nanasihennkagura @ ウィキ
陰陽寮
最終更新:
nanasihennkagura
-
view
概要
260年以上続いた徳川家による江戸幕府が終わり、1868年(慶応4年)1月、天皇を中心とした新しい政府「明治政府」が成立。
260年以上続いた徳川家による江戸幕府が終わり、1868年(慶応4年)1月、天皇を中心とした新しい政府「明治政府」が成立。
同年3月、明治政府の基本方針として「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)を発布、
同年9月には元号を「明治」と改め、明治時代が始まった。
同年9月には元号を「明治」と改め、明治時代が始まった。
明治政府は、「富国強兵」(ふこくきょうへい)をスローガンに、中央集権化、
そして西洋諸国に後れを取っていた近代化を目指して政治的改革を推し進めた。
そして西洋諸国に後れを取っていた近代化を目指して政治的改革を推し進めた。
1912年(明治45年)7月、「明治天皇」(めいじてんのう)が崩御し、明治時代、そして明治政府は終焉を迎えた。
■
「明治維新」(めいじいしん)と呼ばれる政治改革により、
1868年(慶応4年)1月江戸幕府に代わる新政府「明治政府」が発足し、同年3月「五箇条の御誓文」が発布.
「明治維新」(めいじいしん)と呼ばれる政治改革により、
1868年(慶応4年)1月江戸幕府に代わる新政府「明治政府」が発足し、同年3月「五箇条の御誓文」が発布.
初期の明治政府は、江戸幕府倒幕に貢献した薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)出身者で固められた。
同年9月には、天皇1代につき、ひとつの元号を用いる「一世一元の制」(いっせいいちげんのせい)を定め、年号を「明治」に改める。
同年9月には、天皇1代につき、ひとつの元号を用いる「一世一元の制」(いっせいいちげんのせい)を定め、年号を「明治」に改める。
その後、明治政府は、江戸幕府の因習から脱却するため、
「版籍奉還」(はんせきほうかん)を勅令。
これは、全国の藩が所有する土地と人民を朝廷に返還させるための改革でしたが、
旧藩主はそのまま知藩事(ちはんじ)として実権を握り続けたため、1869年(明治2年)に「廃藩置県」(はいはんちけん)を断行。
「版籍奉還」(はんせきほうかん)を勅令。
これは、全国の藩が所有する土地と人民を朝廷に返還させるための改革でしたが、
旧藩主はそのまま知藩事(ちはんじ)として実権を握り続けたため、1869年(明治2年)に「廃藩置県」(はいはんちけん)を断行。
欧米の先進諸国に倣った廃藩置県は、藩を廃止して府県に改めるもので、旧藩知事はすべて華族(かぞく)に列せられ、
新たに設けられた府知事や県知事は、明治政府が任命。
新たに設けられた府知事や県知事は、明治政府が任命。
また、蝦夷地を北海道と改称し、先住民族「アイヌ」の土地を明治政府に帰属させ、国策として北海道の開拓を急速に進めた。
1879年(明治12年)には、軍事的な圧力を用いて、「琉球王国」(りゅうきゅうおうこく)も滅亡に追い込み、沖縄県を設置。
明治政府を中心とした中央集権化を進めた。
明治政府を中心とした中央集権化を進めた。
初期の明治政府は、明治維新に貢献した薩摩藩や長州藩が占める「藩閥政府」(はんばつせいふ)でもあった。
藩閥政府に不満を抱きつつも、武力による反乱は明治政府には効果がないと悟った板垣退助らは、
言論により政府批判を続け、やがて「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へと発展していった。
藩閥政府に対して、選挙による議会の開設や立憲体制を要求した。
藩閥政府に不満を抱きつつも、武力による反乱は明治政府には効果がないと悟った板垣退助らは、
言論により政府批判を続け、やがて「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へと発展していった。
藩閥政府に対して、選挙による議会の開設や立憲体制を要求した。
明治政府は、たびたび官僚制を変更するが、自由民権運動の高まりを受け、天皇に直属する組織として新たに「内閣制度」が創設。
新たな内閣の下、憲法の制定や法治国家として必要な法の制定などを進めて近代化していった。
■陰陽寮
陰陽師は、天文や暦に関する書物や道具を研究していた。
その知識は、方位や時間の吉凶に関する占いやまじないだけでなく、
祈祷や暦づくりなど、さまざまな場面で活用されていた。
陰陽師は、天文や暦に関する書物や道具を研究していた。
その知識は、方位や時間の吉凶に関する占いやまじないだけでなく、
祈祷や暦づくりなど、さまざまな場面で活用されていた。
陰陽師は貴族社会にとってなくてはならない存在でもあった。
戦国時代にも日本各地で活躍する陰陽師の姿が見られるほどであった。
武士が政治の中枢に入ると同時に陰陽師の地位も向上していった。
戦国時代にも日本各地で活躍する陰陽師の姿が見られるほどであった。
武士が政治の中枢に入ると同時に陰陽師の地位も向上していった。
神事のみならず仏事にも介入するほどであり、
江戸時代には神社だけではなく仏教にも陰陽師の姿は頻繁に見られていた。
だが、近代化が彼らにも変革をもたらすことになる。
江戸時代には神社だけではなく仏教にも陰陽師の姿は頻繁に見られていた。
だが、近代化が彼らにも変革をもたらすことになる。
明治時代となり神仏分離 (しんぶつぶんり)が勅令される。
政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、
それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発したのである。
政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、
それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発したのである。
さらに軍事面の近代化も大きく進み、琉球と蝦夷を統一した日本は軍部の発言権が内閣で強まっていく。
この頃になると戦争の主軸は銃や戦闘機、戦艦になっており、
もはや戦争に暦や占いは使われておらず、厳密な戦略や統率のある軍隊が重要視されていた。
軍部は、非科学的な陰陽道が軍隊に介入されるのを嫌ったのである。
この頃になると戦争の主軸は銃や戦闘機、戦艦になっており、
もはや戦争に暦や占いは使われておらず、厳密な戦略や統率のある軍隊が重要視されていた。
軍部は、非科学的な陰陽道が軍隊に介入されるのを嫌ったのである。
帝都には電線が張り巡らされ、線路が通り、自動車が走るようになった。
科学が急速に人々の間で認知され、神秘はおとぎ話となっていった。
科学が急速に人々の間で認知され、神秘はおとぎ話となっていった。
医療制度も制定され、日本各地には病院も建築された。
これまでの陰陽道では「魔」や「気」によるものだとしていたが、
病魔はウイルスや細菌によるものであり、祈祷は効果がない。
ワクチンや薬で治療できる、と広く判明したのである。
これまでの陰陽道では「魔」や「気」によるものだとしていたが、
病魔はウイルスや細菌によるものであり、祈祷は効果がない。
ワクチンや薬で治療できる、と広く判明したのである。
陰陽師のような古いやり方に拘る、頼るものは次第に消え失せていた。
これらの理由により陰陽師の地位は完全に地に落ちたのである。
これらの理由により陰陽師の地位は完全に地に落ちたのである。
江戸時代の因習から脱却するため、という理由もあり、
明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として陰陽寮の廃止が決まる。
もはや必要とされなくなった陰陽師たちは政治の中核から離れた。(追い出された)
明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として陰陽寮の廃止が決まる。
もはや必要とされなくなった陰陽師たちは政治の中核から離れた。(追い出された)
こうして飛鳥時代に天武天皇により設置されてから実に13世紀に及ぶ歴史に幕を閉じたのである。
生計をなくした陰陽師たちは、比較的陰陽道の名残が強い神社の宮司へ転職した。
しかし、すでに神道国教化・近代社格制度によって組織化された神社は、
後から合流した陰陽師たちには風当たりが強かった。
しかし、すでに神道国教化・近代社格制度によって組織化された神社は、
後から合流した陰陽師たちには風当たりが強かった。
結果、ご祈祷やおみくじ占いなどで細々と生計を立てていくことになった。
一世風靡した陰陽師たちはこうして表舞台から姿を消していったのである。
一世風靡した陰陽師たちはこうして表舞台から姿を消していったのである。
■
架空の創作では。
架空の創作では。
明治天皇が陰陽寮を地下組織化。
明治時代以降も存続するが、必要とされなくなったのは事実で衰退。
土御門晴雄の死亡はフェイクで、実は生きていた…。
明治時代以降も存続するが、必要とされなくなったのは事実で衰退。
土御門晴雄の死亡はフェイクで、実は生きていた…。
など。