すことなく白紙講和となった*12。スカーレット王国と村評議会、ドイツ国*13はこの戦争に間接的に影響を及ぼしていたものの、最後まで戦闘に参加することはなかったため、他勢力との講和は容易であった。戦争の一因であったはずのモスクワ第二抵抗亡命政府と、国家でなくテロリストと認知されている嵩沙技工・靈封寺運営会の代表者は会議に現れることはなかったが、会議自体が平和的に進んでいたため過度な責任追及は行われなかった。ハニカム公国とは別日にオストラヴァで会談が行われ、和解が決定された。この戦争は国際的な面で新たな亀裂を生むことはなかったが、移転派と平和国の旧エクスノール人に深い傷を残した。
大オーストリア帝国の国旗。



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最終更新:2025年09月25日 22:11

*1 残り2割は他港からの脱出

*2 ほとんどの兵器はレカントラス包囲直後に、自爆システムにより内部機器が停止された

*3 主に陸軍兵士

*4 一説には、直接の死傷者だけでも35万人に届くと言われている

*5 中破2隻、小破3隻

*6 ほとんどがセブンスアリア兵

*7 一見少なく感じられるが、後の2つの海戦はここでの迂回と遅れも一因であるため、重要な戦いであった

*8 速すぎた連合軍の判断から、移転派内にスパイが潜んでいた、もしくは通信が傍受されていたとする説もある。

*9 旧エクスノールの軍艦が発展途上だったことがよく原因とされているが、移転派は航空機と水上艦隊を警戒していたため、潜水艦対策が疎かだったことが主因であるとの事実が、資料やインタビューから明らかになっている。

*10 直前の大西洋大海戦の報せから

*11 廿浦 神門旧エクスノール総帥兼臨時大統領のこと

*12 ただし救出した旧エクスノール人と鹵獲した移転派の兵器はオーストリアへ返還することを約束した。

*13 移転派のデンマークからオーストリアへの陸路移動を支援しただけでなく、公式に観戦武官を送っていた。