俺には、神がついている。野球の、バッティングの神様が。
波和風呂男は、己のバッティング技術をそう評価し、驕っていた。
おごりがなくなった今そうは思わない。思わないが……
この日、風呂男は確かに自分には神がついていると思った。
それは、バッティングの神様ではなく……
汗腺から水分が分泌され、肌を伝って落ちる。皮膚の表面、
その真下にある空間が水分で満たされて、外部に押し出されるのを感覚で感じる。
本来なら一瞬で終わり、実感として感じることの無い感覚を、波和風呂男は味わっていた。
極端な酷使に悲鳴を上げる筋肉、過重労働に苦痛の声を漏らす骨格、未だに訪れない安息
の時を求め、脳細胞からこだまする抗議の声。
それら全てが心地よいと感じるような、危険な状態になるまで、風呂男は素振りを続けていた。
周りでそれに付き合っていた連中はとっくの昔にダウンして地面に倒れこんでおり、生き残っ
ているのは猛田ただ一人。その猛田も意識視線共に朦朧としており、いつ倒れてもおかしくな
い状態であった。
それでも、風呂男は振り続ける。
安定した打率と正確なヒッティング……自分の最大の武器はそれだけだと認識している故に。
集団で素振りを開始し、最後の一人になるまで続けるという狂った練習。
本来なら、鍛えられた猛者が倒れるようなオーバーワークは控えさせるべきなのだろう。そ
う指示を下すべき立場にある監督は、ただ黙ってその光景を眺めているだけ。
仏頂面で、内心の笑みを覆い隠しながら一人ごちる。
(面白い化け方をしたな)
一ヶ月前……公式大会で聖タチバナ学園に敗北するまでとは豹変した波和の様子が、監督に
とっては喜ばしかったのだ。散々だったあの試合で得た、数少ない収穫といっていいだろう。
以前の波和は、『バットが勝手に球に当たってくれるのさ』とのたまい、ろくに練習もしな
い男だった。投球の自動追尾とも言える無意識のバットコントロールの上に胡坐をかいていた
というわけだ。
まったく練習をしなかったわけではない、特に長所のバットコントロールについては熱心に
練習していたが、それ以外の練習……特に守備関連の練習は手を抜きまくっていた。おかげで
この男、守備は小学生以下というレッテルを貼られていたほどだ。ミーティングには一回も出
ず、自分の技術を他人に教えようという意気込みがまったく無い。
なにより、執念というものが感じられない、文字通り『技術だけ』の選手だったのだ。
それが、今はどうだ。
自ら率先してミーティングに参加し、野手全員の素振りを指導し、積極的に己の技術を仲
間に伝えている。
(この覇気、あなどれんな)
闘志とでも言うべきものが、波和に加わった。守備もレベルが低いながら、何とか人並み以
下程度には(以前はそこにすら達していなかった!)成長していた。
たったそれだけなのだが、監督は笑いが止まらない思いを味わう。
もし、この先この男がこの調子でスタメン入りし、帝王を支えることになるならば……帝王
実業は確実に甲子園を制覇するだろう。
幸い、この男のポジションであるサードは確固たるレギュラーがいない。
(帝王は、もっと強くなる!)
確信。
似たものでもはない、確信そのものが、監督の胸中にひしめいていた。
とはいえ……
「モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モ
ルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっ
スァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァ
ッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ!
モルっスァッ! モルっスァッ! モルっスァッ!」
「も、もるすぁ……もるすぁ……もるすぁ……もるすぁ……もるすぁ……」
「声が小さいぞ猛田ぁっ! 後、声に覇気が無ぁぁぁぁいっ!!
もっとこう、『面白いからって頭にマッサージ器を当てられ散々遊ばれた挙句気持ち悪いか
らってチョップされて真横に吹っ飛ばされた壊れたファービー』の如き怒りを込めろぉっ!!」
「も、もるっすぁっ…………もるらするぁぁっ」
あの妙な掛け声だけはちょっといただけないが。
というか、なんなんだその具体的なイメージは。貴様の言う壊れたファービーには、今の猛田
のほうが近いと思うぞ? ってか、猛田よ。お前はそろそろギブアップしとけ、目とか呂律とか
色々ヤバイ。脳裏をよぎった突っ込みを黙殺し、監督は嘆息した。
このごろ、『壊れファービーバッティング』と呼ばれている風景……はじめられてから一ヶ月
たったが、周りの人間は明らかに引いている。
「……監督」
「ん?」
呼ばれて監督が振り向くと、友沢が久遠を引きつれてそこに立っていた。
ピッチング練習を切り上げてきたのだろう、肩にアイシングをかけながら、額に流れる汗をぬ
ぐっている。予定では、切り上げはもう少し先だったはずだが……友沢には込み入った事情があ
るとはいえ、それでも聞かざるをえない。
「どうした友沢……バイトでもあるのか?」
「どうしたって……」
あんまりな監督の台詞に、友沢は呆れて、
「もう、終了の時間ですよ」
「何!?」
あわてて腕時計を見れば、なるほど、確かに終了の時間に時計の長針が追いついている。
どうも、物思いにふけりすぎて時間が経つのを忘れてしまったらしい。ただでさえオーバーワ
ークな壊れファビ練習だ。これ以上は許容範囲を超えてしまう。
「まだやってるんですか……あいつ」
「す、凄いな~」
黙々と素振りを続ける波和を見て、眉をひそめる友沢。単純に驚愕している久遠と違って、そ
の表情には苦渋がにじんでいた。
この所の波和の練習は、明らかなオーバーワークだ。
練習だけならともかく、奴は今でも居残り練習を続け、数えるのも気が遠くなるほどの数の素
振りを繰り返しているのだ。
(奴に必要なのは素振りじゃない。休養だ)
だが、友沢がそう言ってもアノ男は受け入れないだろう。やりたくは無いが、監督に告げ口す
るしかない。
監督があわてて終了の合図を出すと同時に、猛田が白目を向いてぶっ倒れる。それを見届けた
波和は、バットを杖のようにして寄りかかり、ずりずりと地面に座り込む。
野手総員死屍累々。これが、一ヶ月前から続く帝王実業高校野球部の練習風景であった。
「ふぅ」
嘆息しながら、波和風呂男はアイシングの終わった肩を軽くまわす。
校門からは見えないが、グラウンドでは猛田以外の野手連中が、未だにもるすぁと口ずさんで
いるが筈だ。それを風呂男は一切気にかけていない。参加自由意志の練習なのだ、ついてこれ
ない人間や、自己管理が出来ず壊れるまで振り続ける人間にまで気を使う必要は無い。
「……友沢はバイト、久遠はその追っかけ、猛田は追試か。
いねえじゃん」
「友達少ないでやんすねぇ。ちなみに、おいらも追試でやんす」
「やかまし」
野球部の親しい人間と一緒に帰る……高校でのクラブにおけるイベントのひとつをこなそうと
して、いきなり撃沈される風呂男であった。
この波和風呂男という男、基本的にとっつきやすい性格をしているのだがいかんせん部活におけ
る態度と容姿が悪かった。
ここ一ヶ月は別だが、以前は人前で一切努力をせず、素振りも放課後みなが帰ってからするも
のだから、傍目からはサボって才能におごっているようにしか見えない。
結果、居残り仲間の友沢、久遠、猛田、腐れ縁の矢部以外の全員に嫌われまくることになった
のだ。見た目に至っては、目つきの悪い殺人鬼のような有様。
いろいろあって誤解が解けたいまでも、部員との仲はギクシャクしたままである。
「じゃ、先に帰ってるぜ」
「……待とうか? の一言もないでやんすか?」
「……待っててほしいのか?」
「遠慮するでやんす。波和君はまっすぐ帰るでやんすよ~」
「俺は近所の餓鬼かなんかか?」
流石の矢部も、野郎と放課後待ち合わせという趣味は無かったらしい。とぼとぼと歩きさる矢
部を見送り、波和は帝王実業を出た。
先程、友達がいないと突っ込まれたが、その分数少ない友人とは一緒にいる時間は多かった。
なんだかんだでほぼ毎日友沢や久遠、猛田の誰かと一緒に帰るし、矢部にいたっては一日中つ
るんでいる。一人で帰るのも久しぶりのことだ。
さて、何をするか……歩きながら考える事30秒。真っ先に考え付くのは野球の練習だが……
それが出来るくらいなら、ユニフォームを着て学校に行く。
居残りして素振りしていたのが監督にばれて、二日間休養して来いとたたき出されたのである。
しかも、その間一切の運動禁止ときたもんだ。
ばれた原因はわかっている。多分、友沢あたりが心配してくれたのだろう。今自分が行ってい
るのが、明らかなオーバーワークだという自覚くらいある。
(……なーんかなぁ)
波和風呂男は野球馬鹿である。
趣味、野球。好きなもの、野球。休日でする遊び、野球……子供のころから野球尽くしの人生
を歩んできた。TVゲームもするし、ネットサーフィンもするが、一番楽しく好きなのは野球だ。
好きでその道に踏み入った足と特殊な才能、その双方があるからこそ、球のホーミングなどと
いう常識はずれのバッティングが可能なのである。
それ故に……
(息抜きって何?? 何すりゃいいの?)
いざ休めなどといわれると、こんな疑問にぶち当たるのである。
この生粋の野球馬鹿、ゲームやインターネットよりも野球が楽しいのだ。というか、彼にとっ
てそれらは体を休めている最中の暇つぶしという認識しかない。それだけで丸一日つぶせるほど
の趣味とはとてもいえなかった。
野球のビデオを見ようも、ビデオは只今故障中……修理費プラス、見返りグローブを購入した
せいで只今金欠中。正直できることがあまりに少ない。
一日中2ちゃんねるというのも、なにやらすさまじく不健康だ。
「さて、どうすんべ~」
今夜は疲れを取るために寝ればいい。しかし、明日はどうするか……
簡単そうに見えて、実はこの上なく難しい課題に、あたりを染める夕日のように赤点スレス
レの風呂男の脳みそは、パンク寸前だった。
そんなこんなで十分後。
つい先程まで明日のことで悩んでいた風呂男は、一瞬でその悩みから開放されていた。
何せ、明日のことなんぞよりさらに差し迫った問題が提起されたからだ。
(……さて、状況を整理してみよう)
ちゃりちゃりと指先で鍵を弄びながら、風呂男は表情を一切動かさずに目の前の状況に向き
合った。傍目から見れば冷静沈着に状況をを把握しているように見えるが、実際は脳内に大根
が走り回っている始末だった。
(えっと、ここはアパートの、俺の部屋。一人暮らしの、俺の部屋。うん、それは間違いない。
棚に並んでる野球の本もまったく同じだし)
せめて落ち着こうと『それ』から必死で目線をそらし、部屋のインテリアに神経を集中させる。
(えっと、そうじゃなくてもちけつもちけつ)
ごにゃぁぁぁぁっ
必死で立て直そうとした冷静さも、『それ』に抱かれている愛猫の悲鳴(?)でぶち壊され
た。仕方なく、風呂男は改めて『それ』、ここにいるはずの無い侵入者を凝視する。
……女の子であった。
それも、細身の体をライトイエローの制服に包んだ、飛び切りの美少女がすぴょすぴょと部屋
の中央で眠り込んでいたのだ。しかも、我が家の愛すべきデブ猫、ギコを抱き枕のように抱きし
めつつ。
ちなみに言えば、風呂男に恋人はいない。というか、そんなもの作る暇があるなら野球につぎ
込むような、そんな男である。作れるはずが無い。
少なくとも、自分の留守中に部屋に上がりこむような中の女性といえば、とっくの昔に女を引
退した、母親くらいしか思い当たらない。女の子がここにいるはずが無いのだ。
ましてやそれが……
憎んでも余りある相手、聖タチバナ学園の六道聖ともなれば。
波和風呂男にとって、野球とは何か。
そう聞かれると、はっきりって語りきれないほどの言葉が浮かんでくる。
楽しい、面白い、厳しい、激しい、かけがえの無いもの……
そうやって浮かんでくる言葉の一つに、神聖不可侵というものがある。
彼にとって、野球とは実力対実力の世界であり、腹の読み会い探りあいはあれど、それも実力
のうちだと割り切り、己の力だけで挑んでいくものだ。
そんな野球の場で、あのような醜態を晒させた上に、卑猥で相応しくない単語を並べ立てた…
…そんな相手に好意など抱けるはずが無い。ましてや、風呂男は未だにアノ試合のときの醜態を
夢に見て、うなされ続けているのだ。
軽蔑と憎しみ、恨みと嘲り、さまざまな感情が交じり合った、負の感情のスープ。それが風呂
男の胸中に現在煮えたぎるもの。
(……ちっ!)
久しぶりの休日の前に、嫌なものを見てしまった。
動物の礫死体に対面した多くの人間がするように、汚らわしいとばかりに目線をそらす風呂男。
何ゆえこのクソ女がここにいるのかはともかく、同じ空気を吸っているだけで吐き気がした。
「……ギコ、こっち来い」
ごにゃ
体重をかけられて苦しいのか、デブ猫は苦しそうなうめき声を上げて、聖の手から逃れようと
もさもさもがきだした。が、
「……んっ」
無意識なのか寝ぼけてるのか、聖はギコが抜け出ようとするのを拒み、同じように身をよじっ
てぬくもりを求める。
猫逃げる、聖捕まえる。そんないたちごっこが続くことしばし。
ごにゃぁぁぁぁぁぁっ……
「ええい、ガッツの無い猫め。ギャラクティカマグナムして逃げんかい」
この場に友沢がいれば『お前猫に何求めてる』とでも突っ込んでくれるのだろうが、この場に
いる人間は眠り姫だけだ。
仕方なく、風呂男は聖に近づき(本当は近づくのも嫌なのだが)ギコを抱きしめている聖の手
を握る。
思いのほかやわらかい感触が手のひらに伝わり、三流のラブコメならここで恋の始まり~と
なるのだろうが。
なにせ、先入観が先入観である。普通ならどぎまぎする柔らかさもにも、気持ち悪さしか感じ
ず、乱暴に引っぺがしてギコを奪還した。
ごにゃっ
「おお、無事かギコ」
自分の手の中で暢気に呻くギコ猫に、風呂男はほっと安堵の息を吐く。
あんまり泣き声は変わってないが、声帯にまで肉がついたらしいこのデブ猫は、徹頭徹尾こんな
声である。
「んー……」
と、その時だった。
ぬくもりをなくしたと気付いた聖が、目をこすりつつ上体を起こしたのは。
「……ん?」
薄く細められた目が、風呂男の姿を捉えた。風呂男も、双眸に敵意をこめて睨み返す。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
そのまま見つめ合うことしばし。
「……なんでここにいる?」
「そりゃこっちの台詞だ」
寝ぼけているのか、ちんぷんかんぷんな事を言い出す聖に、風呂男は青筋浮かべて突っ込んだ。
唐突だが、六道聖は、ここ一ヶ月ずっと悩んでいた。
聖だけではない。野球馬鹿のキャプテンやみずき、秋季大会で帝王に勝利した聖タチバナの
面々は、全員が同じ悩みの中であえいでいた。
すなわち……あんな勝ち方でよかったのか? と言う事。
当たり前だが、聖は野球が好きだ。早川あおいという先駆者がいるとはいえ、女性野球選手
は球界から受け入れられたわけではなく、向かい風も強い。クロスプレーの多いキャッチャー
というポジションは『パワーの無い女が』『嫁入り前の女が』と耳に入るノイズの量は段違いだ。
好きでなければやっていられない。
そんな野球の世界で、あんな卑怯な戦術で勝利した……その事が、聖の心に重くのしかかっ
てくる。罪悪感を感じているのは聖やみずきだけではないが、女の癖にという雑音に対して女
にしか出来ないセクハラ気味なささやき戦術で返したという事実に対するダメージは、男たち
の比ではなかった。
女の癖にという声に抗って、実力で対抗してきたのに、いざとなったら女であることに頼っ
てしまった。
帝王実業という強大すぎる敵を前にして、自分の卑しい本性が露呈してしまったようで……
次は実力で勝つ。キャプテンはそう部員達を鼓舞し、罪悪感をばねに練習に励むようチーム
メイトを叱咤した。事実、その激励はチームメイトたちを活性化させ、少しずつだか確実に、
聖タチバナ学園野球部は成長していた。
それでも、聖はただ一人悩んでいた。
みずきやキャプテンと違い、自分はその卑怯な戦法の最前線で口を開いていたのだ。その罪
悪感は、他者の非ではなかった。
このままではいけない。
そう考え、聖は早速行動に出た。ささやいた内容をキャプテンに聞いてもらい、自分が誰を
一番傷つけたかを推測した。
そうして導き出された相手が、波和風呂男その人だったというわけで。
「というわけで、波和先輩に会いに来た」
「……………………………………………………………………………………」
ようやく意識がはっきりした聖から一連の説明を聞かされ、風呂男は軽くめまいを覚えた。
まさに気分はorz状態である。
馬鹿にしてんのか? という怒りが湧き上がる。勝者が敗者にそのような理由で会いに来る
など、侮辱の極みもいいところだ。
当の本人はといえば、相手が何を怒っているのかわからないらしく、きょとんと首をかしげ
ている。ひざの上で丸くなったギコを撫でながら、
「で、それが何で俺の部屋の中で寝てんだよ」
「部屋の前で待っていたら、入れてくれた」
「誰が!?」
「先輩のお母様だと名乗られた」
言われてみれば、今日は母親が様子を身に来る日だったはず……
(なにやってんだよ母さん……)
大方、恋人かなんかと間違えて入れてしまったのだろう。アノ母親のことだ、『それじゃあ
後は若い人に任せて』とでも言い残したに違いない。
「で? 何しにきたんだ。喧嘩売りに来たなら買うぞ」
「喧嘩を売りにきたわけじゃない。ただ、言いたいことがあっただけだ」
「言いたい事?」
「ああ。私だけじゃない、聖タチバナ野球部一同の総意だ」
「……?」
やけに真剣な表情と声色。
ひたすら聖に対する評価の低い風呂男は、この少女がそんな真面目さを持っていることに驚
き、マユを跳ね上げる。
「次は実力で勝つ。あんな卑怯な戦術は使わない」
そして……失望した。
脱力したとも言っていい。心を読む能力など持たずとも、わかりやすいくらいに失望と軽蔑
が風呂男の表情ににじみ出る。
「ほう? それじゃあ、お前らは卑怯だとわかった上で、あんな汚い戦術使ったわけか?」
「……そうだ」
「ゴミだな」
血を吐くような聖の返答を、一言で切って捨てた。
「そうまでして勝ちが欲しいのか? ……そこに至る過程無視してまで。
とんだ茶番だな」
「……っ! それは仕方が……」
仕方が無い、とつなげようとしたことは、そこまで聞けばよくわかる。
わかっていた故に……風呂男はぶち切れた。
「ふざけんなっ!!」
「っ!?」
相手が女だとか、そんな事は完全に忘れ去って、風呂男は聖の胸倉をつかんだ。そして持ち
上げようとしたのだが……元々技術だけで腕力の無い風呂男だ。持ち上がるはずも無く、仕方
なし引き寄せる。
息がかかるような近距離で顔を突き合わせながら、風呂はゆっくりと噛み締めるように弾劾
の言葉をつむぐ。
「仕方が無い? 勝負事でんな言い訳が通用すると思ってんのか?」
「…………」
「てめーらにどんな事情があるのか知らねぇが……もし、本気でそんな言い訳が通用すると思
ってんなら、お前ら野球する資格ねえよ」
心遣いのかけらも無く、断ち切るような言い草だった。
驚いたように目を見開く聖を、力の限り(といっても微々たる力だが)突き飛ばし、
「もう
『ビリッ』
言う事は…………」
かっこつけて吐き捨てようとしたら、なんか音がした。
(……ビリ??)
音源は、自分自身の手元。聖の制服を握り締めていたそのこぶし。
視線を落としてみる。
……なにやら、ライトイエローのきれっぱしがそこにあった。
視線を上げて聖を見る。
何が起こったかはわからない、という顔をしている彼女の胸元は……ライトイエローの布は
無かった。代わりに、破れた制服の隙間から、白い無機質なスポーツブラがポロリしている…
…隙間から見える健康的な肌が、目にまぶしい。
沈黙することしばし。風呂男は状況を把握しようと、まひった脳みそを必死で再起動させ、
ひとつの結論に思い至る。
男の部屋で、か弱い女の子が服を破かれている。そして、屈強な男の手のひらには服の切れ
端が……
(ど う 見 て も レ イ プ 現 場 で す 本 当 に あ り が と う
ご ざ い ま し た ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ っ!!!!)
あまりの状況にテンパる風呂男。
と、そんなところへ……
こんこんこんっ
『波和くーん。いるでやんすかー』
『監督からの言いつけで見張りにきたッスよー』
(イィヤァァァァァァァァァァっ!!!!)
激しくタイミング悪く、友人襲来。
背後にあるドアの方向から、矢部と猛田の声が。
「テラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステ
ラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤ
バステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバステラヤバス」
壊れた人形のようにつぶやく風呂男君、そんなあんたがテラヤバス。
とりあえず鍵はかけていたのならともかく……いつまでも居留守を使うわけにも行かない。
なぜなら、
『返事が無いでヤンスね』
『まさか、勝手に自主練してるんじゃあ……』
こういう誤解を受けるからだ。なんというか、普段の勤勉すぎる生活態度が裏目に出てしま
っている。このまま二人を帰したら、監督に報告されて雷を落とされかねない。下手すりゃ退
部もありえる。
どうしようかと悩みながら玄関に視線を向ける波和。
と。そこで彼の動きは完全に停止してしまった。視線は、玄関の鍵に釘付けだ。
鍵が、かかっていなかった。
『ん? 鍵開いてるッスよ?』
『本当でヤンス』
しかも気付かれたし!
(ど、ど、ど、どうすんの俺!?)
波和風呂男17歳。
レイプ犯になるか退部になるか……ひょんな事から、激しく人生の選択を迫られていた。
「まったく、波和君はしょうがないでやんすねぇ」
「鍵くらいかけましょうよ」
「波和くーん。いないんでやんすかー?」
玄関を開けた矢部と猛田は、とりあえずその場から室内にむかって声をかけた。いくら野球
漬けの青春を送っているとはいえ、断りもせず上がりこむほどマナー知らずではない。
「んぁ……」
二人の声にこたえたのは、あくびをかみ殺したうめき声だった。
「んだよぉ……二人とも」
「あ、いたんすか波和さん」
「め、めちゃくちゃ眠そうでヤンスねぇ」
「……当たり前だ」
心配そうに聞いてくる二人に、風呂男は怒りすらにじませて、
「ぐっすり寝てるところをたたき起こされたんだからな……はふ」
「う」
「ご、ごめんでやんす」
力の限り不機嫌丸出しの波和に、二人とも平謝り。情けないように見えるが、それも仕方が
無いだろう。波和風呂男の低血圧とそれに伴う凶暴性は、帝王実業でも有名であった。バッテ
ィングとは違う意味で。
ただでさえ目つきが悪いこの男が、寝起きともなると異様な迫力が醸し出され殺人鬼のよう
に見えてしまうのだ。合宿のとき、何も知らないホテルの従業員にその顔を目撃され、思わず
通報されたほどである。
「……で、何のようだよ」
「い、いや……用というか……監督に波和さんの事見張るように言われたんスよ」
「……俺はぐっすり熟睡してぇんだ。帰れ。」
言い捨てて、二人を追い出そうとする波和。表はむちゃくちゃ不機嫌ではあるものの、裏で
はギチギチに緊張し、手に汗握っていた。
寝ていたことにしてごまかす……これが、風呂男の考え出した状況を切り抜けるための方針
である。こうやって二人を玄関払いし、タイミングを見計らって聖を放り出すつもりだった。
このまま二人が帰ってくれれば、万事丸く収まるのだが……
「ちょちょ、ちょっとまった!」
(え゛!?)
聞こえてきた靴を脱ぐ音と近づいてくる足音に、風呂男の頭から血の気が引く。
「俺ら、監督からあんたを監視するように言われてるんだって!」
「ここで追い出されたらこまるでやんす!」
「――は?」
なにやら、この上なく絶望的な言葉が聞こえてきたような気がした。
気が遠くなるのを必死で耐えながら、相手の台詞を反芻する。
(えっと、見張り? これから? 部屋の中に入るの!?)
部屋の中には、服を破られた聖がいる。今は誤り倒してなんとかおとなしくしてもらって
いるが、間が悪すぎだ。
いくら嫌いな相手でも、相手は華奢な女の子。いつまでも『こんなところ』にいさせるわ
けにはいかないのだが。
面倒くさいとか眠いとかごねて追い出そうかと思案するも、そんなわずかな逃げ道すら、
続く矢部の一言で封殺されてしまった。
「監督から、オイラ達を泊めるように伝言でヤンス。はむかったら二軍落ちだそうでヤンス」
「……すんません波和さん。代わりと言っちゃぁなんですけど、色々差し入れ買ってきましたから」
監督の命令がある上に、ひたすら低姿勢。
しかも、泊まる準備が~云々という言い訳も使えない。
波和のアパートは帝王実業から歩いていける距離にあるため、終電を載り逃した時の合宿
場になっているのだ。
久遠、矢部、猛田の三名しか利用するものはいないが、頻繁に泊り込むため着替えや下着
まで常備してある有様である。
逃げ道が完全に塞がれてしまい、波和風呂男に選択肢は残っていなかった。
「わかった……上がれ二人とも。俺が寝るの邪魔すんなよ」
「――へぇ」
矢部に連れられて室内に入ってきた猛田は、開口一番感嘆の声を上げた。失礼でない程度
に辺りを見回し、言葉を繋ぐ。
「相変わらず、男の一人暮らしのワリには綺麗ッスね」
「掃除と洗濯だけはきちんとするでヤンスからねえ……料理にももう少し気合を入れてくれたら」
部屋の中央にあるガラステーブルに荷物を置き、矢部が風呂男のほうを見た。
機能性重視の無骨なパイプベッドの上に、羽毛布団の塊がひとつ転がっている。顔をこち
らから背けてはいるが、間違いなく波和風呂男その人である。
荷物とテーブルが接触する音に、ほんの一瞬だけ視線を向け、
「なんだ、そりゃ」
「コンビニの弁当でヤンス。オイラもう黒焦げのベーコンエッグは簡便でヤンス」
「文句言うくらいなら帰レ」
「酷い!」
「波和さんのもありますよ?」
「……冷蔵庫入れといてくれ。明日食う」
「今食べないんでヤンスか?」
「帰りにラーメン食った」
それだけ言うと、風呂男はひらひらとベットから出した手のひらを振った。
寝るからもう起こすなという合図である。
「寝袋その他。いつもの所な……おやすみ」
「……まだ7時ッスよ」
「寝るの早過ぎでやんす」
呆れる二人。いくらなんでも寝るのが早すぎるだろうと思いつつ、矢部は言われたとおり
風呂男の分の弁当を、冷蔵庫に入れに行く。猛田も出来るだけ静かに自分の弁当を取り出し、
一足先に食事を開始した。
さて。
肝心の風呂男はといえば……はっきり言って、矢部たちの事を気にする余裕なんぞ無かった。
(寝れるかゴルァァァァァァァァッ!!!!(゚Д゚♯))
心の中でハウリングムーン。月に向かってほとばしるパッション。
さて、皆さんに問題です。
先程まで室内にいたはずの聖タン、矢部達が入ってきたときには室内にいませんでした。
それでは、彼女はどこに隠れたのか?
答え……
(…………(////////////////)!)
風呂男と同じ、布 団 の 中 !!
しかも、風呂男に全力前回で抱きしめられている。そうしないと、ふくらみが大きすぎて
二人に怪しまれるだろう。
全体的にもっさりした羽毛布団の存在と、細身で小柄の聖の体格の二つが会って初めて可
能な隠れ場所だ。
そして思い出してほしい。彼女は隠れる原因となったのは、『あられもない姿』にあるの
だ。布団の中でもその姿は変わらない。
前後の流れをふっ飛ばし、状況だけを見るなら、風呂男は、見た目麗しい美少女と同じ布
団の中で横になり、あられもない姿の相手を力の限り抱きしめているとゆー、涎もののシュ
チュエーションに立っているわけで。
たとえ相手に不快感を抱いていても、興奮しないはずが無い。先の試合のことで罪悪感で
も感じているのか、まったく抵抗しようとしないし。
(もちけつもちけつ。平常心平常心……バッターボックスに立つ感じで……あー、なんかい
い匂いがする、こてが女の子のって違うっ!!!! もちけつ! もちけつ!)
(……………………………………………………(////////////////////////////////))
腕に伝わってくるぬくもりと、鼻腔をくすぐる香りにテンパりながら。
波和風呂男は、17年の人生の中で最大のピンチを迎えていた。