────自分を、知りたかった。


 何故こんな超力(ネオス)を手に入れてしまったのか。
 そんな風に考えたことは一度や二度じゃない。
 むしろ、そう考えていない時間の方が少ないくらいだった。

 物心がついた頃から、この力に悩まされてきた。
 至って健全な男子として育ってきたからこそ、この姿になることが心底嫌だった。
 身体も思考もクラスの男子たちとなんら変わらないのに、超力のせいで揶揄われた。

 直接的ないじめがあった訳じゃない。
 暴力を振るわれたわけでも、孤立させられたわけでもない。
 けれどボクへ向けられる男子たちの目が、薄ら笑いが、ひそひそ話が。
 生理的に受け付けず、ただでさえ脆弱な心を急速に摩耗させた。


 ────男のくせに。

 やめてくれ。

 ────男のくせに。

 そんな目で見ないでくれ。

 ────男のくせに。

 もう、構わないでくれ!



 いつの間にか、ボクは人が怖くなった。
 それを自覚したのは、性別の違いが強く浮き出る思春期の頃。
 ボクの超力を聞きつけて、変身してみてくれと強請った男子の目が怖くて。
 同じ男のはずなのに、まるで理解できなくて。
 自分という存在が分からなくなった。

 不登校になったのは、それから一週間後だ。
 本当の性別はどちらなのかだとか、生殖器はどうなっているのかだとか。
 そんな質問を投げられている内に、嘔吐と目眩に見舞われて授業どころじゃなくなった。

 母さんは、こんな自分を心配してくれて。
 父さんは、基本的な勉強を教えてくれた。

 聞くのが怖かったから真相は分からないけれど、きっとボクへ負い目を感じていたんだろう。
 部屋に引きこもるようになってからはネットに触れてばかりで、そういう調べ物をすることも多かった。
 超力の影響で人生を歪ませられる子供は、どうやらそう珍しくないらしい。
 そんな子供たちを集めた施設なんかもあったらしいけど、見知らぬ人と出会うのが怖くて行く気になれなかった。

 人を畏れたボクは、みるみる内に醜くなっていった。

 過食による肥満気味の体型。
 睡眠不足による目周りのクマ。
 ホルモンバランスの乱れで荒れに荒れた肌。

 とても人前に出れるような姿じゃなくて、それを自分と認めたくなくて。
 パソコンのモニターが真っ黒になる瞬間、自分の顔が映し出されるのが嫌だった。

 けれど、皮肉なことに。
 ボクが引きこもる原因となった雌龍の姿は。
 どんな絵画よりも美しく、可愛らしかった。


 今思えば、とんだ矛盾だ。
 ボクはこの氷龍の姿が嫌いなのに。
 ボクはこの氷龍の姿が好きだった。

 いつしかボクは、氷龍の姿に依存するようになった。
 人間としてのボクは醜悪だけれど、氷龍としてのボクは誰もが目を奪われる美しさを持っているから。
 周囲と隔絶された状況なのに自尊心が保たれていたのは、この超力があったからだ。


 ボクは無意識に、雌龍の姿が本当の自分だと思い込むようにしていたのかもしれない。
 だからこそ、SNS上の関係で親交を深めた〝彼〟に拒絶された時──頭が真っ白になってしまったんだ。


 男でいたいのか。
 女でいたいのか。


 ボクはきっと、選べない。
 そんな中途半端で薄弱な意思が、こんな深淵(アビス)まで堕とさせた。

 もうとっくにドン底だけど。
 これ以上、下がないからこそ。
 例え届かないとしても、光を見上げたい。

 その為の一歩として、変わりたかった。
 劇的な変化でも進化でもなく、ほんの些細なきっかけでいい。
 超力を使えるこの刑務作業の間で、手がかりを見つけたい。

 ──フレスノさん。
 ──ローズさん。
 ──大金卸さん。

 ボクがこの刑務作業で出会った人達は、世間的に見れば悪人なのだろう。
 けれど実際に言葉を交わしてみて、ボクの思う〝悪人〟と大きく乖離していることに気が付けた。
 刑務所の中でも人と関わる事を避けてきたから、この刑務作業がなければ一生知ることはなかっただろう。

 彼らには、彼らの人生がある。
 彼らには、彼らの苦悩がある。
 彼らには、彼らの決断がある。

 そうして紡がれた軌跡が。
 この刑務作業を通じて、交わった。

 だから、ボクも。
 これがボクの物語だと、胸を張って誰かに語れるように。
 北鈴安里を見つけるために、戦いたい。

 自分の意思で。
 自分の超力で。


 ────ボクは、答えを探すんだ。



◾︎





 睨み合いが続く。
 不動立ちの大金卸は、無言のまま龍の双眸へと威圧交じりの視線を叩き付ける。
 面積の大きい正面を見せた無防備な構え、とも見れるであろう漢女の格好。

 けれど相対するは、かの大金卸樹魂。
 まるで受けを想定していない、武術の何たるかを知らぬ佇まいであろうと、並の武闘家が裸足で逃げ出す覇気を伴えば。
 それが彼女の〝臨戦態勢〟なのだと察するに余りあるであろう。

 北鈴安里もそうだった。
 猛者との実戦経験などない彼にとって、大金卸という相手はあまりに強大。
 勝てるビジョンなどまるで見えないが、それでいいとばかりに安里は冷気を纏った吐息を声に乗せる。


「────いきます」


 貴殿から来い、と。
 己を試すような大金卸の瞳へ、凍てついた挑戦心を駆動させる。

 初手から大振りな攻撃をするほど考え無しではない。
 ざらめ雪を思わせる煌びやかな翼が羽ばたけば、凍て刺すような冷風が雹の礫を運ぶ。
 時速で換算すれば180kmを越える氷の弾丸は、強靭な新人類の肉体であっても流血に至るであろう。

 無論、これで決まるとは思っていない。
 自分と大金卸との間に聳える壁はどの程度の高さなのか。
 夥しい程の礫へどう出るのかを見て、彼女との力量差を推し量るつもりであった。

 けれど次の瞬間、氷龍は目を疑うこととなる。


 ──ぱらり、ぱらりと。
 凶礫が大金卸の肉体に触れる寸前、粉砕されてゆく。
 まるで氷が自らの意思で、ひとりでに砕け散っているように映る珍妙な光景。
 十、二十。そのまま三十の礫が破壊されても尚、安里はその現象を理解できない。
 まるでタネのわからないマジックを何度も見せられているような感覚だった。

 対して、立会人のイグナシオは確かに見た。
 絶え間なく射出される機関銃の如き礫群を、的確に打ち落としてゆく大金卸の拳を。
 最小限の動き、最低限の所作であるがゆえに。
 安里の目は、それを〝行動〟と認識することさえ出来なかった。

「────ぇ、」

 ようやく異変に気がついた安里。
 漏れ出たのは、あまりにも間抜けな声。
 仄暗い闇に慣れた目が偶然、彼女の拳が僅かに動くのを見てしまったから。
 そこから導き出される答え──イグナシオが既に到達していたそれに気がついて、氷龍は焦燥のままに手を変える。

「っ、これ、なら……!」

 身を屈め、氷爪纏う両手を地面へ叩きつける。
 安里の手元、固いコンクリートの床が盛り上がったかと思えば、剣山の如く鋭利な氷柱が群れを成して漢女へと伸びる。

 まるで氷で出来た大蛇のように。
 地を這い襲い掛かるそれは、否が応にも不動の両足を崩さざるを得ないはずだ。
 しかし大金卸は動かない、動こうとしない。

 このままでは直撃してしまう、と。
 安里は思わず彼女の身を案じた。




「────せぇぁッッ!!!!」


 しかしそれは、杞憂を通り越して侮辱。
 漢女の咆哮と共に繰り出される地面への下段突き。
 動作など見えず、突きが繰り出された後の大金卸の姿と────床ごと砕け散り、彼女を避けて後方へ伸びる氷柱群という結果だけが安里の目に映った。

 笑いすら込み上がる。
 同じ土俵に立ててすらいない。

 闘争に身を置いている大金卸と、争いとは無縁の生活を送ってきた安里。
 言葉に表すよりも大きく、この目で見なければ信じ難いほどの厚みが両者の間に存在する。

(…………やはり、ダメだ)

 諦観するイグナシオ。
 まるでかつての自分を見ているようだった。
 戦いのイロハを知らず、超力に頼り切った奇襲で必殺を決めに掛かった愚かな〝ナチョ〟。
 姿形こそ違えど、今イグナシオが見ている氷龍はそれであった。

 狼狽を隠せず、荒げた吐息が白く舞う。
 どうすればいい、次はどうすれば。
 安里の動揺を見抜いた大金卸はといえば。
 変わらず退屈そうに、不動のまま氷龍の蒼い虹彩を見据える。

「曲芸を見せるだけであれば、退がれ」

 鋭い、研ぎ澄まされた刃物の如き睥睨。
 傍らのイグナシオは思わず顔を強張らせる。
 彼女の下で鍛錬を重ねた日々を思い出し、畏敬に似た感情を抱いた。

 力をつけ、争い事に慣れたイグナシオの心胆でさえ揺らぐのならば。
 それを直接浴びた安里の心情は、察するに余りある。

「────っ、は……! は、……!」

 極度の緊張により過呼吸気味となる安里。
 上手く脳へと酸素が供給されず、逃げ出したい気持ちに駆られる。
 それを必死に抑え付けられている最大の理由は、イグナシオの存在だ。
 もしもここで大人しく負けを認めれば、大金卸は迷わずイグナシオに矛先を向けるであろう。

 それだけは、ダメだ。
 自分を変えたいという欲望の以前、彼を消耗させたくないという大前提の思いからこの漢女へ挑んだのだから。
 繋ぎ止められた精神は、辛うじて形を保つ。

「ほう」

 それを見て、大金卸は短く唸る。
 ここで立ちはだかる選択を取った以上、安里の戦意を汲まねばならない。

 であれば、殺す気で来い。
 半端な覚悟で挑むのならば、容赦はしない。




(────わかっています、大金卸さん)


 安里とてそれは承知している。
 人を傷つけるため、力を振るうことが怖かった。
 自分を拒絶した〝彼〟を殺してしまった時のように、加減を間違えてしまいそうで。
 自分が自分でなくなるような感覚が嫌で、出来ればこの刑務作業でもそうなりませんようにと願っていた。

 けれど、そんなことは言っていられない。
 全力で、覚悟を決めて、戦わなければならない。

「すぅぅ────……」

 汚れた工業地帯の空気を肺いっぱいに取り込む。
 人間の十倍以上もの肺活量によるそれは、大気の振動を伴った。
 やがて安里の胸がはち切れんばかりに膨らみ、海王星のような瞳孔がカッと見開く。

「──────ッ!」

 瞬間、氷龍の口から放たれるは白銀の吹雪。
 地球誕生以来、生物が立ち向かうことを諦めてきた自然災害の再現。

 なるほど確かに。
 人に向けられるには、あまりに無慈悲な災厄。
 超低温の酷寒を浴びればたちまち眠るように意識を失い、そのまま氷像と化すであろう。
 だからこそ、安里はこの力を振るうことを避けてきた。

 大金卸樹魂は。
 初めて、構えらしい構えを見せる。
 上半身を大きく右に捻り、丸太のような右腕を肩の位置で引く。
 それは殴るというよりも、〝投擲〟のような予備動作だった。


「つぇ────りゃァッ!!!!」


 銀色の息吹へ、魔拳が振るわれる。
 赤熱化した剛腕が、砲弾の如き熱波を生み出した。
 形を持たぬ熱気と冷気の衝突。
 それを制したのは、温度の高い方。
 急速な気温差により猛烈な勢いで水蒸気が散り、周囲に濃霧をもたらす。
 鱗を灼く熱気に安里が怯み、氷のブレスは役目を終えた。

 何が起きた、と瞠目する氷龍。
 対して拳を構えたまま、にやりと口角を釣り上げる漢女。
 その両脚は、未だ不動。
 三度に渡る猛攻をもっても、傷一つ付けるどころか一歩動かすことすら出来なかった。



「………………そん、な」

 ここまで遠いのか。
 ここまで高いのか。

 心中の泣き言を自覚して、みるみるうちに戦意が削ぎ落とされてゆく。
 一丁前に啖呵を切っておきながらこのザマ。
 自分はまだ何も得られていないし、大金卸もまた満ち足りていない。
 だからもっと、戦わなければいけないのに。
 だからもっと、立ち向かわなければいけないのに。
 どうしてか、安里の身体は動こうとしなかった。

「今度は此方から」

 安里の萎縮を感じ取ったのか、漢女が言う。
 抵抗を試みようと目を見開くが、もう遅い。
 翼をはためかせる暇もなく、爪を叩き付ける暇もなく。
 一足跳びで肉薄を終え、拳を振り上げる大金卸の姿が視界を覆った。


◾︎


 ────怖い。

 勝てない相手と戦うということが、こんなに怖いことだったなんて。
 覚悟を決めず戦うことが、こんなに不安だったなんて。

 ボクの思考は後悔と無念に包まれた。
 やっぱりボクは変われない。
 口先ではようやくそれらしい事を言えても、結局は臆病で半端な人間だ。

 フレスノさんはなんて言うだろう。
 よく頑張ったと、きっとそう言ってくれる。
 彼は優しい人だから、ボクのことを責めたりはしないだろう。
 大金卸さんだって、多分命を奪うことはしない。
 ボクはそもそも敵として見られていないのだから、命を絶つまでもないと思われているはずだ。

 けれどそれはつまり。
 この戦いが、無意味で終わるということ。

 何かを掴みたかったのに。
 何かを変えたかったのに。

 不思議と、迫り来る大金卸さんがゆっくりに映る。
 一秒後、ボクは彼女に敗北するだろう。
 けれどその一秒間は、残酷なまでに長く感じた。

 ああ、どうして。
 どうしてボクは、こうなった。

 ボクも、なりたかった。
 フレスノさんのように、子供を救うという夢を持ちたかった。
 大金卸さんのように、性別の垣根を越えて堂々と生きたかった。

 二人とも、引き篭っていたボクとはまるで異なる世界を歩んできたんだろう。
 時には命の危機に瀕したり、挫けそうな逆境にぶち当たったりしたはずだ。
 ボクは、そういう人生を歩もうとしなかった。
 傷つくことも、傷つけられることも怖かったから。
 そうならないように、壁を避けて歩いてきたんだ。

 そんなボクが彼女を満足させるなんて、所詮は夢物語だったんだ。
 コンマ数秒後に届くであろう彼女の拳を前に、ボクができた悪あがきといえば。
 長い尻尾で、顔を隠すことくらいだった。

 その行動に、自分が嫌になる。
 この期に及んでもまだボクは引き篭ろうとしている。
 ああ、やっぱりボクは。
 大金卸さんのようには、なれない。







『なあ、アンリ』

『ちょっとは胸張れよ』

『自分で自分を認めなきゃ、どうにもならねえだろ』




 ────違う。

 この人のようになんて、ならなくていい。
 誰かのようになんて、ならなくていい。

 ボクは、ボクだ。
 誰かの背中を追うよりも先に、やることがあるだろう。
 理想を夢見る前に、一歩踏み出すことを忘れていた。

 他人に夢を着せようとするな。
 誰かのように、なんて近道をしようとするな。
 北鈴安里という人間を受け入れなくちゃ、なにも始まらない。
 果てない夢を見るのは、その後でいい。

 臆病で卑劣な安里。
 それを受け入れるのは、確かに嫌だけど。
 それでもいい、それでもいいんだ。
 こんな自分でも、胸を張って生きようとすれば。

 ──きっとなにか、変われるはずだから。

 それを自覚した瞬間、途端に恐怖が消え去った。
 絶対に勝てるはずがないと思っていた大金卸さんへ、反逆心が湧き上がった。
 勝つとか負けるとか、そういう話じゃない。
 彼女はきっと北鈴安里を〝ナメて〟いる。

 だったら、見返してやろう。
 ボクは貴方が思っているより、少しはやる人間なんだって。
 荘厳な顔立ちを驚きに染められたのなら、もうそれで十分だ。


 迫る拳。
 到達する事が確定している痛みと衝撃。
 ボクはそれから逃れることを放棄して、尻尾を突き出した。

 渾身の一撃だと、確信した。
 躊躇も悩みも捨てて放ったそれは、自分でも驚くくらい冴え渡っていた。
 大金卸さんの目が、ほんの少しだけ見開いたのが見えて。


 ──ボクの意識は、そこで途絶えた。


◾︎



 氷龍がゆっくりと倒れ伏す。
 巨躯がドライアイスのように溶けて、気を失う安里の姿が顕となる。
 それを静かに見下ろす漢女の顔は、どこか憂いを帯びていた。

「…………見事であった」

 ぽたり、ぽたりと。
 彼女の胸に刻まれた一文字の裂傷から、赤い雫が滴り落ちる。
 無機質な床に垂れたそれは、白み始めた空の下、鮮やかに晒された。

 ────奇跡的な一撃だった。
 盾に使われていた筈の尾が靭り、明確な攻撃の意志を持って刺突を繰り出した。
 大金卸が両脚を離れた瞬間、隙と呼べるのは本当にその一瞬。
 天文学的なタイミングに放たれた尾撃を、漢女は空中で身を捻り躱そうとしたが、失敗。
 直撃を避けはしたものの、血飛沫が舞った。

 しかしその動揺は彼女の動きを阻害するに至らず、反撃の拳で安里の顎を揺らして決着。
 勝敗で言えば誰が見ても安里の惨敗。
 けれどその終幕を、イグナシオは信じられないものを見るかのような目で見ていた。

「まさか…………こんな、ことが」

 イグナシオの記憶にある大金卸樹魂とは、無敵の存在であった。
 共に行動をした時間は長くはなかったが、いつも先陣を切る彼女は苦戦らしい苦戦を見せなかった。
 だからこそイグナシオは、自ら彼女に立ち向かうことを避けてきた。

 そんな無敵の存在が。
 大金卸樹魂が血を流している。
 それが如何に異常な光景なのか、イグナシオだからこそ理解する。

「アンリくん、君は」

 イグナシオは安里を、かつての自分(ナチョ)と重ねていた。
 きっとこの戦いも一方的で終わると思っていたし、途中まではそうだった。

「とても、立派でしたよ」

 けれど終局の間際。
 安里は殻を脱ぎ捨て、一矢報いてみせた。
 恐怖を克服した安里は、あの時のナチョとの決定的な違いを見せつけた。

 地に座り安里の身体を支えるイグナシオ。
 その顔は柔らかく、どこか慈悲に満ちていた。
 恵愛の視線を向ける大人の姿。大金卸は確かに、イグナシオの成長を感じ取る。

「ナチョよ、彼は」
「……ええ。かつての私と同じく、己の在り方に悩む一人でした」
「そうか」

 けれど、きっともう悩んではいないだろう。
 大金卸が見た氷龍の目は、高い壁を乗り越えたかのように燃え上がり。
 火星のような、鮮やかな色を持っていたから。

「目が覚めたら伝えてくれ。〝強くなれ〟、と」

 だからこそ余計な助言はしない。
 我を通したいのならば、更に力をつけろ。
 大金卸から見て、北鈴安里はそれが出来る人間だったから。
 仁王立ちでイグナシオを見据える漢女の瞳は、かつて見た〝師〟のそれであった。

「変わりませんね、貴方は」

 だからこそ、イグナシオは。
 寝息を立てる安里を抱きかかえ、漢女を睨む。

「──やっぱり貴方は、史上最低の悪人だ」

 予想だにしない言葉に、大金卸は面食らう。
 垣間見た過去の情景を懐かしむこともせず、突き刺すような敵意を顕にするイグナシオ。
 漢女は彼の意図を掴みかねて、思わず訊いた。



「なぜ、そう思う」
「自覚がないのですね、貴方らしい」

 沈み始めた月と、昇り始めた太陽。
 工業地帯の向こうの海原、顔を出す朱色に照らされる両者の顔。
 二人の顔には、陰りが掛かっていた。

「大金卸樹魂の在り方は人を狂わせる。何処にも属さず、何にも染まらず、己の力だけで闇の中を突き進む────そんな自由の象徴に焦がれ、何人の子供が道を外したと思いますか」

 大金卸樹魂。
 投獄される以前は、半ば伝説のような存在として各国に語られていた。

 裏社会、組織、政治、宗教、情勢。
 開闢の日を経て目まぐるしく移り変わる世界を、裸足で渡り歩く自由の宣教師。
 忍び寄る悪意を身一つで振り払い、気ままに闘争を繰り広げる格闘家。
 命を奪う事に拘らず、結果として人を救う立場となったことも何度かある。

 その大きな背中を見て。
 虐げられ、誰かの喰い者にされるだけであった弱者は強く憧れて。
 戦いの道を選び、邪道に走らせる。
 こんな生き方をしてもいいのだと、闘争という狂気に充てられる。

「強くなれ、と。貴方が何気なく投げたその言葉に従い、何人が志半ばに倒れたか。弱者に無関心な貴方はきっと興味がないでしょう」

 ナチョがそうであったように、彼女を狙う使い捨ての少年兵は幾人も居た。
 彼女の戦力を鑑みて、大人数で動いたところで被害が大きくなるだけだと判断した組織からの刺客。
 無論それは彼女を討つためではなく、己の縄張りで勝手する者を黙認しないという周囲への〝アピール〟目的だ。
 向けられるその悉くを大金卸は打ち倒し、強くなれと激励を投げて立ち去って行った。

 そうして、言葉通り組織へ背いた子供達は。
 彼女の言う〝強さ〟を得る前に、裏切り者として処刑された。

 彼女の在り方を目指した子供達は。
 人を傷付ける為に超力を鍛え、裏社会に目を付けられて始末された。

「…………、……」

 大金卸はその事実を知らない。
 過去に拘らず、前を進む事しか知らぬ彼女は。
 自分が過去に打ち倒した者がどうなろうとも、記憶の片隅に留めることすらない。
 大金卸にとって自分に見逃された者は、〝敗者〟でしかないのだから。

「貴方が強者を屠ることを責めるつもりはありません。けれど貴方の生き方は、弱者にまで手を掛けているのも同然なのですよ」

 大金卸は押し黙る。
 イグナシオの面罵をただただ受け入れるかのように、言葉を挟まず聞き手に回る。
 その態度、魅力的とさえ取れる基盤こそが人を狂わせる要因なのだと。
 なんの腹積もりもなくそれをしてのける大金卸は、死ぬまで理解できないだろう。

「けれど、本当にタチが悪いのは」

 一方的に捲し立てていたイグナシオが、一呼吸置く。
 やがて苦虫を噛み潰したような、複雑な面持ちを、手元で眠る安里へと伏せた。


「────誰も、貴方を恨めないことだ」


 大金卸樹魂の生き様に脳を灼かれた者は。
 たとえ死の間際であろうと、自身の行いに悔いを持たない。
 一度でも漢女のようになれたなら。
 一度でも弱者から抜け出せたのなら。
 この選択は間違いではなかったのだと、心の底から生涯に誇りを持つのだ。



 己の人生を狂わせた大金卸へ、恨み言を吐くことさえ許されない。
 そのカリスマ性はもう、半ば〝洗脳〟にも似ている。
 違いと言えば、本人の悪意の有無だろうか。
 それが無いからこそ、〝タチが悪い〟とイグナシオが評する形となったのだが。

 その中には、きっと。
 大金卸と出逢わなければ、ごく普通の人生を歩めた者もいるだろう。
 振り翳された自由は闇に堕ちた者だけでなく、内藤四葉のような少女にも影響を及ぼした。
 もしもあの瞬間、少女の前に大金卸が現れなければ。
 内藤四葉は、こんな深淵に堕ちることなどなかったはずだ。

「樹魂さん、貴方の本当の罪は、人を救える力を持ちながら微塵も〝正義感〟を持ち合わせていないことです」
「…………正義感、か」

 ジャンヌ・ストラスブールが民を導く御旗ならば。
 大金卸樹魂は、闇夜の中静かに佇む灯台。
 その光を目指して藻掻く道を選んだ者は、理想の海に溺れ死ぬ。
 救いの手を差し伸べるわけでもなく、振り返るわけでもなく。
 己の言動に責任を持たず、欲望を満たす様は────紛れもなく〝悪人〟だった。

「もし樹魂さんが正義感で行動していれば、歴史に名を刻む英雄になり得たはずです。なのに貴方は、修羅の道を選んだ。……それこそが、貴方の罪だ」

 念押しするように、固く告げるイグナシオ。
 大金卸は瞳を閉じて、彼との記憶を想起する。
 彼と築き上げた師弟じみた関係もまた、ナチョが強敵となるようにという打算の下での成り立ちであった。

「ナチョは、我のことを恨んでいるのか?」

 だからこそ、問う。
 心当たりがあるからこそ、イグナシオの糾弾から目を背けない。
 それを受けた男は数秒黙り込み、観念したかのような面持ちで口を開いた。

「さっき、誰も貴方を恨むことが出来ないと言いましたね」

 つい先程イグナシオ自身が述べた言葉の反芻。
 大金卸は静かに頷き、彼の続きを待つ。
 やがて自嘲と共に紡ぎ出された言葉は、酷く震えていた。




「私も、その一人ですよ」


 ────頭では分かっている。
 幼きあの日、彼女と出会ったことで戦闘に享楽を見出すという異常性が染み付いてしまった。
 それがノイズとなり、探偵業に支障が出ることもしばしばある。
 もしも自分に手を差し伸べてくれたのが、安里のような善意に満ちた人間であれば。
 こんな地獄に堕ちることもなく、もう少しマシな人生を歩めたのかもしれない。

 けれど。
 心の中は、まるで違う。
 彼女と出会わなかった世界など、想像できない。
 自分の人生は、大金卸樹魂なくしては有り得ないと断言出来てしまう。
 心の底から、彼女と出逢えて良かったと────そんな風に思ってしまう。

 だからこれは。
 恨み言ではなく、彼女への〝忠告〟。
 どうかこれ以上罪を重ねないでくださいと、弟子からの〝願い〟だった。

「…………ナチョよ、我は────」

 大金卸の言葉を遮るかのように、遠くで爆音が響き渡る。
 工業地帯から北東の方角、音の方向を見遣れば遠目に映る森林地帯から発せられる赤と白の輝きに続き────そこから少し離れた場所にて、大規模な水蒸気爆発。
 時刻は黎明、その瞬間まさしくフレゼアとジルドレイの衝突と、恵波流都と葉月りんかの死闘が行われていた。

「行くのですか」

 大金卸の心情を見抜いたイグナシオの問い。
 少しの沈黙、それこそが答え。
 ああやはりこの人は、どこまでも自分の欲に忠実だ。
 昂然とした面持ちにどこか苦悩の陰を乗せて、やがて重々しく告げた。

「…………ああ」
「そうでしょうね。ならば最後にひとつ、これだけは言わせてください」
「聞こう」

 この人の闘争意欲は止められない。
 誰よりもそれを理解しているイグナシオは、安里の頭を撫でながら大金卸の瞳を見据えて。

「たまには貴方も、〝善意〟というもので動いてみたらいい」

 と、助言を下す。
 地の底で何を言うかと、己の行いを棚に上げた台詞に心中で毒づくが。
 それでも、今からでも。
 たとえこんな救いようのない場所だけであろうとも。
 大金卸には、〝英雄〟として生きて欲しかった。



 対して、漢女は。

「…………考えておこう」

 それだけを告げ、巨躯が掻き消える。
 床に刻まれた足跡だけが、彼女が存在していたことの証拠となった。

「……偉そうに。お前が善を語る資格などないだろう、イグナシオ」

 残されたイグナシオは、独りごちる。
 普段携える微笑みは、自分自身を嘲笑うように歪んでいて。
 どこか満足気な顔を浮かべる安里とは対象的だった。

「アンリくん、ありがとうございます」

 その感謝は、何に対するものか。
 きっと、気付かせてくれたことに対して。
 暴力とは怖いことだ、いけないものなのだと。そんな当たり前のことを今更になって気付かせてくれた。
 善意とは決して腐り落ちぬものなのだと、大金卸に一矢報いて証明してくれた。
 まるで長年の悪夢から醒めたような、澄み切った感覚。

 探偵の目は、海辺へと向けられる。
 朝焼けに染まる漆黒を映す双眸は、どこまでも遠く。
 旅愁の彼方を見つめていた。


【F-1/工業地帯/一日目 黎明】
【北鈴 安理】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(大)、気絶中
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。
1.暫くは、生きてみたい。
2.イグナシオの方針に従う。
3.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
4.スプリング・ローズには死んでほしくない。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。

【イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ】
[状態]:腕に軽い傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.子供や、冤罪を訴える人々を護る。刑務作業の目的について調査する。
1.安里の目が覚めるまで待つ。
2.自分の死に場所はこの殺し合いかもしれない。
※ラテン・アメリカの犯罪組織との繋がりで、サリヤ・K・レストマンのことを知っています。
※島内にて“過去に島民などがいた痕跡”を再現できないことに気付きました。




◾︎





 工業地帯を風の如く駆け抜ける漢女。
 高速で溶けていく周囲の景色を気にも留めず、彼女の頭の中にはイグナシオの言葉が反響していた。

『たまには貴方も、〝善意〟というもので動いてみたらいい』

 彼の言うことは、理解出来る。
 己の生き方が一般的に見て逸脱しているというのも、承知の上だ。

 けれど、やはり理解できない。
 人の言う〝善意〟とはなんなのか、分からない。


 ────大金卸樹魂は生まれつき、善意が欠落していた。

 幼い頃から、己の欲望に従い生きてきた。
 誰かのために動くということを、一度足りともしてこなかった。
 その気紛れが好転し、結果として善意のように見えることはあったが、大金卸からすればあくまで私利私欲を叶えただけ。


 大金卸樹魂は、怪物と呼ばれて然るべき存在なのだ。



『何故ですか、師範』

『何故私は、後継者になれないのですか』



 疾走の最中、かつての記憶を思い返す。
 開闢の日より12年前、大金卸が13の頃。
 日本の山奥、秘境の村と呼ばれる地────かつて〝拳聖〟と呼ばれた老人が師範を務める道場の門下生として、武を磨いていた。
 彼女の天賦の才は幼い頃から遺憾無く発揮され、他を寄せ付けぬ圧倒的な強さを誇った。
 ゆえに次の後継者は彼女で決まりだと、他ならぬ大金卸自身が確信していたが。

『お前の武は、我欲に満ちている』

 その一言により、その夢は潰えた。
 同時に、他者のために拳を振るえるのならば後継を認めようと告げられた。
 けれど彼女が拳を振るうのは、常に自分のためだったから。
 大金卸樹魂はひたすらに武を磨き、師範を越えることで道場を制する道を選んだ。

 異常と言えよう。
 上辺だけであろうとも、他者の為に力を振るえると一言宣言すればいいだけなのに。
 拳聖とまで呼ばれた伝説の師範を、武力で打ち倒す道を選んだのだから。
 それほどまでに、大金卸は〝善意〟を理解出来なかった。

 それを気にせずとも。
 満ちた人生を歩めているのだから、それでいいと思っていた。

 けれど、あの脆弱だったイグナシオの変貌は。
 彼を戦わせない為にと立ち向かった安里の進化は。
 きっと、善意からくるものなのだろう。

 であれば少し、興味がある。
 他人の為に力を振るうということが、何を意味するのかは想像すら出来ないけれど。
 それでも、その先にあるであろう光景に────少しだけ、興味が湧いた。


【E-2/工業地帯付近 草原/一日目 黎明】
【大金卸 樹魂】
[状態]:胸に軽微な裂傷と凍傷、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.強者との闘いを楽しむ。
0.爆発地点(C-3、D-2付近)へ向かう。
1.新たなる強者を探しに行く。
2.万全なネイ・ローマンと決着をつける。
3.ネイとの後に、呼延光と決着をつける。
4.善意とはなにか、見つけたい。


064.あなたの神は何を選ぶ? 投下順で読む 066.STAND & FIGHT
060.復活 時系列順で読む 055.少女たちの罪過
災害の開闢 大金卸 樹魂 絆の力
北鈴 安理 怪物の気配
イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ

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最終更新:2025年05月25日 13:50