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ボルリア

国名 ボルリア・パヴロニア社会主義共和国
英語 Borulia Pavrnia Socialist Republic
略称 ボルリア BPSR
公用語 パヴロニア語 ボルリア語
ボルリア・パヴロニア社会主義共和国とはパヴロニア連邦に加盟する社会主義を掲げた国家の1つである。

歴史

有史以前

パヴロニアという国家が生まれるよりも前の時代もこの地域はパヴロニア人が大量に住んでいたとみられ、記録も残っており古来からパヴロニア勢力圏の中に入っていたと思われる。
この地域にボルリア人が移住し定住し始めたのはパヴロニア地域に国家が誕生し徐々に広がっていくときとみられ、抗争などの跡も記録もないことから特に嫌われてもいなかったことがわかる。
なおボルリア人の起源自体はパヴロニア勢力圏から東の方であり、パヴロニア系民族には含まれていない。

ナショナリズム伝来前

パヴロニア地域にナショナリズムの考えが伝わる以前はパヴロニア勢力圏に入る1つの国家としてではなく、パヴロニアそのもののうちの一地域として存在しており、その間の歴史はパヴロニアの流れとともにあった。
内戦や反乱があった場合は付近の国家に自然に参加し戦い軍隊にも参加した記録があり、勝利や敗北のどちらも経験している。
この時点ではボルリアという名前はついておらず、ヴォストパヴロニア(当時のパヴロニアの最東端にあったことから)や東パヴロニア エーカポリア(当時民族としてのボルリア人はエーカポ族と呼ばれており現在でも通じる)などと呼ばれていた。

ナショナリズムの伝来以降 王政終幕まで

数々の内戦や反乱を隣接するパヴロニアの国家とともに戦い完全に「パヴロニアの地域」として定着していたボルリアであったが、ナショナリズムが伝来してくると様子が変わった。
もともとある程度自分の土地だという思想の強かったボルリア人がナショナリズムの伝来とともにボルリア人としての国家の建国を主張はじめ、独立思想とそれを主張する組織が生まれた。
このボルリア人の独立を狙う組織は「エーカポ族の光」といい現在にわたり活動を続ける息の長い組織である。

これによってボルリアにも内戦の風が吹き、「ボルリア史」として初の内戦が発生した。
この内戦に勝利したボルリア人は初のボルリア人国家になる国を建国した。
当時の国名はエーカポニアであり、名前の通りエーカポ族(ボルリア人)の国という名前であった。
なお政権自体の名称は第一次エーカポニア王政(ペヴロニア語でエカポニア)という。
しかし人口構成は当時と同じくパヴロニア人8割 ボルリア人1割 その他1割という構成であったことからこれに対し国民の大多数を占めるパヴロニア人は政治的不安も重なってこの国家を猛烈に批判。
結果的にこの政府はわずか10ヶ月という短い期間倒れてしまうが、エカーポ族の光は再びの独立を狙って活動をしていた。

そして内戦が始まったとき再びエーカポ族の光は第二次エーカポニア王政(ボルリアという国名に転換したのもこの王政の時であるためボルエリア王政とも またベヴロニア語でエカポニア)を作り独立宣言。
独立に反発した隣接する国家との戦いにも再び勝利し独立国家として再び独立をした。
当時の独立軍はのちの初代国王となるボルエ1世の指揮とされ、国王への熱狂的な支持集めのちに国名も
ボルエリア(ボルエ国王の国 後に訛ってボルリアに)と改め人口の大多数を占めるパヴロニア人の反発も収めた。
しかし王政は初代のボルエ1世こそよかったものの2世 3世と進むうちにボルリア人中心の国政に変貌。
1世によって建設された議会もボルリア人以外は参政権なし ボルリア人に対する免税などであった。
さらにボルエ2世以降の悪政がたたり国内は汚職が蔓延し経済的にも停滞してしまった。
当時の風刺画などでも独立を引っ張った組織であるエーカポ族の光をもじって『エーカポ族の闇』と揶揄されるほどであった。
これによりパヴロニア人が再び反発し、4代国王のボルエ4世のときにパヴロニア人を中心とした市民革命が勃発。
結果的に武装に勝るが物量は劣る王政軍に対し物量に勝る市民が農具などによって対抗し5ヶ月にわたり内戦状態になった末に収束。
ボルエ4世は処刑され王政は完全に幕を閉じた。

独立以降

市民革命を起こして王政を倒したはいいもの後で政府を作ることには長い期間が必要となった。
王政がいいのではという意見があったものの、あの王政の繰り返しになってしまうという意見からいったんは却下された。
しかし当時のボルリアでは共和政の経験がなく、パヴロニアから参考にする必要があったが当時のパヴロニアもボルリアの市民革命の流れをくんだ反乱状態でとても参考にできるときではなかった。
そのため一度は却下された王政を結局採用することになってしまった。
なおこの王政をボルエリア臨時王政という。
この国王でさえも前王政で蔓延してしまった悪政を変えることができず、再びの独立を狙うエーカポ族の光からはもちろん独立に参加したパヴロニア人からも痛烈な批判を浴び結局1年2ヶ月でつぶされることになってしまった。

この3回にわたる独立・建国が散々な結果に終わってしまったことに呆れたパヴロニア人はパヴロニアへの服属を決定。
この流れによって「パヴロニア化」という運動が加速 パヴロニア人やその他の民族 さらにはエーカポ族の光に参加しなかったボルリア人に残っていた独立思想は完全に消え去ってしまった。
また服属後のボルリア地域に対する圧政によってこの流れはさらに加速した。 
結果的に独立思想を持つのは「エーカポ族の光」ただひとつとなってしまった。

服属後の「ボルリア史」の流れは再びパヴロニアの流れとともに動くことになった。
圧政とパヴロニア化が進んだこともあり汚職は消滅。 この圧政は服属から時間が経つごとに緩められ、とうとう服属前のパヴロニア本国と同じ程度の扱いになり再びパヴロニアの地域としての立場が確定した。
またこの間にこの地域を指す名前も「ボルエリア」から「ボルリア」に変化していった。

パヴロニア革命

この流れは中世が終わり近代になってもしばらく続き、近代化もパヴロニアとともに行われたが、40年ほど前になりパヴロニアで革命が起きたところ一気に国内情勢は変化した。
パヴロニアに比べると決して広いとは言えない国土は社会主義を掲げ、パヴロニア社会主義共和国への服属も内定していたが国土などの都合により叶わぬまま独立宣言をしたパヴロニア人による政権のボルリア社会主義共和国とボルリア人の誇りを取り戻すことを主張した共和政を掲げるエカーポ族の光主導のボルリア共和国に分断された。

内戦開始初期のころは資金や支持者の数によりボルリア共和国側が押していたものの、中期ごろからボルリア社会主義共和国が共和政側に賛同できないパヴロニア人などの多数の支持を集め立場は逆転。
結果的に内戦はボルリア社会主義共和国が国土を統一した。

この内戦の後パヴロニア側もパヴロニア全土を統一 これによってようやく念願だったパヴロニアへの服属も決まり国号もボルリア・パヴロニア社会主義共和国としてパヴロニア連邦へ加盟した。
なおこの際に「ナショナリズムの象徴であり違法」だとして内戦に敗北したのちもデモなどを起こしていたエカーポ族の光への取り締まりも開始し、現在エカーポ族の光の構成員は全盛期(ボルリア革命前後)の2割近くまで減少したとみられている。

民族

古来からパヴロニア人が住み後からボルリア人が移住してきたため民族構成はパヴロニア人 ボルリア人 その他の順で多い。
しかし近年ではパヴロニア化が進みボルリア人の割合は低下し変わってパヴロニア人が増えている。
おそらく混血やパヴロニア本国からの移住が増えているためだと推測されている。
民族名 割合
パヴロニア人 81%
ボルリア人(エーカポ族) 11%
その他 8%

文化

基本的にパヴロニアの文化が根強いがやや奥まったところではボルリア人の独特の文化も存在する。
しかしパヴロニア化の動きによってそれらの文化もパヴロニアの文化に溶け込んできており文化消滅も一部ではささやかれている。
最終更新:2015年02月07日 02:54
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