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堕ちた獣の爪の跡

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堕ちた獣の爪の跡


どこか暗い場所で目を開ける。目にした光景に、一瞬鏡かと思った。
けれどすぐにかぶりを振る。
僕はこんな風ににやにやと笑わないし、僕の髪は橙だったはずだ。
「誰アンタ。」
『ダレかって?』
仮称は偽物で十分だろう。偽物は人間離れした高い声で答えた。
『キミの欲しいモノダヨ。』
「馬鹿じゃないの。」
誰が欲しがるか、こんな気持ち悪いモノ。
つきあっていられないと踵を返しかけた時だった。
『ホントウダヨ。―――だって君は望んだだろう?』
急に声が、しわがれた老獪な声が呼びかけた。
同時に偽物はごぼごぼと音を立て、両の腕は水飴のようにだらりと溶け、ある形を成していく。
ごつごつと尖ったライン、鋭い先端、水かきのように張られた艶やかな皮膜。
それは、
『キみはこレをノゾんダだロウ…?』
動けない僕に、それは抱くように覆いかぶさって…。


「焔…ッ!」
悲鳴に近い声で焔ははっと目を覚ました。
ばっと起き上がると、肩から瓦礫の粉末が落ちていった。背後を見やるとべっこりへこんだコンクリートの壁。頭から滴る液体は、確認する気も失せた。代わりに眼前の異様な光景を、視認する。

真っ黒い影の群れが焔を取り囲んでいた。

頭も四肢もあり一応人型を取ってはいるが、その長さはおぞましいほどに長い。ちょうど夕暮れ時の影がそのまま立ちあがったような。そして影は次々と地面から這い出てきて、その数を増やしていた。
「焔、血が、出てる…ッ大丈夫…!?」
「…大丈夫。僕から離れていて、シズハ。」
不安げにうなずいた静葉が、再び身を隠すべく駈けていった。その背中に、影の腕が音もなく伸びる。
が、つッ。
焔の爪が、影の腕を地面に打ち付けた。
「彼女に、触れるな。」
それが契機となった。
棒立ちしていた影達が、焔達めがけて一斉に腕を伸ばした。
「―――――ッッ!!!」
「しゃがんで、静葉ッ!」
ドーム状に伸びた影を頭上でやり過ごす。そのスキに囲いの一点を爪で切り裂き、崩れた箇所から二人は脱出した。
脱出はしたが影は際限なく伸びて二人を追いかける。切り裂けば死に絶えるようだが、キリがない。それは黒い大きな触手生物のようだった。執拗に腕を伸ばし、獲物を絡めとらんとする。
「ッひ…!」
影に気をとられているうちに、静葉から小さな悲鳴が上がった。
見ればその足をいくつもの影が、人の手の形で掴んでいる。
「シズハッ!!」
すぐにその影を断とうとしたが、それは叶わなかった。焔の腕も影にからめとられてしまったからだ。
しまったと思うももう遅い。腕が捕まれば左腕、両足、両の羽根。見る間に全ての動きを封じられてしまった。
「ッこの…離せッ!離せこの野郎ッ!」
もがけばもがくほどからみつく。そしてどこかへ引き込まれていく。目の前にいる静葉も同じように引き込まれていた。彼女の足元は真っ黒に染められており、じわじわと、足が沈み込んでいく。
ぞっとした。静葉が、守るべき人が、いなくなってしまう。それは自分が死ぬより、恐ろしいこと。
焔が恐怖に怯えたその瞬間、絡みついた影達が、一斉にざわめき始めた。
『*カヨル*、**ョニ*レルナ。』
『ユ***イ、*トメ**、ア*ツダ**。』
『*イテ*カナ**、***。』
ノイズにまみれた声は文字変換などできようもない。よく聞くと大量の声が発せられてるはずなのに、唱えられているのは3パターン程の言葉だった。異様なリピートと復唱が、耳へどぼどぼと注がれていく。込められた想いが、文字を介さず注がれる。
爛れ、崩れ、糸をひいて粘つく腐乱した"憎悪"。
感情の籠らない恨みの言葉が、焔へ、浴びせられる。
『**ヲ、ヨコセ。』
影達は焔の羽根に絡みつき、無理やり引き抜こうとする。酷い酷い痛みで全身が痙攣した。
悲鳴は唇と共に噛みちぎる。そうしている間にも愛する人が沈んでしまうから。
彼女が沈む。奪われる。いなくなる。消えていく。失う。
それは恐ろしいことだった。

死ぬよりも。

そう、死ぬよりも。

爆音と共に閃光が爆ぜた。
静葉の周りの影が散りぢりに消える。呑み込まれていた暗闇からも抜け出せたようだ。
次いでヒカトの周りの影が灰となる。ようやく解放されたヒカトの口端からは、赤黒い血が滴っていた。
『フレアドライブ』、そして『ブラストバーン』。
「…あげないよ。」
ばさりと一つ鳴いた羽根は焔と共に崩れた。静葉が血相を変えて駆け寄る。
「焔っ…!大丈、夫…!?」
焔は静葉を見て、その身体に傷ひとつないのを見て、にこりと笑った。
「大丈夫だよ、シズハ。」
ちゃんと、君を守れたよ。




「…次の仕事ももうじきかな。」
やれやれ、本当に彼への"仕事"は忙しい。
去っていく二人の背中を、ダークライは見送っていた。焼けきれていなかった影をやさしく撫でながら。
『チカヨルナ、カノジョニフレルナ。』
『ユルサナイ、ミトメナイ、アイツダケハ。』
『ハネヲ、ヨコセ。』
ノイズを取り除けばなんのことはない、それはある男の血を吐くような想念。
さぞかし無念だったのだろうね。死んでしまったその瞬間。
彼にわかってほしいかい?
無理だろうね。
死ぬまで。
「……いいや。死んでも、か。」
誰か指折り数えてみるかい?この影が、何匹いるか。

『オイテイカナイデ、ミズハ。』


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