「ン~、どうだ、似合うだろォ?」
床屋の鏡に写る自分の顔を二度三度左右へ振って、ジェイクはにんまりと笑った。
ピンクと黄色、二色の頭髪は数時間前と比べればずっと暑苦しくない短髪だ。
邪魔だった髪の毛を、随伴の
牧瀬紅莉栖に命令してばっさりとカットさせたのだ。
ちなみに現在の姿は、ヒーロースーツを傍らに脱ぎ捨てたインナースーツ姿だ。
髪の毛はサッパリ、服の代わりには面白い玩具。
これで兼ねてからの懸念はなくなった。
次からは何の憂いもなく動き回れる。
“……イヤァそれにしても、面白ぇなぁ~この女ァ”
散髪台の傍らで目を伏せる紅莉栖を見て、ジェイクはニヤリとほくそ笑んだ。
「少しでも手を抜いたら殺す」と念を押して、ド素人の紅莉栖に散髪を強要するのは実に気分が良かった。
この女、口では無愛想ながらもやはり当たり前の「生存本能」は持っているのだ。
だからこそ、散髪の技術など持ち合わせていない癖に、ちゃっかり気を張って散髪をしてくれたのだ。
もっとも、大部分はバリカンで剃り落としたのだし、それ程高度な技術は必要なかったのだが。
「……別に、あの見苦しい髪の毛をいつまでも視界に入れていたくなかっただけよ」
当の牧瀬紅莉栖は、苛立たしげにそう言った。
心を読んでみたが、どうやらそれもあながち嘘ではないらしい。
糞人間の分際で偉そうに、などとは思うまい。
この女は決してジェイクに心を許さないが、
しかし、行動はその真逆、ジェイクの言いなりだ。
それがジェイクにとっては面白いのである。
「オ~イ紅莉栖ちゃぁ~ん?」
「……何よ」
「何よぉ~ン、じゃあねェよォ~っ! カットが終わったら毛をはたいてマッサージが基本だろォ!? ここの美容師はンな常識もねェのかァ?」
「……っ」
言われるがままに、紅莉栖はジェイクの肩に乗った毛をはたいてマッサージを始めた。
これが、絶対的な力による支配。弱肉強食を体現する圧倒的な権威。決して崩れない優位性。
正面の鏡に写る紅莉栖の屈辱に歪んだ顔が、ジェイクにとってはこの上ないほどの愉悦だった。
「なァ紅莉栖ちゃんよォ、わかってると思うがァ一応言っとくぜ」
「この後誰と出会っても、間違っても俺様の本名なんて喋らねェことだ」
「いいか、俺様の名は暫くの間は
バーナビー・ブルックスJr.……」
「テメェは余計なコトは何一つとしてくっちゃべらなくていい」
「まっ! お利口ちゃんのお前にゃあ、ちと簡単過ぎる命令だったかなァ~?」
絶対に抗えぬ命令に、紅莉栖は何も言わず目を伏せた。
「ハッハッ! 分かってるならいいんだよッ!」
それを肯定ととったジェイクは、さっと立ち上がり着替えを開始する。
自力で着るには少しばかり面倒なヒーロースーツを身に纏いながら、ジェイクは時計を見た。
“さァて、もうすぐ六時か……もう何人くらい殺されてるのかねェ?”
髪の毛を染めるのに予想以上に時間が掛かってしまって、現在時刻は五時半過ぎ。
ゲームの開始から六時間が経過するが、果たして他の連中は上手く殺し合えているのか。
自分の首輪が白から紫に変わっているあたり、どうやら白のリーダーはもうやられたらしい。
といっても、最終的に勝利するのは自分である為、そんなことはどうでもいいのだが。
だが、他の連中がそれだけ頑張っているのなら、そろそろ自分も本気を出すべきではないか?
そうだ、それがいい。服の懸念もなくなったし、そろそろジェイク始動の時だ。
その為にも、次に考えるべきは目下の行動方針と目的地だ。
現在位置は地図上のB-4左下寄りあたりになるのだろう。
ここから一番近い施設は確か……言峰教会とかいうところだ。
そこまで考えたところで、ジェイクはピンと閃いた。
“ハハァ、カミサマを信じてる糞人間を教会でブッ殺してやるってのも中々オツなモンだよなァ~?”
そんな人間がこの場所に居るのかどうかはわからないが、しかし"面白い"と思う。
神が選んだのはこの
ジェイク・マルチネスであるのだと証明するには丁度いい機会だ。
漆黒のヒーロースーツの装着を完了したジェイクは、考え得る最高の皮肉に胸を躍らせる。
切嗣の進行ルートは、病院を出た時から既に決まっていた。
直線ルートで見滝原を突っ切れば、言峰教会はもう目と鼻の先だ。
ましてや切嗣と
バーサーカーの移動はライドベンダーで行われているのだ。
この会場に於いては、渋滞はおろか信号すらも存在しない。
その気になれば、会場の一周とてそれほど難しい話ではあるまい。
事実として、切嗣は三十分と掛けずに言峰教会に到着していた。
「停まれ、バーサーカー」
教会を前にして、切嗣の命令に従いバーサーカーはバイクを停車させる。
元々騎乗には優れていた英霊だ。その操縦技術は"流石"の一言に尽きる。
バイクから降りた切嗣は、念の為コンテンダーを取り出し、それを構えて進む。
腹にはロストドライバー。その他のポケットにはスタンガン、腰には軍用警棒。
そして体内には致死量すらも治療し得る宝具、全て遠き理想郷(アヴァロン)。
おまけにバーサーカーの令呪も二画も残っているのだから、対策は万全だ。
仮に何らかの危機にあっても、狂戦士を残り二回まで支配下におけるのは心強い。
用意周到な切嗣は"内心で現状の装備の確認を終えて"、ドアの前に立つ。
中に敵が居る可能性まで想定して、ドアを蹴破ったらすぐに銃を構えるつもりだ。
“よし……いくぞ”
切嗣は決然とドアを蹴破り、同時にコンテンダーを構えた。
銃口の先に居るのは――漆黒の鎧が一人と、赤髪の少女が一人。
「ハァイ! 美容室には月に二度行く方、バーナビーでェす!」
漆黒の鎧が、まるで切嗣を待ち構えたいたとでも言わんばかりにそう名乗った。
その鎧の腕の中で、赤髪の少女は脅えた瞳で首筋にナイフを突き付けられている。
“……人質か”
状況はすぐに理解出来た。
察するに、あのバーナビーが悪人で、赤髪の少女は人質なのだろう。
"切嗣の中で、即座にバーナビーからあの少女を救いだす為の戦略が幾つも立てられる"。
固有時制御で奴の反応よりも速く少女を救い出すか。はたまた天の鎖で動きを封じるか。
少女さえ救い出せれば、あとはスカルに変身するでも何でもやりようはある。
奴が少しでも害意を持てば、バーサーカーによる助力も受けられる。
「おっとォ、勘違いするなよ~? 俺ァあんたらと争う気はねェんだわコレが!」
「害意なんざこれっぽっちも持ってねェんだからよぉ~、いきなり襲い掛かって来られちゃ困るぜェ~?」
「そう! コイツぁ交渉だ! ちょいとこの俺様と話をしようじゃねェか、なぁ旦那ァ?」
そう言って、バーナビーが少女の首をナイフの切先で突っつく。
少女の嗚咽が小さく漏れて、首筋に幾つもの小さな赤い点が穿たれる。
ちらとバーサーカーを見るが、バーサーカーは動かない。
あの少女への攻撃は、害意ではない。言いかえれば、害意ですらないということだ。
奴はまるで、これから食べるリンゴの皮をナイフで剥くのと同じ感覚で少女を傷付けているのだ。
モノに一々害意を持って行動するような人間がいるものか。バーサーカーが動かないのも無理はない。
心の底から人道を外れたクズの思考に腹が立つが、切嗣は怒りを堪えて平静を装う。
バーサーカーは諸刃の剣だ。此方が害意を持ってしまっては、容赦なく襲い掛かってくる。
くれぐれもバーナビーに対して害意を懐かないように気を付けなければならない。
切嗣は静かに言った。
「まずはその少女を離せ、でなければ此方にも考えがあるぞ」
「そいつァどんな考えなんだろうなァ? 言っとくが、仮にテメェが加速能力なんか持ってたとしても、
俺にゃあ無意味だぜ。ついでに拘束能力も効かねェ、無駄なコトはやめときな」
「……どうかな。試してみる価値はあるんじゃないか」
「試すのは勝手だがよォ~……失敗すりゃあコイツは殺すぜ?
そうなったら交渉は決裂だ! そん時ゃあテメェも一緒にブッ殺す!」
バーナビーの下卑た笑いが、その漆黒の仮面の下から漏れる。
切嗣にはわかる。この男は真正のクズだ。他者の命を何とも思っていない。
加速能力と拘束能力が無意味である保証など何処にもないが、しかしもしも失敗すれば少女は死ぬ。
今度こそ正義の味方を貫くと誓った切嗣に、"また"人質を見捨てることなど出来るワケがなかった。
状況は確実に此方が有利だ。焦ることはない。
奴を刺激しないように、冷静に話を進めて、少女を救うのだ。
「……わかった、君の話を聞こう」
「ハッ、ヒャッハハハァッ! なんだ~素直に聞いちまうのかよォ? 面白くねェなァ!
どうせなら今テメェが考えてたであろう戦略でも試してくれた方が盛り上がったのによォ!」
「いいから無駄口はよせ。僕も今すぐに君と事を構える気はない、交渉をしよう」
「あーハイハイ、殊勝な心がけなこって……さっすが正義の味方サマだよなァ~」
「……………………」
バーナビーの下らない挑発に乗る気はない。
それより、どうやってこの男を倒し、少女を救い出すかを再度考える。
少しでも敵意を持ってくれればバーサーカーが相手をするのだが、
しかしその前に人質の少女が殺されてしまっては意味がない。
奴に敵意を持たせるのは、あの少女を救い出してからだ。
“大丈夫だ、必ず救い出して見せるよ……だから安心してくれ”
屈辱に眉根を寄せる少女と目が合った切嗣は、そう念じて小さく首肯した。
切嗣の意思を理解したかは分からないが、少女は今も物言わず此方を見詰めるのみ。
おそらくは、無駄な発言をしたら殺す、とでも言われているのだろう。
「とりあえずだ! テメェの持ってる銃とそのデイバッグをこっちへ投げな」
「……わかった」
言われるがままに、沢山の荷物が入ったデイバッグとコンテンダーを放り投げる切嗣。
まだ大した問題ではない。こちらの手の中にはまだスカルの力とアヴァロンがある。
最後の切り札としては、切嗣の後方にバーサーカーまでもが控えているのだ。
手数がまだ残されている以上、うろたえることはない。やりようはいくらでもある。
「そんじゃあ交渉と行こうか? ン~、そうだなァ、正義の味方さんにゃあ何をして頂いてもらっちゃお~かな~ァ? ボクちゃん迷っちゃうな~~~ァ?」
「……ちょっと待て、君から交渉を持ちかけておきながら、内容を考えていなかったのか?」
「お生憎サマ、俺様は常に臨機応変にゲームを楽しむスタンスなんでねェ」
奴の言葉にヒャハハと下品な笑いが続いて、切嗣の眉根が寄せられる。
この男は、人の命が関わったこの戦いを「ゲーム」とのたまったのだ。
最早開き直りは出来まい。この男は正真正銘の"外道"だ。
こういう男を殺すことに、切嗣は躊躇いを感じない。
“……その必ずチャンスは来る筈だ”
少女さえ救い出せば、あとは必ず戦闘になるだろう。
そこをバーサーカーとスカルで一気に畳み掛ければ……。
問題は、どうやって少女を救いだすか。
奴がどんな条件を出すか、だが。
「よっし、決めたぜ旦那ァ」
「……言ってみろ」
「そんじゃとりあえずはァ~……『正義の味方サマの飼い犬に成り下がっちまってる憐れな黒騎士を解放しろ』かなァやっぱ!」
「なっ……にィッ!?」
「聞こえなかったのかァ!? その黒騎士を解放しろっつってんだよォ~このグズ!」
「し、しかし――」
「簡単な話だろォ? ホラ、その二つも余ってる令呪で命令すりゃあいいんだよ、
『今すぐこの教会を出て、他の参加者を無差別に殺してまわれ』ってよォ!」
「…………ッ!!」
何故奴が令呪の存在を知っている、というのが第一の疑問だった。
奴は一体何者だ? 聖杯戦争を、サーヴァントを一体何処まで知っている?
幾つもの疑問が切嗣の中を駆け巡って、思わず言葉を失い立ち尽くしてしまう。
「オイ、二度目はねェぜ? 早くしろっつってんだろ!」「キャッ!?」
「――ッ!!」
少女の左肩から鎖骨に掛けてを、奴のナイフが躊躇いもなく切り付けた。
悲鳴が響いて、切り裂かれた箇所の衣類が彼女の血で赤く染まってゆく。
左腕を支える肩の筋肉が切り裂かれたことで、少女の左腕がだらんと垂れた。
身体だけでなく、その脚までもがガクガクと震え、彼女の強い眼差しにも涙が滲み出す。
されどバーサーカーは動かない。いや、今この状況で動いて貰っても困るのだが。
奴が人を人と思わない本物の外道であったがゆえ、害意を懐かなかったことに皮肉にも安堵する切嗣。
「なぁオイ、そろそろ理解してくんねェかなァ? 俺はコイツを殺して、そのままテメェらと殺し合ったっていいんだぜ?
まっ、相手がバーサーカーだろうが何だろうが、勝つのはこの俺様に決まってるけどなァ!」
「……! バーサーカーを知っているのか!?」
「誰が無駄口叩いていいっつった!? アァッ!?」
バーナビーの刃が、今度は少女の左肩から右腹に掛けての衣類を裂いた。
ビリビリと裂かれてゆく衣類の音。不幸中の幸いか、今回は身体は傷付けられていない。
裂かれた衣類はだらんとくたびれて、そこから少女のきめ細やかな柔肌が垣間見える。
脅えきって言葉も発せない少女を尻目に、バーナビーは言った。
「いいかッ! 喋っていいのはバーサーカーを解放するかどうかッ! それだけだッ!」
「それ以外の言葉をひとっ言でもその便器に向かったケツの穴みてェな口から吐き出してみろッ……ひと言につきこの女を一刺しするッ!」
「『何?』って聞き返しても刺すッ! クシャミしても刺すッ! 黙ってても刺すッ! 条件と違う命令したらそん時ゃ即座にブッ殺すッ!」
「いいな! 注意深く神経使って喋れよ……それじゃあもう一回質問するぜッ!?」
「今すぐバーサーカーを……!」
「この教会から追い出して……!」
「他の参加者を殺し回らせろッ!!」
鬼気迫るバーナビーの捲し立てに、切嗣は返す言葉を持たなかった。
この男は、やる男だ。やるといったら、必ずやる男だ。
抵抗をしない少女を傷付けることに、一切の躊躇いがない。
“クッ……今は従うしかないか”
無言のまま腕を突き出せば、バーサーカーの令呪が、ぼうっと発光した。
「令呪を以て……我が傀儡に命ず……バーサーカー、今すぐにこの教会を出て……他の参加者を……殺して、まわれ……ッ」
今にも胃の中を全てブチ撒けてしまいそうな程の苦痛と共に、命令を告げる。
腕に刻まれたバーサーカーの令呪が一画なくなって、バーサーカーは雄叫びをあげた。
「A――urrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrッ!!」
その様は、さながら弾丸の如く。
凄まじい速度で教会のドアを突き破ったバーサーカーは、瞬く間に何処かへと飛び去っていった。
令呪による強制力は本来、「皆殺しにしろ」などという抽象的な命令には弱い。
されど、それは当たり前の自我と理性を持ったサーヴァントが相手ならば、の話だ。
バーサーカーとは元々、狂化のステータス補正を得て無差別に暴れ回る狂戦士のクラス。
切嗣の支配から逃れた黒騎士は、もう誰にも止められることなく暴れ続けるだろう。
“いや……まだだ。まだチャンスはある。すぐに追い付いて、最後の令呪でもう一度命令すれば……!”
そうだ、誰かに令呪を奪われでもしない限り、切嗣は奴に対しては絶対的な権威を持っているのだ。
すぐにこの男と少女を何とかして、被害が出る前にバーサーカーを食い止めれば……!
切嗣の中にも希望が芽生え、バーナビーへの反攻の意思を固める。
しかし――
「よォーしいい子だ、そんじゃ次の命令いこーかァ」
「なっ……まだ僕に何かさせようというのか……!」
「――ぅッ!」
切嗣への返答――少女の左肩を、今度は横一線にバーナビーのナイフが切り裂いた。
衣類を切り裂かれ、ちらと見えていた左肩のブラジャーの肩紐ごと切り裂いたのだ。
赤い鮮血と共に、左側の乳房を覆っていたブラジャーがハラリと落ちる。
切嗣の目に飛び込んで来たのは、自分の手で隠すことすら許されぬ、少女の乳房。
「ひと言につき一刺しだ、忘れたワケじゃあねェーよなァ!?」
そう言って、露出した左の乳房を握りつぶさんばかりの握力で握り締めるバーナビー。
「う、くぅ……ッ!」
二度に渡って切り付けられた痛みと、乳房に走る痛みに我慢ならず、苦しみの声を上げる少女。
「チッ……このスーツ越しじゃあ揉んでも何も感じねーや。
こりゃ~手だけでもスーツ脱いどくべきだったかなァ~?」
“――この男……ッ!!!”
男としては最低の、クズ極まりないバーナビーの発言。
思わず飛び出そうになった怒号を、切嗣は何とか抑え込む。
あの少女は今、身体を傷付けられるだけでなく、心まで傷付けられている。
必ず助け出すと胸に近いを立てて置きながら、現実ではこの体たらくだ。
いっそ、これ以上少女が傷付く前に、一か八かの賭けに出た方がいいのかもしれない。
「おっと、変なコトは考えんなよな。もうわかってんだろォ? 今のテメェにゃもうバーサーカーはねェ、この女を守りながらじゃあ万に一つも勝ち目なんざねぇってよォ?」
……悔しいが、バーナビーの言う通りだ。
何も失わずに勝利を得る、という考えは、捨てた方がいいのかもしれない。
だが、だとしたら何を彼女の命との天秤に掛ける。どうすれば彼女を救える。
自分の命を引き換えにすれば、あの少女だけでも見逃してくれるだろうか?
いいや、それではバーナビーにメリットがない。呑んでくれるワケがない。
そんな中で、不意に浮かんだ発想は、切嗣を逆転させるに足るものだった。
“――ッ、何を……何を考えているんだ、僕はッ!”
窮地に立たされた事で、聖杯戦争以前の自分の思考が頭をもたげる。
否、それだけは絶対に駄目だ。それでは士郎との約束が守れなくなる。
人質を見殺しにしてしまえば、もう二度と正義の味方にはなれない。
彼女を救えないのでは、正義の味方を貫けないのでは意味がないのだ。
例えこの殺し合いを打破したとしても、自分が外道に落ちたのでは意味がないのだ。
一瞬浮かんだ思考をかぶりを振って吹き飛ばし、切嗣は強い眼差しでバーナビーを睨む。
“どうする……固有時制御でスカルに変身して、そのまま一気に畳み掛けるか?”
“いいやそれは出来ない……もしも失敗すれば、あの少女は確実に殺されるだろう”
“そもそも、あの男はどこまで知っているんだ? 僕の事は知っているのか?”
“だとしたら、
セイバーのことも……固有時制御の能力も知っているのか?”
奴は最初、加速能力は自分には効かないと、確かにそう言った。
それは、切嗣の固有時制御による加速能力まで読んでのことではないか。
だとするならば、この敵は実に恐ろしい。
切嗣は、情報アドバンテージの点で既に負けているのだ。
そんな相手に、この絶望的な状況から逆転する事が出来るのか?
“……クソッ”
こんな時に限って無力な自分に腹が立つ。
正義の味方になると誓ったばかりなのに、どうしてこうも……。
拳を握り締め、わなわなと震える切嗣を見かねて、バーナビーが言った。
「独りよがりの葛藤はもう済んだかよ、正義の味方の成り損ないが」
「……ッ!」
「そんじゃあ次の命令を言うぜ! 逆らったら……分かってるだろうなァ!?」
切嗣の心の準備などまるで待ってくれる気配もなく、バーナビーは宣言した。
「テメェが持ってるバーサーカーの最後の令呪、ソイツを俺様によこしな!」
「なッ、魔術師でもない者が令呪を手にしたところでッ!」
「ンなこたぁ関係ねェ~んだよッ! 魔術師だか何だか知らねーが、こちとら神に選ばれてんだ!
テメェら糞人間に出来て、この俺様に出来ねェことなんざあるワケャーねェェ~~~だろッ!!」
“……、馬鹿なッ!”
令呪とは、本来聖杯戦争に参加する魔術師のみが持ち得るもの。
それを、聖杯戦争と何ら関係を持たないこの男が継承出来る訳がない。
この男に魔術回路があるなら話は別だが、しかしこの男は魔術師ではないのだから。
そう、それは間違いない。魔術師を知らないと、コイツは今自分でそう言ったのだから。
だが、そうなると、何故バーサーカーの事を知っていたのかという疑問は残るが――
「――いいだろう、その条件を呑もう」
「よーし、利口な判断だ」
魔術師でもないあの男に、令呪の受け渡しが出来る訳がない。
それが結論だ。やる前から決まり切っている答えだ。それでQ.E.Dだ。
“だがしかし、だとすればこれはまたとない反抗のチャンスだ……!”
令呪が刻まれた腕を差し出し、ゆっくりと前方へ歩き出す切嗣。
言われた通りバーナビーに近寄って、令呪の受け渡しの儀式を行おう。
そして、それが不可能であったと悟った瞬間、自信家の奴はきっと驚愕する。
その一瞬の隙に固有時制御で少女を救い出し、スカルになって奴を倒す……!
多少粗っぽいことをするかもしれないが、こうなっては最早それしか方法はない。
それだけが今の切嗣に残された、最後の賭けなのだった。