"魔弾の射手"

目次


フライシュッツとヴェーバー

  • フライシュッツ(Freischütz)という言葉が書き残されている古書に、1730年に出版された、Otto Grabensteinという人が記した、“Unterredungen von dem Reich der Geister, zwischen Andrenio und Pnenmatophilo”というのがあります。この本の中で、1710年、ボヘミアのタウスという所で、ある的撃ちに熱中した書記が、山の狩人に唆され、魔弾を60個鋳造、そのうちの3個は悪魔のものだとした罪で、裁判、および宗教裁判にかけられ、死刑になるところだったのを、罪人の若さに免じて、6年の刑で許されたという話が、裁判の記録として紹介さています。1810年 A. アペル(August Apel)とF. ラウン (Friedrich Laun)が著した“Gespensterbuch”(幽霊の本)の中に、民族伝説として出てくる、“Der Freischütz”の原型がここにあったのです。この「幽霊の本」に載っている物語は、ある若い狩人が十字路で魔弾を鋳造し、「一発試し」でそれを撃ったところ、花嫁に命中、彼女は死亡、青年は精神病院に入れられてしまうという、悲劇になっています。ここで大体、後のヴェーバーの「魔弾の射手」の筋書きが作り上げられています。ヴェーバーはすでに同年、この本を読み、オペラ化を考えていましたが、直ぐには、実行に移されませんでした。1813年には、この小説をもとにした、音楽を伴う戯曲が C. ノイナー(C. Neuner)の音楽で、ミュンヘンで上演されます。ここで、「隠者」の役が付け加えられますが、ドラマは、やはり悲劇のままに終わっています。
  • 1817年、ドレスデンのドイツ・オペラの新しいディレクターとして赴任したヴェーバーは、そこで F. キント(Friedrich Kind)という、物書きを趣味とする、法律家に出会います。二人の間で、偶然話が「幽霊の本」に及び、ヴェーバーは以前から、この題材をオペラにしようと考えていたことを、キントに打ち明けます。するとキントが、リブレットを書くことを申し出たのです。キントは、その後、わずか14日間でリブレットを書き上げます。その際彼は、隠者の助けで恋人同士がハッピーエンドを迎える様に、ストーリーを作り変えたのでした。しかし、ヴェーバーは、作曲にとりかかると、キントのリブレットを買い上げて、自分の思うように変更を加えます。例えば、キントのオリジナルでは、ドラマが、アガーテが隠者を訪ねる場面から始まっていたのを、ヴェーバーは、彼の妻の意見を入れて、村の射撃大会の場面から始めることにします。これらの変更に気を悪くしたキントは後に、彼のオリジナル・テキストを出版しました。
    (この項、Werner Abegg 著 Carl Maria von Weber. Der Freischuetz. Romantische Oper, Finstere Maechte, Buehnenwirkung、及び、Karl Dietrich Gräwe 著 Der Freischuetz. Texte, Materialien, Kommentare.を参照)
  • このように、ヴェーバーの成功作は、民族の歴史に深く根ざし、読み物として、すでに人気を得ていたストーリーの、オペラ化だったのです。この点で、「魔弾」は、いくつかの他の作曲家の成功作と同じような背景をもっています。

このオペラのポピュラー性について

  • ポピュラーなオペラといわれる作品の中でも、一時のこのオペラほど、ポピュラーだった作品は、恐らく他にはなかろうと思われます。1820年に完成され、1821年にベルリンで大成功裏に初演された後、ヴィーン、ドレスデンと上演を重ねたこのオペラの人気は、1822年に、当時ベルリンにいたハイネがある人に宛てた手紙に、「あなたは、もう、ヴェーバーの『魔弾の射手』をごらんになりましたか?否?お気の毒な方です!じゃ、少なくともこのオペラの中の『花嫁の介添え娘たちの歌』もしくは『処女の冠』を、お聴きになりましたか?否?お幸せな方です!」と書いたほどでした。ハイネが「お幸せ」と言ったのは、街中いたるところで、件の歌が歌われていて、耳を覆いたいくらいだったからなのです。それから約20年後に、R. ワーグナーの書いたものにも、「花嫁の介添え娘たちの歌」や、「狩人の歌」が、非常にポピュラーだっただけでなく、少年ワーグナーが、カスパーの、「この世の苦しみの谷間に」を、できるだけ悪魔的に歌おうとしたことや、「ボヘミアの農民のダンス」に合わせて、メッテルニッヒ侯爵が踊ったことなどが記されています。その、ワルツや民謡的な合唱が、ドイツで国民的にといってよいほど愛された、ヴェーバーの成功作は、勿論現在でも、ドイツ語圏の、たいがいのオペラ劇場のレパートリーに入っています。ただし、時には、このオペラの歴史設定が、「30間戦争(1618年-1648年)の直後」から、ナチ支配下の時代に移されるような、かなり無理な演出が行われたりもしますが….。
  • 初演当初から、このオペラがそれほどまでに、ドイツの人々に愛されたのはなぜでしょう?第一義的には、メロディーの親しみ易い美しさによる事には違いありません。次いでは、このオペラが、題材の要素の一つとして、当時のドイツ人の心の中に、すでに100年ほども前から住み着いていた、「魔弾」の伝説を取り上げたこと、これに、モーツアルトの「魔笛」で成功が実証済みの、試練を越えての愛の勝利という純愛の要素をからませ、更には、月光、嵐、おどろおどろしい崖下の風景、美しい狩場などの、自然の情景をもふんだんに取り入れて、ドラマ性と叙情性の双方に満ちた、作品のタイトルにうたわれている、ロマンチックな、という形容にすこしも違うことのない、作品に仕上がっているからに違いありません。
  • また、この作品は、それまで、主に宮廷劇場で上演されていた、イタリア語のオペラに背を向け、モーツアルトの「魔笛」(1791)と同様、ドイツ語で書かれています。このことが、解放戦争(1813-1815)でフランス軍に勝ったドイツ人の心を高揚させるものであったことも、想像がつきます。
  • いま一つは、このオペラに見られる、近代合理主義的な考えの芽生えであったと考えられます。このオペラの舞台である、1600年代のボヘミアの田舎では、狩人も農民も、「魔弾」などの迷信に深く囚われており、聖者と呼ばれる信心深い隠者も、幻覚による予知という、非合理からは免れられません。
  • ですが、世間のモラルに反逆して生き、よこしまな方法によってさえ自己の意思を完遂しようとする、カスパーの姿に、また、不可解な現象を合理的に解釈しようとする、若い娘エンヒェンのモダン性に、そして、最高者神を後ろ盾に、「一発試し」の不合理な伝統を、一気に取り除いてしまう隠者の行動に、obrigkeitshörig(お上に対して愚直に従順なことを言う)な、そして未だ、厳重な階級社会の枠の中での生活を余儀なくされていた民衆の気持ちを揺さぶるような、ドラマの意思、つまりは、作者の意思が潜んでいると思われます。このことも、(次の項でさらに詳しく述べますが、)時代設定を200年昔に移行させた理由の一つであり、反面、このオペラの国民的な人気に繋がる要因だと思われます。

「魔弾」が世に出た頃のドイツについて

  • いますこし「魔弾」の制作過程について読んでみると、このオペラの作者達、作曲家C. M. ヴェーバーとリブレット作者キントが、ドラマの時代を、自分達の活躍していた時代より200年も昔に遡らせ、ドイツの総人口の三分の一が消されてしまった、凄惨な30年戦争の直後に、設定した事実に目が惹かれます。「俺はティリー将軍の下で戦った」 etc. という、カスパーの言葉がこれを裏打ちしています。どうして、そのような必要性が起こったのでしょうか?
  • ナポレオンが失墜し、ドイツが解放戦争に勝利をおさめた後も、ヨーロッパの各地における、民衆の絶対王政からの解放と、参政への要求の兆しは徐々に強まってゆきます。ドイツ各地の王や諸侯たちの宮廷でも、これに対する危惧が高まってきます。そこで1819年にDeutscher Bund (ドイツ連合)に属する為政者たちの大臣が会議を開き、かのメッテルニッヒの主導の下に、ほぼ、ドイツ全土をカバーする、出版物の検閲に対するガイドラインを定めました(Karlsbader Beschlüsse)。対象となるのは、主に、モラルや、宗教及び社会の秩序を乱すと見られる出版物で、一時は、役人のもっとも大きな務めは、検閲を行うことだ、といわれるほどのコントロールが行われました。「魔弾」の中には、確かに、上の禁止項目に触れるような台詞が、いくつか見られます、例えば、カスパーの「侯爵の狩なんぞ俺には何の興味も無い」 「俺は神を呪ってやる!」などです。その外にも、結婚が、領主の一言に左右されるような階級社会の描写に、若い人々の反逆意識が掻きたてられる可能性もあります。このような世情においては、Freischützの、frei (自由)という言葉さえ気になりますが、ヴェーバー達は、時代を遡らせておけば、現在の事を言っているのではないと、言い抜けができ、この作品が世に出るのを妨げられなくて済むと考えたのでしょう。

様式について

  • 「魔弾」は、「魔笛」と同様、話す部分と歌う部分が交じり合う、「ジングシュピール」 (歌う芝居) と呼ばれる様式を持つ作品です。この様式は、18世紀の末から次第に盛んになり、19世紀初頭には、多くの作品が世に出ましたが、約半世紀後には、オペラの始めから終わりまで、音楽によって裏打ちされた、ワーグナーのオペラに人気が集まり始めました。そして、殆どのジングシュピールは忘れ去られ、わずかに「魔笛」と「魔弾」だけが、現在に至るまで、そのポピュラー性を保ってきたのです。(この二つのドイツ人に愛される作品の題名が、どちらも、日本語で 「魔」という字を持っているのは、面白いですね。)これ以上、音楽の内容に関する分析的な話は、ここでは割愛します。

舞台背景について

  • さて、このオペラの舞台背景を想像してごらんになりたい方は、これもドイツの、ヴェーバーと同時代の画家、フリードリッヒ(Casper David Friedrich:1774-1840)の描いた、ドイツの森や渓谷の風景画を、画集やインターネットで、ごらんになられることをお勧めします。なぜなら、現在の、ドイツまたはヨーロッパの、財政難に悩むオペラの舞台では、作者が意図した、もしくは願ったような、舞台装置には、恐らくお目にかかれませんから。C. D. フリードリッヒの、沈んではいるが明澄な色調、奇怪な枝ぶりの樹木が生い茂る森や、切り立つような峡谷の風景画は、魑魅魍魎が出てきても、または、神の幻影が現れても、不思議ではない程の神秘的性に満ちています。これこそが、ロマンティク・オペラ「魔弾」の舞台背景なのです。C. D. フリードリッヒの絵の神秘性と、ドイツの自然、そして「魔弾」の前奏曲のホルンの響きを愛する訳者が、この作品の邦訳を試みたのは、当然の帰結といえましょうか。

「魔弾の射手」に見られる階級社会とその中に生きる人間像

  • 次には、このオペラの登場人物をその社会的なポジションによって、縦割りにして眺めて見たいと思いまいす。なぜなら、登場人物の属する社会階級や、家族内での位置がはっきりしないままに、台詞を訳すと、こういうことを、非常に大切にし、敏感に認識する日本語社会では、通用しない人物像が出来上がってしまうからです。ということは、ドイツ語の人称代名詞では、均一にしか取り扱われない、ごくわずかな、目上と目下の関係の落差 - たとてば、お互いを du (お前)で呼び合うカスパーとマックスの位置関係でも、日本語の世界に移行さすとなると、細かい配慮が要ることは、このプロジェクトにかかわっておられる皆様が、十分ご存知の通りです。
  • まず、人間社会の範疇には入りませんが、神の存在が、絶対最高地位にあります。その下にくるのは、隠者(聖人)、次に、これも人間ではありませんが、隠者とほぼ同等の力関係にある、悪魔ザミエル、その下が、侯爵オットカーで、以下、世襲森林官クーノ、その娘アガーテ、親類の娘エンヒェン、クーノの部下の狩人達、(兄貴分のカスパー、弟分の、マックスを含む)と続き、その下に、農民達 (キリアン、花嫁の介添え娘たち、居酒屋の給仕娘等を含む)がおります。そうして、その外側に、魑魅魍魎や亡霊達の世界が存在するのです。
  • 「魔弾」の社会においては、狩人達は農民達に対して、明らかに優位なポジションにいます。それが、第一幕で、キリアンたちがマックスをあざ笑う場面で、あからさまになります。農夫のキリアンは、マックスに対し、日ごろの鬱憤を晴らしているわけです。マックスの「百姓めが!」という台詞にもそれが伺われます。カスパーは、マックスの兄貴分ですから、マックスに対してそれなりの口をききます。彼は兵隊上がりで下品で、危険な、しかし、個性的な男です。最後の場面では、地獄の入り口にあっても神を呪うという、凄まじさです。求愛をアガーテに退けられたために、復讐の念に燃える彼は、「オテロ」のイヤーゴや、「トスカ」のスカルピアなどと、同じタイプの人間です。弟分のマックスは、カスパーに比べれば、真面目ではあっても比較的弱い性格の持ち主です、普段の射撃の腕は良くても、危機には弱い男性のようです。いくらかマザコンの気が無いとも言えません(母親の幻影のシーン)。 彼らの抱え主、世襲森林官のクーノは、彼の部下の狩人達からも、農民達からも尊敬されている、品行方正で、彼の仕える公爵にはあくまで忠実な、狩人の親方ですが、宮廷人の集うテーブルでは、その末席を汚す身分に過ぎません。その娘アガーテと、親類の娘エンヒェンは農民ではなく、云わば、官吏の娘とその従妹(?)で、特にアガーテは、しつけの良い箱入り娘といった感じです。エンヒェンより先に結婚する、アガーテは、慣例から見て、エンヒェンよりは年上でしょう。このことは、エンヒェンに対する彼女の返答などからも、明らかになります。アガーテはマックスと相愛の仲ですが、アガーテの方が性格的にしっかりしているようです。なぜなら、彼女は、自分が撃ち殺されるかも知れないと恐れてはいても、信仰の力を借りて覚悟をきめると、潔く一発試しの場に赴きます。マックスは、それこそ、歯の根も合わないくらいに、恐れおののいていたことでしょう。面白いのは、エンヒェンで、彼女は登場人物の中では、一番合理的に物を見る性質だと見受けられます。その点で彼女はモダンです。領主オットカー侯爵は、その土地の最高権力者でありながら、人々に聖人と敬われている隠者に対しては恭順です。その隠者が大団円で人々に目を向けさせるのは、キリスト教の天主です。狩人達や農民達は、キリスト教信仰の傍ら、魔弾の伝説や、悪魔や亡霊の存在をもしっかりと信じています。 魔の狩人ザミエルは、人間界にではなく、地下の世界に属する者と言うことで、人間には大きな魔力を振るうことができますが、神には無論のこと、隠者(聖人)に対しても勝てません。アガーテは隠者の助けで、死なずに済むのです。
  • これらの登場人物に、それぞれの身分に相応しい言葉使いを見出すのは、楽しい実験でした。また、時代設定が1600年代となっていても、その頃の日本語を当て嵌めるわけには、勿論行きませんが、余りに今日的な言葉も、そぐわないような気がして、その辺の調節が難しいところでした。さらに、ジングシュピールですから、歌うところと、話すところの言葉使いの差があってもしかるべきなのですが、あんまり歌の部分の歌詞に凝ると、二者間の移行がぎこちなくなるので、その辺は適当にしておきました。

特殊な言葉の訳

  • 書物の訳であれば、日本に存在しない、またはしなかった事物の説明を、文章中に、センテンスの長さを無視して織り込めるのですが、台詞や、歌となるとそうは行きません。リブレットの英訳を見ていると、単語の意味の良くわからない箇所や、話が込み入ってくると、あっさりと訳を省略してあります。ところが、このプロジェクトでは、対訳ということですから、いわば、逃げも隠れもできないわけです。やむを得ない場合には、註を付けることにしました。現在では全く使われなくなってしまった言葉を古い辞書に当たって探したり、語呂を整えるために、センテンスから省略されてしまった語を探したりする苦労は、このプロジェクトにかかわっておられる皆さんが、どなたも、ご経験済みの通りです。でも、制約された範囲内に訳文を収めるのも、クロスワードパズルをやっているような面白さがあります。

フライシュッツという言葉

  • 日本語では「魔弾の射手」として知られていますが、原語のフライシュッツ(Freischütz)という言葉の中には何処にも、「魔」という語はありません。Frei は現代のドイツ語では自由な、という意味をもつ形容詞で、Schützは射手です。魔弾自体はフライクーゲル(Freikugel=直訳すれば、自由な弾)と呼ばれて、それを撃つ人が、フライシュッツ「自由な射手」というわけです。それでは、なぜ、「自由」という、現在の我々には、ポジティヴな意味を持つ語が、「魔」という、ネガティヴな意味に用いられたのでしょうか。モーツアルトの魔笛の場合には、Zauber と Flöte、魔法の笛で、何も問題はいのですが....。ドイツ語の語源辞典によれば、frei は、元は、ゲルマン語の法的な用語で、種族の規則によって守られている、というような意味を持っていたのが、時代と共に変化して、そういう枠からはみ出すことを意味するようになったと、かいつまんで言えば、そんな風に説明されています。グリムのドイツ語辞書の定義によれば、フライクーゲルは狙ったものに必ず当たるといわれる弾、だそうですが、では、なぜその様な弾が、Freikugel と呼ばれるようになったのかという、語源学的な説明は何もありません。もし、ご存知の方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。ですが、この語を魔弾と訳した、日本の先輩には、また、また、シャッポを脱ぎます。

プローベシュス

  • この作品で一番苦労したのは、あろう事か、このオペラの核をなしている、Probeschussでした。プローベは「試し」で、シュスは射撃・発射です。それなら、試射でよいではないかと、いわれるかもしれません。ところが駄目なのです。試射とやってしまうと、自動車の試乗や、機械の試運転みたいに、試されるのは物であって、試す人間の技量にはかかわらなくなってしまいます。ですが、この作品の場合に試されるのは、マックスの技量であって、それは、彼の度胸と腹合わせになっています。そんな状況に見合う日本語を探すと、腕試し、力試し、肝試し、などが出てきます。ですが、Schussで、撃ち出されるのは鉄砲の弾です。しかも単数ですから、一回しか撃てないことが明記されています。ずいぶん考えあぐねた末に、ふと思いついたのが、一寸試し、という恐ろしい言葉でした。昔日本で、人に何かを白状させるときなどに、一寸ずつ切り刻んでいくことを指すので、五分試しというのもあったということです。実際に行われたか、単に脅しであったかは知りませんが、ここでも、試されるのは精神の強さです。この言葉に思い当たった途端に、Probeschussの訳が見つかりました。「一発試し」です。この言葉が、余り日常的には使われない言葉だということは、「聞いたことはあるけど、それは、一体何なんですか」 という、キリアンの言葉で判ります。ですから、奇異な言葉だと思われる方がいらしても、それで当然だと思います。

緑のリボン

  • ドイツの伝統の中で、緑色のもつシンボルは、愛、希望、狩ですが、(シューベルの歌曲、「美しき水車小屋の乙女」の16番、「好きな色」に、僕の恋人は緑が好き、僕の恋人は狩が好きという歌詞がありますね) 一方、この色は、蛇、悪魔のシンボルともなります。Giftgrün (毒の緑色)という言葉もあり、このジングシュピールでは、ザミエルの衣装にも緑が使われています。その緑を、花嫁衣裳の飾りにも使うというのも、意味深長です。第二幕の幕開きに、結婚衣装と緑のリボンが、観客から良く見えるところに置かれているということは、花嫁が「狩人の花嫁」であるということを知らせると共に、この結婚が、呪われているということをも暗示していると思います。(同じくシューベルトの「水車小屋の乙女」17番は、「嫌な色」と言う題名で、これも緑色です)。
  • 射的の賞品として渡される、バント(Band)がリボンなのか、もっと太い、または、幅の広い、ベル状の物かを見つけ出そうと、ずいぶん探しましたが、見つけ出せませんでした。インターネットで、Bandに相応しいものをみつけようとしたところ、1907年、射的勝者に渡された記章(バッジ)に、緑のリボンで作られたものがありました。また、勲章を胸に飾ったり、首に掛けたりするときに用いるリボンが、Ordensband(勲章のリボン)と呼ばれ、それに取り付けられる各国の勲章によって、それぞれ決められた色糸で織られていて、それは美しい、細幅の帯のようなリボンであることを知りました。こんなのを、余得といいましょうか。ただし、緑一色というのはありませんでした。
以上
2012年3月21日
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最終更新:2024年07月13日 10:08