~~さんといっしょ ◆RVPB6Jwg7w
日が昇ったばかりの街ってやつぁ、実に静かで閑散としているもんだ。
撮影スタッフと並んで遠目に見守りながら、俺は欠伸を噛み殺す。
世間一般のカレンダーでは、今日は休日。
こんな早朝から仕事をしてるワーカホリックは、きっと俺たちくらいのものに違いない。
新聞屋だって、今日は休刊日。
カラスの鳴き声だけが、遠くに響く。
さて、そんな静かな街を、一人駆けるショートカットの少女がいる。
後ろをチラチラ振り返りつつ曲がり角から出てきて、驚いたように足を止める。
彼女の行く手を遮ったのは、なんだか奇妙な全身タイツの男たち3人。
続けて彼女を追うようにもう3人出てきて、少女を完全に包囲してしまう。
いや、いや、とばかりに首を振る少女。
じりじりと後ろに下がろうとして、下がる場所もなくって、その場にぺたん、と尻餅をつく。
全身タイツの変人集団が、無言のままに包囲の輪を縮める。ワキワキと手を動かしてるのは威嚇のつもりだろうか。
そのうちの1人が、怯える少女に手を伸ばして――
「――待てィ!」
遠くから勇ましい声がかかり、怪人たちは揃って振り向いた。
そこに居たのは、目にも鮮やかな装束に身を包み、派手な武器を手にした変身ヒーローとその仲間。
そのままヒーローは突進し、なし崩し的に始まる大乱闘。
怯える少女を連れ去ろうとする怪人集団と、そうはさせまいとするヒーローたち。
へっぴり腰で逃げようとする少女も含めて、アクロバティックでダンスのような殺陣が繰り広げられる――
――っとまあ、つまりこれは、ぶっちゃけてしまうと。
早朝の無人の街を舞台に、特撮番組の撮影が行われている構図なのだった。
街中をロケ地に選んで、一般の歩行者を画面から排除したければ、こういう時間帯を狙って撮ることになる。
演者たちの荒い息ばかりが響く現場だが、これに効果音とCGが乗ればさぞかし派手な戦闘シーンになるのだろう。
……おっ、また少女役が転んだ。
てか、あれって演技じゃないだろ。けっこうガチな涙目になってんぞ、珠美の奴。
気づきつつも撮影を止めない監督も、まあ、いい性格してんなァ。
確かに美味しい絵だもんな。俺があの立場でも回し続けるよ、うん。
撮影は続く。
一旦カットが入り、同じ場面(ということになっているシーン)を別角度からズームで。
作中の設定としては別に早朝という扱いではないので、太陽の位置をひどく気遣っての構図選びになる。
見る側からすればおそらく数分程度の場面だが、しかしここはこのエピソードにおける一番のクライマックス。
大勢のスタッフが丁寧に時間をかけて、画面を作っていく……。
やがて、今日の撮影は終了する。
作中展開としてはこの後にもシーンは続くのだが、それは先日別のロケ地で撮影済み。今日の撮影で一段落。
俺たちがこの作品に関わるのも、今日のこの時点で最後、ということになる。
しばらくして、衣装から私服に着替えたさっきの少女が、ロケバスの方から駆けてきた。
脇山珠美。
俺がいま担当しているアイドルたちの1人にして、本日の予定の一番手となる、剣道少女だ。
一昔前と比べて、特撮番組の地位も随分と変わった。
今では若手俳優や若手アイドルの登竜門。
そこに出演することは、今後に繋がる重要なワンステップにもなる。
今回、珠美が演じた役は、一話限りの登場となるゲストヒロインとでもいうべき役柄。
悪役に狙われ、正義のヒーローに助けられる、大勢の一般人のうちの1人。
まあある意味、お約束のポジションだ。
もちろん、レギュラー出演できるような役が取れればそれに越したことはないのだが、今はこれで十分。
まずは大きな失点なく演じきった、その事実の方が大事である。
「おう、お疲れ様」
「お疲れ様です、プロデューサー殿!
珠美の演技、いかがだったでしょう!」
「うん、かなり良かったんじゃねぇか?」
「ほ、本当ですかっ!?」
無造作に褒めてやると、ぱぁっ、と珠美の表情が明るくなる。
わしゃわしゃ、とその頭を撫でながら、ついつい、意地の悪い笑みが浮かんでしまう。
「おう、本当だぞ。
怯える演技とかもう文句なしで、まるで演技じゃないみたいだった。
中学生っていう役柄も、心身共に完璧に演じきって……
いやあ、なかなかできることじゃない」
「ひ、ひどっ!?
てか、ちびっこいうなし!」
「あとさぁ、途中、マジでコケてたろ。いい絵が撮れたってスタッフも喜んでたぜ」
「う、嬉しくないでありますっ!」
涙目で訴えかける珠美。
いかんいかん。どうにもコイツは、ついつい弄りたくなる雰囲気を持ってるんだよなァ。
俺たちはそのまま撤収するスタッフたちと共に、近くのコインパーキングまで歩く。
軽くその場で関係者たちに別れを告げると、駐車料金を払って自分たちの車に乗り込む。
いい年をしたオッサンの隣に、小学生に間違えられることさえある小柄な女子高生。
まあちょっと訳アリっぽい構図だが、こんな早朝だ。
見てる奴もロクにいないだろうし、気にするこたぁないわな。
「さて、帰るぞ……って、どうした」
ゆっくりと車を発進させたところで、こつん、と助手席側から珠美が頭を寄せてきた。
ハンドルを握る腕に、彼女はわずかにもたれかかる。
元気なキャラで売る彼女には珍しく、しばらくの沈黙。
超・早起きしての早朝の収録、さすがに眠くなったのだろうか。
だが、違った。
そんなことじゃなかった。
長い沈黙の後、珠美は、絞り出すように、こうつぶやいたのだった。
「~~殿。
珠美は……
できれば、守られる役より、守る役がやりたいです……」
「…………」
「……逃げて転んで褒められるより……剣を手に戦って褒められたいのです……!」
「…………」
「強く、なりたいのです……!」
車は進む。
早朝の、交通量もまばらな街中を快適に進む。
……そう、なんだよな。
今回の仕事、ちょっと酷ではあるな、と、実は俺の中にも躊躇いがあった。
なにしろ、コイツがなりたい未来を横目に、それとは正反対の役をやらせるってんだからな。
これも良い経験になるだろう。心の一方でそう信じると同時に、ひどいことをさせているという自覚もあった。
合理性を追求する業界人であると同時に、深くアイドルの内面を知る身内でもある。
2つの立場の間での葛藤。どっちをどれだけ優先するのか、という問題。
こいつばかりは、いくら経験を積んでも毎回手探りだ。
「……まあ、いずれ、そういう役も回ってくるさ。
諦めることなく、精進を続ければな」
「…………はい」
まだまだ頼りない子ではあるけども。
たぶん、この子の強みは、この飽くなき向上心だ。
ヘマして凹んで萎れても、すぐにピンと背筋を伸ばして立ち直れる、若竹のようなしなやかさだ。
上を目指す。成長を志向する。
その一点においてだけは、この子は決して、ブレることはない。
いずれ真っ直ぐ大きく育つであろうその姿を、この先も見守っていきたいもんだ。
珠美の体温をほのかに肩に感じながら、俺は黙って運転を続ける。
* * *
世間一般での休日は、むしろ俺たちのようなアイドルプロデュース稼業にとっては忙しい日だ。
ファンのためのイベントなども多く開かれるし、さっきのように撮影上の都合などもある。
ましてや、俺が今担当しているアイドルたちは、どういう訳だか若い子ばかり。
比較的学業を大事にさせる方針を取っている俺としては、どうしても土日祝日に仕事を集めざるを得ない。
当たり前の話だが、長期休暇中でもない限り、平日は学校があるのだ。
そんな訳で、今日も一日、落ち着く間もなく駆けまわることになりそうだった。
疲れが出たのかウトウトし始めた珠美を送り届けると、いったん事務所の方に顔を出す。
「あっ、先輩、ちょっといいですか?」
「おうっ、どうした」
ドアをくぐったところで、ちょうど鉢合わせした別のプロデューサーに声をかけられる。
この事務所はとんでもなく大きな規模で、アイドルのプロデューサーだけでも相当数いる。
目の前のこの若い青年も、その1人。
俺なんかは相当に年期の入った方なんだが、こいつはこの業界でも異例なほどに若い方だ。
迫力に欠ける優しすぎる顔立ちが、ちょっとマイナスか。
まあ、俺みたいにヒゲ伸ばしても似合わないだろうとは思うんだがね。
「ちょっと、次の仕事の取り方で相談がありまして
演劇かTVドラマか、って二択で悩んでるんですけど」
「あー、そりゃ確かに俺の領分だな。
そうだな――15分。
いま付き合えるのはそんなもんだが、大丈夫か?」
「はい、お願いします」
スケジュールと時計を見比べて割ける時間を算出すると、俺は後輩プロデューサーから資料を受け取る。
手近なソファに腰かけ、演劇とTVドラマ、2つの企画の概要にザッと目を通す。
なんでもこいつは、軽音楽の方からこの業界に入ったらしい。
自分で演奏したり作曲したりする道を早々に諦め、こんな裏方仕事に生き甲斐を見出した変わり者。
ふつうはもう少し粘ってみるもんだろうに、潔いというか何というか。
とはいえこの稼業に適性でもあったのか、年齢の割にはかなりの成果を出しつつある。
まあしかし、俺だって人のことは笑えない。
俺は元々、演劇にハマって人生を踏み外したロクデナシ。俳優にも劇作家にもなり損ねた落伍者だ。
いろいろ試した末に流れ着いたこの稼業は、どうやら性に合っていたらしい。
気がつきゃこの俺がいっぱしのベテランプロデューサーって扱いなんだから、本当に世の中って奴は分からない。
劇方面に強かった代わりに、音楽方面はからきしだった俺は、当時の先輩たちにずいぶんと助けてもらったものだ。
上から受けた恩は下に返せ、とはよく言ったもの。
今ではこうして、演劇やドラマのことならまずはコイツに相談しろ、みたいな位置づけを賜っている。
アイドルの幅広い仕事の中でも、けっこう特殊な領域だからな。こいつみたいな音楽特化の奴には、見落としも多い。
「……だいたい読んだ。うん、こりゃ悩むの分かるわ」
「それで、どうですか。
こっちとしては、ドラマの方のこの役は、
小日向美穂のイメージに合わないかな、と思うんですけど」
オーディションで役を奪い合うことも多いが、内々に出演交渉が持ちかけられることもある。
今回こいつが持ってきた話2つは、どちらも以前に担当アイドルがやった仕事絡みで声をかけられたパターン。
しかし時期が悪い。被ってしまっている。
現実問題として、どちらか片方しか受けることのできないようなお話だ。
「イメージも分かるがなぁ。こっちの話、公演の期間と場所、ちゃんとチェックしたか?
演劇で怖いのは、主役も脇役も、拘束される期間に大差ないことだぜ。
この程度の役でしばらく他の仕事や練習してる余裕なくなるってのは、かなり痛いと思うんだが?」
映画やTVドラマなら脇役はそれだけ出番も拘束も少ない訳だが、舞台公演となるとそうはいかない。地方なら尚更。
なにしろ俺たちが面倒を見ているのは専業の女優ではなく、歌も踊りも、TV出演もするアイドルなのだ。
日々のレッスンのヒマさえ奪われるとなると、これは、歌やダンスの技術も落ちてしまう。
後輩君も、俺の指摘に慌てて資料を確認し直して、顔色を変えている。
ああそうか、前回こいつのアイドルが参加した演劇は、けっこう小規模な公演だったからな。
漠然とその時の感覚で考えてたのか。
でも今回持ちかけられてるのは、より大規模な奴だ。全国を回る奴だ。
見て貰えるチャンスは確かに増えるが、その代価もそれ相応に重くなる。
「まあ、そこまで計算した上で、最終的には本人次第だな。やる気がなけりゃなんともならん」
「……そうですね」
「両方とも断る、って選択肢も考えには入れとけよ。何なら俺も一緒に頭下げてもいいからよ」
どうせどっちの関係者も知り合いだ。俺が一言添えるだけで、断ったとしてもそれが今後に響くことはないだろう。
チラリと時計に目をやる。まだ5分ほど余裕がある。
ならついでに、この件も済ませておくか。
周囲を見回し誰にも聞かれてないことを確認すると、単刀直入に切り出す。
「ところでお前、
道明寺歌鈴と付き合ってんだって?」
「……ッ!」
「まあ、若い男と女だ、何もないって方がおかしいだろうよ。特にお前らは世代も近いしな。
手ェ出すな、とは言わん。
少なくとも俺には、非難する権利なんてねぇよ」
馴染みの芸能記者に借り1つ作っちまったが、まあそれはコイツが知る必要のあることじゃあない。
一般論としちゃあ叱っておくべき話なんだろうけども。
それでも、俺にはコイツを責められない。
何といっても別れた前の妻は、かつて俺が前の事務所で担当していた元アイドルだ。
ま、芸能人の結婚にありがちな、よくある不倫スキャンダルからの破局劇に到っちまった訳だがな。
――ああ、誓って言うが、俺は被害者の側だぞ?
後ろめたいことはこれっぽっちもないぞ?
俺の留守の間に若手のイケメン俳優を連れ込んでたアイツが完全に悪いんだ。
だがアイツが悪いにせよ、その離婚の時のゴタゴタのあおりで、俺は古巣の芸能事務所に居られなくなった。
そしてその騒動の後、当時できたばかりだったこの事務所に拾われて、いまに到っている。
俺は仕事を続けられて、新興事務所は経験豊富なベテランを手に入れる。WIN-WINの関係って奴だ。
ついでに女性不信も深まったが、それでもプロデューサーの仕事はできるものらしい。不思議なもんだね。
俺は言葉も出ない後輩の目を見つめながら、言葉を選ぶ。
「古典的だがよ、帽子とサングラスくらいは用意しとけ。
あと、男ならデート代とかケチるな。せめてもうちったぁ事務所から遠いトコでいちゃついてろ」
これも芸能記者からの情報。
まったく迂闊にも程があるぞ、お前ら。
周りが見えなくなるのも分かるんだけどな、実体験として。
まあ、今回は目撃した奴が話の分かる奴で助かったが、目撃者が一人きりって保障はどこにもないんだ。
特にそんな場所で腕組んで歩くとかさぁ、
「『もう1人』に見られても、知らないからな? せめて筋は通せよ?」
修羅場ってなあ、ほんと大変なもんさ。
思いがけない奴が変に思いつめて突飛な行動を取って、関わる者全てが不幸になったりする。
これも、知らずに済むならそれに越したことのないことだがね。
* * *
後輩との話を終えて、最低限の事務仕事を済ませ、次の仕事のために外に出ようとしたその時。
入口で、大きな荷物を抱えた子とぶつかりそうになった。
「あっ、ごめんなさいーっ。
……って、~~さんですかー?」
そいつが少しおっとりした口調で、俺の名を呼ぶ。
って、雫じゃねぇか。
及川雫。
まさか今日こんなところで会うとは思ってなかったが、こいつもまた、俺の担当アイドルのうちの1人である。
数個のクーラーボックスを縦に積んで抱え持ってたせいで、一瞬その顔が見えなかった。
中身がなんだか知らないが、よくもまあこんな大荷物を持って歩けるもんだ。
さすが、酪農系アイドルの肩書は伊達じゃない。
たぶん純粋なパワーだけなら、うちの事務所でも一番だろう。
……ついでに、今はクーラーボックスに押しつぶされている恰好の、胸のサイズも、たぶん一番だ。
「今日はオフだったんじゃないのか?」
「そうなんですけどねー。ちょうど実家からいろいろ届いてたんで、事務所に差し入れをーって思いましてー」
雫は足元に荷物を降ろすと、クーラーボックスの1つを開けてみせる。
なんだこりゃ。『及川牧場の新鮮ミルクプリン』? こいつは初めて見る商品だな。
「これ、実家の方で作った新製品らしいんですよー。私も1つ食べましたけど、美味しかったですー。
ウチで取れた牛乳で作ってるんだそうで」
それは何より。
俺が以前、TV局に持ち掛けた「及川牧場を舞台にした旅番組」以来、牧場の経営は順調だと聞いている。
事務所内での力関係とかもフルに活用し、「あの」FLOWERSを動かしての企画だった。
あれ以来、牧場は観光面での収益が増えただけでなく、ネット通販なども売り上げを伸ばしているという。
なにせ俺の手で貴重な働き手を1人、奪っちまったようなもんだからな。
足りなくなった分は人を雇って補うしかないわけで、そうと知ってしまえば多少の罪悪感も湧くというもの。
償いになってるのかどうか自信はなかったが、俺にできたのはああいう番組で注目を集めてやることくらいだった。
こうして新商品開発などに力を入れているあたり、彼女の実家は貪欲にそのチャンスを活かしているようだ。
「牛乳とかといっしょに、いつもの冷蔵庫に入れておきますのでー。良かったら後で食べて下さいー」
「……残ってたら、な」
残念ながら「いつもの冷蔵庫」は、アイドル・事務員問わず手を伸ばしていいことになっているおやつ用スペース。
ただでさえ人の出入りが多い休日だ。
ただでさえ美味しさに定評のある牧場直送の新商品だ。
激しいレッスンなどで腹を減らした若いアイドルたちの前に、きっと早々に喰い尽されてしまうだろう。
畜生、予定だと、この後戻ってこられるのは日が暮れてからになるぞ。たぶん絶対無理だ。
これはついつい、愚痴っぽい言葉も漏れるというもの。
「別にこれ、明日でも良かったんじゃないのか? 明日の夕方にはレッスンの予定あったろ?」
「ええ、でもなんだか手持無沙汰でー、ひとりで部屋にいても仕方ないですし」
「……気持ちは分からなくもないけどな。
オフの日に休むことも、大事だぞ?」
「大丈夫ですよー、わたし、体力には自信ありますから!」
何の影もなく、雫はニッコリ笑う。
単身都会に出てきての、慣れないはずのアイドル生活。
つらいことも多かろうに、こいつは今でも、出会ったあの日に俺を魅了した微笑みを絶やさない。
「……牧場の皆さんは、元気かな」
「はい、変わりないようですよー。
あ、そうそう!
前に話してた母牛、こないだ仔牛を産んだそうなんですよー! 母子ともに健康だそうですー!」
そいつぁ良かった。
俺も雫から教わったのだが、牛という奴は発情期ってモンがないらしい。だから出産も季節を問わない。
20日だったか、そのくらいの周期で発情するので、発情が確認されたら種付けをする。
上手くいけば10か月後くらいには可愛い仔牛とご対面、となるそうだ。
そろそろ予定日が近いはず、ということで、ここのところ雫もずいぶんと気にかけていたのだ。
スカウトの誘いに応じてなければ、彼女が立ち会えていたはずの出産。
楽しみにしていたはずの、仔牛との対面。
俺は彼女から奪ったものに値するだけのものを、ちゃんと与えられているのだろうか。
時々、らしくもなく不安になってしまう。
「……大丈夫ですかー?」
「ん? 何がだ?」
「なんか、難しい顔してましたよー。お疲れですかねー?」
いかん、表情に出ちまってたか。
呑気な風に見えて、こいつは妙なところでとても鋭い。長年、嘘偽りのない動物たちを相手にしてきたからなのか。
ほら、今だって俺の沈黙から全て読み取ってしまって、それでこんなことを言い出すんだ。
「……大丈夫ですよ、私はー。
毎日、~~さんのお陰で、楽しいですしー」
「そいつぁ何より。
だがな、まだまだこれから、楽しくなるぞ。もっと上へ行けば、もっともっと楽しくなるぞ。俺が保障する」
いかんね、担当アイドルに慰められてるようじゃ。
でも、こうして元気を貰った分、俺は俺のやれることをやるだけさ。
こいつの微笑みには、さらなる上を目指せるだけの、力がある。
ゆっくり一歩ずつでも、登って行こうじゃないか。
とりあえず1日程度のオフでは、彼女は実家に帰ることすらできない。現実問題として難しい。
ここしばらく、牧場に顔も出せていないはずだ。
来月あたりにまとまった休みが取れるよう、スケジュールを調整してやることにしよう。
* * *
「今日の仁奈は犬なのでごぜーますよ! ハッ、ハッ、ハッ」
舌を出して両手を胸の前で垂れる少女に、どっ、と湧く観客。笑顔で見守る出演者たち。
それらをスタジオの後ろの方から眺めながら、俺は今日の衣装選択が間違ってなかったことに自信を深める。
市原仁奈。
世にも珍しい、着ぐるみアイドルだ。
俺の担当の中でも、一番の最年少。
今日は休日お昼の番組への、ゲストとしての生出演である。
やはりこの子は、バラエティ番組的なウケがいい。
努力しても身に着けられないある種天性の魅力を、生まれつき備えている。
特異な存在だ。
改めてそう思う。
あの、着ぐるみへの執着の強さ、独特の口調、驚くほどの人懐っこさ。
それこそ精神分析の専門家あたりに尋ねれば、何かしらそれっぽい屁理屈を並べてくれることだろう。
演劇に狂って留年を重ね、とうとう卒業できずに中退した大学でも、心理学の講義だけは楽しかった記憶がある。
たぶん父親の不在などの背景から、彼女の内面に深く切り込み綺麗に論理立ててくれるに違いない。
だが、まあ、しかし。
あの子に必要なのは、たぶん分析でも治療でもない。
いつか彼女が、自分から着ぐるみを脱いで人前に出ようと思うその時まで、彼女の強みを活かしつつ守ること。
あるいはそれは、アイドル・市原仁奈の引退の日となるのかもしれないが……
もしそうだったとしても、あの子の決断を尊重したい。
大学中退の落ちこぼれ心理学者としてではなく、日々少女たちを見守るプロデューサーとして、そう思う。
収録は順調に進み、やがて番組のエンディングを迎える。
小動物のように、すっかり出演者たちに可愛がられている仁奈。
普段は難しい顔でコメントを垂れ流している政治評論家も、ニコニコと満面の笑みだ。
スタジオの隅の画面の中ではテロップが流れだし、やがてCMが開始。同時に終了の合図がスタジオに響く。
すっ、とスタッフ専用の裏手の通路に回ると、出演者たちが引き上げて来るところに出会う。
その中でもひときわ小さな影に手を振ってやると、その影は弾丸のようにこっちに突進。
ぼふっ、と、モコモコの塊を受け止める恰好になった。
「……お疲れ。良かったぞ、仁奈」
「~~、おつかれさまでごぜーます!
いやぁ、今日はいい人ばかりで良かったのですよ」
まあ、あえてそういう番組を選んで出させたんだけどな。
出演者の傾向から番組作りの方向性まで、いろいろ検討した上で受けた話だったんだがな。
でもこれは口にはしない。
別に仁奈が知っているべき話でもないからだ。
ついでに、いっそレギュラー出演しないか、という話も来ていたのだが、これは丁重にお断りした。
これを受けてしまうと、仁奈はまともに学校にさえも通えなくなる。
そういうチャンスを貪欲に捕まえていく奴もいるけれど、少なくとも俺の流儀じゃあない。
市原仁奈は、短期間だけ派手に稼ぎまくってそれで終わり、にしていいような存在じゃあないんだ。
「仁奈は、幸せ者でごぜーますよ」
「なんだ、急に」
不意に腕の中で、仁奈がつぶやく。
顔をあげて、そのつぶらな瞳を俺に向けて来る。
「みんなが、仁奈のことを気遣ってくれやがります。みんなが、仁奈と一緒に笑ってくれやがります。
それだけで、仁奈も心がポカポカしてくるのでごぜーますよ」
「…………」
俺は無言のままに、仁奈の頭をわしわしと撫でる。
仁奈は嬉しそうに目を細める。
本当に、人に愛される才能に恵まれた子だ。
この才能を、変にスレさせることなく、さりげなく守り続けることが、この俺の使命なんだろうな。
願わくば、いつまでも。
この笑顔が、誰かの悪意に潰されたりしませんように。
* * *
スタジオを出て仁奈をタクシーに押し込むと、俺は単身、次の仕事場へと向かう。
仁奈は俺の方から車で迎えにいったが、次の仕事のアイドルとは現地集合の予定だ。
果たして、指定した写真スタジオでは、一人の少女……と一匹のイグアナ(!)が、俺を待っていた。
「あ、~~さん、こんにちわです~♪
今日もよろしくお願いしますね~」
「……こんなとこまで連れてきてたのかよ、ヒョウ君」
古賀千春。
のんびり者で小柄でふわふわな、お姫様に憧れる小さなアイドルである。
そして仕事の上ではあまり前面に出していない性癖ではあるが、彼女の最大の特徴が、そのペットに対する偏愛。
ヒョウ君、と名付けられたイグアナを、状況さえ許せば常に抱えて連れ歩いているのだ。
見れば彼女は片手に、ペット運搬用のゲージを提げている。
猫や子犬を連れ歩く時によく使われる代物だが、まさかコレにイグアナが入ってたとは誰も思わないだろう。
俺の視線に気づいて、彼女は照れたように笑う。
「流石に、今日は電車だったんで~。改札出たら、すぐに出してあげましたけど~」
「……そりゃまた、優しいことで」
どう考えても周囲はドン引きだったと思うんだが、いまさらそれを言っても仕方あるまい。
2人で連れ立って、写真スタジオの奥に歩を進める。
今日のお仕事は、ちょっとした広告の撮影。
連動するTVCMもなく、写真広告だけではあるのだが、あちこちに広く貼られる予定の大きな仕事。
一通り関係者に挨拶して回って、最後にスタイリストさんに小春の身柄を引き渡す。
「あ、~~さん、ヒョウくん預かってて下さい~」
「もういい加減慣れたよ。ほら、こっちに来な」
彼女からヒョウ君とペット用ゲージを受け取って、壁際に下がって彼女の出番を待つ。
ヒョウ君も既に慣れたもので、俺のスーツにしっかりしがみついて離れない。
撮影の準備をしているスタッフたちが、通り過ぎざまにギョッとした表情でこっちを振り返るが、構うものか。
こいつはお姫様にとっては無くてはならない、相棒なのだ。
「まったく、お前も大変だな。あんなお姫様に振り回されて」
俺のぼやきに、ヒョウ君はもちろん答えない。どこを見てるかも分からない目で、ただじっとしているだけだ。
ほんと、なんでイグアナなんだろうな。
犬や猫ならまだ感情も分かりやすいが、爬虫類ってのはそもそも意志疎通できる気がしない。
出会った当初よりはだいぶ小春との関係も深まったが、根本的なところで分からないことが多い子だ。
しばらくして、衣装を着せられメイクを施された小春が、撮影の現場に戻ってくる。
どこかのお姫様のようなフリフリのドレスに、小さなティアラ。
ともすれば装飾過剰にもなりかねない衣装が、実に似合っている。
こちらの視線に気づいて軽く手をふってみせると、そのまま強烈なライトの光の中、撮影に入る。
まだ理解しきれたとはいえない、謎の多い少女。
ひょっとしたら、俺が小春のことを理解できる日など、永遠に来ないのかもしれない。
それでも、俺たちは約束をした。
確かにあの日、誓い合った。
いつか彼女を、お姫様にすると。みんなに好かれる、可愛いアイドルにすると。
「まだまだ、こんなもんじゃないぞ。
いずれ、もっとすごいところに連れて行ってやる。もっと素敵な世界を見せてやる」
カメラの前で商品を手にポーズを取る、小さなプリンセス。
あの日の約束は、口先だけのものじゃない。こんな所で満足させるつもりもない。
古賀小春というアイドルは、もっと高いところまで行けるはずの逸材なのだ。
「だからそれまで、俺たちであのお姫様を守ってやらないとな。
なあ、ヒョウ君?」
俺は返事がないのを承知の上で、腕の中のイグアナに語りかける。
何を考えているのか分からない爬虫類は、ただじろり、と俺のことを見ただけだった。
* * *
夕焼けに染まる街の中を、車を走らせる。
助手席に収まっている小柄な人物は、また違う女の子。
「~~プロデューサー、見て見てー! すっごい夕陽!」
「おう、綺麗だよなぁ」
赤城みりあ。
つい先日CDデビューも果たした、小学生アイドルだ。
天真爛漫で明るく元気、それが彼女の第一印象だろう。それは否定しない。
けれど、彼女の魅力はそれだけではあるまい。
個人的には、真摯に仕事を楽しみながらも努力を忘れない、頑張り屋さんなところを推しておきたい。
小春を送ってみりあを迎えに行って、これから向かうのはラジオ局。
CDを出したことを期に、有名な番組にゲスト出演することになっているのだ。
全国に発信される番組だし、是非ともここで畳みかけておきたいところ。
軽いトークの後、彼女の曲がかなりの長さで流れる予定になっている。
この年齢で歌うのは相当厳しいはずの、かなり難易度の高い歌だ。
ラップ調の部分にはかなり苦戦していたのを俺も見ている。
「自分の歌を自分で聞くのって、すっごい変な気分だよねぇ! こんな声だったっけ? って!」
「ああ、そういうことを言う奴は多いな。そのうち慣れるらしいが」
「じゃあ、今のドキドキは、今だけのものなんだね! うんうん、大事にしなきゃっ!」
なんとも生意気なことを言う。まったく可愛い奴だ。
こういうセリフを計算づくで口にできる奴はごまんといるが、素で言えるってのはこいつが持つ才能の1つだろう。
他の年長のアイドルたちから可愛がられているのも、納得というやつだ。
「ただ、ラジオだから可愛い衣装とかないんだよねー。それだけがちょっと残念」
「いやぁ、なんでもメイクさんは控えてるらしいぞ。
番組のホームページで収録風景の写真を撮って、後で公開するんだとか」
「うそっ!?
なら、もっと可愛い服着てきた方が良かった!? あーん、どーしよー!」
「それで十分可愛いさ。せいぜい、堂々としとけ」
本当に、ただ喋ってるだけで楽しい子だ。
これでファンのことも常に意識しているし、仕事への責任感は強いし、ほんと、どんだけ完璧な素材だよ。
この子に関しては、俺も素直にその才能を伸ばしてやるだけでいい。実に有難い子だ。
「えへへ、ありがとー!
でも、プロデューサーも、けっこう可愛いよ?
「……いい年した大人が、可愛いとか言われても逆に凹むんだが?」
「でもほんとだってばー。
おヒゲをキレイに伸ばしてるのもそうだし、お洋服気を使ってるのもそうだし。
そのおヒゲ剃っちゃったら、今度は可愛くなり過ぎちゃうかな?」
「分かった、俺が悪かった、だから勘弁してくれ」
まったく、邪気がないだけにたまらない。
ああ、認めるよ。ヒゲを伸ばして高いスーツでハッタリかまして、それで辛うじて業界人ぶってるのがこの俺さ。
先輩ぶって、保護者ぶって、ベテランぶって。
そういったもので身を守らないと、立っていることさえできない。
そしてだからこそ、みりあのような才能が眩しく見えるんだ。
俺たちみたいな奴らにしかできない方法で、支えてやりたくなってくるんだ。
ラジオ局の建物が見えて来る。
駐車場へと車を滑り込ませる。
なあ、みりあ。
お前だけはほんとうに、どこまでも自分に正直に、好きなことだけを魂に忠実に、選び続けてくれよな。
* * *
放送を終えてみりあを送り届けて、ひとり事務所に戻ってきた時にはすっかり夜になっていた。
朝早くからの働きづめ、いい加減に疲労も溜まっているが、残念ながらこれで終わりではない。
午前中に片づけきれなかった事務的な仕事が、まだまだ俺を待っている。
労働基準法?
残業代?
なんだそりゃ食えるのか、ってなもんだ。
「……って、ちひろさーん?
参ったな、どこかに行ってるのかな……」
ちょっとした書類の件で事務員の1人に用事があったのだが、折悪く不在らしい。
ホワイトボードの表示を見ると、まだ帰ってはいないはずなんだが。
無人の机の前で、このまま待つべきかどうか、しばし迷う。
「って、なんだこりゃ。企画書か?
なになに、『シンデレラ・ロワイヤル』……?」
ふと、机の上に放置されていた書類の束が目に入る。
勝手にそういうモノを読むのは良くないことではあるが、ちょっと彼女の机の上にあるのは不自然だ。
興味をそそられて、ぱらぱらと中身を確認してみる。
どうやら内容としては、群像劇的なドラマの企画らしい。
脱出不可能な孤島に集められた、60人のアイドル。強要される殺し合い。
殺し合いを促進させるのは、人質に取られた少女たちの想い人の存在。
過激な内容ながら、その本質はアドリブ満載の恋愛ドラマである――そのようなことが、書かれていた。
ったく、なんちゅう悪趣味な企画だ。
「って、うちの子らも出す気かよ」
まだ未確定、という但し書きはついていたが、そこに添えられた名簿に俺は目を剥く。
おいおいこりゃ、どういうつもりだよ。
珠美に、雫に、仁奈に小春。
みりあの名前もあるし、今日はまだ会ってない俺の担当アイドル最後の1人の名もそこにある。
俺の担当分、まさに全員じゃねぇか。
「あら、~~さん! どうかしましたか、って……」
「ちひろさん、これ何ですか? こんな話、全然聞いてないんですけど」
いつの間にか戻ってきていた、お目当ての事務員・
千川ちひろが、俺の詰問に苦笑する。
見られちゃったか、とばかりに、ペロリと小さく舌を出す。
「あー、それ、ボツになった企画案なんだそうなんです」
「はあ。
ま、この内容じゃ……ねぇ」
「ただ多少なりとも女の子たちの反応を見たい、ってことで、幾人か選んで感想を聞くことになってるんですよ。
その役目を、押し付けられちゃってて」
なるほどな。
ちょっと異例な話ではあるし、なんでそれやるのがちひろさんなんだ、とも思うが、分からんでもない。
他社でやっていた、アイドル同士のガチンコバトルもの。
それを意識したものをやりたい、もしやったらどうなるのか、といった話なのだろう。
「とりあえず、――さんのとこの子を集めて、こんど話を聞こうと思ってるんですけどね」
「アイツかぁ。確かにあそこは、危ういかもな」
ちひろさんの上げた同僚の名に、俺は自分のあごひげを撫でつつ考える。
悪い奴ではない。むしろかなり有能な方だ。
担当アイドルたちにも、かなり好かれているはず。
ただ、なんというか奴は――優しすぎる。そして脇が甘い。
女の子たちに期待だけさせておいて、誰を選ぶこともできずにいる、そんな感じの男だ。
そういうところにこの状況設定を放り込んだら、まあ、エラいことになるのは目に見えている。
「~~さんのとこの子たちは、どうでしょう?
こういう状況に実際置かれたとしたら、殺し合い、すると思います?」
「ウチか?
うちの子らは、まあ無いでしょう。そういう脚本でも用意されない限りはなァ」
即答する。
うん、まあ、傍目には俺のとこも似たように見えるのかもしれないけどな。
人数もちょうど同じ6人。
そして俺も、担当の子らにはそれなりに好かれている自覚はあるよ。それが男女の情かどうかは別として。
でも、なぁ。
「冒頭での脅かし方次第じゃ、悩んだり混乱したりする子は出ると思いますけどねェ……
まあ、無いですわ。
実際に覚悟決めて誰かを傷つけられるような子は、いないでしょう。
あったとして、せいぜい、武器を構えて誰かに向ける、所までじゃないですかね。
それこそ事故みたいなことでも起きない限り、この企画には貢献できないと思いますぜ」
このバカげた企画を立てた奴には悪いが、断言させて貰おう。
俺の担当の中には、誰かを蹴落としてそれでよしとするような子は、1人もいない。
そんな風に育てた覚えはないし、そんな風な子を拾ってきた覚えもない。
ま、中には一見、誤解されやすい子もいるけどな。
それでも、大事なとこが何も見えちゃいねぇよ。
「そういう意味でも、この企画はボツにして正解ですよ。上手くいくわけがない」
「んー、そう、なんですかねぇ……」
何やら不満そうな様子の、ちひろさん。
ひょっとして、この企画を立案したのは彼女とか?
……いやいや、まさか。
彼女は一介の事務員に過ぎないはずだ。
ま、しかし、誰でもいいけどなぁ。
あんまり、俺らの『アイドル』たちを、舐めるなってんだ。
* * *
一通り事務仕事も済ませて、ようやく肩の荷が下りた俺は、ふとあることを思い出す。
事務所の片隅、冷蔵庫の前。
しゃがんで扉を開け、中身を覗き込む。
「……くっそぉ、やっぱり『売り切れ』かよ。
及川牧場のネット通販、もうあの新商品、取り扱ってくれてんのかな……」
ちょうど、甘いモノが少しだけ欲しいところだったのだが。
こう見えて酒もタバコもやらない俺は、甘いモノにだけは目がないのだが。
半ば予想していた通り、昼前に見せられたミルクプリンは、影も形もない。
冷蔵庫内の広々とした空間が、虚しく冷え冷えとした明かりに照らされている。
言いようのない脱力感に襲われ、はぁぁぁ、溜息ひとつ。
冷蔵庫の冷気を浴びながら、仕方ない、今日はもう帰るか、と思った、ちょうどその時。
ぺたり。
しゃがみこんだ俺の背中に、全身で貼りつく者がいた。
ふぁさっ、と広がった長い髪から、ほのかな芳香が香る。
そして俺の耳元に、吐息を吹きかけつつ、ささやく声。
「ちひろさんと、なんのお話ですかぁ?」
「おう、そういや今日の午後はレッスンが入ってたんだったな。ご苦労さん」
「ちひろさんと、なんのお話ですかぁ?」
「……仕事だよ仕事。
さすがにそこに変な勘繰り入れられても、困るんだが?」
「……そういうことに、しておいてあげますねぇ。うふふ」
「だから邪推すんな。
あと背中に爪立てるな。体重かけてくるな。いい加減痛いぞ」
言っても言うことを聞かないので、ちょっと乱暴に振り払って、立ち上がる。
我ながら酷い扱いだとは思うが、しかし、こうでもしない限り立ち上がれそうにない(物理的に)。
改めて溜息をついて振り返れば、そこには蕩けるような笑みを浮かべた一人の女の子。
佐久間まゆ。
俺の担当するアイドルの最後の1人にして、今日は会わずに終わるのかなーと思っていた相手である。
い、いや、別に避けていたとかじゃないぞ、うん。
たまたま、今日は予定が合わなかっただけだ。これだけ担当する子がいると、そういうことも普通にある。
今日は彼女は、俺が他の子らの仕事を見ている間、事務所の方で音楽のレッスンに臨んでいたはずだった。
いちおうプロデューサーという肩書になっている同僚が、基本的なところから指導してくれていたはずである。
クラシック畑の出身(確か本来の専門はピアノだったか?)で、いろんな意味で不器用な男。
事務所ではかなり軽んじられているし、業界内でのキャリアならこっちが上だが、それでも俺は密かに尊敬している。
困った時はお互い様ということで、こっちも彼の担当アイドルの舞台出演などを手伝ったりしているが……
それでも後日、改めてお礼を言っておかないとな。
「それにしても、もう帰っていると思ってたんだがな?」
「やだなぁ。
~~さんを待っていたんですよぉ。
送って行って、くれますよねぇ?」
やれやれ。
しかしそのお願いを無下に断るほど、俺は薄情でもなければ、命知らずでもない。
まったく、こんなバツイチの中年親父のどこがいいんだが。
惚れられていること自体は光栄なことではあるんだが、俺としてはどこまで応えたものだか、首を捻ってしまう。
「駐車場行くぞ」
「はぁい♪」
冷蔵庫を閉じ、さっさと荷物をまとめると、並んで歩き出す。
今日はこのまま、まゆを家まで送って、それで終了ということになりそうだった。
明日になれば今日ほどの密度ではないにせよ、また新しい仕事が待っている。
ふと、先ほどの話を思い出す。
アイドルたちの在り方を試す、悪趣味極まりない『シンデレラ・ロワイヤル』の企画。
まゆのことを表層しか知らない人は、こいつこそ一番危険だ、と思うかもしれない。
俺への好意を隠そうともせず、愛情アピールに熱心な子。
ときおり見せる、偏執的な歪んだ言動。
まあ、実際こいつがそういう状況に置かれたら、そりゃ相当悩むだろうよ。
こいつはあまりにも俺のことを、愛し過ぎている。
悩んで、苦しんで、取り乱した態度の1つくらい、見せることになるかもしれない。
でも、こいつこそ。
何か不幸な事故でも起きない限り、他の誰かを傷つけることなんて絶対にありえない子だ。
事務所の外に出て、ふと、夜空を見上げる。
都会の空は明かりが強くて、ろくに星なんて見えないけれど。
それでも負けずに光る一等星が、確かにそこに、存在している。
「……なあ、まゆ」
「はい?」
「いつまでも、こんな日々が続くといいな」
俺は静かに呟いた。
自分でもどうしてこんなセリフが出てきたのか、いまいちよく分からない。
あの変なボツ企画のせいなのか、それとも、忙しくも充実した一日のせいだったのか。
急に話を振られたまゆは、一瞬だけきょとん、として、しかしそれでも、
「…………はい♪」
澄み切った、陰のない、心奪われるような微笑みを、静かに自然に浮かべたのだった。
最終更新:2013年07月22日 18:51