りく
歩兵装備等々は知らん
野砲等も大口径のものは少数である。
戦車装備の抜本的な変化が起こったのは第四共和政になってからのことであり、これまで旧世界のアメリカ式の装備がベースになっていたものがヘルトジブリール・ヴェールヌイとの交流によって急激にソ連式のものへと変化した。
M4A3E8中戦車
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帝政期だけでなくその生産された数から第一共和政、第二共和政においても使われ続けた言わずとしれた中戦車。
元は地球時代にアメリカから供与されたM4A3E8の設計図をフリューゲルに持ち込み、皇帝がこの戦車の量産を指示したことが始まりである。
はっきりいって滑腔砲・複合装甲の先鋭車両がごった返すフリューゲルでは産廃に等しいレベルだが、帝国が長い間平和だったことと戦車兵の不足から乗りやすい車両が求められたため、同様に設計図が持ち込まれていたM48A2Cを押しのけこの戦車が選ばれた。
実際の所相手は海外勢力でなく国内相手であり、
トルキー国内に滑腔砲や複合装甲の概念がないために第一次内戦では比較的有効に働いたようだ。
しかし、T-72が居る時代にこの車両を使うというのは非常に悲しいものである…
第一共和政になって生産が中止され、最終的に862輌のM4A3E8が生産された。
事実工場の無断製造によってM48A2Cがチラホラと姿を見せ始めた第一共和政以降はこのM48A2Cへの更新が急がれた。(このM48A2Cもかなりの旧式車両ではあるのだが、もはや何も言うまい)
その他あまりの旧式っぷりにキレた兵士らによって魔改造されたモデルもいくつか存在している。通常であれば大問題になる状況であるが、設備があまりに旧式であることは皇帝以下で働く者は誰しも認識したことであり、誰も問題にせず皇帝も最後まで気づかなかった。以下それらの一覧を挙げたい。
M4A3E8(105)
車体、砲塔にはほとんど手を加えず、主砲を105mm榴弾砲に交換しただけのシンプルな仕上がり。
主に歩兵支援を目的に考案され、シンプルな改修で済むことから計122輌のM4A3E8がこの改修を受けた。
M4A3E8T
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M4A3E8車体に他の戦車より切り出した装甲を貼り付け増加装甲を施したものである。M4A3E8の装甲が不十分であると感じていた兵士は防御力強化のため皇帝に隠す形で他のM4A3E8を解体し、この装甲をM4A3E8に貼り付けた。これによって見た目が変化し、重量も大幅に増加した。しかしこの増加装甲のために最低でも1~2両のM4A3E8の存在を闇に葬らなければならず、また整備性の低さが問題とされていたこともあって帝政期の平和な時期だったこともあり第一次内戦までの改造は5輌のみにとどまった。しかし第一次内戦において無断で製造されたM48A2Cが登場すると山程あるにも関わらず防御力打撃力共に事欠いたM4A3E8の処理法が問題となった。そこでこのA型における改修方法が目を向けられ、第一次内戦終結までに29輌が改修を受けた。
また第一共和政以降もM4中戦車全体のM48A2Cへの更新が始まっていたが、やはり数だけはあるM4A3E8の処理に困った陸軍によって引き続きこの改修が行われ続け、最終的に249輌のM4A3E8Tが誕生した。それらの車両はM48A2Cへの更新の目処がつき次第訓練用車両やスクラップへと回されていった。
M4A3E8T2
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M4A3E8Tの思想を技術者らが取り入れ、M4A3E8を元に新たに設計した車両。M4A3E8Tにおける問題点であった、複数の装甲を組み合わせたことによる整備性の低下に対処するため、一枚板の厚い装甲を取り入れた。これによって見た目はM4A3E2に非常に似たものとなり、性能自体も76.2mm砲を搭載したM4A3E2のものと似通ったものになった。
この車両の生産はM4A3E8の生産ラインの一部を転用する形で行われ、帝政の終わりまでに171輌、M4中戦車の生産が終了する第一共和政までに134輌の計305輌が生産された。
TT-25
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TTは単純に「Turkish Tank」の略だと言われている。元々が兵士と技術者らによる無断製造であるために「アルタイ」のような呼称を与えることができなかったようだ。
砲塔に改造を加え、砲塔部分に90mm戦車砲を強引に搭載した代物である。第一次内戦以降は90mm戦車砲がM48A2Cに回される様になったことからこのような改修はあまり行われなくなっていった。
60輌前後のM4A3E8がこの改修を受けた。
TT-26
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車体を延長し、砲塔を取り払って155mm加農砲を搭載する
自走砲化改修。
地球時代のアメリカのM40自走砲とよく似ている。
120輌ほどがこの改修を受けた。
TT-45
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第四次内戦時に放置されていたM4A3E8を引っ張り出し砲塔に改造を加えて110mm戦車砲を強引に搭載した代物。
主にアンカラ血の海事件とアンカラ黒の3年間においてM48A2Cに対抗できる機動戦力が不足したことから行われた急場しのぎ的な改修だった。
またアルミニア人独立勢力においても破壊されたM48A2CTから持ち出した110mm戦車砲が用いられ同様の改修が行われた事例があった。
およそ10輌前後の改修が行われたと言われている。
内戦が過ぎ去った第四共和政現在でも1輌がアンカラ市街の公園の林でひっそりと余生を送っている。
M41A2軽戦車
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帝政期~第四共和政初期において使われた軽戦車。
元は地球時代にアメリカより供与された技術。皇帝は中戦車・軽戦車の2車種による運用を構想しており、この運用に似合う軽戦車としてM24軽戦車との2択となり最終的に陸軍の勧めもあって選ばれた。
軽戦車という概念自体が時代錯誤も甚だしいような時代ではあったが、トルキーの主力がM4中戦車という状況に比べればかなり進んではいる。
例のごとく旧式っぷりにキレた兵士らによって改造されたモデルもあるが、M4中戦車に比べれば小規模改造に済んでいる。
TT-28
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M41A2に90mm戦車砲を搭載した改修。
砲塔をより長いものにし、M48A2Cのものと同様の90mm戦車砲を搭載した。
重量増加から機動力が低下したが、試験結果は良好であると判断され第四共和政までに130輌が改修された。
M44T自走砲
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帝政期より使われ現在の第四共和政においても残存している155mm自走榴弾砲。
元は地球時代にアメリカより供与されたM44自走砲で、地球時代より構想されてたM44自走砲の近代化改装案がフリューゲルにおいて実現に移され制式化された。
オリジナルと異なり主砲は39口径となりエンジンは450馬力の水冷式ディーゼルエンジンとなっている。
M48A2C中戦車
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第一次内戦~第四共和政初期にかけて使われた中戦車。
元はアメリカより供与された技術をフリューゲルに持ち込んだところにあり、皇帝に認められなかったことによってしばらく日の目を浴びていなかったが第一次内戦においてこっそりと生産され始めた。
滑腔砲はおろか105mm砲も無い当時のトルキーにとって最高の装備と言えるものであった。
しかし生産のペースは遅く、最終的に全てのM4A3E8の更新が完了したのは第三次内戦に突入してからのことだった。
728輌が生産された。
M48A2CT
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110mm戦車砲を搭載し、その他細かい設備の改良が成され概ねM48A5仕様に近づいた改良型。
第三共和政において110mm口径の主砲の開発に成功したことから開発されたが、主砲の生産と改修作業共にゆったりとしたペースであったことから改修が完了したのはわずか87輌にとどまった。
その後動乱が終結した西岸州で600両程度が新規生産された。
M49シリーズ
M48A2CTの設計を基に動乱終結後の西岸州で生産された戦車。
シリーズを通して656年の生産開始から現在に至るまで2000両以上が生産されている。
M49
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648年に西岸州国家が建設され国際交流が始まると、最新の技術や情報の流入がするようになり、長きにわたる動乱で完全に破壊されていた経済は劇的な復興を遂げた。このような状況は動乱以降滞っていた西岸州国家の兵器更新に好転的な影響を与えた。
情報流入が進む中、西岸州軍指導部はM48より遥かに強力な戦車が世界各国で、しかも普遍的に存在してることに衝撃を受けていた。しかし当時の西岸州に第三世代MBTを自力開発できる科学技術力が無い事は明白であり、また生産設備もあまりに不十分でお粗末なものであった。そこで西岸州地上軍はかろうじて生産設備が残っていたM48シリーズを基礎に国際交流で得た新技術を導入して生産の簡略化及び光学システムの改良に重点においた戦車の設計を開始した。
まず砲塔に関してはM48シリーズのものを流用。主砲は貫徹力と威力に優れる110mm砲を採用した。車体は曲線部が多い車体正面を直線的なデザインに再設計することで生産性の向上を図った。また新型の照準器や測距儀を装備していた。
こうして西岸州初の国産戦車であるM49は656年に正式採用され早くも同年から生産が開始された。だが、いざ部隊運用が開始されると足回りなどに多くの不具合が頻発し、ごく少数が生産されたところで生産が中止された。
しかし全体的な構造は非常に優れており、後に不具合を改善した型式は膨大な数が生産された。
M49A1
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M49に改良型。機動力と防御力が大幅に改善された。
ヘルトジブリールで開発された1000馬力のV型12気筒ディーゼルエンジンを搭載し、サスペンションの強化を実施した。これによって最高路上速度は56km/hにまで向上した。
椀型の砲塔は新型でより装甲が強化された細長い砲塔に換装された。また新型砲塔の換装と同時にNBC防護装置の搭載も行った。
これらの改良でM49A1は非常に優れた性能を発揮し、M49シリーズの決定版となった。
1000両が生産された。
M49A2
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M49A1をベースに新型の射撃統制装置やレーザー測距儀、弾道計算用コンピュータなど当時最先端の電子機器を装備して攻撃力の大幅な強化を図った改良型。特に射撃統制装置は第三世代MBTに匹敵する性能を有しており、夜間戦闘にも対応している。
800両が新規に生産されたほか、587両のM49A1が本車に改修されている。
うみ
第四共和政以前はしらん
第四共和政でここにも一応メスが入ってはいるがどうでもいい
そら
第四共和政以前はB-29があるにはあったが他はしらん
第四共和政でメスが入ってそうな気がするが、ソ連風になったりはしてなさそう
どんどんへんしゅうしてね
ぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろぽろ
最終更新:2018年03月28日 18:33