ヤンマとアカネ 4 859 ◆93FwBoL6s.様
灰色の帳が、棄てられた街を覆い尽くす。
鉛色の空から満遍なく降り注いでくる水滴は、廃墟から舞い上がっている砂埃を吸い取っては地上に落としている。空気全体が湿気を含み、厚みを持っている。ひび割れたガラスに貼り付いた汚れた雫は、重力に従って流れ落ちた。
朝から不穏な雲行きだと思っていたが、まさかこんなに早く降るとは。ヤンマは、湿気を帯びた四枚の羽を震わせた。種族にもよるが、ヤンマのような羽を持つ種族にとっては雨は大敵だ。水で羽が縮れては、飛行能力はがた落ちする。長い腹部の脇に並ぶ気管に雨粒が滑り込めば窒息する危険もある上、触覚で感じ取れる匂いも少し鈍ってしまう。だから、雨は嫌いだ。ヤンマは砂埃で白く汚れたガラス越しに街並みを見つめながら、ぎりぎりと頑強な顎を摩擦させた。
鉛色の空から満遍なく降り注いでくる水滴は、廃墟から舞い上がっている砂埃を吸い取っては地上に落としている。空気全体が湿気を含み、厚みを持っている。ひび割れたガラスに貼り付いた汚れた雫は、重力に従って流れ落ちた。
朝から不穏な雲行きだと思っていたが、まさかこんなに早く降るとは。ヤンマは、湿気を帯びた四枚の羽を震わせた。種族にもよるが、ヤンマのような羽を持つ種族にとっては雨は大敵だ。水で羽が縮れては、飛行能力はがた落ちする。長い腹部の脇に並ぶ気管に雨粒が滑り込めば窒息する危険もある上、触覚で感じ取れる匂いも少し鈍ってしまう。だから、雨は嫌いだ。ヤンマは砂埃で白く汚れたガラス越しに街並みを見つめながら、ぎりぎりと頑強な顎を摩擦させた。
「よく降るねぇー」
茜は錆び付いた椅子に座り、新しいスニーカーを履いた足を揺らしていた。その足元には、紙袋が積み重なっている。派手なロゴの店名が印刷された紙袋には、タグが付いたままの服が押し込められ、いくつかは袋からはみ出ていた。茜の着ている服もくたびれたTシャツと擦り切れたジーンズではなく、少し埃っぽいが真新しいTシャツとジーンズだった。いずれも、この都市が廃棄された際に廃棄された複合商業施設から発掘してきたもので、有り体に言えば盗みである。だが、廃棄都市にはそれを咎める人間もいなければ、茜以外に服を欲しがる人間もいないので、何の問題もなかった。
「こんなんじゃ、当分は動けそうにねぇな」
ヤンマがぼやくと、茜は笑った。
「別に早く帰らなきゃいけないってわけでもないし、なんだったらずうっとこのままでもいいんだけど」
「馬鹿言うな。俺の縄張りを何だと思ってやがる。気を抜いたら、すぐに他の虫が入ってきちまうんだぞ」
「解ってるってぇ。言ってみただけ」
「馬鹿言うな。俺の縄張りを何だと思ってやがる。気を抜いたら、すぐに他の虫が入ってきちまうんだぞ」
「解ってるってぇ。言ってみただけ」
茜はヤンマに返しながら、やたらと大きな鏡に映った自分を見、髪をいじった。
「随分伸びちゃったなぁ」
「そういえば、ここって何なんだ?」
「そういえば、ここって何なんだ?」
ヤンマは首を捻り、エメラルドグリーンの巨大な複眼に室内の光景を全て映し込んだ。見慣れないものばかりがある。茜が座っているものと同じ椅子が一列に並んでおり、やはり茜の姿が映っているものと同じ鏡と向かい合わせに置いてある。鏡の前にはハンドルの付いた円筒形の機械が転がされ、錆の浮いた金属製の道具もあるが、用途が全く解らなかった。壁に貼られたポスターには、茜とは肌の色も違えば髪の色も違う女性が印刷され、こちらを悩ましげな瞳で見つめている。天井にも煌びやかな装飾が施されているが、先程まで茜が衣服を発掘していた複合商業施設とは雰囲気が異なっている。
「ああ、ここ? 美容室だよ」
茜はヤンマの疑問に答えたが、ヤンマには馴染みのない単語だった。
「ビヨウシツって何なんだよ」
「美容室ってのはね、髪を切ったり着付けをしたりメイクしてもらったりする店のこと」
「それに何の意味があるんだ?」
「そりゃ、結婚式とか成人式とかのお祝い事に出るためだよ。そういう日は目一杯おめかししないと勿体ないもん」
「だから、それも何なんだ。イワイゴトは何をするんだ?」
「だーかーらー…」
「美容室ってのはね、髪を切ったり着付けをしたりメイクしてもらったりする店のこと」
「それに何の意味があるんだ?」
「そりゃ、結婚式とか成人式とかのお祝い事に出るためだよ。そういう日は目一杯おめかししないと勿体ないもん」
「だから、それも何なんだ。イワイゴトは何をするんだ?」
「だーかーらー…」
茜はその意味を事細かに説明しようとしたが、ヤンマは不可解げに触角を揺らしていたので、説明することを諦めた。そもそも、人間型とはいえ昆虫である彼に人間の文化がすぐに理解出来るわけがない。彼らには、文明はないのだ。ヤンマが人間の言葉を操れるのは、茜と長期間接しているからであり、他の昆虫人間は彼のように言葉は操れないのだ。胸部を震動させることは出来るが、明確な音にはならない。その意味は昆虫人間同士では解っても、人間には到底解らない。
昆虫人間は、人間とは種の根本から違う。人間のように七百万年掛けて進化したわけではなく、ある日突然変異した種だ。歴史も浅ければ二足歩行を始めた日も浅い種族である彼らに、人間の文明や文化を理解せよと言う方が無理な話だ。昆虫人間は文明を持たずに暮らしているのだから、人間社会の習慣を説明したところで意味どころか感覚も解らないだろう。
昆虫人間は、人間とは種の根本から違う。人間のように七百万年掛けて進化したわけではなく、ある日突然変異した種だ。歴史も浅ければ二足歩行を始めた日も浅い種族である彼らに、人間の文明や文化を理解せよと言う方が無理な話だ。昆虫人間は文明を持たずに暮らしているのだから、人間社会の習慣を説明したところで意味どころか感覚も解らないだろう。
「ね、ヤンマ」
茜は椅子から立ち上がると、椅子の傍に倒れていた移動式ラックから合成繊維製の大きなシートを取り出した。
「髪、切って?」
「なんでだよ」
「だって、ここは美容室だもん。結構髪が伸びちゃったし、切っておかないと邪魔になるから」
「だからって、なんで俺なんだ」
「前髪だけなら自分でも切れるけど、後ろの髪は自分じゃ切れないもん。それに、ヤンマの口はハサミより切れ味がいいし」
「俺を道具扱いするなよ」
「手足は食べさせてあげられないけど、髪だったらまた生えてくるから食べて良いよ」
「髪なんて大して旨くねぇし、腹も膨れねぇんだぞ。そんなもん、喰ったところでどうしようもねぇ」
「後でヤンマの羽を綺麗にしてあげるから、それならいいでしょ?」
「なんでだよ」
「だって、ここは美容室だもん。結構髪が伸びちゃったし、切っておかないと邪魔になるから」
「だからって、なんで俺なんだ」
「前髪だけなら自分でも切れるけど、後ろの髪は自分じゃ切れないもん。それに、ヤンマの口はハサミより切れ味がいいし」
「俺を道具扱いするなよ」
「手足は食べさせてあげられないけど、髪だったらまた生えてくるから食べて良いよ」
「髪なんて大して旨くねぇし、腹も膨れねぇんだぞ。そんなもん、喰ったところでどうしようもねぇ」
「後でヤンマの羽を綺麗にしてあげるから、それならいいでしょ?」
おねがぁい、と甘えた声で懇願され、ヤンマはぎちぎちと口を噛み合わせていたが、雨の止まない空に視線を投げた。
「雨が止むまで、どうせ暇だしな。だが、俺の羽に傷一つでも付けてみろ。髪どころか皮膚まで喰うからな」
「話が解るぅ」
「話が解るぅ」
だからヤンマって好きー、と茜は紐の付いたシートを体の前半分に被って、首の後ろで紐を縛ると、また椅子に座った。
「んで、どうすりゃいいんだ」
茜の背後に立ったヤンマは、漆黒の爪先で茜の長い髪を一束持ち上げた。
「あんまり短くしすぎないでね。私、ショートカットは似合わないんだもん」
「おう」
「それじゃよろしくね、専属カリスマ美容師さん」
「カリスマ?」
「とっても凄い人ってこと。あ、この場合は虫か」
「訳は解らねぇが、まあ、悪い意味じゃなさそうだな」
「おう」
「それじゃよろしくね、専属カリスマ美容師さん」
「カリスマ?」
「とっても凄い人ってこと。あ、この場合は虫か」
「訳は解らねぇが、まあ、悪い意味じゃなさそうだな」
ヤンマは茜の髪を一束掬い、囓った。ばちん、と刃の如く尖った大顎と小顎が衝突し、間に挟まれた細い毛髪が切断された。ヤンマはすかさずその髪を細長い舌で絡め取ると、喉を鳴らして嚥下した。砂埃と汗が混じった味が喉を滑り、胃に収まる。もう一束掬い取っては、囓る。その作業を繰り返していくと、背中の中程まで伸びていた茜の髪は肩より少し長い程度になった。だが、囓る位置がいずれもまちまちだったので、段々になっている。ひどいものでは、一センチ以上も差が出来てしまった。
「う…」
ばつが悪くなったヤンマが小さく唸ると、茜が振り向いた。
「なーに、どしたの?」
「なんか、うん、悪い…」
「なんか、うん、悪い…」
ヤンマが触覚を下げたので、茜は鏡の脇に置いてあった四角い鏡を取り、ヤンマに渡した。
「じゃ、これで後ろを映してみてよ。合わせ鏡にして見るから」
「あ、ああ」
「あ、ああ」
ヤンマは言われた通りに、茜の後頭部を鏡に映した。正面の鏡でそれを見た茜は、途端に吹き出した。
「ちょっと何これー、マジひどくなーい?」
「やれっつったのは茜だろうが!」
「にしたって、これはないよぉ。普通、こんなにずれるー? うーわー、階段みたーい」
「俺は言われた通りにしただけだ! だっ、大体、俺がこんな細かい作業を出来るわけがないだろうが!」
「やれっつったのは茜だろうが!」
「にしたって、これはないよぉ。普通、こんなにずれるー? うーわー、階段みたーい」
「俺は言われた通りにしただけだ! だっ、大体、俺がこんな細かい作業を出来るわけがないだろうが!」
ヤンマは苛立つあまり、長い腹部の先が持ち上がってしまった。茜は肩を震わせ、笑いを収める。
「ごめんごめん。でも、可笑しかったんだもん」
「俺はやるだけやったんだからな」
「解ってるって」
「俺はやるだけやったんだからな」
「解ってるって」
茜はヤンマを見上げ、髪の切れ端が貼り付いた口元に触れた。
「じゃ、短くなっちゃっても良いから揃えてね。時間なんていくら掛かってもいいんだから」
「揃えられる保証なんてねぇぞ」
「出来る限りでいいから」
「揃えられる保証なんてねぇぞ」
「出来る限りでいいから」
茜はまた前を向くと、鏡の前に積み重なっていた雑誌を一冊取り、ぱらぱらと捲った。ヤンマは、再度後ろ髪を囓り始めた。先程のように大雑把に噛み切ってしまっては、また笑われる。茜の笑顔を見るのは好きだが、笑われるのは面白くない。少しずつ持ち上げて、少しずつ囓っていく。口の中に落ちてくる髪をその都度嚥下しながら、複眼で茜の様子も窺っていた。ヤンマには全く意味の解らない言語と派手な写真の載った雑誌を捲りながら、茜はいつになく懐かしげな顔をしていた。だが、明るい表情ではなかった。ヤンマは茜の耳元の髪を一束囓り終えてから、身を乗り出して茜の横に顔を突き出した。
「どうした、茜」
「ん、別に」
「ん、別に」
茜はヤンマを見上げるが、その鳶色の瞳は潤んでいた。
「帰りたいのか? お前の世界に」
ヤンマが呟くと、茜は雑誌を閉じた。
「そんなこと、ない」
「だが、この街はお前が生きていける世界じゃねぇ。いずれは、元ある場所に帰らないと」
「帰れないもん」
「だが、この街はお前が生きていける世界じゃねぇ。いずれは、元ある場所に帰らないと」
「帰れないもん」
茜は今し方切られた髪を耳に掛け、雨に包まれた廃墟を見やった。
「それに、帰りたくないもん」
見慣れた少女の横顔は、見慣れぬ表情をしていた。ヤンマの知らない、ヤンマの生きられない世界を望んでいるのだろうか。ヤンマは茜を知らない。茜が何も話さないからだ。ヤンマは茜に話せることはない。茜がヤンマを知ろうとしてこないからだ。言葉を交わし、体を重ね、時間を経て、互いの人格を理解し合ってきた。だが、深入りはせず、ある一定の距離を保ってきた。それでいいと思っているし、それだけで充分だとも思う。どうせ、いつかどちらかが死ぬ。長くない関係だと解っているからだ。だから、ヤンマは茜を問い詰めないことにした。それよりも今は、茜の後ろ髪を揃えることに専念しなければならないのだから。
「ヤンマ」
茜は手を伸ばしてヤンマの頭を引き寄せると、艶やかな複眼に頬を寄せた。
「私の世界はヤンマがいる世界なの。だから、帰る場所なんてないし、帰りたいなんて思う場所もないの」
「すまん、茜。余計なことを言っちまって」
「いいよ、気にしないで。ヤンマは当たり前のことを言っただけだもん」
「すまん、茜。余計なことを言っちまって」
「いいよ、気にしないで。ヤンマは当たり前のことを言っただけだもん」
茜は椅子を回してヤンマに向き直り、髪の切れ端が付いた硬い顎に唇を当てた。ヤンマも舌を出し、彼女の口中を犯す。互いの体液を味わい、交換してから、二人は顔を離した。複眼に映る少女の表情は、ヤンマが見慣れた表情に戻っていた。ヤンマは茜の体温を感じながら、その前髪を持ち上げて囓った。今度は最初から切りすぎないように、充分注意していた。茜は目を閉じて、ヤンマに身を任せている。その信頼に応えるために、ヤンマは出来る限り神経を遣って髪を囓っていった。良く知った少女の味に、本能が疼く。だが、この場で彼女の肉を囓り取ってしまえば、血肉よりも甘い味が味わえなくなるのだ。だから、ヤンマは本能を押し込め、髪にだけ専念した。短めになってしまったが、手間を掛けたおかげで茜の後ろ髪は切り揃った。
合わせ鏡で再度後頭部を見せると、今度は茜は笑わなかった。それどころか、予想以上に喜んでヤンマに飛びついてきた。そこまで喜ばれるほどのものだろうか、とヤンマは疑問を感じたが、べたべたに甘えられながら褒められては悪い気はしない。ヤンマは全身で喜びを現している茜を四本の足で抱き締めてやりながら、ほんの少しだけだが、雨に対する嫌悪感が薄れた。
雨が降らなければ、この笑顔は見られなかったのだから。
合わせ鏡で再度後頭部を見せると、今度は茜は笑わなかった。それどころか、予想以上に喜んでヤンマに飛びついてきた。そこまで喜ばれるほどのものだろうか、とヤンマは疑問を感じたが、べたべたに甘えられながら褒められては悪い気はしない。ヤンマは全身で喜びを現している茜を四本の足で抱き締めてやりながら、ほんの少しだけだが、雨に対する嫌悪感が薄れた。
雨が降らなければ、この笑顔は見られなかったのだから。
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