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第二次欧州大戦(史:Andeneuropenskrig、独:Zweiter Eurokriegは、アイゼルネ国のシェラルド王国領への侵攻をきっかけに、両国の同盟国を巻き込んで起きた戦争である。 | 第二次欧州大戦 | ||||
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![]() 1 背景 ああ1.1 シェラルド王国の対外戦争と領土問題 ああ1.2 バスク戦争 ああ1.3 愛座丁三国協約 ああ1.4 第二次東地中海戦争 ああ1.5 ヴァルキア訪問と赤い夜作戦 ああ1.6 開戦と史刃共同宣言 2 経過 ああ2.1 ライン防衛戦 ああ2.2 ジデンローヴ元帥とロンストロフ決戦 ああ2.3 ジデンローヴ元帥の戦死 ああ2.4 ライン左岸逆侵攻とスミトラント参戦 ああ2.5 大陸軍の左岸北上 ああ2.6 コブレンツの戦い ああ2.7 ケルン攻略戦 ああ2.8 ザーティエラ戦線とカルカソンヌ要塞線 ああ2.9 カルカソンヌ大空戦 ああ2.10 イベリア侵攻 ああ2.11 サラゴサ停戦会議 ああ2.12 オゼーシア反政府クーデター ああ2.13 オゼーシア進軍とザーティエラの脱落 3 結末 4 影響 5 脚注 6 参考文献 7 関連項目 8 外部リンク |
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ | ![]() |
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戦争:第二次欧州大戦 | |||||
年月日:2020年02月09日 - 2020年00月00日 | |||||
場所:フランス、ドイツ、スペイン等 | |||||
結果:??? | |||||
交戦勢力 | |||||
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シェラルド=ローマ帝国 | ![]() |
アイゼルネ国 | ||
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アナトリア諸侯 | ![]() |
ザーティエラ王国 | ||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | ヴァルキア王国 | imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | スミトラント連邦王国 | ||
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トラキア・ローマ帝国 | ![]() |
ハプスブルク諸邦 | ||
指導者・指揮官 | |||||
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エリック8世 | ![]() |
アイゼルネのひと | ||
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スキョル・ジデンローヴ | ![]() |
アイゼルネの武将 | ||
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ヤン・ヘンリク・シェイフスキ | ![]() |
オスカル2世 | ||
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イーゼット・C・ガーラント | imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | ハインリヒ9世 | ||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | アーリン1世 | ![]() |
ヨアヒム2世 | ||
参戦兵力 | |||||
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たくさん | ![]() |
たくさん | ||
背景 | |||||
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シェラルド王国の対外戦争と領土問題ソフィア帝代のン年に、シェラルド帝国は最盛期を迎えた。ブリテンとイベリアを継承し大帝国を築いたソフィアは、勢いのままに周辺国への侵攻を繰り返し、領土の拡張に務めた。その最中にハプスブルク帝冠領ダンマルクに属する北シュレースヴィヒへの侵攻があり、この戦争に勝利しシェラルド領へ編入した。これによりハプスブルクの対シェラルド感情は最悪のものとなり、奪還の機会を伺うこととなる。また、ザーティエラが帝国から離脱した折にも、バスクはじめ複数のイベリア領の独立を許さずにシェラルドへ編入したことで、ザーティエラはこれら未回収のザーティエラ問題で険悪となった。 | |||||
バスク戦争 ン年、ザーティエラの反シェラルド感情が爆発する形で、シェラルド皇帝ソフィアがバスク視察中に暗殺されるバスク事件が発生。両国はなし崩し的に戦争状態となった。緒戦はシェラルド優位に進み、大陸軍は一時ザーティエラ首都オゼーシアに迫ったものの、バスク戦線では敗北。ソフィアの後を継いだシェラルド皇帝エリックがバスクの奪回を優先したことで戦線が膠着。その間にイベリアの風土病であるスペインかぜことインフルエンザが流行し、シェラルド軍の前線指揮官であるルイ・フランソワ・ベルシカラー元帥はじめ、多数の感染者を出した。これがザーティエラに幸いし、ゲリラ戦術と合わせシェラルド軍を撤退に追い込み、ブルゴス条約を経て未回収のザーティエラの完全回復を成し遂げた。この戦争でシェラルド軍は戦争での損耗のみならず、帰国した兵隊からインフルエンザが国内に広がり、ソフィア代から続く戦争による物資不足もあり大流行。甚大なダメージを追うこととなった。 |
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愛座丁三国協約 アイゼルネ国は疲弊したシェラルドへの侵攻を企図し、シェラルドへの敵対感情をもつザーティエラ、カレンテルニア両国を極秘に勧誘。領土奪還に燃えるカレンテルニアのヨアヒム帝は諸手を挙げて賛同。議会は慎重姿勢を見せたが、ダンマルクに駐留する第三軍の司令官アウグスト・フリードリヒ・フォン・ヴュルテンベルク陸軍大将は反シェラルドの最右翼であり、開戦となれば動くことは間違いなかった。反対に、ザーティエラのオスカル王は戦争疲弊もあり難色を示す。しかし、立て直したばかりの統治機構ではバスク戦争の実質的な勝利により勢いづく国民感情を抑えきれず、議会の後押しもあり、次第に開戦へと傾いていった。ザーティエラ議会はシェラルド・ソフィア帝時代に激しい弾圧を受けた影響で、反シェラルド勢力が根強かった。 | |||||
東地中海戦争 時を同じくして、東地中海では、モレラ共和国とレグルス国間で、因縁の対決が始まろうとしていた。シェラルドは対レグルス包囲網にこそ参加していなかったものの、敵対感情は強く、レグルス国が周辺国と海戦した際には、同じくして開戦するつもりであった。そのため、アナトリアとの国境にアナトリア軍およびシェラルド軍を配備しており、また同盟国トラキア・ローマ帝国はモレラ側での参戦を決めていた。両国は必然的に欧州と地中海の双方に戦力を割かねばならず、この状況はアイゼルネ、レグルス両国が戦争を優位に進めるべく、意図的に示し合わせたものであった。 |
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ヴァルキア訪問と赤い夜作戦 ン年ン月、シェラルド皇帝エリックは王政復古を果たした旧ベルタティスことヴァルキア王国に親善訪問に訪れていた。数日の観光の後、エリックはヴァルキア王アーリン一世と会談の場を設け、両国の特産品を囲みながら会食していた。一方、シェラルド侵攻の用意を進めていたアイゼルネは、この皇帝不在を好機と捉え、侵攻開始を決意。国境に大軍を配備し、ザーティエラ、ダンマルク両国とも示し合わせ、同じく国境に軍を集結させた。これらの動きがシェラルド軍の国境警備の歩哨からシェラルド軍参謀総長ヨハン・カスパール・シシグノンに齎されると、のまさに会食中にエリックの元に届けられ、ワインを盛大に吹き出したという。余談だが、この日を指して呼ばれる「赤い夜」とはアイゼルネ側の作戦名であるが、しばしばエリックが吹き出した赤ワインで部屋が赤く染まったことに由来するとの勘違いがみられる。 | |||||
開戦と史刃共同宣言 突然の侵攻はシェラルドにとって青天の霹靂であり、パリは大混乱に陥った。不在の皇帝に代わり指揮を執ることとなった首席国務大臣アクセル・ヨーデリンゲはアイゼルネ政府に抗議したものの、返答はなし。止む無く宣戦布告を行い、大陸軍最高司令官代理となったパリースイィ軍事総督マクシミリアン・メーレンカンプ元帥に防衛戦争を指示。メーレンカンプは非常事態宣言の発令を行い、総動員を開始。また、ライン方面軍及びロレーヌ公国軍へ即応対処の指示を出した。ザーティエラ方面にはイタリア方面軍のロシェシュタール元帥と、予備軍団を預けたベルシカラー元帥を向かわせた。同盟国トラキア・ローマ帝国には参戦要求を送り、これに快く答えたトラキアはアイゼルネへ宣戦布告した。エリックとアーリンの会談は急遽対アイゼルネ戦争への対処を決める緊急会談となった。両国は対独軍事同盟を結んでおり、有事の際は協力する手筈であった。アーリンは対アイゼルネ宣戦を約束し、共同で署名まで行った。安心したエリックは、急ぎパリへと戻る馬車に乗った。 |
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。固い握手を交わす両王 | ||||
経過 | |||||
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ライン防衛戦 アイゼルネ軍は国境線に沿うように部隊を配置し、一斉に攻撃を加えたが、中でも主力となるのはメンツィヒに集結し、ロンストロフを攻勢目標とした20個師団だった。半軍集団にも迫る大軍の攻撃に晒されたのは、近隣の守備隊や駐屯地から掻き集めた僅か4個師団。指揮に当たったウールップ将軍は国境線での防衛を不可能と判断し、後方のモーゼル川沿いに防衛線を構築し、援軍を待つべく遅滞戦闘を開始した。 |
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ジデンローヴ元帥とロンストロフ決戦 この時、シェラルド軍ライン方面軍を総括する指揮官であったスキョル・ジデンローヴ元帥は、国境にほど近いヴェルダンの要塞に移動し、方面軍の再編にあたっていた。手持ちの戦力は随時国境線に送り出し防衛に当たらせていたが、それとは別に、突破してきた敵主力を食い止めるべく、予備軍を編成していた。歴戦の将であるジデンローヴは並外れた手早さでこれを完了させると、自ら率いて前線へ向かった。ウールップ将軍の遅滞戦闘は、アイゼルネ軍の足並みの乱れもあり想定以上の効果をあげ、ジデンローヴが着いたとき、未だロンストロフで食い止めていた。しかし国境線を突破したことでアイゼルネ軍の勢いは次第に増しており、これを破るべく、最初の会戦が始まった。ジデンローヴ軍は接収したウールップ軍と合わせても僅か14個師団相当でしく、緒戦で大きく押し込まれたが、ここでジデンローヴは自ら手勢を率いての突撃を敢行。幼少から憧れの存在であり続けた伝説の老兵が最前線で奮戦する姿に、兵員の指揮は最高潮に達し、彼を死なせまいと怒涛の勢いで後続が続いた。想定外の渾身の一撃はアイゼルネ軍の隙を突き、遂に戦線の突破に成功する。ジデンローヴ自身はこのとき負傷し後送されたが、ライン方面軍はそのままアイゼルネ軍を逆包囲し猛攻を加え、潰走させた。このときのジデンローヴの姿は誰よりも光り輝いていたといい、後に「光り輝くジデンローヴ(Gydenlov af Bright)」の渾名を得ることとなった | |||||
ジデンローヴ元帥の戦死 エリックがパリに戻りると、ロンストロフでの勝利の報せを受けとった。緊迫した情勢の中でジデンローヴとライン方面軍が齎した吉報は、エリックのみならず、全シェラルドにとって希望の光だった。ひとしきり賞賛した後、エリックは新たに編成した軍団をヤン・ヘンリク・シェイフスキ元帥に預け、自らは親衛隊10万を率いてロンストロフへ向かった。ロンストロフの兵営でエリックはジデンローヴの危篤を伝えられる。負傷自体は消して重症ではなかったが、既に70を超える高齢であったジデンローヴにとり、冬季の不眠不休の軍務と負傷は、彼の持病を致命的なまでに悪化させるには充分であった。エリックがジデンローヴを見舞うと、彼の皇帝への忠誠のあらわれか、奇跡的に意識を取り戻した。その後エリックは人払いをし、暫し2人きりで話した後、部屋を出た。軍医はジデンローヴの死亡を確認した。父王ハンスの代からシェラルド軍で活躍し、イェリング家とシェラルド王国を護り続けた英雄の今際の言葉は、遂にエリックは語ることはなかったが、その時以来、ジデンローヴの形見の眼鏡をかけるようになった彼は、まるで意志を継いだように軍人皇帝として覚醒していく。 |
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ライン左岸逆侵攻とスミトラント参戦 ジデンローヴの活躍により損害が最小限に抑えられ、余裕が生まれたことで、エリックはドイツへの逆侵攻を決意する。親衛隊、ライン方面軍及び予備軍を再編した大陸軍ドイツ遠征軍を編成し、ロレーヌ公国軍及び復古したルクセンブルク公国軍を配下に加え、国境に配置した。しかし、ここでスミトラント連邦王国から待ったがかかる。シェラルド、アイゼルネ両国と同盟を結ぶスミトラントは、当初、シェラルドからの参戦要請を拒否し、ドイツ大同盟を優先する姿勢を見せていた。そして、アイゼルネが逆侵攻を受ける局面にあたり、アイゼルネへの同盟参戦をちらつかせ、停戦を要求した。これには、スミトラントが全方位外交の方針を持ち、欧州のパワーバランスの均衡化を志していたこと、シェラルド皇帝エリックにスミトラント王女が嫁いでおり、交渉を有利に進められると想定したことが影響しているが、エリックはこれらを承諾した上でドイツ遠征を決行。ここに交渉は決裂し、スミトラントはアイゼルネ側にたち参戦した。2月20日、大陸軍ドイツ遠征軍は、一斉にアイゼルネ領ライン左岸地域へなだれ込んだ。アイゼルネ軍は緒戦の敗北から巻き返すべく、予備戦力を投入しザール川での防衛を試みるも、大陸軍メーレンカンプ元帥が軽装甲師団を率いメルツィヒ近郊で渡河を成功させ後背部に浸透すると、孤立したメトラッハの突出部にエリック麾下の親衛隊が猛攻をかけ突破。これで勝敗が決し、側面包囲されたアイゼルネ軍は多大な被害を出しながら後退した。(メルツィヒ・メトラッハの戦い) | |||||
大陸軍の左岸北上 国境及びザール川での防衛に失敗したアイゼルネ軍は、大損害を出しながらの敗走となり、大きな隙を生んだ。エリックはこの期を逃さず、シェイフスキ元帥にマインツまでの打通を厳命。元帥はこの期待に答え、精兵の有翼重装騎兵師団を軸に電撃戦を敢行。残存アイゼルネ軍を撃破し、ライン川へ一番乗りを果たした。ライン南部の都市マインツは抵抗し、大戦初の市街地戦闘が発生したが、古都の例にもれず歴史遺産の多いマインツの破壊を嫌う両軍の意気投合により、早期に降伏。シェラルド占領下となった。また、メーレンカンプ元帥には親衛隊を預け、ウールップ元帥と共にコブレンツ攻略へ向かわせると、エリック自身は第3軍団を率いトリーアの包囲戦に向かった。トリーアはルクセンブルクに隣接した都市で、ルクセンブルク公国軍が包囲を開始しており、これの援護をすることで両国の友好を示す考えだった。ルクセンブルク軍は女公ツェツィーリェに嫁いだオルレアン=イェリング家のフレゼリクが率いており、親戚である両名の息の合った連携はトリーアの陥落を早めた。大聖堂には両国の国旗が掲げられた。 |
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コブレンツの戦い コブレンツへ進軍したメーレンカンプ、ウールップ軍は、同市の攻略を開始したが、ドイツ連合軍の抵抗にあい難航した。エリックの計画では、コブレンツまで軍を進め、ヴァルキア軍と左岸の中心、ケルンを攻める手筈だった。これを察知し、阻止したいアイゼルネ軍は、残存をコブレンツに結集、スミトラント、ダンマルク両軍を合わせ大軍を形成、エリックはコブレンツに増援を送り込み、左岸戦争最大の会戦が起こった。戦闘は互角に進み、その日の内には決着がつかず、翌日に繰り越した。しかし、早朝に深い霧に包まれ、その中で援軍が到着。ドイツ連合軍ではパニックが起こり敗走した。勝利した大陸軍・ドイツ遠征軍はコブレンツに入城。またヴァルキア軍はデュッセルドルフを占領した。ドイツ連合軍は軍を後退させ、ケルンに籠城する部隊を残し、ライン左岸から撤退した。 | |||||
ケルン攻略戦 戦争は三月に入った。シェラルド=ヴァルキア連合軍は、遂にライン最大都市ケルンの攻略を開始。シェラルド軍が南部から、ヴァルキア軍が北部から突入した。ケルンでは、他のライン都市とは異なり、官民一体となり激しく抵抗。市街戦に発展した。シェラルド=ヴァルキア連合軍は、前大戦で得た豊富な市街戦のノウハウを活かし、地道に制圧を進め、これを制圧。ケルン大聖堂に両国旗を掲げた。しかし、この足止めがドイツ連合軍に時間を与え、後のブレーメン会戦に繋がった。 |
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ザーティエラ戦線とカルカソンヌ要塞線 一方、西方ではドイツ連合軍側で参戦したザーティエラ王国が、大きく南仏に進出。シェラルドを脅かしていた。バスク戦争の和平条約であるブルゴス条約により、戦後シェラルドは国境の軍備を制限されており、充分な抵抗ができず、瞬く間に越境を許した。しかし、バスク戦争の傷の癒えないザーティエラ軍の前に、南仏最大の要塞、新造されたカルカソンヌ大要塞線が立ち塞がる。これは、先々代ソフィア女王の代に、欧州大戦の反省から建造されたもの。強固な現代要塞の前に、補給の乏しいザーティエラ軍は速攻を企図するも、守備隊は友邦トラキア軍の到着を希望に堪え凌ぎ続けた。 | |||||
カルカソンヌ大空戦 いよいよトラキア軍の到着が近づき、ザーティエラ軍は自慢の精兵である第空軍の集中投入を決定。無数の攻撃機、爆撃機での破壊突破を狙った。これを阻止すべく、トラキア空軍も出撃。シェラルド空軍も合流し、カルカソンヌ上空は一大空戦の舞台となった。陸空での戦闘は続き、次第に軍質で勝るザーティエラ優勢となったが、敵地であること、またトラキア空軍が予想以上に食い下がったことにより、時間を浪費。ついにトラキア陸軍がカルカソンヌに到着した。要塞の突破を断念したザーティエラ軍は、無理な攻勢で補給が限界に達していたこともあり、撤退を開始した。シェラルド=トラキア連合軍はベルシカラー元帥を筆頭に追撃を行ったが、空軍と殿軍に阻まれ、成果は得られなかった。 |
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イベリア侵攻 ベルシカラー元帥はイベリア方面軍司令官に任命され、トラキア軍と共同でイベリア、ザーティエラ王国の攻略を開始した。緒戦はアルプス防衛戦となったが、ザーティエラ側の要塞はバスク戦争での被害から立ち直っておらず、要塞としての体をなしていなかったため、物量で突破。その後、前回の轍を踏まないよう、迅速に主力を補足、撃滅することを企図したベルシカラーは、バスク戦争で得た土地勘を元に的確に斥候を放ち、サラゴサ近郊で遂にとらえた。同地で両軍のは接敵し、ザーティエラ戦線の趨勢を分かつ戦いが始まった。ザーティエラ軍は、バスク戦争において何度もバスクを奪回した精兵揃いの主力軍であり、地の利も得てシェラルド=トラキア連合軍を苦しめたものの、やはり補給が響き、終盤で戦力差からシェラルド=トラキア連合軍が逆転。会戦を制した。ベルシカラーがサラゴサに入ると、主力を喪失し、和平の道を探り始めたザーティエラ政府から、使節が訪れてきていた。 | |||||
サラゴサ停戦会議 2度の戦争に疲弊し、またドイツ戦線の敗北をうけ、ザーティエラ政府は和平の道を求め始めた。政府はサラゴサのベルシカラー元帥に使節を送り、停戦条約を結ぼうとした。しかし、そうした政府の弱腰姿勢に反発する勢力が拡大し、次第に政治的内戦の様相を帯び始めた。特に、シェラルド同君下時代の議会弾圧の記憶を忌む民主勢力が反政府派と結びつき、首都オゼーシアでは暴力沙汰まで見られるようになっていた。ザーティエラ政府は慎重な舵取りを求められたが、反政府=民主勢力は、徹底抗戦を主張するに留まらず、国王オスカルの戦争責任を追求し、退位を迫り民主化を要求したため、ザーティエラ政府は混乱を収束すべく、妥協的内容であれ早期和平を求め、シェラルド占領下のサラゴサへ極秘に使者を送り出したのだった。使者はシェラルド軍イベリア方面軍司令官ベルシカラーと面会し停戦を求め、ベルシカラーは本国の意向に基づき、これに肯定的に答えた。 |
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オゼーシア反政府クーデター ベルシカラーから停戦に合意する文書を受け取った使節は、急ぎオゼーシアへ向かったが、急ぐあまり反政府勢力の待ち伏せに捕らえられてしまう。文書を奪った反政府勢力は、添えられていたシェラルド側の希望和平案を発見。これを両政府合意の最終案と思い込み、怒りを爆発させ決起。共和派議員はクーデターを宣言し、市民のみならず、首都に迫るシェラルド軍を待ち受けるべく配備されていた防衛師団までもが、裏切られたと感じ同調。オゼーシアへ進軍し、国王親衛隊と衝突。内線となった。間一髪首都を逃れた国王オスカルは、ベルシカラーに保護を求めた。無条件降伏を条件とした反乱鎮圧協力にも合意すると、イベリア方面軍はオゼーシアへ進軍した。 | |||||
オゼーシア進軍 イベリア方面軍は統率の乱れた防衛軍をオンダで破ると、そのままオゼーシアへ突入した。残存親衛隊を保護すると、戦闘を開始。多くの市民は恐怖から武器を捨てたが、後のない反乱軍は徹底抗戦したため、止む無く市街地を巻き込んだ戦闘となった。イベリア方面軍は大量に大砲を動員し、反乱軍の立てこもる建物ごとバリケードを破壊しながら鎮圧していったため、美しいオゼーシアの、特に中央街の街並みは、見るも無残な瓦礫と化した。最終的に反乱軍はサンタ・マリア大聖堂に逃げ込んだため、これを封鎖。助命を保証し武装解除させると、まとめて連行し、反乱は鎮圧された。その後、改めてザーティエラ政府と停戦を結び、ザーティエラ戦線は終結した。 |
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脚注 | |||||
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参考文献 | |||||
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・本尾書男『シェラルド戦争史~蛮族国家の真実~』第3巻、どっこい書房、334年9800月 | |||||
関連項目 | |||||
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・シェラルド王国 ・シェラルド=ローマ帝国 ・アイゼルネ国 | |||||
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