人外と人間

人外アパート 大学生×人魚「人魚と魔術師見習い」2

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人魚と魔術師見習い 2 859 ◆93FwBoL6s.様

 夢にまで見た、大学生活が始まる。
 浮かれすぎて寝付けなかったせいで、妙に頭が冴えている。広海は前日に必要な教科書やノートを詰めたショルダーバッグを提げ、寝室にした六畳間の襖を開けて居間に入った。カーテン越しに差し込む薄い日差しに照らされているビニールプールの中では、人魚、ミチルが上半身を起こしていた。退屈そうだったが、広海が起きてきても横目に窺うだけだった。広海は一応挨拶をしたが、ミチルは反応しなかった。いつものことだけど寂しいな、と広海は思いつつ、カーテンを開けてから窓を開き、空気を入れ換えた。朝の冷たい空気にミチルは眉根を歪めたが、文句は言わなかった。
 広海は朝食の支度をするべく居間に隣接した台所の冷蔵庫を開けた。大学に入学する前の二週間で他の住人達とも親しくなり、そのおかげでアビゲイルからお裾分けを頂けるようになった。課題やら何やらでろくに料理をする時間がない新一年生にとってはありがたい。昨夜の余りである白飯と在り合わせで作った味噌汁をよそり、アビゲイルの作ったアスパラのお浸しと肉じゃがを出した。それを食べながらミチルを窺うが、やはりミチルは黙り込んでいて、目線すらも向けてくれなかった。広海は一通り食べ終えてから、ミチルに話し掛けた。

「食べる?」
「何を」
「だから、朝飯」
「なんで?」

 ようやく口を開いたミチルは、長い髪を掻き上げながら振り向いた。

「そんなもの、食べたいわけがないじゃない」
「じゃあ、何がいいのさ」
「生魚」
「でも、絞めてあるのはダメなんだろ? この辺で売ってる魚は全部そうだから、まず無理だよ」
「釣ればいいじゃない」
「大学に行かなきゃならないんだけど」
「だったら、何もいらない」
「解ったよ」

 広海は苦笑いしつつ、食器を片付けた。地元であれば、ミチルは常に海で泳いでいたから生魚は調達するまでもなく、ミチルが自分で捕まえて食べていたから何の問題もなかったし、海で生きる彼女に陸のものを食べさせようとは思ったこともなかった。口に合わなかったらからと怒られては困るからだ。だが、魚を釣るにしても、どこに行けばいいのやら。身支度を終えて出発した広海は、大学に向かう道中で近場で釣りが出来るポイントと釣りに出る日取りを考え込んだ。
 考え込みすぎて、私鉄の乗り換えを一本間違えそうになった。


 言った傍から後悔して、ビニールプールからずり落ちかけた。
 広海の足音がアパートから遠のいたことを確かめてから、ミチルはばんばんとビニールシートを敷いた畳を叩いた。どうして、一緒に同じものを食べたい、とすら言えないのだろうか。そんなことを言って広海を振り回したところで、彼の勉強を妨げてしまうだけだ。大体、そんなことを言っただけで泡になるのだろうか。だけど願望は願望だし、もしもこれで泡になっちゃったら、と思えば思うほどにドツボに填り、ミチルは頭を抱えて髪を掻き乱した。

「どうしてこうなるのぉっ!」

 泡にさえならなければ、いくらだってなんだって言ってやるのに。ミチルは情けなさのあまりに泣きたくなってしまい、水面に顔を付けて上半身を没していった。ごぼごぼと泡を吐き出していると、庭先から掃き出し窓をノックされた。濡れた長い髪を顔に貼り付けながら顔を上げると、銀色の女性型全身鎧、アビゲイルが立っていた。ミチルは上半身を伸ばして掃き出し窓に手を掛けて開けると、アビゲイルが丁寧に挨拶してきた。

「おはようございます」
「ええ、ああ、おはようございます」

 予想もしていなかった事態に戸惑いつつもミチルが返すと、アビゲイルは笑った。


「まあ、素敵な人魚さん。綺麗な尻尾をお持ちですね」
「それはどうも」

 褒められれば悪い気はしないのでミチルは笑みを浮かべようとするが、広海の前ではなるべく表情を動かさないようにしているので表情筋の動きはぎこちなかった。アビゲイルはお情けのような幅の縁側に腰掛け、膝の上で手を揃えた。

「お名前はなんて仰るの?」
「ミチルです。あなたは確か、アビゲイルさんって」
「そうです。二階で祐介さんのお部屋に住まわせて頂いているの。でも、どうして私を御存知なのかしら?」
「だって、昨日の夜、うちにお裾分けにいらしたじゃないですか」
「あら、そうだったわね。私のお料理、広海さんには喜んで頂けたかしら」
「ええ、とても」

 ミチルは当たり障りのないことを答えていたが、次第に自分に苛立った。アビゲイルは優しく、人当たりが良く、おまけに料理が上手いと来ている。何も出来ずに水に浸かっているだけの自分と比較する以前の問題だ。だが、陸に上がった人魚が何も出来ないのは覆しようがない事実なのだ。

「どうかなさったの?」

 アビゲイルはミチルの様子を窺ってきたが、ミチルは表情を変えないように努めた。

「いえ、なんでも」
「大学が始まってしまったものね」

 アビゲイルは庭木すらない狭い庭を見渡すように、ヘルムを上げた。

「祐介さんも春休みが終わったから大学に行くようになったし、ヤンマさんは御仕事で茜ちゃんも高校だしで、昼間が寂しくなってしまって。だから、ミチルさんとお話し出来たらなぁって思って来てしまったんだけど、迷惑だったかしら」
「そんなことはありません。私も退屈していたところでしたから」
「そう、だったら良かった」

 アビゲイルは嬉しそうに頷き、かすかに首関節を軋ませた。この愛想の十分の一でも自分に備わっていたら、とミチルは羨まずにはいられなかった。そうすれば、広海に対して少しでも優しくなれるかもしれない。広海に本心を知られたくないのは、思いを伝えたら泡になって消えてしまう時に彼を傷付けてしまいたくないからだ。ミチルの一方的な感情ではあるだろうが、好かれていたことを知ったら何かしらの思いは湧くだろう。恋人同士になれなくてもいい、傍にいるだけで充分だ、とミチルは思おうとしたが、アビゲイルの世間話に入り混じる惚気を聞いてしまうと胸が痛んだ。
 隣の芝生は青いどころか、花が咲き乱れていた。


 大学初日は、さすがに疲れてしまった。
 やるべきことをやるだけで一杯一杯で、回りを見渡す余裕もなかった。同じ講義を取り、近くの席に座っていた面々とは一応友達らしい関係にはなれたが、まだまだこれからだ。サークルに入ることもあるだろう、ゼミに参加することもあるだろう。人付き合いは得意な方ではないが良い機会だから明日からも頑張ろう、と意気込みながら、広海は大股に歩いてアパートもえぎのを目指した。が、途中で立ち止まり、ミチルが食べたがっていた生魚のことを思い出した。人魚はれっきとした生き物なのだから、何も食べないわけにはいかないだろう。かといって、近所のスーパーで買った魚ではもっと機嫌を損ねてしまう。広海はその場で立ち止まってしばらく考え込んだが、ミチルだってとにかく腹が減れば陸のものも食べるだろう、と思い直した。
 102号室に戻り、鍵を開けて部屋に入った広海は、実家の台所を思い起こさせる暖かな料理の匂いが立ち込めていることに気付いた。ミチルか、と一瞬思ったが、直立歩行出来ない彼女は台所には立てないはずだ。

「お帰りなさい、広海さん」

 居間から顔を出したのは、新妻じみたエプロン姿のアビゲイルだった。


「…あの、なんで僕の部屋に?」

 広海が疑問をぶつけると、ビニールプールでくつろぐミチルがぞんざいに答えた。

「見りゃ解るでしょ、夕飯を見繕いに来てくれたのよ」
「そろそろお帰りになるって思って、お料理を温めておいたんです」

 アビゲイルがにこにこすると、広海は呆気に取られつつも礼を言った。

「どうも、ありがとうございます。でも、玄関の鍵は」
「窓からよ」

 ミチルが掃き出し窓を示すと、アビゲイルは会釈してから、その掃き出し窓に手を掛けた。

「それじゃ、私は祐介さんのお部屋に戻りますね。御邪魔してしまってすみませんでした」
「ああ、いえ、ありがとうございました」

 広海は訳が解らないまま、アビゲイルを見送った。程なくして階段を昇る足音が聞こえ、二階の202号室の鍵を開ける音も聞こえてきた。広海は様々な疑問が去来したが、重たいバッグを下ろしてからミチルに尋ねた。

「ミチル、アビーさんといつのまに仲良くなったんだ?」
「今朝よ。暇潰しに話し込んじゃってね」

 ミチルはビニールプールから身を乗り出し、テーブルで湯気を昇らせるカレイの煮付けと菜の花の芥子和えを指した。

「冷める前に食べたいんだけど」
「え?」

 あれだけ嫌がっていた陸のものを食べるのか、でも魚だからいいのか、と広海が悩むと、ミチルは唇を曲げた。

「食べたくないの?」
「いや、うん、そんなことないよ、ちょっと待ってて」

 広海は慌てて六畳間に入り、上着を脱ぎ、荷物を置き、部屋着にした高校時代のジャージに着替えながら、胸が高鳴った。ミチルと食卓を共に出来るだけでも嬉しすぎる。これまでは一緒に食べようとすらせず、広海の目に付かないところでミチルは食事を取っていた。それなのに、同じ食卓で同じものを食べてくれるとは。広海は顔がだらしなくにやけてきたが、そのせいでまた不機嫌になられては困るので、気合いを入れて表情を固めた。
 その頃、居間のミチルは気のないふりをしながらも広海が気になって仕方なかった。不慣れな箸を持つ練習をしながら、広海が出てくるのを今か今かと待ち侘びていた。以前から陸のものは食べていたし、広海の手前では素直になれないので誤魔化していたが、ずっと前から一緒に同じものを食べたかった。出来れば自分で作ってやりたかったが、下半身が魚では台所に立つことも出来ないし、料理などしたことがない。だから、アビゲイルに夕飯の支度を頼んでみたら快諾してくれた。ますます彼女の優しさと自分の情けなさが身に染みてきたが、背に腹は代えられない。
 襖が開き、ジャージ姿の広海が戻ってきた。広海は外気温と室温との気温差で白く曇ったメガネをジャージの袖で拭いてから、ミチルに向いた。ミチルは驚いたのか、手にしていた箸を滑らせてテーブルの下に落としてしまったが、いつものような気のない表情で広海を見上げた。その冷たい眼差しに広海は期待がいくらか萎んだが、テーブルの下から箸を拾って渡した。

「ミチルの食器、アビーさんが出してくれたのか?」
「そうよ」

 そっぽを向きながら箸を受け取ったミチルは、テーブルを掴んでビニールプールに引き寄せた。広海は既に温まっている味噌汁と炊きたての白飯をよそったが、ミチルの茶碗と汁椀を用意していて良かったとつくづく思った。彼女はいらないと言い張ったが、自分のものと混ぜて買ってきた。二人分の椀を盆に載せて運び、食卓に並べてから、広海は腰を下ろした。
 二人揃って食べ始めたが、案の定ミチルは箸を使うのが下手だった。水掻きが張った指では持ちにくいらしく、指の間から何度も滑らせては床に転がしたり、ビニールプールの中に落としてしまった。そんなことを繰り返せば、当然ミチルは機嫌が悪くなり、眉間に刻まれるシワが深くなった。見るに見かねた広海は、自分の箸を置いて手を伸ばした。


「こうすればいいんだよ」

 ミチルの右手を掴むと、広海の指に予想以上の冷たさが訪れた。普段は意識したことはなかったが、人魚は人間よりも遙かに体温が低い。まともに彼女の肌に触れられた嬉しさで本題を忘れかけたが、広海はミチルの指を曲げさせて箸をきちんと持たせてやり、手本を見せるために自分の箸を動かした。

「ほら」
「ん…」

 ミチルは形だけはそれらしく箸を持ち、ぎこちなく箸を開閉させた。

「こう?」
「そうそう、すぐに慣れるから大丈夫だよ」

 広海が頷くと、ミチルは自分の茶碗を持って顔を背けた。

「馬鹿にしないでくれる」
「そんなつもりじゃないんだけどな」

 口の中で呟きつつ、広海はカレイの煮付けに箸を入れた。ミチルは水色の小さな魚の模様が付いた茶碗を抱え、暖かな白飯を食べていたが、広海に握られた右手に残る暖かさを意識しすぎて味が解らなくなってしまった。程良い甘辛さの煮付けもまろやかな芥子和えも、ひたすら噛んで嚥下するだけだった。早く食べ終えなければ居心地の悪い食事が終わらない、しかし、食べ終えればせっかくの時間が終わってしまう、とミチルは相反する気持ちの狭間でぐらついていたが、そのうちに茶碗の中身が空になり、汁椀も空になり、おかずが盛られた器も空になり、つつがなく夕食が終わった。
 二人の会話は、ほとんどなかった。


 広海が風呂に行くと、途端に寂しくなった。
 ミチルは水を入れ替えたビニールプールの中で横たわり、下半身を両腕で抱えていた。見えるのはビニールプールの薄い壁と蛍光灯に照らされた水面だけで、身動きするたびに起きる薄い波が肌を舐めている。音がないと物寂しいので付けたままのテレビの音が、両側頭部に付いたヒレの下で露出している鼓膜を震わせたが、内容はほとんど解らなかった。広海が入っている浴室の物音が気になって仕方ないからだ。広海が風呂に入ると、いつもそうだ。目的は違うとはいえ、同じ水の中に入っているのだから、つい意識してしまう。出来ることなら同じ浴槽に入りたいし、構ってもらいたいが、人間用の風呂の温度は人魚には熱すぎてのぼせてしまう。かといって、人魚に合わせた温度では、人間には水風呂にも等しい温度になってしまうので、元より無理な話だ。だが、それでも、同じ風呂に入って構ってもらうことを考えずにはいられず、ミチルは顔を伏せて気泡を零した。

「お風呂…」

 ため息の代わりにエラに深く吸い込んだ水を吐き出し、ミチルは人間で言うところの膝に当たる部分に額を当てた。

「一緒に入りたいよぉ」

 だが、そんなことを広海に言えば、今まで保ってきた体面が崩れてしまう。それどころか、面倒な女だと思われてしまうかもしれない。欲望と躊躇いの狭間で思い悩み、ミチルは何度か底の浅い水中から顔を上げようとしたが、いざ出ようとすると今度は恥ずかしくなってきた。人魚は人間のように服を着る習慣がないので、常に素肌を曝している状態ではあるのだが、訳もなく羞恥心が湧いてきた。恥ずかしすぎて目眩がしたミチルは、結局体を起こせず、ごぼごぼと荒く水を吸っては吐いた。
 両手で抱えていた下半身を伸ばしたミチルは、広海の気配が浴室の中にあることを確かめてから、そろりと指を伸ばした。荒れ狂う海も泳ぎ切れる筋力を備えた下半身を包むウロコを探り、人間で言うところの股関節よりも少し下に隠れている小さな穴、産卵管に指の先を差し込んだ。小さな泡が一粒だけ上がり、弾けると、ミチルは片方の手で口元を押さえながら産卵管を掻き混ぜた。本来なら、卵を産み落とすためだけの器官であり何も感じるはずのない場所だが、人間の真似事をしている間に快感のようなものを感じるようになっていた。人魚の交尾は他の魚類に違わず、海中に産み落とした卵に精子を掛けるので、基本的に性交は行わない。だから、人間の繁殖方法を知った時は無駄だとしか思わなかったし、快楽を伴う繁殖も無益だとしか思えなかったが、今では人間の繁殖方法は素敵だと考えている。だからいずれ自分も広海と、とは思うが、そんなことを言い出せるはずもない。だから、自分を慰めるしかなかった。

 水よりも少し粘り気の強い体液が滲み、産卵管の内壁を擦る指の滑りが良くなった。探るうちに見つけ出した弱い部分を擦り、抉ると、得も言われぬ感覚が脊髄から脳に昇り、尾ビレの先が勝手に揺らいでさざ波が立った。触り始めた時は何も感じなかったのに、繰り返しているうちに心地良さを感じるようになった。卵を産み落とすためだけの管なのに、その管の内に本来は入るはずもないモノを差し込まれたら、などと考えてしまったら尚更で、ミチルの指がきゅっと締め付けられた。特に弱い部分を押すようにしてなぞると、上り詰めた快感が弾け、ミチルは普段よりも激しい給排水を行いながら弛緩した。
 つぷり、と自分の内から指を抜くと、粘り気のある体液が水に溶けた。それを見つめていると快感の波が遠ざかり、今度は空しくなってきた。こんなことをするくらいなら、真っ向から広海を求めたい。自分の指などでは、心身の寂しさが埋まるどころか深まるばかりだ。かといって、体を差し出して性欲を処理されるだけの人形には成り下がりたくない。
 呆れるほど我が侭な恋だ。


 また、意味もなく風呂が長くなった。
 広海はのぼせ気味の頭をタオルで拭ってから、湿り気で曇りかけているメガネを取って掛けた。風呂の水音に紛れさせてはいるが、自慰を気付かれていないか不安になる。襖一枚隔てただけの寝室ではすぐに感付かれるだろうし、そんなことになれば汚いだの馬鹿だの何だのと言われて半殺しにされるかもしれない。広海は風呂による上気とは異なる熱と強張りが残っている下半身を下着に収め、嘆息した。人魚は服を着ないのが普通だとはいえ、年がら年中素肌を曝されていては気にならないわけがない。増して、それが好きな女の子では。だが、服を着てくれ、と言ったが最後、二度とあの形の良い乳房も素肌も見られなくなったら、と考えてしまうため、言うに言えないままここまで来てしまった。

「色んな意味で死にたい…」

 凄まじい羞恥心に襲われ、広海は洗面台に縋って突っ伏した。好きなら好きだと言えばいいのに、何も言えないものだからすっかりミチルが性欲処理の材料になってしまっている。地元にいた頃は多少は物理的な距離が離れていたので、ここまで罪悪感は感じなかったが、今は同じ空間で寝起きを共にしているのだから感じざるを得ない。根本的な原因は広海自身が情けないからなのだが、かといって真っ向から迫るのもどうかと思う。変態だの何だのと罵られて引っかかれたら、と思うが、それはそれで、とも思った。こうも徹底的に嫌われていると、嫌われ慣れすぎて彼女が可愛く思えるのは恋心の成せる業だ。だが、広海がミチルに抱いている感情は恋と言うにはいくらか歪んでいる。自分が好きだから、というだけで、ミチルの自由を奪い、陸の世界に縛り付け、こうして海のない都会に連れてきてしまった。本当に好きなら、ミチルを上京先のアパートには召喚せずに海の世界で暮らさせているはずだ。それなのに、広海の我が侭でミチルを馴染み深く広大な海から引き離し、消毒された淡水を入れた狭いビニールプールに押し込めている。文字通り、飼い殺ししている。
 自己嫌悪をぐっと堪え、寝間着に着替えた広海が居間に戻ると、ミチルは眠っていた。ビニールプールの円形に添って体を丸め、長い髪を水底に広げ、下半身を内壁に沿わせている。顔は完全に水中に没し、エラが僅かに開閉していた。

「ミチル」

 水に手を差し入れた広海は、水温と同じ温度のミチルの頬を丁寧になぞった。

「ごめんな」

 言うべき言葉は、他にもあったはずだ。だが、それ以外に言えることもなく、広海は彼女が没する水から手を抜き、指から滴る雫を一つ二つと舐め取った。何の夢を見ているのか、ミチルの寝顔は険しかった。それが余計に罪悪感を煽り立ててきたので、広海は寝室に入って襖を閉め、教科書や専門書に囲まれたテーブルに広げたままの課題に取り掛かった。
 一日でも早く、一人前の魔術師になればミチルを解放してやれる。彼女と交わした主従の契約を解除するために必要な魔法は、広海が有する生まれつきの魔力量では到底不可能な高度な魔法だった。だから、技術と知識を磨き、小手先の魔法だけではなく本物の魔法を操る魔術師となり、ミチルを元在る世界に戻してやるのだ。そのためには、もっともっと勉強しなければ。
 それが、ミチルへの愛の証だ。






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