第三次欧州大戦

第三次欧州大戦


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第三次欧州大戦(だいさんじおうしゅうたいせん、英:Europe Great War Ⅲ、統一歴139年 - 139年)は、反シェラルドを掲げるスミトラント連合王国とその同盟国による、シェラルド王国への宣戦布告を契機に始まった戦争である。 欧州大戦 第二次欧州大戦 に続き、第三次欧州大戦と呼ばれる。
第三次欧州大戦
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. 第10回十字軍遠征
  2-2. 中華経済崩壊による世界恐慌
  2-3. プラハ窓外投擲事件
  2-4. 第一回帝国会議
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. ドイツ同盟軍の防衛戦略
  4-2. ライン川戦線
  4-3. エムズ川戦線
  4-4. ライン会議
  4-5. エルベの守り作戦
  4-6. アイゼルネの降伏
  4-7. リュッツェンの戦い
  4-8. ライプツィヒの戦い
  4-9. オラニエンブルク条約の起草
  4-10. ノイベルリンの戦い
  4-11. シュメックヴィッツの戦い
  4-12. スミトラントの降伏
 5. 終戦と講和
  5-1. ポツダム講和会議
  5-2. オラニエンブルク条約の締結
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
ノイベルリンの戦い
ポツダム講和会議
戦争:第三次欧州大戦
年月日:2020年07月16日 - 2020年07月30日
場所:ドイツ、フランス、オランダ、スペイン
結果:シェラルド王国側の勝利
交戦勢力
シェラルド王国
スミトラント連合王国
ヴァルキア王国
アイゼルネ王国
ザーティエラ王国
指導者・指揮官
エリックⅠ世
ハインリヒⅨ世
ヨハン・カスパール・シシグノン
スミトラント将軍
シャルル・ド・リュッシュモン
スミトラント将軍
マクシミリアン・メーレンカンプ
フィリアスフィーネ
アンデル・ウールップ
アンドレーアス・シュペングラー
アーリンⅠ世
オスカルⅢ世
アンドリュー・タケウチ
ザーティエラ将軍

 概要

第三次欧州大戦は、十字軍遠征や世界恐慌による神聖ローマ皇帝エリックの経済政策の失策および、帝国憲章によるカトリック信仰の強制に反対し、皇帝の罷免を求めたスミトラント連合王国とその同盟国と、皇帝率いるシェラルド王国とその同盟国間の戦争である。ドイツ同盟軍は防御戦略によって戦争を長期化させ、帝国外部からの干渉に期待したが、アイゼルネ王国軍が早期に崩壊したため戦略が破綻し、始終スミトラント連合王国は劣勢を強いられた。
最終的にシェラルド王国が勝利し、ポツダム・サンスーシ宮殿でオラニエンブルク条約が締結された。アイゼルネ王国は解体され、ライン同盟に再編されシェラルド王国の統治下となった。スミトラント連合王国は莫大な賠償金を課された。
戦後はロシアの共産主義勢力に対峙するため、皇帝エリック及びシェラルド王国とスミトラント連合王国は表向き和解した。
緑が皇帝側、赤がドイツ同盟側

 背景

第10回十字軍遠征

シェラルド王国はかつて、レグルス国との同君連合の解消の際に、聖地の保護を名目にイスラエル地域からは退去せず、シェラルド軍を駐留させ実効支配下に置いていた。これを取り戻したいレグルス国との間では度々戦争が起こり、第二次東地中海戦争では、イスラエルこそシェラルドが死守したものの、レグルス国は戦争に勝利し、アナトリア領アンティオキアの割譲と賠償金を得ていた。
統一歴137年、レグルス国はイスラエルに対し過激な港湾封鎖を実施。これに対しシェラルドが強行突破で応えると、両国は再び一触即発状態となった。前回の敗戦を受けて、エリックは充分な戦力を揃えるべく、十字軍を発令。神聖ローマ帝国諸侯に対し、参戦と軍資金の供出を呼び掛けた。スミトラント連合王国やヴァルキア王国がこれに応え派兵。また、アナトリア軍の奮戦もあり侵攻を受けながら聖地の死守には成功したものの、アナトリア戦線では指揮官アルメニア辺境伯の戦死により劣勢に立たされた。
しかし、機を同じくして中華連邦で地代が暴落し、これがきっかけで世界規模の大恐慌が発生。競うように投資していたシェラルド王国とレグルス国は揃って経済に大打撃をうけ、経戦困難となり講和を模索した。アンティオキアで結ばれた講和条約では殆ど白紙和平のような状態で合意がなされたが、劣勢の戦況や莫大な軍事費を考慮すれば、神聖ローマ帝国内外から、シェラルド王国は敗北したと見なされていた。
アナトリア領を通過し前線へ向かう皇帝エリックとシェラルド軍
 

中華経済崩壊による世界恐慌

東トルキスタン戦争を経て荒廃した西北部の復興のため、中華連邦共和国は広く国内外に投資を集った。これに応えた世界中の投資家はこぞって中華の土地を購入、開発し、空前のバブル景気となっていた。
史聖戦争に勝利し、holynationの教皇庁がため込んでいた莫大な財産を手に入れたエリックはその投資先を求めていた。折よくレグルス国が国家ぐるみで中華連邦へ7000億もの投資を行っていることを知ると、対抗するように投資を開始。神聖ローマ帝国内にも投資を呼び掛け、みるみる内にバブルへと飲み込まれていった。最終的にエリックとシェラルド王国からの投資額は5000億にのぼるとみられる。
しかしバブルは長続きせず、137年には崩壊が始まった。続く失政により返済能力を失った中華連邦では革命が発生。社会主義政権へと移行し、政府は負債を全て踏み倒した。これにより中華連邦に投資していた全ての国家が大損害を被り、世界恐慌が発生した。シェラルド王国とレグルス国が特に大被害をうけたことで、先述のとおり第10回十字軍戦争が終結したが、その後もシェラルド王国の経済状況は回復せず、ただでさえ十字軍遠征で資金供出させた帝国諸侯をさらに締め上げることで、なんとか保っている状態であった。さらにエリックは帝国全体に対しブロック経済を強制した。これは反共産主義政策として、特に極東国家群との繋がりを重視するスミトラント連合王国から多大な不興を買うこととなった。
失意の表情で証券所から出てくる金融マン
 

プラハ窓外投擲事件

元来スミトラント連合王国の国民には新教徒の割合が多く、帝国宗教をカトリックに定め、新教徒を弾圧していたエリックとシェラルド王国への反発が広がっていた。そこに十字軍、世界恐慌と経済がらみの失政が続いたことで、反シェラルド運動は反カトリック運動と結びつき、暴動が多発した。
137年7月、議員は全てカトリックではならないとの帝国法に準じているプラハ市議会に対する抗議として、新教徒の集団がプラハ市庁舎に押しかけた。彼らが議場に突入すると、条例案の作成で紛糾していた議会は混乱に拍車がかかり、反シェラルド議員を巻き込んでの暴動へと発展した。その最中で、中でも敬虔で知られる議員9名が捕らえられ、市庁舎8階の窓から突き落とされ死傷する事件が発生した。
後にプラハ窓外投擲事件として語られるこの事件を重く見たエリックはスミトラント王ハインリヒに首謀者、実行犯への厳罰を命じたがハインリヒはこれを黙殺。さらにエリックは死亡した議員9名をローマ教皇庁を通じ殉教者として認定したが、これは火に油を注ぐことにしかならなかった。シェラルド王国とスミトラント連合王国の対立はますます深まった。
議会のある8階から突き落とされた議員は殆どが即死であった。
 

第一回帝国会議

スミトラント王ハインリヒは帝国会議の開催を要求した。これは神聖ローマ帝国の選帝侯が一堂に会し、帝国内外の問題について協議する特設会議であり、専ら皇帝選挙を行うためのものである。これにドイツ大同盟に属し親スミトラントの立場をとるアイゼルネ王国、そしてシェラルドとの間にバスク問題を抱えているザーティエラ王国が同調し、エリックはこれを受け入れざるを得なかった。第1回となる帝国会議はシェラルド王国の首都パリースイィで開催された。
会議ではハインリヒが第10回十字軍を失策と主張し、エリックを厳しく糾弾。選帝侯権を行使し退位を求める罷免選挙を行った。神聖ローマ帝国の選帝侯には7諸侯が割り振られており、過半数である4票を集めれば罷免が可能となる。
罷免の賛成票となったのはスミトラント王、アイゼルネ王、ザーティエラ王がそれぞれもつ三票であり、罷免は失敗した。もとより皇帝エリックはシェラルド王とアナトリア王としての二票に加え、サヴォイアが属国であったため合わせて3票を持っており、趨勢を委ねられたヴァルキア王アーリンは欧州大戦以来の大のドイツ嫌いであったため、投票は初めから不利であった。しかし、帝国内の決定的な分裂状態を明るみに出したことで、ハインリヒの目論見は達成されていた。対シェラルド戦争を覚悟し、会議後にアイゼルネ、ザーティエラと対仏同盟を結んだのである。
会議中を収めた一枚であるが、既に敵対陣営の相手には関心がないことが伺える。

 開戦

スミトラント連合王国による宣戦布告

帝国会議を終え、パリースイィから特急でベルリンへ戻ったハインリヒを一目見ようと、駅には民衆が押し寄せていた。反シェラルドに包まれたスミトラント国民にとって、皇帝に三行半を突き付けた国王ハインリヒは英雄であり、彼こそ皇帝にふさわしいと誰もが考えていた。この時点で既にスミトラント議会は戦線布告の文書を完成させており、あとは主人のサインを待つのみであった。
統一歴139年7月21日、ハインリヒはベルリンの国会議事堂の議壇に上がると、全国中継のカメラの前で宣戦布告の文書を読み上げ、国民に対し、戦争協力を呼び掛けた。新聞各紙は国王の決断を英断と称え、スミトラントは熱狂の中で戦争に突入していく。
対照的に、シェラルド王国の戦争準備は実に淡々としていた。ドイツとの戦争は最早手慣れたものであり、帝国会議の数時間後には、欧州最大の暴力装置たる大陸軍がライン川沿いに展開していた。あとは参謀部が入念な計画の下立案した作戦書が、主人のサインを待つのみであった。最前線へ向かったエリックは司令部のあるデュッセルドルフで宣戦布告を受け取ると直ちにスミトラントに戦線布告し、大陸軍が動き出した。ここに第三次欧州大戦が開戦したのである。
シェラルドの皇帝と元帥たち

 開戦後の経緯

ドイツ同盟軍の防御戦略

本来、スミトラントとシェラルドの両国間には戦力差が大きく、スミトラント同盟側はアイゼルネ、ザーティエラを加えてなお劣勢であった。そこで同盟軍のとった戦略は、宣戦布告をした側にも関わらず、国境線で防備を固めることであった。
防御陣地と国土縦深で徹底的に消耗を強い、これにより戦争を長期化させ、疲弊したシェラルドを攻撃すべく、潜在的な敵国であるカレンテルニア帝国やトラキア・ローマ帝国、レグルス帝国などが参戦するのを待ち、協力してシェラルドを倒そうというものである。もし大陸軍の初動を防ぎきれば参戦するとの約束を得ていたとの噂もあり、実際にレグルス帝国を便乗宣戦させることには成功したものの、後述のとおり、この戦略は早期に破綻することとなった。
シェラルド側もこの危険性は想定しており、第二次欧州大戦のような電撃戦による早期講和を目指し入念な作戦計画が練られていたこと、成功率を上げる為にアイゼルネに対し行った諜報、偵察が功を奏したことなどにより、防御戦略の片翼を担うアイゼルネ軍を一瞬で崩壊せしめたのである。
アイゼルネ軍は各地で敵国旗を燃やすなど士気は高かったが、祖国の経済崩壊で充足は不十分だった。
 

ライン川戦線

開戦時、シェラルド軍はライン川沿いに、ヴァルキア軍はエムズ川沿いに展開し対岸のアイゼルネ軍と対峙していた。シェラルド参謀部は事前にアイゼルネ軍の配置をほぼ完璧に察知できており、それが極端にエムズ川方面、すなわちヴァルキア方面に偏っていることを知っていた。シェラルド軍は大軍を南ドイツ方面から迂回させての包囲殲滅を計画。これを察知されスミトラント領まで撤退されるのを防ぐべく、正面では散発的な攻撃の後わざと後退し、敵を引き込む作戦を取った。この困難な任務には精兵揃いの皇帝親衛隊と第1軍団が担当。親衛隊を皇帝エリックが直卒した。
正面軍はライン川を渡河しては撃退されを繰り返し、少しづつアイゼルネ軍左翼を南方へ引き付ける。途中ヴァルキア軍が独断で突撃し撃退されるアクシデントがあったものの、むしろ反転攻勢に転じたアイゼルネ軍が北方に移動したことで中央にわずかだが、待望の空白地帯が生まれた。エリックはポーランド継承戦争から連れているフサリアを引き連れ敵中央にねじ込むと、すかさず正面軍で一斉に攻勢をかけた。大混乱に陥ったアイゼルネ軍は撤退を試みるも、時すでに遅く、撤退先にはシェラルドの迂回軍が待ち構えていた。大陸軍の全軍は突撃を開始し、アイゼルネ軍を地上から一掃すべく、北海を目指し猛進した。緒戦は完全にシェラルドの手に渡っていた。
快進撃を支えたシェラルド軍の新鋭戦車Kamv.127
 

エムズ川戦線

シェラルド参謀部がヴァルキア軍に通達した作戦は、ヴァルキア軍はあくまで防戦に徹し、シェラルド軍の突破成功後に北海側から進出し包囲を補助することであった。開戦後、厚い戦力をもつヴァルキア方面のアイゼルネ軍はヴァルキア軍に対し攻勢をかけたが、これをしっかり撃退。順調な滑り出しに見えた。
しかし、その後ヴァルキア軍はシェラルドに通達なく独断で反転攻勢の突撃を敢行した。反アイゼルネの色濃いヴァルキアでの政治的な要請を無視できなかったためだ。第1次欧州大戦で侵略をうけて以降、ヴァルキア王国は徹底的な反ドイツ国家となり、小学校教育から取り入れられているほどであった。それなのにドイツ相手に防戦一方というのは受け入れがたく、ヴァルキア議会ではタカ派が支持を集め議会を占領。政治的内戦を避けるべく、止む無しに逆侵攻作戦は承認された。
第1騎兵師団、第5歩兵旅団に第9、10歩兵旅団を加えたヴァルキア軍の全力攻勢はアイゼルネ軍に多大な犠牲を与えたが、しかし最終的には阻まれてしまい、余力のないヴァルキアは一転危機的状況に陥った。あわや再び占領の憂き目にあうかといったところでシェラルド軍が突破に成功。ヴァルキアへ逆逆侵攻の用意をしていたアイゼルネ軍右翼は後退の機会を逃し、南からの津波に押しつぶされていった。
結果としてヴァルキア軍はアイゼルネ軍撃滅に多大な貢献を果たした形となったが、北海方面の軍が消滅したことはこの後の追撃戦に深刻な支障をきたすこととなった。
エンストしたヴァルキア戦車。回収車を動かせる燃料すらなく、結局放置されることが多かった
 

ライン会議

本文
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エルベの守り作戦

本文
画像の説明
 

アイゼルネの降伏

エルベの守り作戦から明けて翌日には、アイゼルネ王国の全土は大陸軍によって占領された。わずかな軍隊をスミトラント領内へとにがすことができたものの、すでにアイゼルネ王国政府に抵抗の意思はなく、首都ゲファースドルフに入った皇帝エリックによって突き付けられた降伏文書に静かにサインした。ここでアイゼルネ王国としては大戦から脱落したものの、スミトラントに逃れた残存部隊は祖国解放を信じ、スミトラント軍のもとで抗戦を続けた。
また、相変わらずタカ派に統制されているヴァルキアはエムズ戦線で崩壊した軍隊の敗残兵を無理やり編成し、大陸軍とともに占領に従事している。
大陸軍は占領部隊を残し、残るスミトラント軍を撃破すべく、エルベ川沿いに展開した。緒戦に要した時間により防衛線はより強固となっていたが、戦況的には劣勢に立たされたスミトラント王国は凄惨な本土決戦へと突入していくことになった。
降伏文書には全部隊の戦闘停止が盛り込まれていたが、残存アイゼルネ軍は従わなかった。
 

リュッツェンの戦い

大陸軍はスミトラントへの侵攻を開始。攻撃目標に敵司令部のあるライプツィヒを設定した。26日、皇帝陛下率いる大陸軍は国境のスミトラント軍を撃破し進軍。ライプツィヒ前方のマルクアンシュテットに到達した。
この頃スミトラント領内では、軍の支援を受けてシェラルドの侵略に反対する市民軍が各地で蜂起しており、マルクアンシュテット後方のリュッツェンでも大規模な市民軍が蜂起、南方にいたスミトラント部隊と合流し、後方にいた大陸軍第7軍団を攻撃した。
これにより大陸軍はライプツィヒの部隊とリュッツェンの部隊とに挟撃される形となり、打開のため皇帝はリュッシュモン元帥の第1軍団とメーレンカンプ元帥の騎兵をライプツィヒの包囲に残し、リュッツェンへ向かった。
第7軍団はしぶとく持ちこたえ、皇帝の増援は間に合った。この日は日が落ちたため、会戦は翌日に持ち越された。翌朝、両軍が展開を終えた頃に同地は深い霧に包まれ、土地勘のない大陸軍に不利な状況となった。しかし、時間をかけたくないエリックは攻撃命令を下し戦闘が始まった。。スミトラント軍は軽騎兵を用いたゲリラ戦で大陸軍を苦しめたが、市民軍主体では質の差は如何ともしがたく、大陸軍が結実に勝ちを拾った。
途中、グスタフ・アドルフのようにリュッツェンで伝説になりたいと思いついたエリックは騎兵を率い突撃。一定の戦果を挙げるものの、案の定霧の中で迷子になった。さらに乗馬が敵弾を受け落馬し、エリック自身も被弾し負傷。なんとか親衛隊に護られながら本隊へ帰還した。一時戦死の噂も立ったが、結局、落馬のショックで気絶していただけで、銃創もかすり傷にすぎないと、なんとも締まらない結果であった。
突撃する皇帝エリック
 

ライプツィヒの戦い

ライプツィヒ攻囲戦は復帰したばかりのリュッシュモン元帥に戦果を挙げさせ、箔をつけさせる思惑があった。第一軍団は占領したマルクアンシュテットから砲撃を加え、その後ライプツィヒに猛攻撃をかけたが、スミトラント軍と市民軍は頑強に抵抗し、エルスターベッケンの運河を渡らせなかった。さらに、ライプツィヒ南方にあるコスプーデナー湖やツヴェンカウアー湖の遊覧船から奇襲上陸攻撃を行い、第1軍団をマルクアンシュテットへ後退させることに成功した。ライプツィヒ市民は勝利に湧いが、既に充足は尽きかけていた。
翌日、支援に与えられたメーレンカンプ元帥の騎兵軍団は命令をうけてライプツィヒ南方のグロースベズナへ向かい、これを占領。二正面から第二次総攻撃をかけた。ライプツィヒの軍は湖が使えなくなり、充足も切れかけたことで満足な抵抗ができず、遂にライプツィヒは陥落した。司令部は市民軍が稼いだ貴重な時間により、辛うじて首都ノイベルリンへと逃れた。。
ライプツィヒに砲撃を加えるマルクアンシュテットのシェラルド軍砲兵
 

オラニエンブルク条約の起草

続く27、28日の戦闘によって大陸軍はスミトラント領の大半を占領した。スミトラント王ハインリヒとわずかなスミトラント・アイゼルネ残存軍は、首都ノイベルリンへと追い詰められたが、ノイベルリンの議会と市民は、既に国王と共に徹底抗戦を戦う覚悟を固めていた。大陸軍は総軍でノイベルリンを包囲し降伏勧告をしたが、投降する者は誰一人としていなかった。
ノイベルリンの結束をみた皇帝エリックは、攻囲戦の長期化をみて、先に戦勝を見据えた講和条約の条文の起草に取り掛かった。場所は前線司令部の置かれたノイベルリン郊外のオラニエンブルク城であったため、この条約はオラニエンブルク条約と呼ばれた。
まずはスミトラントの早期降伏をめざし、ノイベルリンに籠るハインリヒとの交渉材料とすべく、対スミトラント条項から起草は始まった。しかし、スミトラントの反逆に立腹であったエリックは、スミトラントとボヘミアの分離や沿岸都市の割譲、選帝侯の剥奪、さらに多額の賠償金等、徹底した弱体化を目論んだが、外務大臣プラティエの諫言によって、これらの過剰な要求は取り下げられた。これには、戦後ロシアの共産主義勢力と対峙する際、最前線となるスミトラントの弱体化は、結局帝国全体の不利益であるとの判断があった。
最終的に、条約はハインリヒの退位と大陸軍の進駐に留められた。こうして出来上がった対スミトラント条項は様々な手段でノイベルリン市内へと持ち込まれたが、議会が拒否したため、攻囲戦は継続することとなった。これに怒ったエリックは、一度は取り下げた多額の賠償金支払いを、再び条文に加えた。
オラニエンブルク城は偶然戦火を逃れた貴重な建物であった。
 

ノイベルリンの戦い

包囲下のベルリン市は、シェラルドが条約による降伏勧告を行う間に、外周の建物の間をバリケードで繋ぐことで防壁を構築した。さらに中枢のノイ=ベルリン地区を囲うかつてのベルリン要塞は修繕され、二重の要塞都市に生まれ変わっていた。29日、大陸軍による攻囲戦が始まった。
はじめはライプツィヒと同じように、郊外から大砲による砲撃を加えたが、防壁は頑丈で、わずかに傷をつけても夜間に市民が修復してしまった。しかし、これの妨害に夜襲を繰り返すようになると、次第に修復が追い付かなくなり、遂にマルシアル将軍と第33連隊の突撃によって、防壁は突破された。防衛隊はベルリン要塞で抗戦を続けた。
要塞の攻略は同じ手段が用いられたが、こんどは市内からのゲリラ戦によりうまくいかなかった。エリックは要塞の突破を諦め、絶えず砲撃を加えるに留めた。要塞内は物資の欠乏により壊れた建物の修復もままならず、市民は家を失い、路上で寝ざるをえない状況だった。士気高揚のため、連日視察に巡っていたハインリヒはこの様子に心を痛めた。ベルリンの議会はこれ以上の籠城は不可能との結論を出し、一か八かの突撃を提案した。軍、市民はこれに賛成し、ハインリヒも覚悟を決めた。
29日、スミトラント軍と市民軍はノイ=ケルン地区から要塞外の包囲軍へ総攻撃をかけた。ベルリン南東は湖沼地帯であり包囲の戦力が薄く、ここからドレスデン~プラハへと後退する作戦だった。想定外の攻撃にベルリン南東を担当していたブランクール師団は大混乱に見舞われ敗走した。ハインリヒ自ら先頭に立って戦うスミトラント軍は瀕死の部隊とは思えないほどの士気を有した。この隙にドレスデンへの行軍を開始したが、この様子をツォイテンから見ていたマルシアル師団は急行し、シュメックヴィッツで戦闘となった。ここのベルンスドルファー橋を通りダーメ川を渡られてしまうと、追撃は困難だった。第三次欧州大戦最後の戦闘が始まった。
ベルリン防壁を突破したマルシアル将軍は、戦後に元帥杖を授与された。
 

シュメックヴィッツの戦い

マルシアル師団はシュメックヴィッツへ強行軍で滑り込んだため、先頭を行く第33連隊とマルシアルはスミトラント軍の総攻撃に曝された。しかし、この連隊は先のベルリン防壁への突撃隊に選ばれるほどの歴戦の古参兵揃いであり、数倍の敵相手に甚大な被害を出しながら、ベルンスドルファー橋を死守した。
この攻撃の失敗により、スミトラント軍の最後の余力は尽きかけていたが、南から第4軍団がすぐそこまで迫っていたため、ハインリヒは隊列を立て直し、最後の総突撃をかけた。ハインリヒは先頭にたって突撃し、マルシアルもまた先頭で第33連隊に最後の力を振り絞らせた。両指揮官は混戦の中で激突し、ハインリヒはマルシアルの顔面深く切り込んだもののあと一歩届かず、マルシアルの放った拳銃弾により左足を撃ち抜かれ気絶した。指揮官を失ったことでスミトラント軍の勝機は失われたものの、国王の命だけは守らんと決死隊が殿をつとめ、辛うじてノイベルリンへと撤退した。意識を取り戻したハインリヒは、遂に降伏を決意。議会と市民もこれに同意した。降伏の使者がエリックのもとへ向かい、ノイベルリンは開城された。
シュメックヴィッツ街道は激戦の舞台となった
 

スミトラントの降伏

皇帝エリックと大陸軍はほとんど廃墟と化したノイベルリンへ入城した。市民の誰もが敵愾心に満ちた視線を投げつけたが、暴動に至らなかったのは、ひとえにそのような余力が無かったためであった。
ハインリヒは亡命などしなかったため、ノイベルリンの陥落を以て戦争は速やかに終結した。ハインリヒの身柄は大陸軍によって確保されたが、健闘を称え、手厚く扱われた。左足の銃創の治療のため、一度オラニエンブルクの司令部に建設された野戦病院へと移された。
同時に、ザーティエラ王国との停戦も成立した。始終ピレネー山脈の要塞線を挟んで睨み合っていた両軍だが、主同国のスミトラントが降伏したことで経戦の意味がなくなり、両軍陣地の中央で指揮官による停戦条約が結ばれた。第三次欧州大戦におけるすべての戦闘が停止された。
画像の説明

 終戦と講和

ポツダム講和会議

エリックは講和会議を開催し、この戦争を総括する意思を固めた。エリックは講和会議の場所をノイベルリン市内に求めたが、会議をし得る建物は自ら砲撃で破壊してしまっていたため、やむを得ずポツダムのサンスーシ宮殿で開催することにした。
講和会議は、皇帝の意向のもとでクラフタリアから呼びつけられたシェラルド外務大臣のプラティエが牽引した。また、調停役として教皇庁から枢機卿2名が派遣されたが、いずれもフランス出身であった。先のオラニエンブルク条約によって定められたのは対スミトラント条項だけであり、対アイゼルネ、対ザーティエラ条項は、この会議で盛り込まれていった。
第二次欧州大戦に続き再びドイツから弓を引かれたシェラルドは、この原因をドイツ大同盟の存在に見出し、これの解体に乗り出した。特に、アイゼルネ王国に対しては既に多額の対外債務と国内の荒廃を放置し続けていることを指摘し解体を宣言した。アイゼルネ地域は独立した小諸侯に分割し、これらはライン同盟として組織化されシェラルド王国の宗主権下に置かれた。事実上の属国化である。ライン同盟に属さないバーデン、ヴュルテンブルク、バイエルンなどの南ドイツは、暫定的に直轄領とされた。また、ヴァルキア王国は賠償金を求めたが叶わず、代わりにアイゼルネの突出部であるオスターヴァルドを獲得し、ライン同盟諸国やスミトラントと貿易協定を結んだ。
ザーティエラ王国に対しては、お互いピレネー要塞での消耗を嫌って睨み合いだけが続いたため、特になにも起きておらず、白紙和平で速やかに合意された。
皇帝はやはりスミトラントに妥協的なオラニエンブルク条約に不服であり、会議を通して何度も変更を試みたが、こんどは皇后マリアによって阻止された。パリースイィから駆け付けたマリアはスミトラント王家の生まれであり、祖国への恩赦を嘆願した。エリックはこの美しい妻には勝てず、賠償金と完済までの大陸軍の駐留のみが加えられた。賠償金の額も、後にマリアの助力によって減額されている。
サンスーシ宮殿は、前大戦でも講和会議の部隊となった。
 

オラニエンブルク条約の締結

7月30日、サンスーシ宮殿で調印式が行われ、オラニエンブルク条約が批准された。第三次欧州大戦はここに終結した。
スミトラントの国王には、新たに先王の息子フリードリヒ=アウグストが即位した。しかし、スミトラント国民はシェラルドの暴政へ立ち向かい、最後まで国民に寄り添い共に戦った偉大な先王ハインリヒへの敬愛を失うことはなかった。議会は国民を代表して、ハインリヒに大王(der Große)の称号が贈り、国防省は同日竣工する予定だった駆逐艦の艦名とすることを発表した。
戦後、荒廃したドイツの復興には、進駐した大陸軍やヴァルキア軍が従事した。その中で、ヴァルキア軍の部隊が略奪を働いたため、シェラルドとヴァルキアは共同でヴァルキア軍の撤退の同意宣言を出したが、一部の部隊はこれに反抗し蜂起したため、大陸軍によって鎮圧された。
神聖ローマ皇帝の内紛は平定され、国境線が変動した。

 影響

大戦の敗北をうけて、ドイツ大同盟は完全に崩壊した。反シェラルドの拠り所を失ったスミトラントは、その方針を当分と取り下げざるを得なかった。また、ロシアの共産主義勢力の拡大も無視できず、最前線の国家として神聖ローマ皇帝の協力は不可欠であり、皇后マリア・フォン・スミトラントを通じて再び協力体制を模索し始めた。しかし、大戦へと至ったシェラルド=レグルス間の対立や、カトリック信仰の強制といった諸問題は一切解決されておらず、スミトラント国民の反シェラルド感情は悪化の一途を辿った。
2度目の完全勝利を得て、シェラルドはライン左岸どころかエルベにまでその勢力圏を広げ、南ドイツをも手中に収めた。特に工業地帯であるラインラントはドイツの復興特需を通じてシェラルド経済の大動脈へと成長していき、世界恐慌の影響からの完全な脱却を齎した。また、工業製品の貿易相手を求めて、新大陸勢との協力を模索した。
ヴァルキア王国では、ドイツへ侵攻する中で次第に右派勢力の伸張が抑えられなくなっていく。議会と国王アーリンは右派への妥協を繰り返し、両者の権威は失墜していった。さらに、4大貴族のひとつ、オランダ・ボナパルト家当主バルニエがアントワープで蜂起。フランセーズ・フランデレンとして独立宣し、シェラルドへの併合を求めた。シェラルドがこれを消極的に支持したため、両国の関係は急速に悪化した。そもそも、両国を結び付けていたドイツの脅威が完全に取り除かれたため、必然ともいえる結果であった。
帝国内の戦争を片付けたエリックは、帝国外の問題の解決に動き出した。8月に、トラキア・ローマに奪われていたシチリア島の首都パレルモで、ビザンツ=エジプト戦争での徴発への反乱が発生した。エリックはこれに介入し、シチリア島への侵攻を開始した。シチリアの晩祷戦争の始まりである。
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 関連項目

● 第二次欧州大戦
● 第十次十字軍
● シチリアの晩等戦争
 

 参考文献

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最終更新:2020年08月09日 00:49