名セリフで読み解く「指輪」~ジークフリート
- 『ヴァルキューレ』は、ブリュンヒルデをタイトルロールにしながらも、ジークムント、ジークリンデ、ヴォータンの物語が交錯する複雑なストーリーでしたが、『ジークフリート』は基本的にはタイトルロールであるジークフリートの行動に焦点を当ててストーリーが展開されます。
- その一方で、前々作『ラインの黄金』のキャラクターであるアルベリヒ、ミーメ、ファフナーが再登場し、ジークフリートの知らない所で指輪をめぐる暗闘が繰り広げられます。
- ジークフリートは、生まれながらの「怖れを知らない勇者」であると同時に、父母の愛を直接受けないまま養父ミーメに育てられたため、自分が何者なのかを知らず、アイデンティティの危機に直面しています。ジークフリートのセリフの背後で執拗にオケが繰り返す性急な音型(特に第1幕)は、そのような彼の苛立ちを表現していると言えるでしょう。
第1幕第1場 ジークフリート
So starb meine Mutter an mir?
つまり、ぼくのために、お母さんは死んだんだな…?
- ジークフリートの母親への思慕が初めて表現されるこのセリフの後には、ヴェルズング族の悲哀を表現するライトモチーフが続きます。面白いことに、この歌詞とライトモチーフの音型は、いずれも『パルジファル』におけるパルジファルの母への想いと良く似ているように思います。
第1幕第1場 ジークフリート
Aus dem Wald fort in die Welt ziehn: nimmer kehr' ich zurück! Wie ich froh bin, dass ich frei ward, nichts mich bindet und zwingt!
この森から、広い世間へ出て行って、もう二度と戻らないつもりさ!なんて愉快なんだろう…自由になれたなら。もう何もぼくを縛ったり、強制したりするものはない!
- ジークフリートの外界への憧れ、自由への憧れは、ドイツロマン派の文学作品の主要テーマでもあり、それがこの作品に一種おとぎ話めいたムードを与えています。
第2幕第1場 さすらい人
Wen ich liebe, lass' ich für sich gewähren; er steh' oder fall', sein Herr ist er: Helden nur können mir frommen.
わしの愛する者を、わしは自分のままにしておいてやりたい。生きようが死のうが、その者が自分で決めるのだ…わしにとって必要なのは、そのような勇者のみなのだ。
- 『ジークフリート』におけるヴォータンは、自らを「さすらい人」と称し、ニーベルングの指輪をアルベリヒに譲ろうと申し出ます。その真意はともかく、ジークフリートに指輪を持たせない意志を示すこの言葉には、ある程度の真実味がこもっているように感じられます。裏返せば、ひとたび指輪を持ってしまえば、その所有者はアルベリヒの呪いにより自由を奪われてしまうことが、ここで改めて示されています。
第2幕第2場 ジークフリート
Sterben die Menschenmütter an ihren Söhnen alle dahin? Traurig wäre das, traun! Ach, möcht' ich Sohn meine Mutter sehen!
人間の母親は、子供を産むとみんな死んでしまうという決まりでもあるんだろうか?だとすれば…悲しすぎる!あんまりだよ!ああ…一目でいいから、お母さんに会いたい!
- 「森のささやき」の直前にあるジークフリートのセリフ。ジークフリートが母への思慕のあまり抱くこの素朴な疑問は、微笑ましくも悲しいものがあります。子供のように純朴で無邪気なジークフリートの性格が、このセリフほどはっきりと表れている箇所はないでしょう。
第2幕第2場 ジークフリート
Viel weiss ich noch nicht, noch nicht auch, wer ich bin.
ぼくも、まだ多くのことは知らない。このぼくは、ぼく自身が何者かさえ分からないんだ。
- 巨大な龍の姿をしたファフナーを殺した直後の、このセリフには、ジークフリートの持つ別の一面、「無自覚な戦闘マシーン」としての一面が表れています。「自分が何者かを知らないまま、最強の戦闘能力を持たされた勇者」という設定は、ファンタジーっぽいです。
第2幕第3場 アルベリヒ
Nichts von allem! Nicht einen Nagel sollst du dir nehmen!
何一つやらん!これっぽっちもやるものか!
- 指輪について口論するミーメとアルベリヒ。山分けを提案するミーメに対して、アルベリヒは「釘一本もやれない(直訳)」と答えます。この答えに対して、ミーメは逆上しますが、このあたりの音楽は、ワーグナーとしては珍しく、テンポも速く、リズミカルで面白い掛け合いになっています。
- アルベリヒがミーメに何もあげないのは、愛を断念して作り上げた指輪が当然自分のものであると確信していることに加え、これまでの失敗を踏まえて慎重になっていることもあります。
第2幕第3場 ミーメ
Grösste Mühe geb' ich mir doch, mein heimliches Sinnen heuchelnd zu bergen, und du dummer Bube deutest alles doch falsch!
わしは、物凄い苦労をしてるんだぞ…内心の思いを、偽善の嘘でごまかすためにな。なのに、バカな小僧のお前と来たら、万事間違った受け止め方をする!
- ジークフリート殺害という胸に秘めた陰謀を、なぜか他ならぬ本人に対して口に出してしまうミーメ。ややグロテスクなシチュエーションですが、ワーグナー作品の中でも一二を争う面白い場面でもあります。
第2幕第3場 ジークフリート
Doch ich - bin so allein, hab' nicht Brüder noch Schwestern: meine Mutter schwand, mein Vater fiel: nie sah sie der Sohn!
だけどぼくは…ぼくはこんなに一人ぼっちだ。兄弟もいなけりゃ、姉妹もいない。母親は露と消え、父親は斃れた…もう決して、息子のぼくは、親に会うことはない!
- ファフナーに続き、ミーメも殺してしまい、一人舞台に取り残されたジークフリートは、あらためて家族がいない天涯孤独の身に思いを馳せます。ジークフリートの切ない気持ちは、このセリフの後もしばらく続きますが、次第に音楽は暗から明へと移行し、やがて森のこずえから陽光が射し込むように、森の小鳥の明るい歌が再登場します。
第2幕第3場 森の小鳥の歌
Lustig im Leid sing' ich von Liebe; wonnig aus Weh web' ich mein Lied: nur Sehnende kennen den Sinn!
つらい時でも朗らかに、ぼくが歌うは愛の歌…心をふさぐ嘆きから、ぼくが紡ぐは歓びの歌…ただ憧れる者だけが、歌の心を知るはずさ!
- 森の小鳥は、同じメロディーを三度ジークフリートに歌いますが、いわば「コーダ」に当たるこの最終詩行では、新しいメロディーで彼に呼びかけます。この歌詞は、いかにもドイツロマン派の雰囲気を漂わせており、特に「ただ憧れる者だけが」というセリフは、シューベルト、シューマンなど多くの作曲家が曲を付けたゲーテ「ミニョンの歌」(『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』より)の「ただ憧れを知る者だけが」(こちらの原文は、Nur wer die Sehnsucht kennt,weiß, was ich leide! )を思い起こさせます。
第3幕第1場 さすらい人
Was in des Zwiespalts wildem Schmerze verzweifelnd einst ich beschloss, froh und freudig führe frei ich nun aus.
かつては、激しい板挟みの苦悶にとらわれて、絶望の中で決断したことを、今、わしは心楽しく実行している。
- ここでヴォータンは、自発的に神々の世界を没落させようとしていると歌います。このセリフは、エルダとの口論に激怒したヴォータンのカラ元気という面もありますが、もはや神々に残された選択は破滅しかないと彼が覚悟していることも確かです。
- 音楽においても、そのことを示すライトモチーフ(「世界の遺産」「抱擁」「ジークフリートの愛」など様々な呼び名があるが、ここでは「世界の遺産」で統一)が、ここで初めて登場します。このモチーフの登場の仕方は、「ラインの黄金」幕切れ直前の「剣のモチーフ」の登場と匹敵する壮大さを持っていると思います。
第3幕第1場 さすらい人
Die du mir gebarst, Brünnhild', weckt sich hold der Held: wachend wirkt dein wissendes Kind erlösende Weltentat. –
この勇者は、お前が、わしに産んでくれたブリュンヒルデを、やさしく目覚めさせるはずだ…。そうすれば、悟りゆくお前の娘は、目を覚まし、世界を救う行為を成し遂げるのだ…。
- ここでは、ブリュンヒルデがラインの娘達に指輪を返すことによって世界が救済されるというヴォータンの期待が初めて表明され、「世界の遺産」のモチーフが、「救うerlösend」という言葉に合わせるように繰り返されます。歌詞と言い、音楽と言い、この四部作の核心を成す箇所の一つと言えるでしょう。
第3幕第2場 さすらい人
Verschlossen hält meine Macht die schlafende Maid: wer sie erweckte, wer sie gewänne, machtlos macht' er mich ewig!
眠る乙女を閉じ込めたのは、わしの力だ…。あの乙女を起こして、我が物にしようという者は、わしを永遠に無力の存在にせねばならぬ!
- ジークフリートに語るこのヴォータンのセリフもまた、女性をめぐる父と息子の関係の暗喩という点で、フロイトを思い起こさせるところがあります。
第3幕第2場 さすらい人
Zieh hin! Ich kann dich nicht halten!
行け!もう、わしには、お前を止められない!
- このセリフと同時に、世界の支配権はヴォータンからジークフリートに移行し、これ以降ヴォータンは二度と舞台に登場することはありません。
- この決定的な場面の前後の音楽は、実に素晴らしいものがあります。弦楽器のトレモロでヴォータンの敗北感と諦念が浮き彫りにされる一方、「エルダのモチーフ」に「神々の黄昏のモチーフ」が続きます。その荘重な響きが消えていくと、あたかも「父」の禁令が解かれたかのように、「憧れ」を示す森の小鳥の呼びかけや、ジークフリートのモチーフが活発になっていきます。
- その後に続く第3場への舞台転換音楽では、ブリュンヒルデの眠りのモチーフと、ローゲの魔の炎の音楽、ジークフリートの角笛のモチーフなどが、絶妙にブレンドされ、見事としか言いようのない間奏曲となっています。
第3幕第3場 ブリュンヒルデ
Sonnenhell leuchtet der Tag meiner Schmach! O Siegfried! Siegfried! Sieh' meine Angst!
光り輝く?昼の光は私を辱めるだけだわ!ああ、ジークフリート!ジークフリート!この不安な気持ちをわかって!
- ジークフリートの口づけにより長い眠りから目覚めたブリュンヒルデは、初めのうちこそ世界への帰還を素直に喜んでいたものの、次第に神々としてのプライドがよみがえり、ただストレートに自分に迫ってくるだけのジークフリートに対しても、不安が強くなっていきます。
- しかし、彼女がジークフリートに上記のセリフをぶつけることにより、ジークフリートは生まれて初めて「他者の心」に触れ、二人の間には、ようやく理解への道が開けていきます。
第3幕第3場 ブリュンヒルデ/ジークフリート
Rührtest zur Woge das Wasser du auf, zerflösse die klare Fläche des Bachs: dein Bild sähst du nicht mehr, nur der Welle schwankend Gewog'! So berühre mich nicht, trübe mich nicht!
でもその水を波立てて、澄んだ水面(みなも)をかき回してしまうと、顔は見えなくなってしまって、残るのは、ゆらゆら揺れる波紋だけよ!だから、触れたりしないで!濁したりしないで!(ブリュンヒルデ)
Brach sie mein Bild, so brenn' ich nun selbst, sengende Glut in der Flut zu kühlen; ich selbst, wie ich bin, spring' in den Bach: o, dass seine Wogen mich selig verschlängen, mein Sehnen schwänd' in der Flut!
水面(みなも)のぼくの姿は、もう乱されたんだから、燃え上がる炎は、この波で冷やすしかないんだ。だからぼくは、このまま小川に身を投げるよ。ああ、そうすれば、ぼくを飲み込む波が、あこがれを静めてくれるはずさ!(ジークフリート)
- 少し離れた箇所にあるこの二人のセリフは、「水面(みなも)」というタームをキーワードとして、ワンセットになっています。ブリュンヒルデが、ジークフリートの持つ「水面に自らを映す」というナルシス的な自己保存欲求を語るのに対して、ジークフリートは今やその自己を破壊してでもブリュンヒルデを手に入れたいと迫ります。
- 詩的イメージと、水や波を表す音楽(グルグル旋回するような弦楽器の音型など)とがピタリと組み合わされて、絶妙な効果を上げている素晴らしい箇所です。
第3幕第3場 ブリュンヒルデ
Himmlisches Wissen stürmt mir dahin, Jauchzen der Liebe jagt es davon!
天上の知恵など、どっかに行ってしまった。愛の歓喜に追い払われてしまったの!
- このセリフに表れているように、ジークフリートと感情を通わせ合ったブリュンヒルデは、これまで生きてきた「神々の不死の世界」を捨てて、「人間の愛の世界」に身を投じようと決意します。
第3幕第3場 ジークフリート
Das Fürchten, - mich dünkt - ich Dummer vergass es nun ganz!
どうも・・・「恐怖」とやらを・・・バカなぼくは、もうすっかり忘れちゃったみたい!
- 最後にもう一度戻ってくるジークフリートの「おバカキャラ」。ユーモアが、深刻に傾いていたストーリーを、もう一度、当初のメルヒェン的なストーリーの枠内へと回収しようとします。
第3幕第3場 ブリュンヒルデ
Lachend lass uns verderben,lachend zugrunde gehn! Fahr' hin, Walhalls leuchtende Welt! Zerfall in Staub deine stolze Burg!
ともに笑いながら、滅びましょう。ともに笑いながら、没落しましょう!消え去れ!輝くヴァルハラの世界など!壮麗な城よ!崩れ落ちて塵になれ!
- 最後の二重唱で歌われるこのブリュンヒルデのセリフは一見過激です。エルダの娘である彼女が持つ予言の力は、この物語が破滅によってしか解決しないことを正しく予知しているのかも知れません。
- しかし、彼女が、それまでの神々への思いを振り捨てて、人間として生きることを決意した以上、それはあくまでブリュンヒルデにとっては肯定的なセリフなのではないかと思います。
第3幕第3場 ジークフリートとブリュンヒルデ
Leuchtende Liebe, lachender Tod!
輝きながら愛し、笑いながら死のう!
- 『ジークフリート』を締めくくる「キメゼリフ」は、ジークフリートとブリュンヒルデが二人で歌うこのセリフです。この歌詞もまた不吉な印象ですが、これもまたブリュンヒルデの身になって考えてみると、人間には「死」があるからこそ「愛」も初めて可能になっているということに気付きます。
- 歌声とともに明るく高揚していく音楽は、今や人間として愛に死のうと決意したブリュンヒルデと、初めて自らを理解する女性に出会ったジークフリート二人の晴れやかな気持ちを表現しています。
- まさにハッピーエンドなのですが、全てを知りながら愛に身を投じるブリュンヒルデと、「何も分からずじまい」のジークフリートの間にある断層は、やがて『神々の黄昏』で残酷な結末を迎えることとなります。しかし、その予感のうちにも、この幕切れは、『マイスタージンガー』と並んでワーグナー作品の中でも最も祝祭的な華やかさに包まれた輝かしいフィナーレになっています。
最終更新:2019年03月02日 11:12