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ストレイ・スワロウ

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迷い子燕




かすかな気配で目が醒めてしまって、鉄はけだるげに寝台を降りた。喉がひどく乾いて、水が欲しかった。
なるべく音をたてないようにキッチンに向かう。足元に真新しい血の跡。綺麗に磨いたつもりだったけど、残ってしまった。

ルイは怪我を手当されたら、その脚でふらつきながら出て行った。よくわからないけれど、何か目的があるらしい。明確な意思を持った瞳に、鉄は何度も負けそうになった。
(どうしてそんなに、どうして自分は。)
鉄の精神状態は限界に近かったが、一家の長は自分なのだからと言い聞かせ、なんとか自分を持たせていた。ところがその虚勢も今は張る必要がない。みんなはまだ、まどろみのなか。
生臭い床の上にしゃがみ込む。膝に頭を埋めて、声を殺した。たくさんのことが一度にありすぎた。いつか、この温い幸せの世界が崩れていくのはわかっていた。紅のこと。冥のこと。風のこと。鉄はみんな、知っていた。みんなが何を思って、何をして。
今しがた起きたのだって、冥がそっと出て行った、その気配に気付いてしまったから。
変わっていく。移ろっていく。緩やかに確かに、全てが変わってしまう。名前も知らない誰かに戻って行く。砂の城が波に崩されたら、もうどの砂粒も同じ。風が吹いて、サヨウナラ。
「…冥、ごめん。ごめんな…」
涙が止まらない。いやそもそも、止めたいのだろうか。
吐き出したい。もう嫌だ辛い、これ以上みんなを傷つけるのはやめて。
紅、冥、風…ソラもルイも、どうして誰も彼も傷ついてそれでも何かを必死に守ろうとして。弱いのに、弱いのにどうして。

かた、と音がした。はっとして顔を上げると、窓の外に立つシルエット。恐る恐る、窓を開けた。
「ソラ…」
「無防備。俺だとわかってて、開けたのか」
ソラがするりと、窓から入ってくる。鉄は俯いた。
「……ソラに俺は殺せない」
「怯えるな。別にお前を殺しにきたわけじゃない。顔を見にきた」
椅子に腰掛けると、鉄を見て笑う。瞳は優しい金色をしていた。ソラは指先で煙草を摘んだ。紫煙が充満する。甘い匂い。鉄を惑わせるように、包み込むように。
「泣いていたのか」
「バカにしてるんだろ、俺のこと。泣いても何にも、変わらないのに、って」
また、涙がぼろぼろこぼれだした。拭っても拭っても、止まらない。長い睫毛を伝う涙を、ソラの細い指が撫でた。指先はアークの匂いがする。
「泣けばいい。何も変わらなくても、楽にはなる」
「っそら、…」
必死で押さえ込んできたのに。今まで堪えてきたのに、どうして今更。ソラは鉄の頭を抱き寄せた。しがみつく腕を優しく撫でて、癖の黒髪にキスをする。ひとしきり泣いたあとも、鉄はソラの手を放さなかった。ソラは優しく言葉をかけた。
「俺はお前と死にたい。それが俺の"夢"だから、俺はそれを叶える努力をしよう。
 …鉄、お前の夢は?」
「俺は…みんなといっしょに居たいよ…でももう、冥は帰ってこない。帰ってきても冥じゃ、ない。俺ももう、鉄じゃいられない、んだと思う。」
鉄の水色の瞳が、また涙に濡れ始める。
「きっと紅も紅じゃなくなって、風も風じゃなくなって…俺の知らない他人になってくんだ」
「そうじゃない。お前はどうしたいんだ。他の誰かじゃない、お前は」
「俺は…」
そういえば、考えたこともなかった。

『あいつはきっと、俺たちのこと…信じきってない。それって寂しいよ…』
『…ほう、それと』
『だって綺麗なほうが、見てる人がしあわせなきもちになるからな』
『ああ君はまるで――金箔でできたあの、おうじさまのようなことを言うね』
薄い唇で笑った神様は、そっと鉄に手を伸ばす。

「それをお前のエゴだと言ってしまうのは簡単なことだ」
「何だっていい。俺はみんなが大好きで、この家が大好きで、ソラ…お前が好きだ」
「俺もお前が好きだ」
鉄は苦しそうに、それでも嬉しそうに笑った。
ソラの指をもう一度強く握る。そこに在るのを確かめるように、強く強く。
「それ…ほんとだな? 嘘なんかじゃ、ないよな?」
「ああ、きっと」
身体を腕に寄せて、目を閉じる。もう泣かない。これ以上、誰も傷つけさせるものか。
最後の意地を張るんだ。あの港町で、あの鋼山に添い遂げたとき以来の意地。
「…決まりかい?」
「…居たんだな、神様」
部屋の隅の暗がりから声がする。指先の血を美味しそうに舐める神様。きっとそれは、鉄が知るには辛すぎる現実の話。それでも鉄は怯まずに、ソラの肩越しに、ダークライを真っ直ぐ見つめた。
「俺がお願いしても…いいの?」
「願うものに私は拒まない。それが例え私を殺したいというような、物騒で安直な願いでもね」
ダークライは笑う。彼は何も拒まない。彼はそして、何も生み出さない。
「ごめん…そんなに単純じゃないかも…」
「かまわないよ、言ってみなさい」
「…俺は…みんなを守れるようになりたい。強くなくていいからこれ以上…俺の大好きな人を壊さないように…」
ソラをきつく抱きしめる。まだここに居て。まだ、俺の傍に。
「君はほんとうに、優しいな」
ダークライの手が、伸ばされる。
彼は拒まない。彼は与え、そして奪う。
「俺はどうなってもいい。それこそ、全身ズル剥けにされたって…安いもんだ」
「ああ…ほんとうに君は、」
、触れた。


「てつ、おはよう」
「、ああ…紅、おはよう」
紅はにこやかに挨拶をする。やがてのそのそ、風も起きだす。
「(おはよう、鉄)」
「…風、かな、おはよう」
鉄の瞳は黒々と、二人の姿を反射する。
「すぐに朝ごはん、つくるからな」
綺麗な笑顔の鉄、『いつもと変わらない』紅と風。
これでよかったんだ。弱いなら、誰かが守らなくては。
まだ窓の外に居たソラは一度だけ家の中を振り返ったけれど、ずる、と冬に姿を変えて歩き去った。





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