ネイ・ローマンに敵対してはならない。

ヨーロッパのストリートには、そんな不文律が存在する。

誰が明言したわけでも、明文化されたわけでもない。
だが、その名の周囲には、いつだって目に見えぬ境界線が引かれていた。

笑いながら話す者はいても、その名を嘲る者はいない。
その一線を越えた者が、次々と姿を消していったことを、誰もが知っていたからだ。

そして、誰もがその理由を口にしない。
言葉にしなくとも、皆が理解している。

ネイ・ローマンに敵対してはならない――と。


乾いた風が、黒き五角形の建造物を撫でるように吹き抜けていく。
霞のような土煙が、まだ陽の届かぬ影を漂っていた。

岩を背に、ジェーンとメリリンは地面に腰を下ろしていた。
やや距離を置いて立っているのはドミニカ。依然として静かなままだ。

「…………ようやく、胃の中が元の位置に戻った気がする」

額を抑えながら、メリリン・"メカーニカ"・ミリアンは小さく呻いた。
口調こそ軽いが、その顔は明らかにまだ青白い。
隣で同じようにしゃがみ込んでいるジェーン・マッドハッターもまた、無言で呼吸を整えていた。

「メリリンまで乗り物酔いするタイプなのは意外だったわ」
「乗り物っていうか、落下方向が上だったり下だったり、ぐるぐる回されたみたいな感覚だったし……酔わない人類なんていないと思うよ、あれ……」

メリリンが顔をしかめる。

「申し訳ございません……何分、他者を運ぶのは初めてのことでしたので、その……加減が分からなくて……」

すまなそうに眉尻を下げるドミニカ・マリノフスキ。
淡い氷のようなその目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。

超力酔いしている二人と違い、ドミニカに自分の能力による影響はない。
岩山を落下した擦り傷や汚れはあれど、精神は明瞭なままだ。

「……いや。別に怒ってるわけじゃないから、謝らなくてもいいわ」

ぶっきらぼうに言うジェーン。
ドミニカに悪意がないことは分かっていたからだろう、その声に棘はなかった。

三人はしばし無言で、前方にそびえ立つ漆黒の建造物――ブラックペンタゴンを見上げていた。
無骨な五角形の壁面は、朝日を浴びてもなお、影のように沈黙を守っている。

「……あそこに何があるかは分からないけれど、体調は万全にしておいた方がいいかなぁ」

静かに、メリリンが口を開く。
何が待ち受けているのかわからない場所だ。
せめて体調くらいは万全にしておくべきだろう。

「……そうね、もう少し休みましょう」
「はい。私は山の世界改変者を罰さねばなりませんので、中まではお付き合いできませんが、お二人が回復するまで責任を持ってお守りいたします」

ジェーンは軽く頷くと、背後の岩に肩を預け、瞼を閉じた。
風に揺れる髪が顔にかかるがそれを払いもせず、ただじっと呼吸を整える。
戦場の兵士のように緊張感を保ちながら休息をとるその姿は、さすがはプロの殺し屋と言ったところか。

メリリンもそれに倣い、この場はドミニカに任せ、体調回復に努めることにした。
だが正直、天然の入ったこの修道女に見張りなど務まるのかという疑問はある。
メリリンがちらりとドミニカを見やると、目が合い、ドミニカはかしこまって頭を下げた。
それに合わせてメリリンも何となく会釈を返す。

だが、そんなささやかなやり取りの最中――ふいに、風向きが変わった。
真っ先に反応したのは見張りをしていたドミニカではなくジェーンだった。

素早く立ち上がったジェーンは、風のわずかな変化と砂の鳴る音で異変を察知した。
まだ相手の姿は見えない。だが体を半身に構え、念のため手元の石にそっと手を伸ばす。

「……誰か来る」

その言葉に、メリリンも続けて立ち上がる。
ドミニカが一歩前に出たが、ジェーンが制した。
土を踏む足音が近づいてくる。

三人の視線が一斉に同じ方向を向く。
突如、空気の密度が変わったように感じた。
地の底から響くような、熱を含んだ気配。

重くはないが、確かな存在感があった。
小高い斜面の先、ゆらりと姿を現したのは――

「――――――――よぅ」

鋭い眼光。燃えるような怒りをその奥底に隠したまま、ゆっくりと歩みを進める青年。
砂煙を蹴立てながら、彼女たちの前に現れたその顔を見て無感情なメカニーカの表情が珍しく引き攣った。

「俺の顔は分かるな? メリリン・"メカーニカ"・ミリアン」
「…………ネイ・ローマン」

メリリンの口から漏れたその呼び名に、ローマンは満足したように口端を吊り上げる。

「上等。すっとぼけやがったらその場でぶち殺しちまう所だったぜ」

冗談とも本気ともつかない言葉を吐き、やれやれと首を繰る。

「先に言伝を済ましちまおう、ルメス=ヘインヴェラートがお前を探してたぜ」
「……ルメスが? どうして?」
「知らねぇよ。ただの伝書鳩だ。確かに伝えたぜ」

言うだけ言って、あとは知らんとばかりにメリリンから視線を外し、周囲の二人に向ける。

「そっちの女も、その反応からして、俺の名前くらいは知ってるみたいだな」
「…………ええ。『アイアン・ハート』のリーダー、でしょ?」
「それが分かるって事は、お前も碌な人間じゃねぇな。ま、アビス(こんなところ)にいる時点で今更か」

ジェーンも殺し屋として裏社会で生きてきた人間だ。
同じEU圏を活動拠点とするストリートギャグ『アイアン・ハート』のリーダーの名前くらいは聞いたことがある。
ヨーロッパ最大のマフィア『キングス・ディ』を後ろ盾に持つ『イースターズ』と異なり、何の背景も持たず、ただ力だけでのし上がった恐るべき子供たち。

「初めまして。メリリンさんのお知り合いでしょうか? 私、ドミニカ・マリノフスキと申します」

ドミニカに空気を読むという機能は存在していないのか。
剣呑な空気を無視して恩人の知り合いへと名乗りを上げて、丁寧に挨拶を交わす。
ローマンはその名を聞いた瞬間、まじまじとドミニカを見据え、眉を寄せた。

「……あぁ? お前が『魔女の鉄槌』かよ。巨大カルトを単身で壊滅させたと聞いてたが、まさかこんな女だったとはな」
「はい。私はただ、神の御心に従ったまでです」
「神ねぇ……」

ローマンはどことなく呟き、砂利を踏みしめる足音を強める。
彼はゆっくりと歩み寄り、ドミニカの真正面に立つと、低く問う。

「神の指図で人を殺したってか? そりゃ笑えるな。神ってのは殺しのライセンスか?」
「正義の執行です。人の身を冒涜し、神の摂理を歪めた者へ、裁きを下したまでです」
「なるほどな。大した盲信っぷりだ、感心するぜ」

その嘲りにも似た皮肉は、ドミニカ本人にはまるで届いていないようだった。
ローマンは呆れたようにため息をついて肩を竦めた。

「それで、お二人はどういったご関係なのでしょう?」

ドミニカの問いかけに、ローマンが鼻を鳴らす。
冷笑と共に、嫌味なほどに肩をすくめて答えた。

「単なる商売敵さ、なぁメカーニカ?」
「商売敵……? 一方的にこっちの仕事を潰してくれたの間違いでしょう?」

冷淡な声。だが、その響きの奥にかすかな怒りが滲む。
メリリンは努めて感情を押し殺し、いつも通りの抑揚のない口調で応じた。

「ご挨拶だな、世話をかけられたのはお互い様だろう? こっちとしてもテメェが流した玩具のおかげで、随分とやりづらくなっちまった」

皮肉めいたローマンの言葉には、確かな敵意が込められていた。
その敵意を敏感に感じながらも、メリリンは冷静を装って言葉を返す。

「私は組織の技術屋として、求められた仕事を全うしていただけよ」

その言葉は、事実であり、同時に免罪符でもあった。
だがローマンには、そんな理屈は通じない。

「テメェの作った玩具がどう使われようが知ったこっちゃねぇってか? そいつぁご立派な考えだな。
 だったら、親がヤク漬けになって家庭崩壊したガキの前で同じことを言ってみろよ。ストリートにはそんな奴らがダース単位で転がってたぜ。
 お前がスイッチ押すたびに、どこかのガキが地獄を味わってんだ。その辺の自覚がなかったとは言わせねぇぜ」

鋭い言葉が、喉元を刺すように突き刺さる。
メリリンは、少しだけ視線を逸らした。
責任の所在を冷静に切り分ける女――そう思っていた。
だが、それがいつだって正義たり得るわけではない。
この場の空気が、それを突きつけていた。

「そうね。……自覚がなかったわけじゃない。
 確かに私は、自分の技術を披露することが最優先で、それがどういう結果を生むかまでは深く考えていなかった」
「いいね。下手な言い訳をしねぇのは悪くねぇ。俺との交渉のやり方を心得てるな」

何がおかしいのか、ローマンはくっと笑うと、一歩、足を踏み出す。
その歩みに呼応するように、周囲の空気が微かに震えた。
熱と圧を含んだ気配。まさに嵐の前触れ。

その空気を感じながら、ジェーンは一歩下がった位置から周囲に目を配る。
彼女は石を指先で弄りながら、いつでも反撃できる体勢を取っていた。

「だったら今ここで選ばせてやる。ルメスの言伝はした。それとは別に、俺からの取引だ」

拳を握り、唇の端に険のある笑みを浮かべながら、彼は言い放つ。

「メカーニカ。お前、『アイアン』の傘下に入る気はあるか?」

突然の言葉に。
一瞬、沈黙が流れる。

「この流れで引き抜きって……正気?」
「どうだろうな? 俺にもわからねぇよ」

メリリンは冷笑を浮かべる。だが、その目は真剣だった。
ローマンも同様に、冗談めかしながらも目は鋭く光っていた。

「『アイアン』に入れって……旗印であるあなたが捕まったんだから、表で組織が維持できているとは思えないけど」
「確かに、俺がパクられてチームの連中は散り散りになっちまったかもな。
 だが、ヤクを潰すという『鋼の意思』こそが『アイアン・ハート』の本質だ。
 ヤクに関わる物は需要も供給も、根元から叩き潰す。俺がいる限り、その流儀は不滅だ」

握りこぶしと共に語られたその言葉には、強い信念が込められていた。
単なる感情論ではない。これまで積み重ねた闘争と意志の結晶がそこにはある。

「つまりは、私の技術で流通ルートを潰す手助けをしろって言うの?」
「そうだな。何でも道具に頼るのは好きじゃねぇが、薬物に絡むクソどもを潰せるなら何でもいい、必要ならそうするまでだ。
 テメェがパクられようが、テメェの用意した玩具はもう動いちまってる。
 それに対抗するには、同じ力が必要だ。敵だったからこそ分かる。お前は本気になれば、それを止められる側に立てる」

ローマンの言葉には怒りではなく、鉄の信念と冷徹な実利が含まれていた。
この勧誘はジョニー・ハイドアウトの提案によるものだが、敵対者であろうと目的のために取り込む貪欲さは彼の本質だろう。
続けて、ルメス=ヘインヴェラートから受けた助言を告げる。

「アンタも別に薬に拘ってるわけでも、組織に忠誠を誓ってるってわけでもねぇんだろ?
 今の組織にいるのは、サリアって女の縁だと、そう聞いてるぜ?
 その女がいなくなっちまった以上、組織にこだわる理由はないと思うが」

その名を聞いた瞬間、メリリンの表情がわずかに凍りつく。

「……気安くサリアの事を口にしないで」

声は低く、抑えられていた。
だがその一言に、痛みと怒り、そして未練が滲んでいた。

「……そうかい、そりゃ失礼したな」

ローマンの謝罪は、軽い口調に反して真摯だった。
死者の名を利用されてはそれは確かにいい気はしない。
残念ながらルメスの助言は逆効果に働いたようで、場の空気は険しさを増す。

「なら、決裂ってことでいいか?」

短く問う。
その言葉には最後の警告に近い響きを含んでいた。

「だったらそのまま今の組に戻ってもいい。……ただし、その場合は、俺の敵として潰すだけだ」

その意味を理解しているメリリンの口元が強張る。
その瞬間、横から静かな声が割り込んだ。

「そこまでに致しましょう――」

不意に割って入ったのは、ドミニカだった。
ドミニカは微動だにせず、まっすぐにローマンの前に立つ。
氷のように澄んだ瞳には、怒りも恐れもない。ただ、神への忠誠と信念だけが静かに燃えていた。

「私の目の前で、私の恩人を侮辱するのは、赦しません」

その一言が、場の空気を変えた。
ローマンは鼻で笑い、ドミニカを一瞥する。
その視線には、あからさまな揶揄と軽蔑が滲んでいた。

「今までの話の流れを聞いて理解できなかったのか、鉄槌。
 そいつぁヤクをばら撒いて、世界の摂理を歪めてきた張本人だぜ?
 正義の執行者様が庇い立てするような相手じゃねぇだろ」

だがその皮肉を浴びても、ドミニカは怯まず一歩、静かに前へ出た。
殺気も威圧もない。ただそこにあるのは、揺るぎない神の使徒としての気高さと、断固たる意志。

「人は誰しも過ちを犯します。
 けれど、悔い改める意志と、再び人として歩もうとする覚悟を捨てていない限り、神はその者を見放したりはしません」

静かで揺るぎない声音。
その穏やかさこそが、ドミニカという存在の中にある不動の信仰を物語っていた。
ローマンは肩をすくめながら、乾いた笑いを洩らす。

「そりゃまた都合のいい話だな。
 神の意思だと言い張りさえすりゃ、殺しもヤクも全部チャラになるってわけか。神様ってのは便利な免罪符だな?」
「いいえ。神は免罪符などではありません。
 神の御名を騙り、己の罪を覆い隠そうとする者こそ、最も厳しく裁かれるべき存在です。
 ただ己の過ちを悔い、変わる覚悟をもってはじめて――赦しの扉は、開かれるのです。
 それが無ければ、私の鉄槌が、天に代わって下されるだけです」

その淡々とした言葉の奥には、冷たい刃のような凄みがあった。
神の御心に反する悪を滅ぼす、それが『鉄槌』と呼ばれる所以だった。

「結局、判断は『神の意思』ってやつが代わりにやってくれるわけだ。
 お前の都合がいい時だけ顔を出してくるその神ってのは、信仰心ってより、ただの逃避に見えるぜ」
「逃避ではありません。信仰とは、己の弱さと向き合い、それを神の御前に委ねることです」

ドミニカは静かに言葉を返す。
対してローマンは、冷笑を崩さないまま、さらに突きつける。

「下らねぇ。神なんてありもしねぇモノの言葉に縋らなきゃ、誰かを許す判断もできねぇのか? ちったあテメェの頭で考えろよ」

ドミニカの眉が僅かに動いた。
だが、すぐに静かな眼差しを取り戻し、応じる。

「神の実在を疑われますか? 神は人の尺度で測れるものではないのです。
 神の存在が見えないのは、それをあなたの知覚でのみ理解しようとするからです。
 空気も、重力も、目に見えなくとも在る。私は神の在り方を、世界の理の中に感じているのです」

その言葉に、ローマンの表情がわずかに険しさを増した。

「なるほど、神はいる。だから『神の言葉』に従った殺戮も正義だってわけだな――なぁ『魔女の鉄槌』?」

その名は、明確な皮肉を帯びて投げつけられた。
自らの信仰のもとに、、新興宗教の信者を皆殺しにした虐殺者にむけて。

「赦すも罰するも、すべて神のお達し、そう言い張りゃ、自分の責任は帳消しだ。
 自分が赦したんじゃねぇ、神が言ったから赦してやった? それはただの責任逃れだろうが」

吐き捨てられたその言葉には、ただの皮肉ではない、深い憎悪が滲んでいた。
ローマンの信仰への否定、それは単なる思想の違いではなく、過去に根差した怒りだった。

「知ってるぜ。世界で一番人を殺したクソ野郎が誰か。
 『神』の名のもとに命を刈り取ってきたてめえら狂信者どもだ。
 『神』ってのはその言い訳に使われるだけの張りぼてだよ」

その瞬間、空気が凍りついた。

「――――――我が信仰を、愚弄なさいますか?」

ドミニカの声が低く、鋭く、深く沈む。
その瞬間、彼女の周囲に黒い重力の膜が揺らめきながら広がった。

微細な振動が空気を揺らす。
まるで凍てついた氷の針が空間に満ちていくような緊張感。
それは、神の名においてその『鉄槌』を振り下ろす覚悟が固まったことを意味していた。

その信仰心で異教徒を殺戮した『魔女の鉄槌』。
ローマンは微塵も怯むことなくその殺意を堂々と受け止めるように立つ。

「いいか、こいつは忠告だぜ、狂信者。
 ――――――これ以上、そのブサイクな殺意を俺にぶつけるな」
「ダメよ、ドミニカ! こいつに攻撃しちゃ……!」

次の瞬間に起こる事を予感し、メリリンが身を乗り出して静止の声を上げる。
だが、その警告は間に合わなかった。
ドミニカの足が一歩踏み出された瞬間、彼女の周囲に展開されていた重力場が一気に濃度を変える。
空間が歪み、まるで世界が彼女に引きずられるように、空気が震え、重く沈む。

「神罰を執行します――――――!!」

ドミニカが一歩踏み出すと同時に、重力場が空気をねじ曲げ、地を蹴ったその姿が残像になった。
重力の加速でドミニカの身体は視認すら困難な矢となり前方へと射出される。

鈍い衝撃音が響く。
その瞬間、何が起きたのか。
気がつけば、ドミニカの影は突っ込んだ方向とは真逆、メリリンの脇をすり抜け後方の岩肌に叩きつけられていた。

「逸らしたか。思いの外やるじゃねぇか」

岩肌に叩きつけられたドミニカを見て、ローマンは感心したように言う。
それは皮肉でも煽りでもなく、純粋な評価だった。

不動のまま放たれたのはローマンの超力。
破壊衝動を衝撃波としてぶつけるというだけのシンプルな力だ。

あの一瞬、放たれた衝撃波がドミニカを飲み込んだ。
ドミニカは瞬間的に展開した重力場の方向を操作して、ローマンが放った衝撃波の軌道をほんの僅か逸らして正面衝突を避けていた。
正面から受けていたら昏倒する程度では済まなかっただろう。反応が一歩遅れていれば、死を免れたかも怪しい一撃だった。

感情がそのまま攻撃に繋がる彼を苛立たせるという事はこういう結果を生む。
ネイ・ローマンとの交渉を行う上で挑発はご法度であるとされる所以である。

「くっ……!」

ドミニカはなんとか意識を保っているものの動くことが出来ず呻き声を上げて崩れる。
それと同時に、ジェーンが動いた。
もはや開戦の火蓋は落とされた、後れを取らぬよう殺し屋としての経験が彼女を動かす。

彼女が放ったのは、手の内に隠し持っていた小石。
だが、その彼女が手にしたモノには、『生物に対する殺傷性』が付与される。
目にも留まらぬ速度で飛翔したその小石は、獣のような軌道でローマンの側頭部を狙う。

だが、振り返ったローマンが鋭く睨みつけた瞬間。
パァンッ、と甲高い音を立てて、小石は空中で粉砕された。

「なっ…………」
「……ったく、傍で転がってるだけの小石でいりゃ見逃してやったのによ」

余りの結果に言葉を失うジェーンに冷たく、苛立ちを含んだ声が返る。
その声に呼応するように、ローマンの身体を取り巻く空気が震え始めた。
重く、湿った圧力の波が辺りに広がっていく。
その視線の中には立ちすくむ女と、立ち向かう女と、立ち上がろうとする女が映る。

「そうかい。だったら――――」

ローマンが、ゆっくりと地面を踏みしめる。
そのたった一歩が、世界をくにゃりと歪めた。
目に見える形となってネイ・ローマンの敵意が爆発的に膨れ上がる。

「テメェら全員――――俺の敵だ」

激震が走った。
その言葉を引き金にするように、ネイ・ローマンの敵意が爆発する。
感情が爆発するとはよく言ったものだが、彼の感情は文字通り大爆発を引き起こす。

地面が震え、空気が裂けた。
中心から外側へ放射状に広がった衝撃波が、四方八方へと解き放たれる。
赤黒い衝動の奔流が地面を割り、熱風となって吹き荒れた。
大地が波打ち、破片が弾丸のように飛散する。

次の瞬間、三人全てが、その爆発的な力の奔流に呑み込まれた。
大気が裂ける音と、肉体が吹き飛ぶ衝撃が、辺りを包み込んだ。

三人の影が、爆風に呑まれ、飛び散る。
地面は抉れ、巨木は根こそぎ引き抜かれ、あたりは荒廃した焦土と化す。

「――――――話になんねぇ」

戦いは、始まって数秒で決着していた。
いや、それは戦いとすら呼べるものではなく、一方的な蹂躙でしかない。
ネイ・ローマンは、その場にただ立ち尽くすだけで、ただひたすらに圧倒的だった。


乾いた土が鼻腔を刺す。
風が止まり、砂粒すらも沈黙したような静寂が、辺りを支配していた。

「……く……ぁ」

ジェーン・マッドハッターが、倒れたまま呻き声を上げる。
耳鳴り。血の味。歪む視界。焦点の合わない空が、波のように揺れていた。
全身が麻痺したように痺れている。指一本、まともに動かせない。

(重力波……ドミニカの……)

思考が霞む中で、自分が助かった理由をギリギリで理解する。
ローマンの超力――あの爆発的な敵意を帯びた衝撃が到達する直前。
ジェーンの目の前を盾のように黒い幕が覆った。
ドミニカの超力が重力の歪みで逸らしてくれたのだ。

完全に防ぎきれたわけではない。
だが、あれがなければ身体ごと吹き飛ばされていた。
その代償として、ドミニカは岩肌に叩きつけられ、意識を失って動かない。

(……やられた。こっちが……完全に、格下だった……)

地面は抉れ、木々は薙ぎ倒され、あたり一面が爆撃でも受けたような有様だ。
焦げた臭いと、風に舞う破片が、惨状を物語っている。

たった一撃で、完全に勝負は決まった。
ネイ・ローマンの力は、もはや兵器そのものだ。

ネイ・ローマンは全てが吹き飛ばされた荒野の中心に、堂々と立っていた。
全身を包む怒気が霧のように揺らぎながら、彼は微動だにせずそこにいる。
その存在感はまさに、力による支配の権化だった。

彼の戦闘力は感情によって大きく左右される。
和やかな手合わせや小競り合いとは違う、彼が本気の敵意を見せた時どうなるのか。その結果がこれだ。
ここに殺すべき相手への殺意まで含まれた場合どうなってしまうのか、想像すらできない。

――――強すぎる。

同じネイティブでも次元が違う。
これがネイティブの集団であるストリートチルドレンを支配する頂点の力。
こんな怪物に、どうやって勝てるというのか。

だが、その怪物の前に、静かに立つ者がいた。

メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。

構えはない。敵意も殺意も、その姿には感じられなかった。
だが、青ざめた顔色ながらも、彼女は立ち上がり、静かにローマンの目を見据えていた。

「よぅ。加減が過ぎたか? やはり組織の連中から俺への対処を聞いていやがったようだな、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン?」

ローマンが、冷たい声で告げた。
あの瞬間、ローマンの怒りは全方位へと放たれていたが、メリリンに対してだけは、わずかに軌道が外れていた。
彼女だけはローマンに対して攻撃を行わず、明確な敵意を示さなかった。

ネイ・ローマンに敵対してはならない。

ストリートに存在する不文律だ。
彼のネオスは敵と見做した相手に容赦をしない。

直接的な敵意を向けても、向けられてもならない。
それはすなわち致命の破壊力となって返ってくる。
本気の彼の敵意を受けて生き延びたられたのは、同じストリートギャングの一大組織を率いるスプリング・ローズくらいのものだ。
敵にならないことこそが生き延びる唯一つの手段である。

「……わかった。従う。あんたの傘下に入る、これでいい?」

メリリンは両手を上げ、降伏の意思を示した。
虚勢ではない。現実を見据えた上での、冷徹な判断。
これほどの力の差を見せつけられては、選択肢など他に残されていなかった。

「ただし、条件を付けさせて」
「この状況で条件を提示する度胸に免じて聞くだけ聞いてやるよ。聞き入れるかどうかは別だがな」

メリリンは視線を後ろに向けた。
倒れたままのドミニカ。動けず地を這うジェーンを見て再び、ローマンと向き合う。

「この二人は見逃して」

その一言に、ローマンは薄く口端を吊り上げた。

「そいつぁ、そいつらの態度次第だな。これ以上逆らわねぇってんなら、見逃してやってもいい」
「これだけの力の差を見せられれば、逆らう気なんて起きるはずないでしょう?」
「どうだか。狂信者ってのは、往々にして理屈じゃ動かねぇからな。……ま、いいだろう」

皮肉のように吐き捨てるが、それは了承の言葉だった。
ローマンはドミニカのことを脅威とすら感じていない。
大人しくしているなら見逃す。逆らうなら潰す。ただそれだけのことである。

「それともう一つ」
「まだあんのかよ」

ローマンが呆れの言葉を漏らすが、メリリンが図々しくもさらなる要望を口にする。

「……私は『サリアの亡霊』を終わらせたい。そのために協力して欲しい」

死者であるはずのその名を聞いた瞬間、ローマンの目が細くなった。

「……どういうことだ?」

簡潔に、メリリンは語った。
この地にはサリア・K・レストマンの姿を模した亡霊がいると。
話を聞き終えたローマンは意外にもすんなりとこの話を受け入れた。

「なるほどな……ハイヴの奴と似たような超力者がいるという訳か」

ローマンは死者を取り込む超力者の前例を知っている。
『アイアン・ハート』や『イースターズ』にも甚大な被害を齎し、あのスプリング・ローズすら退け、他ならぬローマンがとどめを刺した相手だ。

「いいだろう。死者の自由まで奪う輩は俺としても胸糞が悪ぃ。ついででよければ処理してやるよ」

ローマンが条件を飲む。
これで契約は成立した。

「これから私はあなたの部下ってことね。同行すればいいのかしら? それともルメスたちに協力すればいいの?」
「ルメスたちにそこまでしてやる義理はねぇな。ひとまずは俺に同行しな。傘下に入った以上、この場で無駄死にされても困るからな」

そう言いながら、ローマンは足元で転がるジェーンへと視線を向ける。
うずくまるように身を縮め、まだまともに動けない彼女へと、淡々とした口調で言葉が落とされた。

「聞いた通りだ、俺に歯向かわない限りは見逃してやる。そこで伸びてる鉄槌にも伝えておけ」

ローマンはそれだけを言って踵を返した。
無言で歩き出すその背へ、メリリンもついていく。

だが、メリリンはふと足を止め、振り返った。
その瞳が、倒れ伏すジェーンをとらえる。

メリリンは相変わらずの無表情。
ただ静かに、何かを伝えるように口を動かすことなく視線を交わす。

それは言葉の代わりに交わされた、無音の会話。
だが、その交錯も一瞬。メリリンはローマンの背へと再び向き直り、歩き出した。

二人の足音が、傷ついた大地の上に淡く響く。
朝焼けに照らされるブラックペンタゴンの中へ、ゆっくりと吸い込まれていった。

残されたのは、砕けた地と、二人の傷ついた女。
ジェーン・マッドハッターは、呻きながら地に手をついた。
熱と痛みがまだ神経を刺す。だが、ローマンが遠ざかっていくその背を見つめるだけの意識は、辛うじて残っていた。

「……見逃された、か」

息を吐くように呟いた言葉には、安堵も、恐怖も、なかった。
ただ一つ、滲んでいたのは悔しさだった。

サリア・K・レストマンの亡霊を終わらせる。
それが彼女に課せられた依頼だった。
別にジェーンはその契約に乗り気ではなかったし、過去の亡霊とやらに何の興味もなかった。
だが、その契約を目の前で奪われたことに、今は無性に悔しさを感じている。

敵うはずのない相手だと、わかっていた。
見せつけられた力の差はどうしようもない程に絶対的だった。

握りしめた拳に、土が食い込む。
まだ立てない。その事実が、さらに彼女を苛立たせる。

「……ふざけんなよ、クソッ……!」

地面を拳で殴る。
砕けた石が散り、皮膚が裂ける。

血が滲む。痛みが走る。
それすらも、今は心地よかった。

視線の先には、まだ気絶しているドミニカ。
彼女を守ってくれたことに感謝すべきなのはわかっている。
それでも、守られたことが、自分の中の矜持を突き崩していた。

ジェーンもまた、牙を持つ者だった。
己が望まずとも強い力を持ち、殺し屋として生きてきた。
誰にも頼らず、自分の仕事は自分で果たす。そういう流儀で生きてきた。

それなのに今はどうだ?

圧倒的な暴力を前に、ドミニカの超力に守護られ、メリリンの自己犠牲に救われた。
これほど、みっともない結末があるか。

元より死刑囚。
人を殺すしか能のない自分は生きているべきではないとすら思っている。
己が暴力性を肯定するギャングスタ―と己が超力を嫌う殺し屋では、その性根からして話にならない。
ならば、この痛みも悔しさも、当然のものとして受け入れ目を閉じるべきだ。

唇の端をかすかに歪め、血を拭う。
風が戻ってきた。土煙が再び舞い、夜が完全に明ける気配が迫る。

彼女は目を閉じる。
もう一度立ち上がることが出来て、再びメリリンとローマンと相まみえたとして自分は何を思うのか。
その感情を、どこに向ければいいのか。
彼女自身にも、まだ分かっていなかった。

それでも、朝が来る。何があろうと。

【E-5/ブラックペンタゴン南東入口/一日目・早朝】
【ネイ・ローマン】
[状態]:両腕にダメージ(中)、疲労(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
1.ブラックペンタゴンでルーサーとローズを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。

【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
1.サリヤの姿をした何者かを探す。見つけたらその時は……
2.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する
3.山頂の改編能力者を警戒。取り敢えずドミニカ任せる
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました

【E-5/ブラックペンタゴンの近く/一日目・早朝】
【ジェーン・マッドハッター】
[状態]:全身にダメージ(中)、一時行動不能(回復中)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.無事に刑務作業を終える
1.回復に努める
2.山頂の改編能力者を警戒
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました

【ドミニカ・マリノフスキ】
[状態]:気絶、全身にダメージ(大)、全身に打撲と擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.善き人を見定め、悪しき者を討ち、無神論者は確殺する。
1.ジャンヌ・ストラスブール、フレゼア・フランベルジュ、アンナ・アメリナの三人は必ず殺す
2.神の創造せし世界を改変せんとする悪意を許すまじ
3.山頂の改編能力者について、ソフィア・チェリーブロッサムに協力を仰ぐ。
※夜上神一郎とは独房に収監中に何度か語り合って信頼しています
※メリリンおよびジェーンと知っている刑務者について情報を交換しました。
※ルーサー・キングについては教えて貰っていない為に知りません。

067.キミに願い 投下順で読む 069.Revolver
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若きギャングスター ネイ・ローマン Scrapper
落下速急行 メリリン・"メカーニカ"・ミリアン
ジェーン・マッドハッター 神の道化師、ドミニカ
ドミニカ・マリノフスキ

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最終更新:2025年05月06日 22:02