目次
訳者より
- 今年2026年はカルロ・マリア・フォン・ウェーバーの没後200年、その命日に「魔弾の射手」のトンデモ対訳を出したばかりなんではありますが、性懲りもなくウェーバー作品の対訳をもう一本。今回もかなり好き放題に訳させて頂きましたのでお叱りを受けるかも知れませんけれど、手をつけましたのは彼の若き日の傑作「アブ・ハッサン」です。あまりに有名な「魔弾の射手」のおかげでバリバリのドイツものの作曲家と思われている彼にこんなタイトルの作品があるというだけでかなり不思議な感じですし、舞台がアラビアン・ナイトの時代のバグダッドということで、モーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」を思わず連想してしまいます。若かりしウェーバーの音楽は確かにモーツァルトの影響を強く受けているようであり、最後の合唱など「後宮」のテイスト満載です。合唱こそついていますが歌う登場人物は3人だけ。わずか50分ほどの1幕もののジングシュピールで、「後宮」はトルコが舞台ですのでトルコの軍楽がぴったりはまっていますが、こちらはバグダットということで何とも無国籍風のひたすら不思議な音楽となっています。ですが非常に良くできたストーリーに美しいメロディー、ウェーバーの若き日の作品の中では比較的よく取り上げられます。
- で、アラビアン・ナイトの世界と言いつつ、あらすじをご覧いただければお分かりの通りこのお話、まるで古典落語ですね。きっぷが良くて抜け目ないけど少々金にはだらしないアブ・ハッサンに、美人でしっかりもの、でも相当気の強そうな女房ファーティーメ、そのファーティーメを金の力でものにしようと企む悪徳金貸しのオーマールに、こんな香典詐欺にひっかかっても怒りもしないちょっと抜けた感じの、しかし寛大なお殿様(カリフ)と江戸の古典落語に居そうなキャラが揃っています。その上手元にあったハインツ・レーグナー指揮のドレスデン国立歌劇場によるプロダクションの録音(1971)、劇の進行を説明する語り役を入れているのですがこれがまた落語っぽい雰囲気満載。これはぜひとも江戸落語の世界に読み替えて訳すととても面白いものができるんではないかと、この録音で語りを務めている侍女ツェームルート役のドロテア・ガーリンの語り口も何とも味がありましたので、私が子供の頃大好きだった10代目柳家小三治の落語をイメージして語らせてみました。この語りの中、べらんめえ調で闊達に喋るアブ・ハッサンは一人称は「こちとら」基本。時々「俺」にした方がしっくりくるところはそちらにしています。女房のファーティーメを呼ぶのはやはり「おめえ」が似合ってますね。女房のファーティーメは「あたし」で、亭主を呼ぶのはやはり江戸落語なら「お前さん」が一番合ってますでしょうか。年甲斐もなくファーティーメに横恋慕する悪徳両替商オーマールは「わし」で。アブ・ハッサンを呼ぶときは「お主」で、恋するファーティーメを呼ぶのはあえてキモく「あなた」で。ファーティーメに話しかける時は丁寧な口調にすることを心がけました。この設定でNo.7のキャビネットに隠れたオーマールを二人でいたぶる3重唱 ものすごく面白くなりました。他もコミカルなデュエットや3重唱はこの訳で絶妙な味が出せたような気がします。もっとも夫婦愛を歌うアリアやデュエットはヨーロッパ文化が濃密に過ぎてちょっと違和感が。歌詞を翻案してしまって江戸時代の仲の良い夫婦の情愛にしてしまった方が江戸落語スタイルとしては一貫したのかも知れませんがそこまでは思い切れず、かなりの違和感を残しながらそのまま訳してみました。
- 語りを入れるのがオリジナル台本なのかどうかは判然とはしないのですが、管理人さんに用意頂いたテンプレートがカリフの奥方ゾーベイデの侍女ツェームルートが最後まで語るスタイルで、今回訳したレーグナー/ドレスデン盤のリブレットとほぼ一致しておりましたので、これがオリジナルと判断しました。ですがYouTubeで見ることのできる舞台は語りを入れているのは全体の半分くらい、あとは語り役なしで登場人物だけがダイアローグ部分も務めているか、あるいは幕開けのところだけ語りを入れてこのお話の背景を説明しているかのいずれかです。ジングシュピールなものでYouTubeではいろんな言語に翻訳された上演を見ることができますが、こういうスタイルの作品なので別にドイツ語でなくても十分楽しめます。
- 日本語訳の上演も札幌室内歌劇場のオフィシャルサイトに全曲アップされていてなかなか魅力的な舞台ですのでぜひ皆さんご覧になってください。こんな魅力的なプロダクションがほとんど見られていないのは大変に惜しいことです。音楽監督の岩河智子さんが、この「アブ・ハッサン」だけでなくマスカーニの「ザネット」とかマスネの「聖母の軽業師」だとかハイドンの「月の世界」だとか、ほとんど日本では知られていないオペラを次々と紹介して下さっているのには頭が下がります。ぜひ次にまたこの「アブ・ハッサン」のプロダクションがあれば、ぜひ舞台を江戸の町に変えて、気のいい道楽者の「あぶ八つぁん」に女房の「初女」、悪徳両替商の越後屋に寛大な町奉行(遠山の金さん?)なんかを登場させ、語りに若手落語家のホープを起用とかしてみると面白いのではと思います。ご一考ください。浅草オペラの歴史を紐解くと、この世界の起死回生にはこういう猥雑なバイタリティが結構大事なんだなあ と感じる次第です。特にこういう作品は固定観念をぶっ壊して全然違う世界観で再構築してしまうのが実は未来に生き延びる一番の早道ではないかと。
録音について
- この「アブ・ハッサン」、そんなに録音は多くないですが、結構魅力的な音盤が私の知る限りでも4つあります。一番古いのは1944年のレオポルト・ルートヴィヒ指揮ベルリン放送交響楽団のもの。アブ・ハッサンには当時ワーグナー作品で活躍中のエーリッヒ・ヴィッテとファーティーメ役にまだ若いエリーザベト・シュヴァルツコップとなかなか強力なコンビです。残念ながら台詞が省略された短縮版でした。
- 引き続いては1971年のこのレーグナー/ドレスデン盤。アブ・ハッサンにペーター・シュライアー、ファーティーメにはインゲボルク・ハルシュタイン、オーマールにはテオ・アーダムというこちらも豪華な配役。音楽は文句のつけようがないですが、勿体ないのは台詞部分でシュライアーとアーダムには別の俳優が充てられてしまっていること。C.クライバーの「魔弾の射手」でもそうでしたが、彼らに台詞をやらせた方が流れの良い自然な舞台になったのでは、と惜しまれてなりません。それとNo.3の合唱には若干のカットがあります。カット部分は他の盤を鑑賞される方のためにフォントの色を変えて残して置きました。
- 引き続いては1975年録音のウォルフガング・サヴァリッシュ/バイエルン国立歌劇場のもの。アブ・ハッサンにはニコライ・ゲッダ、オーマールにはクルト・モルという芸達者を置き、またファーティーメにはエッダ・モーザーというちょっとキツめの美声を充てて来ました。キャスティング的にはこの盤が聴いていて一番面白いかも知れません。
- 最後は2002年のブルーノ・ヴァイル指揮カペラ・コロニエンシス、こちら古楽器の演奏です。歌手は私には馴染みのない人たちばかりですがみな役柄に合った声で好演です。「後宮」での古楽器演奏版でも感じたのですが、こういう勢いのあるオペラには古楽器の刺激的な響きがとても良く合っていて新鮮です。こちらは冒頭にのみ語りのある版。残念ながらこの新しい2つの録音、台詞部分は今回訳したレーグナー盤最適化版とはかなり違っているようですが…
最終更新:2026年06月10日 05:51