羊水に眠る
「…ふ、ふふ。」
今ので大体20回目だろうか。
くすぐったくて微笑ましくて、思わず笑ってしまった。別に深い意味はない。単純に面白かったから笑った。
しかしそれは図らずも彼を凍りつかせてしまったようだ。
哀れ、男は私の胸にナイフを残したまま泣き喚いて逃げてしまった。
「…おや、行ってしまいました。」
悪いことしてしまいましたかね。気が済むまで遊んでいってよかったのに。
21回目の仕事ができなかったナイフは、コルクに刺された画鋲のようにぽつんとしていた。
さて、と。心臓にナイフを突き刺した私はひょいと起き上がる。二、三度ぴょんぴょんと飛んで埃を払った。わざわざ飛ぶのは両腕がないからだ。
まだ埃はついていたが気付かず私は歩き出す。視認する視力がないからだ。
ついでにナイフが刺さったままなのもうっかり忘れてしまっていた。
感じる痛覚が、尽きる命がないからだ。
「さ、次はどこに行きましょうか。」
呟いた声だけははっきりと聞こえた。それが私に感じ取れる全てだった。
私は此処がどこなのかよく知らない。そしてさほど興味もない。時折聞こえる風の音があの場所ではないと証明してくれる。それで十分だった。
だから私は彷徨い歩いた。安全な闇をあてもなく彷徨い歩いた。
そして時折出会う誰かとの時間を心底楽しんだ。
彼らは殺そうとしにくるからだ。そして証明してくれるからだ。
私は "死なない" と。
「ふふ…うふふ。」
またあのくすぐったい気持ちが蘇った。さっきの男はどれだけ勢いよく私を刺したのだろう。どれだけの血を撒き散らしたのだろう。どれだけ肉を骨を神経をずたずたにしたのだろう。
それだけされても私は死なない。永遠に死なない。永遠に!
自覚する度に身体が軽くなる心地がした。解放。安楽。求めてやまない、とびきりの幸福は此処にあるのだ。
くすぐったくて微笑ましくて、思わず笑ってしまった。別に深い意味はない。単純に面白かったから笑った。
しかしそれは図らずも彼を凍りつかせてしまったようだ。
哀れ、男は私の胸にナイフを残したまま泣き喚いて逃げてしまった。
「…おや、行ってしまいました。」
悪いことしてしまいましたかね。気が済むまで遊んでいってよかったのに。
21回目の仕事ができなかったナイフは、コルクに刺された画鋲のようにぽつんとしていた。
さて、と。心臓にナイフを突き刺した私はひょいと起き上がる。二、三度ぴょんぴょんと飛んで埃を払った。わざわざ飛ぶのは両腕がないからだ。
まだ埃はついていたが気付かず私は歩き出す。視認する視力がないからだ。
ついでにナイフが刺さったままなのもうっかり忘れてしまっていた。
感じる痛覚が、尽きる命がないからだ。
「さ、次はどこに行きましょうか。」
呟いた声だけははっきりと聞こえた。それが私に感じ取れる全てだった。
私は此処がどこなのかよく知らない。そしてさほど興味もない。時折聞こえる風の音があの場所ではないと証明してくれる。それで十分だった。
だから私は彷徨い歩いた。安全な闇をあてもなく彷徨い歩いた。
そして時折出会う誰かとの時間を心底楽しんだ。
彼らは殺そうとしにくるからだ。そして証明してくれるからだ。
私は "死なない" と。
「ふふ…うふふ。」
またあのくすぐったい気持ちが蘇った。さっきの男はどれだけ勢いよく私を刺したのだろう。どれだけの血を撒き散らしたのだろう。どれだけ肉を骨を神経をずたずたにしたのだろう。
それだけされても私は死なない。永遠に死なない。永遠に!
自覚する度に身体が軽くなる心地がした。解放。安楽。求めてやまない、とびきりの幸福は此処にあるのだ。
がっしゃんという音がした。おや、と私は立ち止まる。何の音だろう。
すると今度は人の声がした。
「あッ…ああああアンタ何やってんだオイ大丈夫かッ!?」
本日二人目の人の声に私は微笑んだ。今日は千客万来、嬉しいことだ。
「おや今日は、どうも初めまして。」
「なこと言ってる場合かあああああッッ!!!痛いだろそれどう見ても!なんで刺しっぱ!?とりあえず抜こう!?」
ばたばた駆け寄る足音が聞こえた。彼(声質からして多分)はどうもナイフを引き抜いてくれたらしい。予想通り派手な水音がした。
「きいいいいやああああああッッ!!!血ッ、血ぃイヤ血ぃ怖い血ぃ怖いッ!!」
「あ、大丈夫ですよそのうち止まりますから。」
「止まる頃には死んじゃうでしょうが!!もーヤダこの人、とにかくこっちきなさい!手当てしてあげるから!」
ぎゃーすか喚きながら彼は私を引っ張った。腕もないのにどこ引っ張ってるんだろうと思ったら、どうも服を引いているらしい。
別に手当てなどいらなかったがついて行ってみた。こんなにたくさん声を聴いたのは、初めてだ。
すると今度は人の声がした。
「あッ…ああああアンタ何やってんだオイ大丈夫かッ!?」
本日二人目の人の声に私は微笑んだ。今日は千客万来、嬉しいことだ。
「おや今日は、どうも初めまして。」
「なこと言ってる場合かあああああッッ!!!痛いだろそれどう見ても!なんで刺しっぱ!?とりあえず抜こう!?」
ばたばた駆け寄る足音が聞こえた。彼(声質からして多分)はどうもナイフを引き抜いてくれたらしい。予想通り派手な水音がした。
「きいいいいやああああああッッ!!!血ッ、血ぃイヤ血ぃ怖い血ぃ怖いッ!!」
「あ、大丈夫ですよそのうち止まりますから。」
「止まる頃には死んじゃうでしょうが!!もーヤダこの人、とにかくこっちきなさい!手当てしてあげるから!」
ぎゃーすか喚きながら彼は私を引っ張った。腕もないのにどこ引っ張ってるんだろうと思ったら、どうも服を引いているらしい。
別に手当てなどいらなかったがついて行ってみた。こんなにたくさん声を聴いたのは、初めてだ。
*
頭のすぐ後ろでどさっという音がした。寝台にでも寝かされたかな。
先刻の男はそこら辺をばたばたしてるような足音をたてていた。
「傷薬とかあったかな…つーかそんなんで効くかな…。」
「あ、結構ですよお気遣いなく。」
「アンタは黙っててッ!!」
怒られてしまった。しょうがないから首を竦めて任せておく。
一通りばたばたという音が止むと、急いた足音がこちらに来た。しゅるっと摩擦の音がする。胸に巻いた包帯をほどき始めたのだろう。
それがぴたりと止まるのは予測済みだった。私は頃合いを見計らって声をかける。
「ね。お気遣いなくと言ったでしょう?」
きっと彼は今、ほぼ完治した胸の傷に呆然としているだろうから。
「なん…だ、これ。」
「何って死なない身体、ですよ。」
ああ、改めて問われたのは初めてだ。叫んで逃げない人も初めてだ。だから少し浮かれてしまったのかもしれない。私は随分としゃべりすぎてしまった。
「私はね、死なないんです。どんなに滅多刺しにされても電気に貫かれても業火で焙られても死なない。痛みもない。その代わり味覚も視覚も触覚も嗅覚も、叶えてくれた神様に捧げました。」
でもね、いいじゃありませんか。
ああこれはいけない。しゃべりすぎだ。けれど止まらなかった。誰かに伝えるのは初めてだ。
ねぇわかります?幸せなんです、とても幸せなんです。
見えるものすべてが黒くても、聴こえるもの全てが罵倒でも、それでもいいと、思える程に、ずっと。
先刻の男はそこら辺をばたばたしてるような足音をたてていた。
「傷薬とかあったかな…つーかそんなんで効くかな…。」
「あ、結構ですよお気遣いなく。」
「アンタは黙っててッ!!」
怒られてしまった。しょうがないから首を竦めて任せておく。
一通りばたばたという音が止むと、急いた足音がこちらに来た。しゅるっと摩擦の音がする。胸に巻いた包帯をほどき始めたのだろう。
それがぴたりと止まるのは予測済みだった。私は頃合いを見計らって声をかける。
「ね。お気遣いなくと言ったでしょう?」
きっと彼は今、ほぼ完治した胸の傷に呆然としているだろうから。
「なん…だ、これ。」
「何って死なない身体、ですよ。」
ああ、改めて問われたのは初めてだ。叫んで逃げない人も初めてだ。だから少し浮かれてしまったのかもしれない。私は随分としゃべりすぎてしまった。
「私はね、死なないんです。どんなに滅多刺しにされても電気に貫かれても業火で焙られても死なない。痛みもない。その代わり味覚も視覚も触覚も嗅覚も、叶えてくれた神様に捧げました。」
でもね、いいじゃありませんか。
ああこれはいけない。しゃべりすぎだ。けれど止まらなかった。誰かに伝えるのは初めてだ。
ねぇわかります?幸せなんです、とても幸せなんです。
見えるものすべてが黒くても、聴こえるもの全てが罵倒でも、それでもいいと、思える程に、ずっと。
「私は…この身体の中に居る"私"は、もう誰にも奪われることがないんです。」
彼はとても静かな聴衆だった。息の音は乱れることなくしんとしている。
やがて左目にごく近いところで、皮膚を撫でるようなかすかな音が聞こえた。
「…耳は、聞こえるのか?」
ようやく彼が口にしたのはそれだった。
「えぇ、聞こえますけど。目の代わりですから。」
「メシは食える?」
「味はわかりませんが食べられますよ。」
「そっか。じゃあ十分だ。」
くしゃ。その音は頭の上から聴こえた。
「名前、教えてくんない?そんで今日から俺んちで住まね?」
…ぱちくり、と見えもしない目をまばたいた。あんまり唐突な申し出を頭の中で反芻する。
そしてほんの数分にも満たない、彼と過ごした時間を反芻すると
実にあっさりと答えは出た。
「…冥<クロ>、と申します。」
新しい名前、新しい世界。
柄にもなく居心地のいい場所で過ごすのもいいかもしれない。
やがて左目にごく近いところで、皮膚を撫でるようなかすかな音が聞こえた。
「…耳は、聞こえるのか?」
ようやく彼が口にしたのはそれだった。
「えぇ、聞こえますけど。目の代わりですから。」
「メシは食える?」
「味はわかりませんが食べられますよ。」
「そっか。じゃあ十分だ。」
くしゃ。その音は頭の上から聴こえた。
「名前、教えてくんない?そんで今日から俺んちで住まね?」
…ぱちくり、と見えもしない目をまばたいた。あんまり唐突な申し出を頭の中で反芻する。
そしてほんの数分にも満たない、彼と過ごした時間を反芻すると
実にあっさりと答えは出た。
「…冥<クロ>、と申します。」
新しい名前、新しい世界。
柄にもなく居心地のいい場所で過ごすのもいいかもしれない。
彼の指先が濡れていたことなど、知れる訳もなかった。