◆
それは、見張りを引き受けた矢先だった。
負傷したジャンヌ・ストラスブールの答えを待ち、周辺の様子を監視すべくその場を離れた後のことだった。
夜空には月が浮かび、次第に黎明へと向かいつつある。
仄かな宵の光は、この刑務とは似つかわしくないほどに穏やかだった。
河川敷の近くの湖畔にて、鏡日月は立ち尽くしていた。
目を丸くして、動揺と驚愕に瞳を揺らしていた。
距離にして20メートルほど。
日月の視線の先に、一人の女囚が佇んでいた。
ゆらり、ゆらりと、陽炎のようにその場に存在し。
その身体の各所からは、紅の炎を溢れさせている。
まるで滲み出る激情を、無理やりに抑え込んでいるかのように。
どろりと濁った眼差しが、日月を捉えている。
何も言わず、無言のままに――侮蔑と憤怒を滲ませている。
その異様な雰囲気を前に、日月は息を呑んでいた。
社会の闇。芸能界の裏側。眩い光に満ちた世界の暗部。
暗がりを渡り歩いてきた日月にとっても、眼の前の囚人の纏う気迫は異常だった。
憎しみや怒り。
絶望と退廃。
殺意と狂気
そんな負の感情が。
そのまま形を成したような――。
それほどまでに獰猛な気配を纏っているにも関わらず。
その出で立ちと雰囲気からは、何故だかジャンヌの面影が存在していた。
「お前は、ジャンヌに捧げる供物だ」
そして、眼の前の女が。
ぽつりと、そう呟いた。
日月は咄嗟に、その身を構えた。
「死ね、悪党め」
直後――日月の視界に、熱と焔が立ち上がる。
それは、眼前の女囚。
フレゼア・フランベルジェの肉体から発現した、激昂の火焔だった。
◆
月明かりに照らされる河川を、その果てに続く湖畔を見つめながら。
ジャンヌ・ストラスブールは、ひとり物思いに耽る。
孤独な少女は、静かなる夜闇の中に身を委ねる。
ふぅ――と、虚空へと吐息を吐きながら、
ジャンヌは自らの心中で、思案を繰り返していた。
共にいた“もう一人の受刑者”は、見張りのためにこの場から離れている。
鏡日月。アビスに投獄されている死刑囚。
強かな合理性と年相応の無垢という、相反する意志が垣間見えた少女。
先程彼女から告げられた問いかけが、脳裏で反響を続けていた。
――“正義の味方の貴女は、この刑務でどのように行動するつもりなの?”
正義を貫く。それがジャンヌにとっての根幹。
しかし、この刑務における正義とは何なのか。
――“私とあなたは根本的なところで相容れないと思う”。
――“けど、巨大な敵を相手に『正義の味方(アイドル)』として戦う貴女を”。
――“私は美しいと思ってた”。
日月は、恩赦を求めていた。
死刑囚である彼女にとって、それが生きるための道であることは確かだった。
そのうえで日月は、正義の味方としてのジャンヌを肯定していた。
根底では相容れぬと告げながら、日月はジャンヌに身を捧げる余地も伝えていた。
――”もし貴女自身が本当に輝く為に私を討つというなら、殺されても構わない“。
――”泥を啜ることを受け入れて進むのも、まあ良いと思うわ“。
――“でも、中途半端なのは許さない”。
まるでジャンヌ・ストラスブールの在り方に。
自らの矜持や信念を、重ね合わせているかのように。
日月が背負うものを、ジャンヌは掴み切ることが出来なかった。
しかし、彼女もまた自分に近しい“何か”を背負っていることは理解できた。
そして日月は、ジャンヌの背中を押そうとしている。
葛藤に彷徨うことを許さず、ジャンヌがジャンヌで在り続けることを求めている。
ジャンヌ自身も、そのことを察していた。
だからこそジャンヌは、自らの意志を引き締めた。
未だに往くべき道は見いだせずとも。
彼女の問いかけに対し、応えねばならないと思ったのだ。
前へと歩き出す意思だけは、決して止めてはならなかった。
ジャンヌは、デジタルウォッチを操作する。
ホログラムで名簿を投影し、受刑者達の名を改めて確認する。
そこには多くの凶悪犯の名が記されている。
数年に渡って隔離されていたジャンヌでも知る名が、幾つも存在している。
ルクレツィア・ファルネーゼ。
犯罪組織の顧客のひとり。
かつて自らを“買った”令嬢。
彼女までもが、この刑務の中に居るのだ。
ジャンヌの胸の内に、幻肢痛のような苦痛が微かに走る。
かつて幾度となく味わった恐怖と痛みが、脳髄をさいなむんでいく。
それでも彼女の正気と希望は、決して失われはしない。
それからふぅと息を整えて、彼女は地図を開いた。
――逮捕後のジャンヌの裁判は、欧州某国で行われた。
あの巨大犯罪組織に都合の良い判決を出すためだった。
でっち上げられた凶悪犯罪の手掛かりは、裁判で“証拠”として認められた。
巨大犯罪組織が強い影響を及ぼせる、某国の司法がジャンヌを裁いたからだ。
彼女は現地の法で“終身刑”が言い渡されたのち、アビスへの護送が決定した。
そうしてジャンヌは“無期懲役”と同等の扱いとなった。
欧州にせよ、アビスにせよ、
ジャンヌ・ストラスブールは、無実の罪で裁かれている。
GPA(世界保存連盟)、INCN(超力犯罪国際法廷)。
そしてヤマオリ記念特別国際刑務所――アビス。
開闢以降の世界で、秩序を守る柱となっている諸機関だ。
彼らが秩序を保ち、平和を護り続けているのは間違いない。
しかし同時に、その体制の不備や欠陥が幾度も指摘されている。
ジャンヌが所属するカウンター勢力の中には、GPAなどへの批判的運動を行う者もいた。
そのことを振り返りながら、ジャンヌは地図へと注視していた。
ブラックペンタゴン。
この島の中央に位置する、正体不明の施設。
此処に何が隠されているのかは、定かではない。
しかし――アビスの運営側へと繋がるための手掛かりが、この施設には存在するのではないか。
刑務の是非を問うためにも、刑務官達へと接近するための道筋は必要となり得る。
そして刑務についての是非を問うことは、アビスの大元である現状のGPAへの是非へと問うことにも繋がる。
それは犯罪組織による支配が続く欧州の現状を変えるための、足掛かりにもなるかもしれないのだ。
薄氷の上に置かれたような、淡い望みでしかないのかもしれない。
しかし刑務に縛られ、生殺与奪を握られた聖女にとって。
それは微かにでも存在する、小さな灯火だったのだ。
思考を続けていたジャンヌは、視線を動かした。
湖畔の方で火が立ち上がっているのが、遠目から見えたのだ。
それはまるで憎悪のように、酷く激しく燃えていた。
◆
――滾る紅蓮を、日月は必死に躱し続けていた。
罪人を焼き尽くさんと押し寄せる、無数の火焔。
憎悪によって無限に燃え上がる、炎獄の熱。
回避へと専念した日月は、只管に純粋な身体能力のみで焔から逃れる。
鏡日月は、少なくとも自らの身を守れるだけの体術を備えている。
社会の暗部で踊り続けてきた彼女は、決して他力本願のみを信じたりはしない。
生半可な超力の犯罪者程度ならば自力で対処できるだけの護身術を体得していた。
故に日月は、荒れ狂うフレゼアの火焔を何とか躱し続けていく。
しかし結局は、ジリ貧でしかない。
火力も戦闘力も、フレゼアが明確に上回っている。
いずれ限界を迎えるのは日月の方であることは、彼女自身にとっても明白だった。
日月の超力は“自身がステージと認識した場で超人的な能力を発揮すること”
身体能力、歌唱力、表現力、天運。
その異能が発動した瞬間、日月は紛れもなく完全無欠の偶像と化す。
だが今は、この場を舞台とは認識できない。
獰猛なまでの暴力性で迫り来る敵。
それを必死になりながら対処していく自分。
互いに形振り構わない姿で、応酬を繰り返している。
それは偶像の輝かしいステージには程遠い。
何より、日月自身がこの場を舞台と認識することを否定していた。
何故なら、アイドルの立つべき場とは――華やかで、粋であるべきなのだから。
日月の超力は発動できず、敵の攻勢は激しさを増しばかり。
既に身体の各所に火傷を刻み込まれ、苦悶の表情を浮かべていた。
このままでは、間違いなく自分が限界を迎える。
それを悟ったからこそ、日月は咄嗟に距離を取る。
「――――待って!!」
そして再びフレゼアが攻撃を行おうとした矢先に、彼女は声を上げる。
「貴女は……ジャンヌの知り合いなの?」
出会い頭にフレゼアが吐いた一言。
それを思い返して、日月は彼女に問い掛けた。
ジャンヌの名を耳にし、フレゼアはその動きを止める。
噂に聞いたことがあった。
ジャンヌ・ストラスブールの所業を模倣し、数々の凶行を働いた“二人の殺人鬼”の存在を。
それぞれ地域も出自も異なっていながら、共にジャンヌの行動をなぞって連続殺人へと至ったのだという。
善行と悪行――模倣したものは真逆である、との話だが。
「……ジャンヌとの接触を望んでいるのなら」
眼の前の炎帝がその模倣犯であるというのなら、ジャンヌとの繋がりそのものが交渉の手札になり得る。
日月はそう判断し、フレゼアへと持ちかける。
「私は、貴女と彼女のことを取り次いでもいい」
――フレゼアの行動次第では、ジャンヌを切り捨てる選択にもなりかねない提案だった。
自らの同盟相手、守護者となる可能性を持った聖女を、眼前の殺人鬼へと差し出すのだから。
フレゼアが穏便に事を運ぶのならまだしも、一歩誤れば手負いのジャンヌが犠牲になる危険性がある。
「私は既にジャンヌと接触している」
しかし、それでも日月は持ちかけねばならない。
此処で本格的な戦闘へと縺れ込めば、間違いなく自分が死ぬ。
最悪ジャンヌという手札を切り捨ててでも、この場を切り抜けて生き延びねばならなかった。
「同盟の話を持ちかけて、今はジャンヌの答えを待っている段階。
けれど、少なくとも即時の敵対はしていないわ」
鏡日月は数々の犯罪者や業界人とつながりを持ち、自らの魔性と悪徳によって操ってきた。
清らかな偶像でありながら、稀代の悪女。
故に十代の少女でありながら、生半可な犯罪者を超える度胸を備えているのだ。
「私を狩ることより、ジャンヌに会うことの方が重要なのでしょう?」
炎帝との交渉へと踏み切れたのも、その才覚によるものだった。
若くしてアビスへと収監された偶像は、相応の強かさを持っているのである。
「だったら、私の話を――」
「なんでだ?」
だからこそ、日月は意表を突かれる。
唐突に言葉を遮ってきた、フレゼアの一言に。
「……は?」
「なんで、貴女が」
思わず声を上げる日月。
対するフレゼアは、その言葉から殺意を滲ませる。
「ジャンヌのことを訳知り顔で語ってるの?」
――ごう、と。
フレゼアの瞳に、紅蓮が灯る。
まるで憎悪と憤怒が形作られたように。
歪んだ炎が、獰猛に揺らめく。
「死刑囚の犯罪者風情が……」
その眼差しは、日月を捉えている。
湧き上がる怒りを剥き出しにして、言葉が吐き出される。
「なんで、ジャンヌとの繋がりを得意げに語ってるの?」
ジャンヌとの繋がり。
ジャンヌと会うための交渉。
それを、この犯罪者が担おうとしている。
死刑を言い渡される程のゲス野郎が。
まるでジャンヌを対等に扱っている。
蝿程度の価値しかない虫螻が。
何故、英雄のことをつらつらと語っている?
何故、蛆虫の交渉を聞かなければならない?
何故、お前がジャンヌとの接点を持っている?
――それがフレゼアには、酷く耐え難かった。
それはフレゼアにとって、逆鱗に等しかった。
日月は思わぬ形で、炎帝の地雷を踏むことになった。
真っ当な打算性を持っているならば、理解不能と言わざるを得ない理屈だった。
それでもこの炎帝は、そんな理不尽な論理によって激昂へと至ったのだ。
「図に乗るなよ。火刑に処してやるから」
その時、日月は理解した。
眼の前の相手が、話の通じない狂人であることに。
どれだけ理屈を並べようと、どれだけ駆け引きへと持ち込もうとしても。
この女に対しては、何一つ通用しない。
だって、話すら聞こうとしないのだから。
理屈というものを蹴り飛ばして、自分の世界のみを振りかざすのだから。
――どうする。
――どうする!
日月は覚悟を振り絞り、再び身構えた。
舌打ちとともに、必死に思考を巡らせる。
ジャンヌを見捨てて、この場から逃げ出すか。
あるいは、休息を取るジャンヌを囮として使うか。
それとも、この炎帝を迎え撃つ他ないのか。
選択を誤れば、訪れるのは死のみ。
ジャンヌのような偶像に裁かれるのならまだしも。
こんな狂人の手で命を奪われるなど、真っ平御免だった。
故に、此処を何とかして切り抜けなければならない。
どうする。どうすればいい――――。
「――――遅れてすみません、日月さん」
そんな思考を重ねていた矢先だった。
日月とフレゼアの狭間に、眩い閃光が割り込む。
まるで太陽のように暖かく、勇ましく、猛々しく。
その少女は救世主のごとく、戦場へと参戦した。
眼の前に割り込んできた新手を目の当たりにし。
フレゼアは驚愕に表情を歪ませた直後、その両目を大きく見開いた。
麗しき佇まい。燃え盛るような意志。
目が眩むほどの、崇高なる輝き。
――全てが、あの日のままだった。
紛れもなく本物。紛れもなく、あの聖女。
狂気の炎帝は、それを理解した。
故に彼女は、凄まじい高揚感に身を委ねていた。
「ジャンヌ……」
フレゼアは、声を震わせた。
その瞳を、歓喜に震わせた。
崇拝の対象。憧憬の対象。
ずっと焦がれてきた存在。
欧州の英雄、ジャンヌ・ストラスブール。
彼女が、眼の前に居るのだ。
「同じだ……私を救ってくれた、あの日の輝きと……」
その栄光に灼かれて、その背中を追い続けたフレゼア。
彼女が感激に打ち拉がれるのは、必然だった。
信仰し続けてきた神が、己の前に降臨したのだから。
「その……私……」
狂気に飲まれていた眼に。
澄んだ輝きが仄かに灯る。
「フレゼア……フレゼア・フランベルジェって言います」
炎帝は、少女のように無垢な表情を見せて。
焦がれた聖女へと、自らの名を名乗った。
「私は……」
フレゼアは元々、天真爛漫な少女だった。
快活で明るく、真っ直ぐな人柄の持ち主だった。
「貴女に、憧れて……」
そんな少女が、開闢以後の混乱で平穏を失い。
孤独に彷徨う日々を送る中で、ジャンヌに救われた。
「ジャンヌのように……なりたくて……」
彼女は極光に焦がれて、憧れて。
――狂気にも似た暖かさに、救われて。
やがて自身も同じように、聖女と同じ道を歩んだ。
「正義の味方を、志したの……」
その果てに、フレゼアは道を踏み外した。
炎帝。それは、聖女には程遠い称号。
全てを焼き尽くす暴君。悪辣なる虐殺者。
北米はGPAが強い影響力を持ち、治安や秩序の安定化が果たされていた。
そんな地においてフレゼアは無差別的な大虐殺を引き起こし、開闢以来のアメリカにおいて最悪の殺人鬼として忌み嫌われた。
「なのに、この世界は……。
貴女のことも、私のことも否定して……」
フレゼアは、その意味を理解していない。
自らが引き起こした悪逆を、罪とすら捉えていない。
だからこそ、まるで訳も分からず親に叱られた少女のように、自らを憐れむ。
そして、フレゼアにとっては。
ジャンヌもまた、自分と同じだった。
謂れのない罪を告げられ、罰せられている。
自分達は――何も悪いことなどしていないのに。
正しいことを、貫いてきたのに。
「ねえ、ジャンヌ」
故にフレゼアは、ジャンヌへと手を伸ばす。
「私と一緒に、世界を滅ぼそう?」
自らの憎悪へと、聖女を誘う。
「私達を否定した世界を……焼き尽くそうよ」
彼女も理解してくれると、フレゼアは無邪気に思う。
そんなフレゼアを見つめるジャンヌの眼差しは、深い哀れみに満ちていることも気づかずに。
「フレゼア」
やるせなさを胸に抱くように、ジャンヌが声を絞り出す。
私達を否定した世界――その言葉と、先程までのフレゼアが見せていた狂熱。
その意味を、ジャンヌは理解していた。
数多の善人も、数多の悪人も見てきたジャンヌは、フレゼアが何に飲まれているのかを察した。
「お願いです。止めて下さい」
告げることは、ただ一つ。
フレゼアの妄執の、否定だった。
「え……でも、ジャンヌ……」
「貴女の背負ってきたものは理解できます。
ですが……憎悪と絶望に囚われてはなりません」
ジャンヌの拒絶に、唖然とするフレゼア。
思いもしなかった答えを前に、彼女は放心する。
理解が出来なかった。受容が出来なかった。
何故ジャンヌが自分を諭しているのか、分からなかった。
ジャンヌと自分は、同じ世界を見ているはずなのに。
ジャンヌは自分に、手を差し伸べてくれたはずなのに。
ジャンヌの歩んだ道を、自分は置い続けたのに!
「は……?」
盲信に目が眩めば、人は相手の表層のみ捉えるようになる。
事の本質を軽視し、己の中の魔境に真実を見出そうとする。
フレゼアもまた同様、ジャンヌの歩む道を理解していなかった。
彼女が規範としたのは、ジャンヌという偶像に灼かれた己の狂信でしかないのでから。
だからフレゼアは、理解できない。
ジャンヌの言葉を、受け入れられない。
「このような世界だからこそ、善への希求だけは見失ってはならないと思っています」
淡々と、整然と語るジャンヌ。
彼女は変わらず、フレゼアに憐れみを手向ける。
「どうか、思い直して下さい」
聖女の説法は、フレゼアの魂を揺さぶった。
聖女の眼差しは、フレゼアの心に火を燈した。
「さもなくば、私は貴女を止めねばならない」
逆上と呼ぶべき憤怒が――込み上げていた。
「……ああ、そうなんだ」
ゆらり、ゆらりと。
フレゼアは、自らの体を揺らす。
視線の先に立つジャンヌ。
その傍らにいる日月へと、目を向ける。
「ジャンヌ――その女に、誑かされてるの?」
憧憬の対象に裏切られた憤慨。
憧憬の対象への変わらぬ崇敬。
その二つの感情が入り混じり。
炎帝は、責任を転嫁する。
「そっか、そうだよね。
ジャンヌが私を否定するはずがないもの。
きっと貴女は何か惑わされてるだけ。
うん、そうだよ。そうに違いない」
自らに都合の良い現実を、頭の中に作り出す。
けたけたと嗤って、フレゼアは空想の世界に沈む。
合理も理解もない。彼女の網膜も、心境も、とうに焼け焦げている。
狂信だけが、彼女の道しるべ。
「だったら、ジャンヌを……」
だから、答えは一つしかなかった。
「元に、戻してあげないと」
聖女を模すかのように。
その背中から、翼のように焔を噴出させる。
炎帝の笑みが、獰猛なる獣の威嚇へと変わる。
「ねえ、ジャンヌ――――ッ!!!!!」
そして、炎帝が疾走した。
聖女へと目掛けて、一直線に。
濁った瞳に、狂気の焔を宿しながら。
“ふたつの炎”の激突――その火蓋を切る。
◆
ジャンヌ・ストラスブール。
私にとっての英雄。
私にとっての偶像。
私にとっての太陽。
あの日以来、彼女は私の道標になった。
あの聖女のようになりたくて。
私は正義の焔を振るうようになった。
なのに私は、誰からも認められなかった。
彼女のような生き様を貫いているのに。
誰もが私を蔑み、私を否定した。
剰えこの世界は、ジャンヌさえも罪人として罰した。
おかしい。有り得ない。そんなはずがない。
私は、何も間違っていない。
私は、何の罪も犯していない。
私は、正しい行為を貫いている。
そして、何より。
ジャンヌが裁かれるはずがない。
ジャンヌが悪であるわけがない。
この世界の為に戦い抜いたジャンヌが。
この世界の闇に飲まれることなど。
起こり得るわけがない。
だって、ジャンヌは――。
あれほどまでに眩しかったのだから。
彼女が、折れるはずがない。
その正義の魂が、穢れるはずがない。
だって彼女は、本物の光なのだから。
そう、ジャンヌが敗けるはずがない。
私自身が、誰よりも強く信じていた。
それこそが、私という“少女の祈り”。
◆
「え」
視界の一部が、欠ける。
「え――――?」
身体の重心が、崩れる。
「え、あ――――?」
一体、何が起きている。
「なに、が」
炎帝(フレゼア)は、一瞬。
理解が出来なかった。
「う、ぁ」
その左肩から先。
熱のような痛みが、迸るまで。
彼女は、気付きもしなかった。
「は――――?」
左腕が、宙を舞っていた。
二の腕から先。弾ける血潮と共に。
――――誰の?フレゼアの左腕だ。
いつ、斬られた?
知らない。分かるはずもない。
だって、捉えられなかったから。
だって、既に起こっていたから。
フレゼアには、認識できなかった。
そして、フレゼアは。
自らの後方へと、振り返った。
つい先刻、駆け抜けていった影。
それを、視界に収めた。
背を向ける、ジャンヌ・ストラスブール。
その右手には、焔の剣が握られている。
混乱するフレゼアの視界の中で。
凛とした佇まいで、振るった剣を下ろしていた。
その姿はまるで、地に降り立った“英雄”のようだった。
フレゼアは、ジャンヌの右脇腹に刻み込んだ火傷に気付くことも出来なかった。
――ほんの数秒前。
フレゼアとほぼ同時に、ジャンヌは駆け抜けた。
そしてすれ違いざま、二人が交錯した瞬間。
刹那の合間に、ジャンヌはフレゼアへと一閃を叩き込んだのだ。
フレゼアは、更に気付く。
片側の視界が塞がれている。
左眼が、見えない。
斬られている。潰れている。
視界の一部が欠けてる意味を、理解した。
そして、ようやく。
灼けるような痛みが、感覚を貫いた。
フレゼアの左腕を切断したジャンヌの斬撃。
刃が切り抜けていく余波と炎熱が、フレゼアの左眼すらも損壊させたのだ。
「フレゼア・フランベルジェ」
透き通るような、美しい声が。
月下の下で、鈴の音のように響く。
「此処で、悔い改めて下さい」
硝子のように繊細で、麗しき声が。
凄まじい威圧感を伴って、毅然と響く。
「さもなくば――――」
ジャンヌが、フレゼアの方へと振り返る。
その言葉には。その眼差しには。
純然たる正義の心が、宿っている。
「神の御元へ、貴女を送らねばならない」
そう告げて、ジャンヌは。
真っ直ぐに、フレゼアを見据えた。
射抜くような目に捉えられて。
隻眼の炎帝は、壮絶な戦慄を抱く。
幼い頃には知っていた筈の感情を、否応なしに喚び起こされる。
それは自分ではどうしようも出来ない“運命”に対する、焦燥と畏怖だった。
そして、フレゼアは悟る。
ジャンヌが、その気だったなら。
自分は、首を刎ねられていたのだ。
“バケモノ”。
かつてフレゼアは、そう呼ばれた。
数多の者達を殺戮して、そう忌み嫌われた。
違う。有り得ない。罪を罰しただけだ。
自分は、正しき行いを貫いただけだ。
フレゼアは今も尚そんな妄執を抱き続けている。
――――そう、違う。自分は違うのだ。
あれだ。あれこそが、そう呼ぶべきだ。
自分ごとき、あれに及ぶ訳がないと。
忌まわしき炎帝は、思い知らされる。
悪しき魔女は、叩き付けられる。
格が違うのだ、と。
狂信の焔が焦がれ続けた。
あの、殉教の聖女。
何者をも照らす、救済の騎士。
決して揺るがず、決して屈さず。
圧倒的な輝きで、立ち続けて。
どれだけ苦悩を背負い続けようと。
善のために、悪を断ち切る勇気を持つ。
“バケモノ”とは――――ああいうモノだ。
「う、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――――――――ッ!!!!!!!!!!!!!!!」
気が付けば、フレゼアは叫んでいた。
失って久しかった恐怖が、彼女の全身を駆け巡っていた。
まるで噴き出す鮮血のように、狂気の紅蓮が慟哭する。
恐慌状態に陥ったフレゼアは必死に身を翻し、炎を溢れさせながら逃げ出した。
◆
ジャンヌ・ストラスブール。
彼女は数多の死線を乗り越えてきた戦士である。
されど、実力そのものは突出している訳ではない。
アビスに投獄される前にも、彼女は少なくない敗北を経験している。
巨大犯罪組織の熾烈な反撃にも屈し、数年に渡って囚われの身となっていた。
この刑務においても、圧倒的な実力を備えるルーサー・キングに対して惨敗を喫しているのだ。
ジャンヌの身体能力や超力自体は突き抜けている訳ではなく、その強さを裏付けるものはあくまで技術とセンス。
幼い頃は“炎を操る”程度だった超力を、鍛錬を経て“徹底した戦闘向けの異能”へと昇華させた。
戦闘における駆け引きでも、生半な相手ならば瞬時に隙を突いて一撃を叩き込むだけの技量を体得している。
彼女は、生半な相手では及ばぬ程の研鑽を積み上げている。
そして、そんな聖女の強さを支える最大の根幹。
それは、太陽のように燃え続ける“狂気”だった。
決して揺るがず、決して穢れない“正義の魂”だった。
その余りにも強く気高い輝きは、実態すらも超えてジャンヌという少女を“超人”へと変える。
その眩き意志は、対峙した相手に戦慄さえも覚えさせる程の極光と化している。
かつてジャンヌ・ストラスブールに心を灼かれたフレゼアならば、尚更“恐怖”を抱かずには居られなかった。
誰よりもジャンヌを信じ、崇めていたからこそ、フレゼアはその心の隙を突かれたのだ。
聖女は、この地の底に堕ちるに相応しい逸脱者なのだ。
冥界の闇さえも振り払い、孤高に戦い抜くことが出来るのだから。
そして、その顛末を見届けていた少女。
傾国に至る魔性と、偶像への無垢な憧れを抱く罪人。
鑑日月は、ただ呆然としていた。
凛として佇む聖女を、見つめていた。
ジャンヌ・ストラスブールは“偶像”。
正義の味方という、一つのアイドル。
日月はそう思っていた。
彼女のことを、そう評した。
きっとそれは、間違いではない。
しかし、あの瞬間。
狂気の炎帝を下した時の、あの姿は。
刹那の交錯で見せた際の、あの風格は。
半ば“偶像”の域を、飛び越えていた。
揺るぎない狂気。揺るぎない輝き。
さっきの彼女は最早、“神”そのものだ。
日月は、思い知らされる。
そのうえで、ジャンヌは。
迷い、傷つき、それでも立ち向かう少女なのだ。
無垢と神性。善性と狂気。慈悲と冷徹。
その夥しいまでの矛盾が、彼女の人格と意志によって完全に制御されている。
――ああ、そうか。
ジャンヌの不協和音を目の当たりにし。
日月は、彼女に惹かれていた意味を悟る。
自らの矛盾と混乱を飼い慣らし。
自らの悪性にも折り合いをつけて。
全てを自らの魅力へと昇華させる。
舞台の上で、圧倒的な光として君臨する。
ああいうものに、なりたかったのだ。
そんなアイドルに、日月はなりたかったのだ。
――稀代の悪女。天性の偶像。
二つの矛盾した顔を持つが故に苦悩した日月は、それを悟ることになった。
やがてジャンヌの身体は、ぐらりと傾き。
瞬きの後に、その場で膝を付いた。
顔を俯かせながら、荒い息を吐いている。
毅然と佇み、格の違いを見せつけながらも。
あくまで彼女の傷は、癒え切っていないのだ。
疲弊と消耗を隠し、ジャンヌは気丈に振る舞っていたが――。
フレゼアが去り、彼女の身体からは再び力が抜けた。
そしてその右脇腹には、痛ましい火傷が刻み込まれていた。
フレゼアとの一瞬の交錯では、ジャンヌとて無傷では済まなかった。
炎帝が放つ“真紅の焔”は、聖女の身に手傷を与えていたのだ。
「……無理しないで。まだ癒え切ってないんでしょう」
日月は、何とか身体を動かそうとするジャンヌを制止した。
今の状態のままフレゼアを追うことは、ジャンヌにとっても多大なる負担となる。
万全の状態を取り戻すためにも、後暫くの休息が必要であることは明白だった。
「日月さん」
それほどの疲弊を背負いながらも、ジャンヌは真っ直ぐに日月へと眼差しを向ける。
「貴女の言う通り、私はまだ道の半ばです」
まるで、ただの一介の少女のように。
ジャンヌは謙りながら、言葉を紡ぐ。
「だからせめて、“正しさ”だけは見極めていきたい。
この刑務の是非……その手掛かりを掴む為にも、ブラックペンタゴンを目指します」
今はまだ、答えの果ては見つからずとも。
何を成すべきかは、この眼で確かめていきたい。
ジャンヌは日月へと、その思いを伝える。
「そして、此処にいる受刑者達とも向き合って、己の成すべきことを見出していきたい」
ルーサー・キングのような揺るぎない巨悪もいれば。
鏡日月のように清濁併せ持つ者もいる。
そして、受刑者の中には――自分と同じように。
事情を背負い、アビスへと堕ちた者もいるかもしれない。
願わくば、この場で彼らとも向き合っていきたい。
そして、それは“彼女”のことも同じだった。
「……彼女を止めることもまた、私の責務です」
思い詰めるように悲しげな眼差しで、ジャンヌは吐露する。
先程相対したフレゼアのことを言っているのは明らかだった。
彼女の狂乱の根底に自分という存在があるのは、ジャンヌにとっても明白であり。
だからこそ、まだ傷の癒えていない現状を苦々しく思っていた。
今は消耗からの回復を待たねばならない。
“牧師”との交戦は、紛れもなく尾を引いている。
あと暫くは、この場に留まらねばならない。
儘ならない己自身に苦悩しながらも、それでも彼女は今できることを行う。
ジャンヌの眼差しは、日月を真っ直ぐに捉えていた。
「ありがとうございます。
私の正義に、問いを投げかけてくれて」
そしてジャンヌは、頭を下げた。
“選択”を迫ってきた少女に対し。
まるで自らを“大した存在ではない”とでも、示すかのように。
純粋な想いを胸に、極光の聖女は礼を伝えた。
そんなジャンヌを見据えて、日月は呆気に取られて。
やがてその口元に、知らず知らずのうちに笑みが浮かぶ。
打算を目論むの笑み。唖然の果ての笑み。
そして、獰猛な意志が首を擡げるような笑み。
日月の感情は入り乱れて、ひとつの表情を作り出す。
“これ”を味方にする。その価値を、彼女は改めて悟ってしまった。
“これ”を敵に回す。その意味も、彼女は理解してしまった。
それは自らを守る聖剣にも、自らを断じる鉄槌にも成り得る。
そして、何より。
日月の胸中に浮かぶもの。
舞台から降ろされた偶像にとって。
取り零して久しかった、闘志だった。
――私は、アイドル。
――私は、“これ”に敗けたくない。
彼女もまた、“偶像”だというのならば。
彼女が立つ、この“戦場”というものは。
血に塗れた“舞台(ステージ)”なのだろう。
【B-6/河川敷/1日目・黎明】
【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ブラックペンタゴンを目指す。
2.フレゼアを追いたい。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。
【鑑日月】
[状態]:疲労(小)、肉体の各所に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
1. ジャンヌには、敗けたくない。
2. ジャンヌ・ストラスブールには、『アイドル』であることを願う
※ジャンヌと日月がここから行動を共にするのか、あるいは別れるのかは後のリレーにお任せします。
◆
慟哭の炎が止まらない。
栓を締め忘れた蛇口のように。
火焔が、止め処なく溢れ出てくる。
左腕を喪った傷口から、熱が猛り狂っている。
フレゼア・フランベルジェは、必死に逃げ惑っていた。
自らが焦がれた“聖女”によって断じられ、恐慌と混乱の中で奔り続けていた。
彼女の思考は、目まぐるしく回転し続ける。
動揺や自問自答を繰り返し、全てがあべこべになっていく。
何故。どうして。なんで。何が起きて――。
ジャンヌが、私(フレゼア)を否定した。
ジャンヌが、私(フレゼア)を裁いた。
嘘だ。そんなのは嘘だ。全部嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!
こんなことは、あってはならない。
フレゼアは、己の罪を認めない。
フレゼアは、己の非を認めない
フレゼアは、何より――。
憧憬と崇拝の対象だった聖女が。
己(フレゼア)を罰したという現実を認めない。
だから彼女は、混乱する思考の中で。
必死に、強引に“納得”を手繰り寄せる。
――フレゼア。
――これは、戒めです。
「そういう、こと」
ジャンヌの啓示が、脳裏で反響する。
ありもしない言葉が、フレゼアの心を繋ぎ止める。
そうだ。これは“戒め”だ。
真の輝きに届かない“未熟な自分”に対し。
“聖女”が自ら、鉄槌を与えてくれたのだ。
――私は、貴女に道を示したのです。
――正義は、裁きの焔と共に在る。
「そうだ、そうだよね、ジャンヌ」
そうに違いない。
それ以外に有り得ない。
彼女が“私”を見限る訳がない。
聖女が“私”を悪と断じる筈がない。
フレゼアは、恐慌の中で妄想を加速させる。
それが“ただの幻聴”などとは、考えもしない。
――貴女はまだ、戦える筈です。
――さあ、立ち向かいなさい。
「全ての悪しき者を……神の御元へと……」
あの光に届かねばならないのだ。
その為にも――もっともっと、殺さなければ。
数多の供物を捧げて、正義を貫徹せねば。
ジャンヌに到達するために、より多くの罪を裁かなければ。
焔が、全身から迸る。
熱が、魂から溢れる。
フレゼアは、口元に笑みを浮かべる。
あの極光を追憶し、炎帝は自らの熱を昂らせる。
そうだ。もっと、裁きの焔が必要だ。
全てを焼き尽くす、天罰の紅蓮が必要だ。
彼女のように。麗しきジャンヌのように――。
隻眼の炎帝は、駆け抜ける。
左腕の傷口からは、尚も焔が溢れ出す。
その狂気を、加速させるように。
【B-5/平野/1日目・黎明】
【フレゼア・フランベルジェ】
[状態]:左腕欠損(傷口から炎が溢れ出ている)、左眼失明、妄執、幻聴
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.全てを燃やし尽くす
1.手始めに囚人を、その次に看守を、その次にこの世界を。
2.きっとジャンヌは未熟な私を戒めたんだ。なら彼女に認められるよう、もっと殺さなければ。
※ジャンヌの光に当てられたことで妄執が加速し、超力の出力が強化されつつあります。
最終更新:2025年03月26日 21:42