目次
Part16
(≫184~189)≫183より派生
≫183 二次元好きの匿名さん22/10/06(木) 20:42:10
なあイチ、寒くなってきたから何か温まる料理を作ってくれないか
了船長22/10/07(金) 03:23:43
≫183
「……うん?」
「んん、なにかおかしなことを言ってしまっただろうか」
「いや、アンタがリクエストするの珍しいなって」
「そうか…… そうかもしれないな。いつも、イチが作ってきてくれるから」
「夏にもそんなこと言われたような」
「ああ、ナスの入ったそうめんか! イチは何でもよく覚えているんだな」
「なっ、別に、アンタが一人で思い出してるだけでしょ」
「おお、そうか」
「んもう、待ってて、なにか作ってくるから」
「ふふ」
「何よ、エプロンつけるのがおかしいんですかっ」
「エプロンを手に取るイチがさまになっていて、かっこいいなと思ったんだ。もう一度見たいくらいだ」
「別に見せようと思ってません。……何ニヤついてるのよ」
「いや、イチと将来一緒に暮らせたら、とても幸せだろうなと思ったんだ」
「なっ、ばッ、あんた何を」
「……あれ、イチ?」
「もういい! バカっ!」
「あっ、イチ! ……ううむ、ストレートな言い方ではイチに逃げられてしまうんだろうか…… タマの言うとおり、ズバっと言ってみたのだがな……」
……あったかいもの。
朝のお布団。クリークさんと作って食べるできたての朝ご飯。朝日が柔らかく照らす校門前のベンチ。早朝トレーニングを済ませてきたオグリ。南中の太陽が当たる教室。トレーニングしているときの自分。夕日の差すミーティング中のトレーナー室。お風呂。夜のお布団。
トレーニングが終わって、更衣室ですれ違うオグリ。たまにタマモ先輩。部屋で寝転がってるモニー。夜食にありつこうとするオグリ。あいつの手、いつもあったかいな。
あったかいものを探すと、必ずオグリの顔や後ろ姿が思い浮かんでは首を振って解消しようと試みる。理由は分からないはずだと一生懸命自分に語りかける。それもこれも、あのギャル軍団とモニーがからかってくるからいけないんだ。何かに付けてオグリギャルだ通い妻だって、余計なことを言ってくる。
何が『将来一緒に暮らせたら』よ。アイツもまるで余計なことしか言わないじゃない。どうして私が、一人だけでこんなに困らなきゃいけないの。あんな澄ました顔でしれっと言い放つなんて、ズルい。私だけモヤモヤさせられる。
私は今でも何をしたらいいか分からなくて、あんなにみっともなくオグリの前で思いを吐露したにも関わらず、未だにキッチンに立っているっていうのに。
アイツばかり、次に何をすればいいかが分かっているような気がしてならない。私だってそうなりたい。
すっかり熱を帯びた手を冷やそうと、桂剥きしている輪切にした大根の回転スピードをあげる。作り始めた頃はできるわけないと思っていたけど、すっかり慣れたものだ。みるみるうちに皮がまな板の上に落ちていく。……まだ、お母さんがやるよりは分厚いけど。
できたそばから片方だけに十字の切れ込みを入れる。こうすると、味の染み込みが良くなって美味しい。赤々としたにんじんもたっぷり切る。
ガスコンロで火にかけておいたお鍋のお湯に大根を入れて、下茹でする。その隣では卵を入れた雪平鍋が、くつくつ、と弱火で一生懸命卵を温めている。またその隣では、昆布のだし汁にいっぱいの鰹節を入れた大きなお鍋が、ぐらぐら、と煮えている。
下茹でしている間に、別の料理で使おうと思っていたちくわと厚揚げ、こんにゃくを冷蔵庫から取り出す。練り物は食べやすいけど満足感のあるように切り、こんにゃくは切ってから塩を振っておく。こうすると、臭みのもとが余計な水分から抜けるのだ。と、お母さんが言っていた。
それぞれ下準備をしている間に、お出汁から鰹節を引き上げる。ザルの上からギュッとお箸で絞り出して、美味しいところを余さず使えるようにする。丁寧にすくいだすと、お鍋の底まで綺麗に透き通った、琥珀色のお出汁の完成だ。
出来上がったお出汁にお醤油、みりん、お塩とお砂糖を入れておつゆにする。ちょっと味見を一つ。……うん、美味しい。しょっぱい。このくらいがちょうどいい。
お出汁に大根、厚揚げ、こんにゃく、たまごの順に入れ、沸くまで中火で火にかける。ぐつっ、と沸いたらすぐ弱火に直す。ここから、50分くらい待つ。
そのあとはちくわとかの練り物やお肉類。今回はお肉が無いから、入れてからは短めに仕上げてしまってもいいかな。
待っている間に、剥いた大根の皮をポン酢につけ込んで浅漬けにする。ザクザクと切る音と、クツクツとお鍋が煮える音がキッチンにこだまする。
別に、本当ならここまでやらなくてもいい。スーパーまでひとっ走りして、おでんの素を買ってきてやってさっくり作ってしまえばいい。私は料理が好きなだけで、手をかけてこだわるのが好きなわけじゃない。
お金も時間も手間もかけて作った料理を、わざわざ写真に撮って誰かに見せびらかすような趣味もない。ご飯を作るのに一番大事なのは、やっぱり美味しく栄養を取れて、お腹いっぱいになることだと思う。
誰かに食べてほしいとか、自分がこだわりたいとかだったら、それはまた別の話だけど。
出汁を一から取るほど時間をかけているのは、アイツに一分でも多く空腹感で困ってもらうためだ。これは私のアイツに対する、小さな復讐。ワケわかんないこと言って混乱させてきたんだから、せいぜいお腹を空かせてるといいわ。
ついでに私もおいしいもの、食べたいし。
物思いにふけりながら包丁と手を動かしていたら、大根の皮を切り終えた。まとめて浅漬けの素に放り込む。あとはおでんが煮えるのを待つだけだ。
……つい勢いでおでんにしちゃったけど、食べてくれるかな、アイツ。薬味は何が好き…… いや、苦手なんだろう。
私は冷蔵庫の中に、ゆず胡椒やカラシが残っていないか、探してみることにした。
準備を始めてから1時間半以上。ようやく、出汁からすべて自分で料理したおでんの出来上がり。
蓋を取ると、ふわりお出汁の優しい香りが部屋を包む。換気扇に全部持っていかれてしまうから、逃がさないようにすぐに消す。
にんじんを一切れ菜箸でつまんで、味見。わっ、熱い。口の中で少し冷ましながら、少し噛む。じゅわっ、と甘味とお出汁があふれてきて、これも熱い。
あったかい料理にしては、ちょっとやりすぎちゃったかな。
とんすいとお箸、れんげをを二人分持って、オグリの待つ机まで小走りで向かう。果たしてオグリは、すこししょげたような様子でそこにいた。私を見かけると、耳をピンと立たせて、顔がぱっと明るくなる。
「イチ!」
「何、そんなに期待したような顔して」
「ずっと待っていたんだ。もしかしたら、本当に怒ってしまったのかと思って……」
そう言うやいなや、また耳が倒れる。ずっと待ってたなんて、犬か、まったく。
「そう思うんなら、もうふざけて言わないでよ」
「すまなかった、イチ」
私がもたなくなっちゃうから、と言いかけた理由をぐっと飲み込む。ずいっ、と持って来た食器をオグリの前に置いてやる。
「もしかして、お鍋か?」
「まだナイショ」
「だが、もう出来たんだな!」
「そうね、それはできてるわ」
機械に電源が入ったかのように、ぶるぶるっ、と身体を震わせている。思っていたリアクションと違ったので、少しだけギョッとした。
「ああ、待ちきれない。イチのお鍋料理が楽しみだ」
「オグリね、お鍋なんて正直なところ、スープの素に野菜とお肉と、適当に放り込んで煮ただけの料理なのよ」
よせばいいのに、自分の――本当は自分だけじゃなく、この世のお鍋料理すべてを――くさすような言葉が口から漏れてしまう。そんな自分に、少なくない嫌気と後ろめたさが生まれて残る。でも、オグリはそんな私のみっともない言葉も意に介さない様子で、私の目を見つめていた。
「それでも」
オグリはそう強く言い切って、一つ息を吸った。
「それでも、誰かが誰かのために、時間も手間もかけて作るものが料理だと思う。作り方が楽とか、そういったものは関係が無いとも思う」
オグリは、あの日私の部屋で、二人きりで話した時と同じような目をしていた。
「一人でも自分自身のためだし、二人以上ならなおさらだ。その料理はきっとあったかくて、素敵なものだ」
あっ、でも冷たい料理だったらどうなるんだろうか…… と、余計な言葉を挟みつつ。
「私は、イチの料理が楽しみだ。もし叶うなら、毎日食べたい」
そう言い終わると、ぐぅ、とお腹のなる音が響く。オグリがお腹と後頭部に手を当てて、恥ずかしそうに微笑む。
「どうやら、私のお腹もそう思っているようだ。早く食べよう、イチ」
私は、目の前のスーパー・スターがまぶしすぎて、座っている彼女の顔を真っすぐ見ることすらできなかった。何と答えればいいかもわからなかった。
けれど、おこがましいことはわかっているけれど、きっとこの人はそんな自分も受け入れてくれてしまうのだろう――――あの時みたいに、とも思った。
うつむいたまま、頭に浮かぶ言葉をそのまま音にする。
「……おでん」
「……イチ?」
「お肉のない、ヘルシーなおでん。今日の献立」
私は顔を上げて、オグリの顔を見る。私が強くなるための、もう一歩。
「ちゃんと出汁から全部作ったから。脂は少ないけど、ちゃんとおいしいはず」
オグリの返事を待たずにまくしたてる。
「残したりしたら、許さないから」
アンタは、とても強くて大きいから。
「明日の分まで食べちゃってよね」
色んな人に支えられた私の料理は、必ず美味しいと思うから。
「鍋敷きかタオル用意して待ってて、持ってくる」
キッチンの方へ振り向いて、歩き出す。
私だって、次に何をすればいいか分かるんだから。
私だって、貴方を満たしてあげられる。
あったかいものが冷めないうちに、私はキッチンまでの道を、少し足早に歩いて行った。
了
Part17
その1(≫62、≫64~66)≫35より派生
≫35 二次元好きの匿名さん22/10/10(月) 19:41:54
この前食べさせてもらったおでん、とても美味しかったぞ。でも、その……すまないが、お肉も食べたいんだ。わがままを言ってすまない。
了船長22/10/15(土) 00:15:45
≫35
「……」
「どうしたんだイチ、そんな目をして」
「なんでもないわよッ」
「待ってくれ、怒らせてしまったのか」
「普段から野菜ばっかりでごめんなさいねッ」
「そういうわけじゃないんだ、イチ!」
「座って待っててッ」
「また、行ってしまった…… ううむ、タマ、素直に食べたいものをリクエストするのも良くないようだぞ……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
図々しいったらありゃしないわ、オグリのやつ。この間作ってもらったからっていい気になって。
オグリより、頼まれたら断れない自分の方にムカムカする。モニーがそばにいたら「惚れた弱みね」とかしたり顔で言ってくるに違いない。ますます気持ちがつのる。
そんなんじゃないし。
誰かに「お腹が減った」って言われたら、誰だって見て見ぬふりできないでしょ。
誰にも聞こえないように毒づきながら献立を考える。このままオグリのリクエスト通りにお肉を使うのは癪に思われて、どうにか的をずらしてやろうと必死に考える。
冷蔵庫を開けてみるけど、やっぱりというべきか、お肉料理をたっぷり作れるほど買い込んでいるわけではなく、牛こま切れ肉が1パックだけ。本当はクリークさんがカレー用に冷凍してくれているお肉があるんだけれど、他の人の食材を勝手に使うのはためらわれる。許してくれそうだけど。
う~ん…… いきなり頼まれたけど、少ししかできませんでした、なんてのは自分のプライドが許さない。どうしたものかと思い、業務用冷蔵庫の迷宮をもう少しだけ探検する。
すると、灯台下暗しとはこのことか、いつも食べているのに思い出せなかった「お肉の宝箱」に出会うことができた。これだ。
宝箱の包装をはがし、八等分に切る。それらをキッチンペーパーの上に置いて水気を吸わせておく。
その間に、玉ねぎをくし切りに、ごぼうはささがきにしてお水につける。
お醤油、みりん、酒をそれぞれ大さじ4くらいで合わせて濃いめに味付け。砂糖も同じ量で2回いれ、お水も計量カップの三分の二くらい。菜箸で軽く混ぜながら砂糖を溶かし、フライパンに流し入れる。
中火にかけて、ごぼうを入れておく。くつくつ、と沸くのを待って、沸いてきたら脇に寄せる。空いたスペースに主役たち、牛肉を入れてやる。
でも、主役たちの出番は長くない。色が変わったらすぐ引き上げる。ゴメンね、ちょっと待ってて。開いたところに玉ねぎを入れて、また一煮立ち待つ。お肉のうまみとすき焼きみたいな香りがキッチンに漂う。もうこれだけでも美味しそう。ちょっと水気が多すぎたから、タレを追加で入れてあげる。
玉ねぎに火が通ってきたら、真っ白な宝箱を崩れないように、優しく入れてあげる。ごぼうと玉ねぎをまた脇に寄せて、本当の主役の登場だ。色も相まって、とっても輝いている。
宝箱同士の隙間を埋めてあげるように具を敷き詰めて、アクをとる。一通り取り終わったら、蓋をして10分間ぐつぐつ煮る。そのうちに、洗い物。料理の途中に洗い物をできる料理しかやりたくないよね。
まな板と包丁、生ごみをまとめたらちょうど10分。蓋をあけると、ふわりと湯気が膨れ上がって、換気扇に吸い込まれていく。その真ん中にいる私は、いい香りをたっぷり堪能した。うん、我ながらいい出来。宝箱も美味しそうな色に染まってくれた。
ここで、取り出しておいたお肉をお鍋に戻す。こうすることで、お肉が固くならずに美味しく食べれるようになる。温めるのと、食中毒防止のために、火を落とさずにもう2分間しっかり煮る。
出来上がったら、宝箱に煮汁を数回かけてあげて盛り付ける。
オグリのやつ、お肉たっぷりを期待してるなら、がっかりするといいわ。
「……あっ、イチ」
「お待たせ。……なんでアンタがへこんでるのよ」
「イチを怒らせてしまったんじゃないかと思ったんだ」
「怒ってないですッ」
「怒ってるじゃないか」
「怒ってないったら。はい、これ。お望みのお肉料理よ」
「これは、肉豆腐か」
「お肉はお肉でも、『畑の肉』よ。たっぷりなんか食べさせてあげないから」
「ありがとうイチ。色のついた玉ねぎも、とても美味しそうだ。いただきます」
「はい、召し上がれ。……わっ、何よ」
「おいしい!」
「……そ」
「とっても美味しいぞ、イチ! イチも一緒に食べないか?」
「なっ、私は作ったんだから、いらない」
「それは違うぞ、イチ。このお皿には、お豆腐が8個入っている。1パックを切ってそのまま調理しているはず」
「……だから何よ、私が多めに作って食べたかもしれないでしょ」
「ううん、そうしたらもっと時間がかかっていると思う。さあ、ほら。美味しいぞ」
「お箸も一膳しか揃えてないから」
「私がイチの口まで運べば大丈夫。さあ」
「ちょ、ちょっと、もう、分かったから」
「うん。待ってくれ、熱いかもしれない…… よし。冷ましたぞ」
「そこまでしなくても…… あ、あー……」
「どうだ、イチ。美味しいだろう」
「はふっ、はっ…… うん、美味しい」
「イチが作った料理だからな。とっても美味しいんだ」
「……」
「どうしたんだイチ、そんな目をして」
「……ありがとう」
「ん、イチ? もう一度……」
「なんでもない」
「何か言っていなかったか」
「なんでもないったら」
「そ、そうか…… じゃあ、もう一口どうだろう。代わりばんこに食べよう」
「ちょっと、もういいって」
「一緒に分けよう。私ばかり食べていたら、不公平だ」
「私が出してるんだから、別にいいってば、ね、垂れて汚れるからよしなさいって」
「イチの料理を一緒に食べたいんだ。もう一つお箸を持ってこよう」
「食べてる間に席を立ったらお行儀悪いでしょっ」
「それもそうだな…… うん、やはり代わりばんこに食べるのがいい。ほら」
「なっ、あ、あーん……」
「いつもありがとう、イチ。やっぱり、将来もイチの料理が食べたいな」
「……そうですか。お粗末様でした」
「まだ食べ終わっていないぞ?」
「なんて言えばいいかわかんないの! オグリの、ばかっ」
「ふふ、今はそうでもいいかもしれない」
「良くない!」
了
その2(≫155)≫153より派生
≫153 二次元好きの匿名さん22/10/28(金) 02:52:01
自分の中のモニちゃんのイメソンです
「もう意外と辛いのに」の部分でおや?と思いました
なので落書きしました
了船長22/10/28(金) 21:24:42
≫153
「ほなモニちゃん、出かけるで」
「は、出かけるってどこにですか」
「どこもヘチマもないねん、着替ええ。撮影に行くっちゅーことや。ほれ、おいてくで~」
「撮影? なんも聞いてないですよ、待ってって」
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「やあ、タマにモニー。遅かったじゃないか」
「すまんオグリ、モニちゃんがダダこねてしもうてな」
「こねてねえっす。イチもいるじゃん」
「なんか、オグリに無理やり引っ張られて……」
「サプライズパーティちゅうわけやないけど、即席撮影会や。うちらの雑誌の表紙を飾ってもらうで」
「タマモ先輩、私たち、重賞も走ったことないのに」
「ええねんええねん、ウチらばっかり取られたら不公平や。二人にも格好良く写ってほしいよなあ、ってオグリと話しとってな」
「そうだ。さあ、モニーから順番だ」
「控室はこっちな。メイクさんに顔整えてもらお」
「ちょ、ちょい、タマセンパイ、小さいのに力つっよ!」
「小さいは余計や!」
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
はーい、じゃあまずはアップで一枚撮りまーす。これだ! と思う表情を作ってくださいね
「そんなこと言われてもな」
準備ができたらいつでも言ってください
「うーん……じゃあ、これで」
おっ、挑戦的でいいですね。それでは撮ります。カメラの中を見るように、視線ください。
了
Part18
その1 ”0日目”(≫35~39)
了船長22/11/05(土) 23:01:51
私は日本ウマ娘トレーニングセンター学園――「中央」トレセンの――生徒だ。
走るのが特別好きってワケじゃなかったけど、ここ一番だけ頑張ってみっか、と試験やレースで少しだけ頑張ってきた結果、ここにいる。
取り立ててメチャクチャ強いとか、速いとか、そういうことは一切ないけれど、私はここで生活している。
色んな能力を積み上げていこうなんて熱意もないし、これから頑張って成り上がってやろうというような気概もあんまり無い。
真剣に取り組んでないのは失礼だろう、中央の学生なんだからヘラヘラするな、ってご意見もよーくわかる。でもこの通り結果は出しているんだし、これは才能でしょ。ときっと私は胸を張る。
私のことを恨む人がいるなら、どうぞご自由に恨んでほしい。『人を呪わば穴二つ』なんて言葉はまるっきり嘘で、呪われて落ちるほうは気にしすぎ、呪ってるのに落ちるほうはただの準備不足なだけだ。私はそう信じて疑わない。
「どうして」も「こうすれば」もない。タイミングを見逃さずにチャンスへ飛び掛かって、するべき時に自分のできることを全力でする。結果は後からついてくる。もっと言えば、その人の能力に見合ったところまでしか出てこないから、事実上決まっているようなものだ。
悩む暇があったら行動するべきだし、可能なら準備を整えて飛び出すべき。そうすれば、後は多少手を抜いてもうまくいく。
誰かに合わせて自分の気持ちや行動は変えなくていい。相手がどう思っていようと、私のスタンスを変える必要もない。私の調子を決めるのは私で、何がベストかを決めるのも私だ。
私を本当に祝福できるのは私だけだ――まあ、いい結果が出た時に褒められるのは、悪い気持ちにはならないけど。
とにかく、私はそうやってここまで来て、ここに居る。
その日、私の目覚めは最悪だった。起き出すときの様子が、いつもと違いすぎているからだ。
いつも通りだったのは、私が起きたときにルームメイトの姿が部屋にもういなかったところだけ。
違ったのは、どんどんどん、とドアを叩く大きな音が部屋に響いていたこと。びっくりして跳ね起きる。スマホを確認すると、いつもよりも2時間以上早い。
寝ぼけてる目でドアを見つめたあと、タオルケットに包まり直す。でも、鳴りやまない。ドアを叩く音はむしろ強くなってもいた。加えて、私の名前まで呼ばれ始めた。
ああもう、なんで同室のレスアンカーワンじゃないんだ、と思う。早朝に起き出して何かしてるのはそっちの方です、私は寝てるハズなんです。
身体を起こしてスリッパを履く。名前を呼ばれてしまったら反応しないわけにはいかない。ワザとゆっくりドアまで歩いて、ドアノブに手をかける。
ノブを回し切った直後、扉が勢いよく開け放たれた。柄にもなくわっ、と声が出る。
視界に飛び込んできたのは、エプロンを握りしめながら肩で荒い呼吸を繰り返し、涙目になっているGⅠウマ娘――クリークちゃんだった。
「モニーちゃん、助けてください」
そう言って、私の手を取る。悪意があるわけじゃなかったけど、驚いてしまった私は思わず、抵抗するように腕を引いてしまった。それでも、クリークちゃんはすがるようにして、手を放してくれなかった。
「なんなん、一体」
「イチちゃんが、イチちゃんが」
焦りと涙でえづいてしまい、うまく喋れていない。とにかくこの人を落ち着けてないとことが進まないと思い、肩をさすって落ち着いてもらえるよう手伝う。
「イチがどうかしたの」
「イチちゃんが脚から血を流して、倒れて」
「えっ」
「イチちゃんがキッチンで倒れていたんです、真っ青で」
言われた数秒間、時間が止まったような気がした。自分の耳を疑う。
「マジで?」
「はい、一緒に朝ごはんとお弁当を作っていたら、突然」
包丁を持ったまま倒れちゃったんです、と息も絶え絶えになりながら話している。あまりにショックだったのだろう、話しながら彼女もふらつき始めた。さする手で肩を掴んで支える。
「ちょっ、大丈夫?」
「私は大丈夫なんです、けれど、イチちゃんが」
「イチは今、キッチンにいるんだよね」
私の問いかけに力なく頷く。彼女を部屋の中に引き入れて、ベッドに座らせる。
「フジさん呼んでくる。ここで座ってて」
「でも、私も」
「まずは落ち着かんとでしょ、後でまた呼びに来るから」
それだけ言って、部屋を飛び出す。納得するまで説得し続けたら、倒れてるらしいイチにたどり着くのが遅くなる。
私は朝日が差し始めて薄暗くなった寮の廊下を、校則をまるっきり無視して、レースさながらのスピードで駆け抜けた。
今思うと、フジさんを起こすために寮長室のドアを叩きまくった私とクリークさんは、よく似ていたような気がする。唯一違っていたのは、部屋から出てくるスピードくらいなものだ。
珍しく髪の毛がハネていたフジさんだったけど、イチがキッチンで倒れてるそうです、と伝えると表情が切り替わった。
「モニーちゃんが最初に気付いたのかい?」
「いや、クリークちゃん」
「今どこにいるのかな」
「私の部屋で休ませてる」
うん、とフジさんが神妙な顔で頷く。
廊下を走りながら情報交換を済ませる。風紀委員が見たら驚くスピードだ。凄いスピードで二人とも走っているのに、私の気持ちは目的地のキッチンから少しずつ離れていった。想像できないものは、見たくない。
でも走っていればいずれはたどり着く。その先では、見慣れたルームメイトが真っ青になって、薄暗い中でも銀と黒に光輝く恐ろしい刃物と一緒になって倒れていた。その脚からは赤黒く小さい粘性をもった液体が一筋、つらりと垂れてもいた。
脚が傷ついているのを見ると、私はともかく、フジさんも少なからず、自分の命が脅かされたような気持になっているようだった。
「モニーちゃん、傷口を」
「救急箱とか?」
「うん、確かその戸棚」
少しだけ震えた声でフジさんが指示を出す。それを聞いて、私もすぐに反応する。私もフジさんも緊急事態に対応するのが得意なんじゃないか、と現実逃避めいたことを考えてしまう。
救急箱の中からガーゼと絆創膏を取り出して、気を失っているイチに向き合う。一つ息を大きく吸って、ぐいと力を込めて傷口をガーゼで押さえる。そのガーゼの上からフジさんが包帯を手早く巻いていく。
二人とも無言のまま手早くイチの左半身を下側に向け、頬の下に手を添わせる姿勢に直す。
「そうしたら、私は宿直の警備員さんを呼んでくる。モニーちゃん、ありがとう」
「ん、クリークちゃんの様子を見てくる」
「うん。二人で休んでいて。大変だったね」
別れの言葉もそこそこに、キッチンを足早に離れる。まだ解決したわけじゃないから、私も安心できなかった。
部屋に戻ると、少し回復したのか、平静を取り戻したクリークちゃんが迎えてくれた。
「イチちゃんは」
「大丈夫、フジさんが人を呼んできてくれるから」
「ありがとうございます」
「いや、ヘーキです。ウチらも休みましょ」
時計を見てまだまだ寝直せるくらいの時間だと判断した私は、タオルケットに包まりなおした。私たちにとって大事件過ぎて、想像よりも長い時間が経っていたように感じられた。
いつもはスマホを見続けないと寝つけなかったのに、この時ばかりは、目を閉じた途端に気を失うようにして眠りについた。
その2 ”1日目”(≫47~52)
了船長22/11/06(日) 23:04:16
もう一度ベッドの上で目が覚めたあとも、それはまるで釈然としない一日だった。
いつも通り朝の身支度を済ませて鞄を手に取るけれど、頭の裏がチリチリと小さく燃えているような感覚が止まらなかった。あんなものを見てしまったら、心配せずにはいられない。
部屋を出ると、なんとなく脚がキッチンの方に向く。ドアから覗いてみるともうそこにイチの姿はなく、何もなかったかのように片づけられていた。
唯一、イチのスマホだけが台の上に残っていた。それだけ回収して、鞄に入れる。手に取って画面に表示されたロック画面には、メモアプリのスクリーンショットが表示されていた。
どんだけマジメなの、あいつ。
スーパーへの買い出しのメモだろうか、食材の名前がずらりと、それも野菜ばかり書き連ねてあった。どうしてそんな食材ばかりが書いてあるのか、さっぱり分からなかった。
どうせ毎朝アホみたいに早い時間に起き出して料理するんなら、野菜料理じゃなくて美味しいもの作ればいいのに――
そのメモと今朝の惨状に思考が引っ張られてしまったせいか、授業にもトレーニングにも、まるで身が入った気がしなかった。どうせ普段から全力投球、って感じではないんだけど。
朝に時間をとてつもなく遅く感じた分、昼間の時間が逆に素早く過ぎていくようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一日の終わりに寮の自室へ戻ると、イチが自分のベッドに横たわって眠っていた。
てっきり病院か保健室に送られたのだろうと思っていたから、ドアを開けて目に飛び込んできた光景にギョッとする。
イチは顔を青くして、眉間に重そうな皺を寄せて、もがくように苦しそうな呼吸を繰り返している。時折、んん、とこらえるような声。脚が寝ていても痛むのか、と思ってかけ布団を少しめくって脚を見ると、綺麗に巻き直された包帯が目に入る。
どうして倒れてしまったのかは分からないけれど、なにかにひどく苦しんでいることは明白だった。
眉間の皺だけでもとってやりたいと思って手助けできそうなことを探すけど、まるで思いつかない。せめて、スマホだけでも充電しておこう。
カバンからイチのスマホを取り出して、サイドテーブルから伸びた充電ケーブルに差し込む。慰めるつもりで、オグリのぬいぐるみのすぐそばに置いておく。いつか皆で出かけた時に、私が取ったものだ。
私はクレーンゲームが楽しいから取っただけで、「サイドテーブルにでも置いとけば」とか言ってぬいぐるみ自体はイチに押し付けた。
タマセンパイも乗っかって、「アンタがこれ持ってき」と言っていた。
実際、イチがどれだけこれを気に入ってるのかは知らないけれど、時折手に取ってじっ、と眺めるときもあるから、少なくとも悪いようには思っていないハズ。
改めてぬいぐるみを見直すと、呆けたような、まるで罪のない顔が私を見返してきていた。
イチがやっているようにぬいぐるみとにらめっこをしていると、とんとん、と部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
ドアの方に振り向いて、開いてますよー、と少し声を小さくしながら返事をする。
「突然すまない、お邪魔してもよいだろうか」
ドアを開けたのは、ぬいぐるみがそのまま大きくなったようなウマ娘――オグリキャップだった。ぬいぐるみと同じように、罪のなさそうな顔をしている。
部屋に入って来るやいなやベッドで寝ているイチに気付いたのか、驚きと心配が織り交ざった表情に切り替わる。
「やっぱりか」
「やっぱり?」
「今日はまだ、イチに出会っていなかったんだ」
そう言いながら、イチのベッドのわきに膝をつくように屈む。
「いつもは毎朝、イチに会うから」
「毎朝?」
オグリの言っていることがイマイチ飲み込めない。やたら早起きするイチが、どうやらオグリキャップと毎朝会っているらしい。
朝という言葉と、オグリの共通点を考える。早朝の自主トレに出ているのは有名な話で、こちらに移籍する前もとても熱心だったことはトレセンの皆が知っている。
私が黙り込んでいると、話が分からなかったと思ったのか、オグリが屈んだままこちらに向き直る。
「実は、毎朝お弁当を届けてくれるんだ」
「は?」
「ずいぶん前からだと思うんだが、私が早朝のトレーニングから帰ってくると待ってくれている」
並列するにはふさわしくない単語が二つ聞こえ、私の脳は輪をかけて考えることにリソースを割き始めた。朝に、お弁当。しかも待っているらしい。
朝からトレーニングするオグリに料理を届けるには、少なくとも同じ時間かもっと早くに起き出さなければいけない。今朝、イチが倒れていたのはキッチンで、エプロンをつけていた。
そもそも、どんな弁当を作るって言うんだ。この健啖家を弁当一つでおとなしくさせるには、とんでもない量を持っていくか、硬いとか味気がないとか、はたまた嚙み切れないような食材を使って、満腹中枢をひたすら刺激するしかない。
そんな食材、この世にあるワケ――いや、スマホのロック画面。
「その弁当って、野菜ばっかし?」
脳裏に浮かんだ仮説を確かめようと、やや興奮気味に質問を投げかける。
「そ、そうだ。イチから聞いたのか?」
オグリの反応を差し置いて、まるで推理小説のクライマックスを読んでいるときのような、謎が一気に解ける快感が脳の中を駆け巡った。
確定じゃあ無いけれど、イチの行動が腑に落ちた――わざわざオグリに野菜だらけの弁当を早起きしてまで差し入れているらしい。
そこまでやるなんて、やっぱり恋心か。嫌がらせのつもりでやるなら、他の人が見ているところで差し入れるほうが効果的なんじゃないだろうか。
「苦しそうな顔をしている…… 心配だ」
イチのおでこに手のひらを当て、顔を伏せている。
「まあ、たまたま貧血とかだったんじゃないの」
オグリの声で現実世界に戻ってこれた私の浮ついた返事に、うん、とオグリが頷く。
「立ち寄ったとこで悪いんだけどさ、イチのこと見ててくんない? シャワー済ませたい」
「分かった。モニーが戻ってきたら私の番だな」
イチをオグリに任せて、私は浴場へ向かった。
お風呂場まで来たものの、浴槽に浸かる気分でもなかった。元からじっくりお湯に浸るような性分でもないのも相まって、シャワーですませて浴場から出る。
髪と尻尾の水気を取りラウンジで少し休憩していたら、知り合いの子から「寮長が探してたよ」と話しかけられた。サンキュ、とだけ返事して寮長室に向かう。
朝よりは控えめに寮長室の扉を叩く。開いているよ、と声が響いた。
扉を開けると、腰かけていたフジさんが立ちあがって私を招き入れた。
「一日お疲れさま、モニーちゃん」
「ども、お疲れです。朝はありがとうございました」
「いいや、モニーちゃんのおかげだよ。とても助けられた」
お茶でもどうかな、とフジさんがポットにお湯を入れ始めた。水で大丈夫です、と返事する。
「イチちゃんの様子はどうかな」
「メッチャ苦しそうに寝てます。今はオグリが看病中」
「そうか…… 毎年、何人かはいるんだよね。無理をしてしまう子が」
自分の分のお茶と、私の分のお水を見つめながら声に出す。
「イチのやつ、いつもめちゃくちゃ早く起きてるんすよ。もっと寝とけばいいのに」
「そうなのかい?」
「どうも、オグリに毎朝弁当差し入れてるみたいです」
へえ、とフジさんが顎に手を添える。
「そんな頻繁に、どうしてだろうな」
「さあ、イチが起きたら聞いてみますよ。メニューも野菜料理ばっかしみたいだし」
「野菜?」
そう伝えると、フジさんは顎に手を当て、ふむ、と何かに考えを巡らせ始めた。
静かになってしまった部屋で水を数口飲んでいると、フジさんの視線を感じた。傾けたコップの影からちらりと覗くと、彼女と目が合う。予想していたけれど少しギョッとする。
「おんなじこと考えてますかね」
「もしかしたらね」
「無理しちゃう理由って、好きだからですか?」
「いや、憎いからという時もある」
はあ、と息を吐きだして椅子から勢いよく立ち上がる。
「水、ありがとうございました。オグリと代わってきます」
「そうしてきて。こちらこそ、来てくれてありがとう」
寮長室を出て、自室へ向かう。今朝走ってきたときと同じ道筋をゆっくり歩く。
あのマジメでお堅そうなレスアンカーワンが、オグリキャップに恋? 意外とカワイイところあるんじゃん。恋愛にはあんまり興味なさそうだし、なんならウブっぽく見えたけど。
部屋でイチの顔を見つめているであろうオグリを思い浮かべると、良いペアなんじゃないだろうかと思う。ライバルは多そうだけど。
自室の扉を開けると、果たしてそこには、私が思い浮かべていた通りにイチの顔をのぞき込むオグリがいた。
「お帰り、モニー」
「遅くなってゴメン、フジさんに呼ばれてた」
交代するよ、とオグリの肩を叩く。
「イチ、起きてなさそうだね」
「ずっと苦しそうだった」
寮長室で考えていたことが頭に引っかかって、私もオグリの横顔を意識してしまう。コイツ、マジで美人だな――ルームメイトが寝込んでいるというのに、少しばかり浮かれた気持ちになる。
部屋から出かかったオグリが、モニー、とこちらに振り返る。
「イチが起きたら、教えてくれ」
「あい、分かった」
オグリを見送ってばたん、と扉が閉まる。時折うめくイチと、部屋で二人きり。
消灯の時間ではないけれど部屋の電気を落として、スマホを手にベッドに横たわる。
おやすみを言う相手のいないさみしさの代わりに響く画面を叩く音。その日は、普段なら読み終わっても眠くならないネットの記事が読み終わる前に眠りに落ちた。
その3 ”2日目①”(≫63~67)
了船長22/11/06(日) 23:04:16
薄明るい部屋で目が覚める。いつもならイチが開けるはずのカーテンは、今日もまだ閉まっていた。
身体を横に向けて隣のベッドを見やる。うずくまるような姿勢に変わっているけれど、相変わらず眠っているイチがいるだけだった。私はベッドから起き上がり、カーテンを開け放った。朝日が目にいきなり飛び込んで来て、思わず目を閉じる。
眩む目に視界が戻ってきたころ、部屋の変化に気付いた。スマートフォンの場所がズレている。一度は起き出して触っていたらしい。
もう一つ、妙な違和感を覚えた。サイドテーブルが広くなっている。正確に言えば、スマートフォンだけが机の上に乗っていた。側に添えていたぬいぐるみが消えていたのだ。
寝ぼけて落としたのかな、と思ってテーブルの裏を覗き込む。イチがマメに掃除するからか、ホコリも被っていない綺麗な床が見えるだけだった。
一体どうして――まさか、捨てた? ゴミ箱を覗き込んでみたけれど、何も入っていない。たまに見つめるくらいには気に入っているようだから、そんなワケはない、と心の中でつぶやく。もちろん、ベッドの下にもいなかった。
昨日の夜の寮長室の話が思い起こされる。恋か、その対偶か。
自分はてっきり、恋心だとばかり思っていた。不器用なマジメ屋さんのレスアンカーワンが、地方から来たヒーロー、しかも流行の中心人物に惚れこむ。かわいらしいストーリーだ。
けれど、本当はぬいぐるみを見えないところに捨てるほど憎んでいたとしたら――いやいや、それじゃあいつも見つめていたことの説明がつかないでしょ、と自分で否定する。
部屋の真ん中に棒立ちになって、目の前のベッドでうずくまるイチを見下ろす。私は、この数分間で、彼女のことが分からなくなっていた。
とりあえず、オグリには何も言わないでおこう――
考えにふけっていた私の頭に、校内の予鈴が容赦なく時間を知らせる。私は何にもまとまっていない思考を部屋において、慌てて寮の玄関口へ向かって飛び出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
釈然としない一日。それは昨日の話だ。今日は、受け入れ難い一日だった。
私は誰かのせいで自分のパフォーマンスが下がるような、そんなヤワなウマ娘じゃないと思っていた。これまでのレースも逃げまくって勝っていたから、私は一人で強くなれると信じていた。
そんな自分のアイデンティティを否定されたような気がしたからだ。ルームメイトがちょっと分からなくなったって言うだけで、小テストもトレーニングのタイムも何もかも、目に見えるように調子が落ちていた。極めつけは、私物のパソコンがエラーを出しまくったこと。――これは、私のせいじゃない。
どんなに調子が悪くても空腹感だけは一丁前に主張をしてくるようで、肩を落としながらカフェテリアの列に並ぶ。ハンバーグを見ると、またお腹がぐうと鳴る。
言葉通りつつくようにハンバーグを小さく切って、口に運ぶ。おいしいから、いいか。
こんな小ささで切ってたら時間がかかりすぎる――と思っていたら、おう、と声をかけられた。
「お疲れさん、モニちゃん」
「あー、タマセンパイじゃないすか。そっちはオグリ?」
そうだ、とおかずの山の向こう側から声が聞こえる。オグリが手に持っている食事量は、朝食を食べられていないからか、普段よりご飯もおかずもうず高く積まれているように見えた。
二人が机の向かいに座って、いただきます、と唱えて食べ始める。そういえば言ってないな、とばつが悪くなったので、いただいてます、と二人にならう。
「モニー」
「ん?」
「あれから、イチは起きただろうか」
オグリの目が料理の山の向こう側からかろうじて見えるくらい食べ進めたとき、オグリに質問される。部屋から消えたオグリのぬいぐるみのことを思い出し、本当のことを答えるかどうか少し逡巡とした気持ちになる。素早く口にハンバーグを放り込んで、噛んでいるふりをしながら考える時間を稼ぐ。
さて、どっちで答えるべきかな――
「いや、見てないね」
「そうか……」
「クリークから聞いたで、えらいこっちゃな」
「寝返りは打ってるっぽかったけど、多分起き上がっては無いと思うわ」
それらしい理由を取ってつけて、ウソをつく。オグリは絶対に心配する。昨日の夜に会話したぶんだと、おそらく不調になるくらい落ち込むだろう。この私が堪えてるくらいだから、オグリはなおさらだ。
「イチちゃんなら大丈夫やって、オグリ。アンタに似て身体の丈夫な子やから」
「私もそう思う。だが、それでも心配だ……」
言葉尻に口が進むにつれ、オグリの箸の動きが遅くなっていく。言い切るころには、左手で持っていたどんぶりご飯をお盆に戻し、肩も首も落としてしまっていた。
「うわ、珍しいな」
悪気は全くなかったけれど、目の前の光景につい、正直な気持ちを呟いてしまった。
彼女の顔を見つめながら、オグリキャップが食事中に箸を止めるほどにまで、レスアンカーワンというウマ娘は彼女に影響を与えていることを知った。
「元気だしいや、オグリ。アンタが落ち込んでもイチちゃんが元気になるわけとちゃう。いつも通り食べて、イチちゃんが起きた後には、いつも通り迎えてあげようや」
タマセンパイの言葉に、うん、と少ししおれたような声で返事をしている。すると、ブルブルと震えた後にガタッと椅子から立ち上がり、腕を肩と同じ高さまで上げ始めた。
「ほっ、ほっ、ひっ、ふー」
「何それ」
「元気を出すおまじないだ。イチにも届いていたらいいな」
タマセンパイと二人で、呼吸をくり返すオグリを見上げる。見つめているうちに私たちにも、食べ進めるだけの元気が湧いてきた。
「なんか協力できることがあったら言ってな、モニちゃん」
「あい、ありがとうございます」
私は、いただきますを言い遅れたご飯の席で、ごちそうさまだけはみんな一緒に合わせて言うことができた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
扉の戸板を叩く。こんこん、という軽い音が響く。少し関西の訛りが入ったような返事が、扉の向こう側から返ってくる。
「はいはいはいー、と……お、モニちゃんやないか」
「お疲れ様っす」
入り入り、と扉を開けようとしてくれるタマセンパイの上から、それ以上開かないように手で扉を掴む。少し屈んで、耳に向かって小声でささやく。
「オグリっていますか」
タマセンパイは耳をピクリと動かし、声の調子を合わせてくれた。
「いや、今はおらんで」
「今、オグリが何やってるか知ってますか」
「風呂行っとる。行ったばかりやから当面は返って来んで」
あざっす、と声の調子を戻して返事する。タマセンパイも部屋の中に迎え入れてくれ、私はオグリの座るベッドに腰かけた。タマセンパイは自分のベッドの上であぐらをかくように座った。
「どしたんや、モニちゃん」
「相談に来ました、イチとオグリのことで」
うん、と準備していたようにタマセンパイが頷く。ヒソヒソ話をした段階である程度検討はついていたのだろう。
「どんな内容や」
「実は、イチが昨日――今日の夜中に、起き出してたっぽいんです」
私の言葉に、ホンマか! と驚いている。
「なんでそう思ったんや」
「昨日寝る前にイチのスマホを充電しといたんですけど、それがずれてたんです。あと、ぬいぐるみが無くなってて」
「ぬいぐるみ?」
「ちょっと前に、皆で外出した時にクレーンゲームで私が取って、タマセンパイがイチに渡したやつです」
うーん……と首を10度くらいだけ横に傾けた後、そんなんあったなあ、と言って目を見開く。思い出したみたいだ。
「置いてたとこの向こう側とかに落ちただけとちゃうんか」
「いや、ベッドの下まで探したんですけど、完全に無くなってて」
私の返事のあと、しばらく、部屋の中を沈黙が漂う。タマセンパイが腕を組んで、何か考えている。
「……まさか夜中のうちに、イチちゃんが捨てた言いたいんか」
「でもそれしかなくないですか?」
そうなんよなあ、と言って、天井を仰ぎ見る。
「そしたら今夜もまた起き出すかもしれんなあ」
「私もそう思うんすよ。だから見張りをつけたいと思って」
「寝ずの番かあ」
うーん……と、首を今度は縦方向に、けれど90度くらい傾けるようにして考え込む。
「フジがええって言うかやな」
「言いますよ、頼めば絶対」
前のめりに説得を図る私の姿勢に、タマセンパイが腕を組んだまま、先ほどよりも深くうなる。
その4 ”2日目②”(≫71~75)
了船長22/11/08(火) 23:09:36
「ま、頼んでみよか」
しばらく悩んでいたタマセンパイが顔を上げる。私もその返事が嬉しくて、思わずベッドから立ち上がった。顔色を伺う限りいささかの心配は残っているようだけれど、腹を決めてくれたらしい。
「モニちゃんだけで一晩中はしんどいやろ、何人か協力してもらおか」
「助かります、クリークちゃんは乗ってくれると思います」
「クリークなら安心やな。オグリも心配やろうし、戻ってきたら当番決めよか」
「ダメ!」
タマセンパイが出した名前に、私は反射的に食いついた。驚いたタマセンパイがベッドの上で小さく跳ねる。
「オグリはダメです。呼んじゃマズい」
「なんでや」
「なんでもです。話がややこしくなるんで」
「どういうことや」
「どうしても」
理由を知ろうとして、タマセンパイから繰り返し飛び出してくる質問すべてにノーを突き付ける。私はタマセンパイが折れてくれるまで同じ流れを反復した。
そうこうしている内に、ただいま、という声と一緒に湯上りのオグリが帰ってきた。私たちはヒュッと息を吸って黙り込み、目線だけを合わせてこれまで何もなかったように振る舞う合図をした。
「やあ、モニー」
「おす、ジャマしてるよ」
「二人ともどうしたんだ、そんなに肩を張って」
「なんでもないねん、ほな、ちょいと出かけてくるわ」
あまりにも不自然な流れで、タマセンパイが部屋の外に出ようとする。
「どこに行くんだ?」
「あ~、ちょいとフジに用があんねん」
「私も行こうか、タマ」
ついてこさせちゃゼッタイにマズい。私は慌てて会話に割り込む。
「いやいやいやいや、私が行く。部屋戻らなきゃいけないし。あ~、オグリはその、尻尾と髪、乾かしときな」
「分かった。あっ、そのまま部屋に戻るのか?」
「うん」
「少しだけ待っていてくれないか」
そう言うと、オグリはドアを閉めることすら忘れ、半開きのまま部屋を飛び出していった。タマセンパイと顔を見合わせて、安堵のため息を一つつく。扉を締め直しながらタマセンパイがつぶやく。
「ウチらの息、ぴったりやったな」
「助かりました」
「理由は知らんけど、オグリに聞かれたらよくないらしいっちゅうことだけは分かったからな」
この辺の察しの良さはさすが年長者だ。一つしか違わないなんて思えないほどしっかりしている。
「今のうちにクリークに連絡しといてくれへん?」
私はスマホを取り出して、寮長室まで来てもらうように手早くメッセージを打ち込んで送信した。たまたまタイミングが良かったのか、すぐに『わかりました』と返事が返ってくる。
オグリに言われた通り、部屋で待ち始めて5分。もう行っちゃいませんか、と言おうとしたまさにそのとき、慌てた様子でオグリが戻ってきた。
「待たせてしまってすまない。これをイチに届けてくれないか」
手に持った白い花を一輪、私に差し出す。タマセンパイも目を丸くして花を覗き込んでいる。
「どこから持って来たんや」
「美化委員の人に貰って来たんだ。何か、お見舞いに合うものは無いかと頼んできた」
「ガーベラか。ええ色やな」
白いガーベラを注意深く受け取る。しっとりしているが、上に向かって伸びる花弁を見つめながら、私はこの花が「ガーベラ」という名前を持っていることしか分からなかった。
それでも、目の前にいる二人の毛色に似た光を放つそれは、たとえ一輪でも強い意志と希望を感じさせていた。
「部屋に花瓶、あったかな」
私の独り言に、オグリがはっ、と息を呑む。
「そ、そうか。すまない、また少し待っていてくれるか。すぐ借りてくる」
言いながら後ろを向き、また今にも部屋を飛び出そうとするオグリの腕を、タマセンパイが掴む。
「ええってええって、フジに言うたら借りれるやろ」
「そうそう。花、ありがと。イチのベッドの側に置いとくよ」
「よろしく頼む。早く、良くなってほしいな」
「それじゃ、おやすみ」
「ほな、ちょっとの間だけ留守番頼むで」
オグリに軽く手を上げ、タマセンパイの部屋から立ち去る。私たちはフジさんの部屋に向かって、真っすぐ歩きはじめた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昨日の夜とほぼ同じ時間、また寮長室の、しかも同じ椅子に私は座っていた。淹れてもらった水も同じくらい減っていた。昨日と違うのは、机の上にガーベラを差した花瓶が置いてあることと、私の側にもう二人生徒がいること。
「つまり、夜、イチちゃんが起き出しているかもしれないから、皆で看病したいということだね」
そうです、と私は間髪入れずに答える。クリークちゃんも私の隣で、うんうんと頷いてくれている。
「脚を切ってしまったのに、お医者さんのOK無しで歩き回るのは危ないですから、すぐ近くに誰かいたほうが良いと思うんです」
毅然とした声と面持ちでクリークちゃんが意見する。いつものふんわりとした、語尾を伸ばすような喋り方からは想像できない、固い意志を感じさせる調子だった。
ゆっくりと私たちの話を聞きこんでいたフジさんが、おもむろに口を開く。
「モニーちゃんの話だと、イチちゃんはオグリのぬいぐるみを自分でどこかに置いてきてしまった……」
そうつぶやくと、ふむ、と顎に手を当てて何かを考え始める。
「部屋にはぬいぐるみは無かったんだよね?」
「ゼッタイ無いです。部屋の外にあるのは間違いない」
「イチちゃんの脚の傷の様子は見たかい?」
「見てないですけど、ぬいぐるみをどかしたいだけならベッドに寝たままでもできますよ。部屋の外に出すには歩くしかない」
そうだよね、とフジさんがもう一つ小さくつぶやくと、また考え込むモードに入った。
机の上に視線を向けるフジさんを見つめながら、私は昨日の話を思い出していた。この学園の子が無理をしてしまう理由は二つ。好きだからという理由と、憎いからという理由。
今朝の出来事が起きるまでは、「まさか、イチに恋バナがあるなんて」と無邪気に楽しんでいた。しかし、改めて一つ一つ状況を解きほぐすと、もしかしたらもう一つの方だったのかもしれない、と思わざるを得なくなってきた。
それまで傷つける素振りも無かったものに人に知られず手をかけたくなるような衝動の名前を、私はまだ知らない。私はそれが怖くて、それに従ったイチのことも少し不気味に思ったし、心配にもなった。
それを知りたい気持ちと、それは違うと言ってやりたい気持ち。その二つが私の中でせめぎ合っていた。
「……分かった。看病してもいいよ」
じっくり考えていたフジさんが顎から手を外し、私たちを見る。
「ありがとうございます。良かったぁ」
クリークさんが安堵したように、いつもの口調に戻る。そのゆったりとした響きが、私たちの気持ちにもいくばくかの安心感をもたらした。しかし、私たちの緩んだ気持ちを律するように、フジさんの凛とした声が部屋に響く。
「ただし、あんまり遅くまで起きているのは良くないから、午前3時までにしよう。3時間ずつで交代にして、11時から午前1時までがモニーちゃん、1時から3時まではクリーク、タマモ先輩は……」
「ウチはオグリの番やったるわ。慌てて何かしたがるかもしれんし、そっちのストッパーになる」
うん、とフジさんが頷く。
「クリークは途中からになるけど、それまでに何か準備とかはせず、きちんと休むんだよ」
「はい、わかりました~」
「何かあったら、必ず私に知らせてね。良いことでも悪いことでもいいから。常に起き出せるようにしておくよ」
作戦会議は着々と進み、各々の役割が決まる。連帯と使命感が私たちの間で共有され、不思議な熱気を醸し出していた。
その5 ”2日目③”(≫82~86)
了船長22/11/09(水) 22:50:40
「あのっ」
その熱にあてられてしまったのか、私は思わず声を上げて真っすぐに立ち上がり、全員の顔を一瞥する。その場にいる全員の目が私に向く。そのまま、恥ずかしい気持ちが湧き上がってくるのを感じながら頭を少しだけ下げた。
「みんな、ありがとう」
「そんな、どういたしまして~」
「モニちゃんが言うてくれんかったらこうはならんかったんや、気にせんでええって」
「そうだね。モニーちゃんのおかげだ。素直に助けを求めてくれて、ありがとう」
三人の言葉に、ますますばつが悪い心持ちになってしまう。『誰かのために、他の誰かにお願いをする』という経験も気概も無かったからだ。
そんな場の空気を初めて吸った肺と脳が、情報を処理しきれずに混乱する。
「別に、そんなワケじゃ」
「モニーちゃんのおかげです、いいこ、いいこ」
「ちょっと、何」
「うふふ、よく頑張りましたね」
クリークちゃんが、まるで子供をあやすかのように目線の高さまで膝を曲げて、頭を撫でてくる。
別に、頑張ってなんか――むしろ、他人に自分のできないことを投げつけただけだ。タマセンパイもフジさんも、目元を緩めながらこちらを見るだけで止めようとは一切してこなかった。
「ああもう、解散解散。皆やることわかってるっしょ」
せやな、と言ってタマセンパイが椅子から降りて寮長室を出る。クリークちゃんは私の頭を撫でる手を止めることは無かったが、ドアの方に身体を向けてくれた。
タマセンパイに続こうとして、フジさんに呼び止められる。
「モニーちゃん、忘れ物だよ」
振り向くと、花瓶を指さしていた。両手で持ち上げて胸の高さで支える。ガーベラの花が口元まで届きそうになる。
「モニーちゃんは、ガーベラの花言葉を知っているかい」
「知りません」
「希望、純潔、律儀。清らかで明るい未来を示し、誠実さも込められているんだ。そこに、本数によっても意味が加えられる」
「そうなんですか。一本だとどういう意味なんです?」
私の質問に、フジさんは一拍間をおいて、立てた人差し指を自分の口から鼻に向けて添えた。
「『あなたは私の運命の人』」
「マジ?」
飛び出た言葉に驚き、敬語も忘れてしまった。
「うん。オグリがそこまで知っているかどうかは、分からないけれどね」
じゃあ気を付けて、と言われ寮長室を出る。美化委員の子も知らないんだろうな――と思いながらクリークちゃんとも別れ、私は自室に戻った。
寮のあらゆるところで、消灯を知らせる放送が響く。その音を合図に、電気を消して静かになる部屋と、明かりを灯しっぱなしであんまり静かにならない部屋がだんだんとはっきりしてきて、そのうち誰かに怒られて静かになる。
許可を貰った事実上の夜更かしができる非日常感とイチへの気がかりな心、好奇心がごちゃ混ぜになり、私は妙な興奮を覚えていた。クリークちゃんの来る25時まで起きて様子を見なければいけない。
部屋の電気を消す直前、イチの顔を見やる。苦しそうな呼吸音と眉間の皺は、まだそこでイチのことを押しつぶしているようだった。
パチン、と軽い音を立てて部屋の電気が消える。いつも通りの暗さにならず、軽い違和感を覚える。部屋を見回して、いつもは閉まっているカーテンが開けっ放しになっていることに気付いた。
この部屋のこと、実はイチに任せっぱなしだったのかな――少しだけ反省する気持ちが生まれてきた。次から、カーテンは自分で閉めるようにしよう。
その習慣の一歩目として、試しにカーテンを閉めてみた。部屋がいつもの暗さに戻る。
ぴったりと閉め損ねたカーテンの隙間から覗く月光に照らされた白いローズマリーと花瓶が、サイドテーブルの上に虹色の光を落として暗い部屋の中で淡く浮かび上がっていた。
私物のパソコンの電源を入れ、読む気もない記事を片端からクリックしては閉じていく。そのうち、トレセン学園のホームページにたどり着いた。
特集はもちろん我らのヒーロー、オグリキャップ。クリークちゃんもいるし、イナリの名前もあった。同情するべきか、翌年にクラシックを迎える後輩たちのニュースのスペースは気持ち小さくなってしまっていた。
注目の子の名前はドクタースパート、サクラホクトオーに、『続け葦毛の伝説に』と大仰な見出しを載せられているウィナーズサークルという子たちらしい。ずいぶん田舎っぽい服装と顔立ちで、アワアワ、という声が聞こえてくるような、困ったような笑顔を浮かべている。
そんな見出しを書かれてはいるけれど、まだ未勝利戦にしか出場していない。レースの動画ではいい走りをするのに、ゴール手前で力が抜けて1着を逃している。勝つ気が無いのかと思う。
申し訳ないけど、この子たちのこと知らなかったな――
まだまだ知らない後輩たちの名前を見つめながら、イチと時計の進みを交互に見比べる。どちらも動いていないのではないかと思うくらい、時間が長く感じられた。
この調子で、あと2時間以上も耐えなきゃいけないのか。少しずつ迫りくる眠気と必死に戦いながら、イチとパソコンの画面を交互に見る。
そんな真面目にトレーニングしたわけじゃないのに何でこんなに疲れてるんだ、と思ったときにはもう、私の意識は自分の身体から離れていた。
ヤバい、寝てた!
役割を思い出した脳が覚醒する。私の身体はバンジージャンプで飛び降りたあと、伸びきったロープが反動で戻るようにして文字通りに跳ね起きた。
慌ててイチを見る。姿勢が若干変わっていたけど、スリッパも毛布も、大きい変化はなかった。軽い動悸がする胸を落ち着かせながら時計を見ると、1時53分を示している。
いっけね、もうすぐクリークちゃん来るじゃん――と思った矢先、こんこん、と控えめに戸が軽い音を立てた。
パソコンを急いで、でも音を立てずに机の上に置き直して扉の方に向かう。スマホの光を懐中電灯代わりにして床を照らしながら、クリークちゃんを迎え入れる。
「おつ」
「お疲れ様です~。イチちゃん、大丈夫そうでしたか」
「わるい、寝落ちてた。いつからも分かんない」
「あら、一日大変でしたもんね」
「なんか体力無くなってて。ゴメン」
「交代して私に任せてください~。しっかり休んで、元気いっぱいです」
クリークちゃんがおどけて力こぶを作るふりをしている。
「さすが」
「見ててくれてありがとうございました、代わりますから、モニーちゃんはもう休んでください」
お言葉に甘えて素直にベッドの上で寝そべった。
「椅子、使って。膝掛けはイチのやつがそこにあるから使っちゃえ」
「分かりました。自分のを持ってきましたから、大丈夫ですよ」
ふわぁ、と自分の口からあくびが漏れる。ここ二日間の出来事で、元々の体力が削られているのかもしれなかった。
「それじゃ、先におやすみ」
「おやすみなさい、モニちゃん」
掛け布団の中にもぐりこんで、また目を閉じる。椅子の上でうたた寝していた時と同じように、私はするりと眠ることができた。
その6 ”最終日①”(≫93~97)
了船長22/11/10(木) 22:13:05
光を感じて目が覚める。一度深夜に寝落ちていた分、幾分かゆっくりと起きることができた。
上半身を起こして部屋を見回す。クリークさんがどのあたりで看病していたのか分からなくなるほど、整頓して部屋をあとにしていたようだ。椅子も膝掛けも元通りになっている。
ベッドから立ち上がってイチの様子を見る。額の苦しそうな皺は取れ、顔つきも柔らかくなっていた。掛け布団のへりは曲がることなく真っすぐな姿勢で眠っており、呼吸も穏やかなものになっていた。
クリークさんが上手いことやってくれたようだ。
良かった――
肩と頭の先に感じていた重みのようなものが、すうっと晴れたような気持ちになる。制服に着替えるために腕を上げると、昨日おとといより幾分か軽い力で高く持ち上がる。
「心配かけんじゃないよ、不器用なクセに」
思わず口からこぼれた言葉は、幸い誰にも聞かれることなく、部屋の壁に吸い込まれて消えていった。
「おはようございます、モニーちゃん」
挨拶に振り返ると、一体いつまで起きていたのか、やや疲れが見える笑顔でクリークちゃんが手を振っている。
「うわ、平気?」
「はい。あの後、イチちゃんが起きてくれたんです」
「やっぱり。朝起きたらイチの姿勢がやたら良かったから、上手くやってくれたのかなって」
「少し怖がっていた様子がありましたけど、ご飯も食べてくれて。ちょっとだけ叱っちゃいました」
そう言うと、クリークちゃんはへこんだような面持ちになる。
「どうせ何か、勝手に思い詰めて自滅してたとかでしょ? クリークちゃんが落ち込む意味無いって」
「そうでしょうか……私も少し、頑固になっちゃいました」
「いいっていいって、私たちにこんだけやらせておいて、叱られないなんて方がおかしいんだから」
この子は火山みたいに怒りを噴火させないんだろうけど、グツグツと煮えて、我をしっかりと通すタイプなんだろうと感じる。一番怒らせたくない。
「イチちゃんに食後の休憩をしていて欲しくて洗い物まで済ませていたら、寮長さんに『起き過ぎだよ』って怒られちゃいました」
「そりゃそうっしょ。夕飯作って食べさせてるところまででも大変だってのに」
ふわぁ、という音がクリークちゃんから聞こえて顔を見上げると、恥ずかしそうに口元を手で隠して涙目になっている。らしくないけれど、あくびを我慢できなくなるくらい遅かったようだ。
改めて感謝の意を伝え、教室に向かう。歩きながらも時おり口元を隠す仕草をする彼女は、『天才』と呼ばれる高速ステイヤーではなく、どこまでも人のために優しい、等身大の一人の学生だった。
夕方になって用事を概ね済ませた私は、トレーニングも放り出して寮長室へまっすぐ足を向けていた。
もう慣れた手つきでドアを数回叩き、フジさんの返事を待って扉を開ける。椅子に深く腰掛けていて、クリークちゃんと同じく、少し疲れが残って見える表情をしていた。
「一日お疲れ様、モニーちゃん」
「お疲れです。どうしたんすかその顔」
私の質問に、「いやあ、少しね」と困ったような笑顔を浮かべる。
「昨日の夜、寝ました?」
「それがね……イチちゃんが起きたのは、もうクリークから聞いたかい?」
「はい。フジさんに怒られたってところまで聞きました」
私の指摘に、『困ったな』と言わんばかりの表情を作る。
よくよく考えると、時間を過ぎて世話を焼いたクリークさんもやりすぎだけど、それを夜のうちに叱ったフジさんは一晩中起きていたってことになる。いくら寮長とは言え、身体の調子をおかしくしてしまいかねない。
「フジさんは結構変なほうですけど、ずっと起きてたのはバケモンすよ」
「モニーちゃんの言う通り、今日はちょっと大変な日だったね。うっかり居眠りしそうになってしまったよ」
にこやかに笑っているけれど、話がすれ違ってしまって上手く噛み合わない。寝不足はフジ寮長の調子すらおかしくするのかと感心してしまう。
質問を直球で投げかけるべきだと思った私は、知りたいことをそのままぶつけることにした。
「イチ、どうでしたか」
何か反応を引き出せるんじゃないかと狙いをつけて、ワザと浮ついた質問にする。ところが、笑顔をほんの少しだけ緩めただけで、表情に大きな変化は表れなかった。
「自分の中で気持ちが混乱していただけだったよ。正義感の強い、とっても良い子だ。自分のことを悪者にしたがる節もあるけれど」
青く透き通った目が遠くを見やるように壁を見つめる。私たちを見守る、優しさにあふれた目だった。
「……よく分からんけど、とりあえず大丈夫そうなんすね」
「うん。あとは、当人たちで解決できると思うよ」
「オグリとイチで?」
私がフジさんの提案に驚いていると、それに合わせたかのようにコンコン、とドアをノックする音が響いた。
「入るでー。お、モニちゃんもおったんか」
「タマセンパイ」
「お疲れ様、トレーニング終わりに呼んでしまってゴメンね」
かまへんかまへん、と手をヒラヒラさせながら私の隣に腰かける。ちょこん、という効果音を鳴らしてやりたい。
「今、なんや失礼なこと考えとらんかったか」
「え、すご。エスパーっすか」
「否定せんかい!」
タマセンパイが噛みついてくるも、どうにも滑稽さのほうが目立つ。逆に笑いがこみあげてきた。それを見て、また噛みつく。
ハイハイ、とフジさんも笑いながら会話の間に入ってくる。
「本題に戻ろう。結論から言ってしまうけど、モニーちゃんには今晩、部屋を一日だけ交換してもらおうと思う」
「交換?」
「オグリをモニちゃんの部屋に送って、二人で話し合わせようってことやんな」
「その通り。寝起きに顔を合わせても、オグリならヒートアップすることは無いだろう」
「イチが昨日の――正確には今日ですけど。夜どんな様子だったか知りませんが、ホントに大丈夫ですか」
私の疑問に、フジさんが一つ頷く。
「大丈夫。イチちゃんについては、モニーちゃんも良く知っているだろう」
そりゃあ、別に暴れたりするタイプじゃないけど――逆に、何も言わずに閉じこもって、事態が変わらなくなる可能性は捨てきれないとも思う。
「オグリはああ見えて結構ガンコなところもあるからな、何かしら突破口は見つけるやろ」
タマセンパイの助言を聞くと、一抹の不安は残るけど、それもそうか、という気持ちになった。呆けているようで、ズンズンと踏み込んでいくのがオグリの強みだ。
決まりだ、とフジさんが手を叩く。椅子から立ち上がって、部屋を出る準備をし始めた。
「オグリは今どこに?」
「まだトレーニング中やけど、そろそろ夕飯食べるころやな」
「オグリには私から伝えておこう。モニーちゃんとタマモ先輩は準備を整えておいて」
私たちも席を立つ。
「モニちゃんはもうメシは済ませたんか」
「はい。あとシャワー浴びてくるだけです」
「シャワーだけとちゃうて風呂に浸かってき。どうせオグリもすぐには戻ってこんし。ほな、また後でな」
別に疲れてないし、シャワーだけで構わない。
そう思って寮の浴室でいつも通り身体を洗っていたが、ふと、タマセンパイの言葉を思い出してお湯に浸かってみた。足先から恐る恐る水面に触れると、熱くてびっくりする。
暑苦しくてメンドいな、と思っていたけれど、慌てた様子の他の子たちに「お風呂で寝たら死んじゃうよ!」と叩き起こされるまで、自分の体力が尽きていたことに気付いていなかった。
その7 ”最終日②”(≫103~105、109)
了船長22/11/11(金) 22:46:53
まだ湯上りでふらつく足元で浴室から部屋へ戻ってくると、自室のドアの前でソワソワと動き回る影を見かけた。
「何してんの、オグリ」
「ああ、モニー。お帰り。フジからここで待つように言われていて……」
ドアノブをゆっくり回して、音を立てないように部屋へ入る。オグリを招き入れると、イチが視界に入ったのだろう、私の横を大きめの歩幅で通り過ぎてベッドの側へ駆け寄った。そのままイチのおでこに手を当てている。
「昨日より落ち着いてるでしょ」
「うん。顔色も良くなっている」
オグリの横顔を覗くと、心の奥底から本当に安心したような、優しい表情をしていた。私は自分の身支度を整えながら、背中越しにオグリに質問を投げかける。
「フジさんからなんて言われたの?」
「『イチちゃんと決着がつくまで一緒にいてね』としか言われていないんだ。モニーは何か聞いているか?」
「う~ん……まあお互い、腹割って話してみてほしいわ。私じゃ聞けないこともあるだろうし」
手早く充電ケーブルとパソコンをまとめて、脇に抱える。
「モニーではなく、私が?」
「そう。私も正直、イチのことよくわかんないんだよね。良いやつなんだけどさ」
「そうなのか……分かった。任せてくれ」
それじゃあ、と言って部屋を出ようとする直前、オグリに呼び止められた。
「イチを任せてくれてありがとう、モニー」
真っすぐな目でストレートに気持ちをぶつけられた私は、思わず目をそむけた。
「別に、毎朝会うほど仲いいんでしょ。私よりイチのこと、詳しいじゃん」
そう言うと、オグリが顔を伏せ、さっきまで頼もしかった表情を暗くした。
「……実は、私はイチのことを良く知らないんだ」
「え?」
ゆっくりと息を吸いながら、重々しく言葉を紡ぐ。
「いつも、イチから色々なものを貰うんだ。お弁当だったり、応援の言葉だったり、元気も……だが、私は何もイチにお返しできていない。私は……イチの名前も知らないんだ」
「イチの本名ってこと?」
「そうだ。何か聞こうと思ったり、手伝おうとすると、いつも逃げられてしまう」
もしかしたら、と小さくつぶやいた後、耳を力なく前へ垂らしてベッドの側に膝をつく。
「嫌われてしまっているのかもしれない。貰ってばかりで、何かをしようとしている私に、愛想を尽かしているのかも」
そう言って落ち込んでいるオグリを見ていた私は、なんだかムカついていた。なんなんだ、この二人は。全くお似合いじゃないか。
イチもオグリもまるで鈍感だ。どんなに昔のラブストーリーでもこんな登場人物はいないだろう。なんせ、話が進まない。
私はまだ、この学園でそんなことしてくれる人に出会っていないのに――なんなら私の方が長く、イチと一緒にいたはずなのに。
そんなことを考えている自分にも攻撃的な気持ちが募っていた。自分のこのイライラと、これまで自分が積み重ねてきたことが反発しているから。
自分から相手を排し一人で強くなろうとしてきたんだから、そりゃ誰にも深く好かれはしない。そんなことはわかってる。
でも、実際に目の前で『うまくいったとき』の世界を見せつけられると、それはそれでどうしようもなくムカつく。
しかも本当のところ、イチはアンタのことを憎んでいるんだぞ――
「ねえ、オグリ」
少しだけ棘のある声が自分の口から飛び出す。はっとした様子で、オグリが素早く顔を上げる。
「今夜中に解決してよね、マジで」
「うん。任せてくれ」
真剣な表情と一緒に返事が返ってくる。やり場のないムカムカにブーストがかかる。
じゃあ任せたから、とだけ言い残して、私は足早にタマセンパイの部屋まで向かった。
「お疲れです、ジャマします」
「おーモニちゃん、よう来たな」
少しだけ乱暴にドアを開けた私に、タマセンパイが目を丸くする。
「……どしたんや、なんかあったんか」
「別に、何でもないですッ」
「小指でも打ったんか」
「廊下を歩いてきたんだから、ぶつける所が無いですよッ」
喋りながらズンズンと大股で部屋に入り、空いているベッドに座り込む。そのままパソコンのケーブルを引っ張り出して本体とつなぎ、空いている電源を探す。
オグリの充電器引っこ抜いてええで、とタマセンパイが助言をくれた。素早く抜いて、私の分を差し直す。
「イチちゃん起きとったか?」
「いーや。まだスヤスヤしてます」
「……なんや、カリカリしとるなあ」
つっけんどんな私の口調が理解できないのだろうか、少しばかりの間をおいてタマセンパイが声を発した。振り返って見ると、手にはスナック菓子の袋を持っていた。
「せっかくやし、モニちゃんも食べるか?」
「貰います」
にんじんチップスを手のひらに乗せてもらって、一息に口の中へ放り込む。
「そんないっぺんに食べたら勿体ないやろ! 大事に食べや」
そういうタマセンパイは有言実行か、一つ一つつまみ出しては二回に分けて食べている。
「……イチがあんなに好かれてるって知らなくて。私もまあ頑張ったのに、なんかヤだなって思っただけです」
「まだイチちゃんはモニちゃんが頑張ったって分からんからなあ。起きてからちゃんと話せばええ」
タマセンパイが、ほれ、と言いながらまたお菓子の袋をこちらに出してくれる。受け取ろうとして手を差し出すと、袋を引っ込めて反対の手で握ってきた。
「うわッ」
「モニちゃんはよう頑張った。誰かに何か頼むの、得意じゃないタチやろ」
私は何も言わず、タマセンパイの手を見つめる。
「うちらもモニちゃんのこと、あんまりよう知らんかったからな。イチちゃんもどうやらお堅いだけのマジメってわけちゃうみたいやし、良かったなあってフジとも話しとったんや」
「……急に先輩風吹かせないでください」
「風も何も、こちとら稲妻サマやぞ。おおきにな」
誰かに頼りたくないのは、こういうのに慣れていないから。
いい結果ってワケでもないのに、褒めちぎられるのは気恥ずかしい。私だけが私の機嫌を取ればいい。
でも、タマセンパイにこうやって褒められるのは、悪い気分じゃない。
誰かと対話することを面倒臭がらないで、ちゃんと対話して、歩み寄る。
キザな考え方でホントは怖がってる気持ちを誤魔化さないで、必要な時にはきちんと頼る。
自分ばっかりの責任じゃ、できないこともある。
パソコンを脇に置いて、タマセンパイの手の上に重ねる。
「今日まで、ありがとうございました」
「大したことやないで、モニちゃん。今度はトレーニングの手伝いでも、やらせてもらおかな」
「イヤっす。絶対勝たしてくんないから」
イチのおかげで自分の殻を破れた私は、きっと少しだけでも、成長できたのだと思った。
了
その8(≫155~159)
了船長22/11/20(日) 23:20:39
「優等生サマ」は今日、帰りが遅くなるらしい。ドアの脇にかけられた、時の流れをイヤでも感じさせるほど色の抜けたホワイトボードが、私に語りかける。
別に、その優等生サマがとうとうグレたから、とかじゃない。無知なフリをできないくらいには、その優等生サマと一緒に過ごしてきたつもりだ。
中央の学生、特にレース専攻で選手として走る私たちは、求められたならそれを満たせるくらいにトレーニングに励まなければいけない。ひいてはそれがファンの人――沢山いるわけでは無いケド――の笑顔にもつながるから。最初の話題には上がらないけど、3次会くらいで「そういえばあの子すごいよね」くらいのレベルにつながれば、まあまあ嬉しい。
話を戻すけど、優等生サマで私のルームメイトが遅くなる理由は、ナイターレースに慣れるよう夜のコースを走り抜く練習をするから。地方のトレセンが主催するレースでは、夜遅くまでレースをする。珍しいことじゃない。「未成年を夜遅くまで走らせるなんて、どういうことだ」なんてくだらん口喧嘩する大人もいるにはいるけど、私達はやりたくてやってるんだから口出ししないでほしい。
もちろん、遅くまでかかる練習はめちゃくちゃ疲れる。やっぱりこう、日が照らすうちにサボれるわけじゃないから、もう意外と辛いのにめちゃめちゃ追い込まないといけないから消耗が激しい。次の日の学科でうとうと船を漕いでる子がいたら「ああ、あの子は昨日、夜練だったんだな」と先生たちも配慮してくれるくらいには体力がなくなる。そんなときだけは先生に感謝です。でも小テストの量とクオリティ、落としてほしい。
ルームメイトが帰って来ないと分かった私は、いつも使っている、すっかり耳に馴染んだワイヤレスイヤホンを嵌めた。トレセン学園の合格が決まって、私以上に喜んでるパパとママに頼んだらするりと買ってくれた、ミドルクラスのイヤホンだ――ルームメイトに値段を話したら、「高くない!?」って驚くくらいの価格だけど。
もちろん、遅くまでかかる練習はめちゃくちゃ疲れる。やっぱりこう、日が照らすうちにサボれるわけじゃないから、もう意外と辛いのにめちゃめちゃ追い込まないといけないから消耗が激しい。次の日の学科でうとうと船を漕いでる子がいたら「ああ、あの子は昨日、夜練だったんだな」と先生たちも配慮してくれるくらいには体力がなくなる。そんなときだけは先生に感謝です。でも小テストの量とクオリティ、落としてほしい。
ルームメイトが帰って来ないと分かった私は、いつも使っている、すっかり耳に馴染んだワイヤレスイヤホンを嵌めた。トレセン学園の合格が決まって、私以上に喜んでるパパとママに頼んだらするりと買ってくれた、ミドルクラスのイヤホンだ――ルームメイトに値段を話したら、「高くない!?」って驚くくらいの価格だけど。
曲のサビに近づくにつれて、私の身体の揺れはどんどん大きくなっていった。もっと、もっとだ。私を満たせ。脊髄反射で動く身体が、思わず涙を流すくらいに、絶体絶命なまでに私を追い込め。
右手に握った端末の音量ボタンを大きくする方に数回連打する。単純明快だ。大きければ大きいほど、私を気分良くしてくれる。部屋の真ん中で、悦に浸れる。
正味なとこ、レースはだりいし脚は痒いし、終わったあとはめちゃくちゃしんどい。でも私は、私達はどういうわけか、それを止められない。走りたくて、なおかつ勝ちたい。一人勝ちできるならそれに越したことはない。私がレースで先頭を走り続ける理由はこれだ。一人で戦って一人で勝てば、誰も文句は言ってこない。
私の膝が音に合わせて曲げられては、また伸びてを繰り返す。身体はどんどん心地よい音に身を任せていった。
そうしているうち、少し落ち着くような緩急をつけてから、最後の大サビに入る。繰り返されるメロディと韻を踏んだ歌詞、速いテンポが大きな波となって私をトレセンの寮室ではないどこかへ運ぶ。それに合わせて、身体の揺れは大きくなっていく。私は自分の世界にすっかり浸りきっていた。
気持ちいいな――
満足感と一緒に、ボーカルの吐息と共に音楽が終わる。すべてをやり遂げた気持ちで、太ももに心地よい疲労感も覚えた私はイヤホンを取り、寮室の天井を見つめた。トレーニングもレースも辛いけれど、時折こんな気持ちにひたれるのであれば、もう少し続けてやってもいい。
「モニー、今なら聞こえるだろうか」
背後から飛びかかってきた予想外の音に、私は鳥肌を浮かべながら跳び上がった。きっと、みっともないような声も上げていたと思う。
「その、何か辛いことがあったのなら、相談に乗るぞ」
脂汗を耳の先から流しながら振り返ると、果たしてそこには、すっかりニュースの写真で見慣れた葦毛のスーパーウマ娘が、困惑しきった表情で立っていた。
「イチにも言えないことなら、私が聞ける。大丈夫か?」
一人で最も気持ちよくて、最も誰かに見られたくない姿を目撃された私は、レースで発揮する集中力さながらに、部屋を最大速度で飛び出した。
了
その9(≫179)≫177より派生
≫177 二次元好きの匿名さん22/11/24(木) 20:34:25
タキオンの薬で幼児化してしまったオグリ(ハツラツ)を餌付けするイチちゃん・・・
了船長22/11/25(金) 03:54:23
≫177
「前回までのあらすじや」
「ある日朝起きたらオグリがちっこくなっちまってさぁ大変、こんな時に限って肝心のクリークはレースで不在、とんと大変なことになっちまった。タキオンのヤツをとっちめなきゃなあ」
「騒ぎを起こさないために、何故か私とイチの部屋で預かることになったってワケ。……なんで?」
◇◇◇◇◇◇◇
「おねえちゃん、だあれ?」
「わ、私は……イチ。イチっていうの」
「イチ? イチおねえちゃん?」
「そうよ。ええと、よろしく、お願いします」
「うん! よろしくね……わあっ」
「あッ危ない、大丈夫? 痛くない?」
「……うう〜」
「痛かったわね、泣かないで。ほら、よいしょ! ……ね、あなたは強い子だから。そうだ、あなたのお名前は?」
「ハツラツ」
「は、ハツラツ?」
「オグリキャップだけど、おかあさんはハツラツって呼ぶの」
「ハツラツ、ハツラツ……かわいい名前ね」
「えへへ、ありがとう。……お腹へった」
「なにか食べよっか。おいで、作ってあげる」
「ほんと? やった!」
「いっぱい作るからね、全部食べるのよ?」
「うん!」
みたいな感じでしょうか(ハツラツさんはイチちゃんに抱っこされています)
その10(≫186~187)
≫了船長22/11/26(土) 02:23:35
「前回までのあらすじや」
「タキオンに元通りの薬を最優先で作らせちゃあいるが、どうにも難航しててもうしばらく辛抱しないといけねぇ」
「小さくても沢山食べるだろうと思って、私達が普通に食べる一人前を作ったらペロリと食べちゃった。……なんで?」
◇◇◇◇◇◇
「ねぇモニーおねえちゃん、イチおねえちゃんは?」
「……あ、ごめん、聞いてなかった、何?」
「何してるの?」
「特に何も」
「わたしもみたい」
「ん……待て待て、ベッドから降りんなって言われてんでしょ」
「でも、みたいから。よいしょ」
「高いんだからやめとけって」
「だいじょうぶ……わあっ」
「うわ、言わんこっちゃない、なーッ、もう」
「……ううっ、ぐすっ」
「泣くな泣くな、ほら」
「うぅ〜……」
「立てる? 手、掴んで。そうだ、腹減ってないか、なんか食べに行くか?」
「……いかない。お腹減ってないもん」
「あー、そうか……」
「モニーおねえちゃんのやつ、みたい」
「そんな大したもんじゃないんだって」
「やだ! モニーおねえちゃんのいじわる」
「そういうワケじゃないんだけどな、だぁー、もう。そこ座っといて」
「うぅ、ぐすっ」
「泣くな泣くな、くそー、無理だ、分かんねー」
◇◇◇◇◇◇
「ただいま」
「あーッ、イチ」
「どうしたの、モニー」
「私じゃ無理。代わって」
「オグリ、どうして泣いてるの」
「なんかベッドから降りたがっちゃって、うまく立てなかったみたいで」
「ハツラツ、大丈夫?」
「ぐすっ、イチおねえちゃん」
「うん。痛くない?」
「へいき。いたくない」
「うん、良かった。……一応、帰ってきてるクリークさんとタマモ先輩に連絡したほうがいいかな」
「分かった、任して」
「お願い、モニー」
◇◇◇◇◇◇
「呼んでくれてありがと、モニー」
「いや、別に……なんかごめん。マジで分かんなくて」
「私も分からないわよ、小さいオグリの面倒見るなんて……」
「でもなんだかんだ上手くない? あやすっていうか、自然に好かれるっていうか」
「そんなつもりは無いから、正直、自信ない。頼られてるのは嬉しいけど」
「なんかオグリも、思ったより足元緩いし」
「走るのはともかく、歩くのも辛そうに見えるのよね」
「うん……今のオグリからは想像できんわ」
「本当ね。オグリのお母さん、大変だったのかな」
「……次からホントに、目離さないようにする」
「うん。私も気をつける」
みたいな感じでしょうか(高校生くらいの年齢なら、子供に強く当たるのはいくらなんでもやらないだろうと思ったので、理解が及ばない未知の存在への小さな恐怖と意思疎通の難しさに困惑する、と解釈しました。失礼……)
Part19
(≫118、≫121)
≫了船長22/12/07(水) 22:34:12
「はぁ~」
「いいよなぁ~」
「なに、なによ、二人とも」
「イチのお肌はサラサラしなやか」
「髪もツルツル、モチモチだもんなあ」
「わっ、んもう、あ、ありがとう……ん? 逆じゃない?」
「ねぇイチ、なんの化粧水使ってるの」
「購買で売ってるヤツだけど」
「えーーーウソウソウソ、絶対ウソ。なんかいいやつ使ってる。私の知らないやつ」
「アンタが知らないお化粧品、私が知ってるワケ無いでしょうって」
「ヘアオイルとかネイルケアはー?」
「……どっちも使ったことない」
「がー、ウケん。私なんかアレもコレも試してみて、やっと何とか見つかったかなあって感じなのに」
「こないだのシチーさんの見たー?」
「見た見た。ジョーダンさんのも見た。もうスマホの画像フォルダ、二人の使ってるグッズでいっぱい」
「てかジョーダンさんのネイル知識ヤバくない?」
「わかるー。紀元前三千年のエジプト」
「ヘンナの花で爪を染めてた」
「いえーい」
「いえーい、覚えちゃった」
「ちょっとちょっと、おいてかないでって」
「ゴメンゴメン、つい」
「あの雑誌に載ってたものに頼らなくても、イチはこのお肌を維持してるのかあ」
「……まあ。ありがと。嬉しい」
「特別なこと、ホントにしてないの?」
「ご飯食べて、寝て起きてるだけよ」
「なーー、そんなわけないと思うんだけどな」
「いくら何でも、普通に過ごしてこんなにキレイにできるとは思えねーよね」
「みんな、ウチらみたいに頑張ってるハズよ」
「確かに、モニーも色々試してるの見たことある」
「そーなのよ。マジでイチが何やってるのか聞きたい」
「答えようがないわ。本当に何もしていないし……」
「何もしなくてもイチみたいなヤツを探せばいいんじゃね」
「いくら何でもそんな奴いねーって」
「条件絞ってけば一人くらいヒットするっしょ。まず、早起き」
「起きた後、二度寝しないで何かしてる。そのあとは授業受けて、普通にメシ」
「んでトレーニングして、メシ食って、追加のトレーニングやるならやって」
「風呂入ったら夜更かししないで寝る。そんでまた早起き」
「そんなことしてるヤツ、いる?」
「いーやさすがに……あーッ!」
「うわっ、何」
「いるじゃん!」
「えっ、誰、誰、誰」
「ダンナよ!」
「あー、イチのダンナ!」
「確かに、肌も髪も……うわ、割れ鍋に綴じ蓋」
「牛は牛連れ、ウマ娘は、ウマ娘連れ……よよよ~」
「もう! 何よ二人で自己解決して! あとダンナじゃない!」
了
Part20
その1(≫73~77)
≫了船長22/12/25(日) 23:59:38
「ねえねえイチ! こっち向いて!」
「ん、何……わッ!?」
「ほい~、クリームたっぷり」
「んあんあ、あいおっ」
「『わっわっ、何よっ』?」
「イチのこんな顔初めて見た。ウケる、撮っとこ」
「んぐ、んむ……びっくりした、生クリームじゃない」
「皆でケーキ作ってて余ったスプレー缶のホイップクリームなんよ。もう一口いる?」
「……いらない」
「ちょいちょい、何ふくれてんの」
「別にっ」
「ちょっとちょっと、天下の日曜日にハッピーホリデーなんよ? レースが入っちゃってパーティに来れない子じゃないんだし、どうしたの」
「ちなみにクリスマスとお正月の曜日って必ず一緒になるの、知ってた?」
「7日後なんだからあったり前でしょ」
「……これ、間違いなく何かありましたね」
「こーれ、どうせまたダンナがらみよ」
「オグリは関係ないでしょっ。そんなんじゃないし」
「そんなんじゃない、ねえ。はいイチさん!」
「何よ」
「あーん!」
「あ、あー?」
「隙アリ!」
「んあっ、おっお!」
「『なっ、ちょっと』?」
「まあまあ、甘いものでも食べて一旦クールダウンよ」
「そうそう。ウチらに話してみなって」
「んむ、んむ……分かったけど、もう一口ちょうだい」
「お、ノッてきたね。はい、あー……」
「直接口にスプレーするのはもういいから!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……あー、まとめると」
「カフェテリアのクリスマスパーティで浮かれまくってたオグリ――ああいや、ダンナが気に入らなかったと」
「わざわざ言い直さなくていいわよ、そこは」
「寮ごとにやるクリスマスパーティで、いつもは作らない洋食を頑張って練習して作ったのに、ダンナが他の人からいろんなものを押し付けられていたと」
「ほんで、当の本人はごはんを貰えることが嬉しくてちゃんと全部食べまくっていて、列というか、みんなの波に割り込むことができなかったと」
「さらにオグリ以外に食べられるのがイヤだと」
「……イヤって言うか、アイツの調子を崩すために作った料理だから、オグリ以外に食べてもらうのは申し訳なくなるし……」
「でも普段、夜練する子たちの夜食とか作ってくれてるじゃん」
「それはクリークさんとか、フジさんとかに頼まれてるから別」
「ウチらを呼んでくれたら、バレンタインデーの時みたいに無理やりスペース作ったのに」
「それはごはんを持って来た、他の子たちに悪いし」
「……かーーー! ダメだ、甘すぎるー! ハッピホリデー!」
「イチさー、今日だけは魔法にかけられてもいいじゃない」
「『愛を証明するの。駆け寄って彼女を抱きしめるのよ。愛をこめて美しい歌を歌えば大丈夫』」
「意味わかんないこと言わないで」
「えっ、知らん?」
「知らないわよっ」
「このクリーム缶、他の子たちにもイタズラで使うつもりだったけど丸ごとイチにあげる。アンタもいいっしょ?」
「いいよー。またカフェテリアでもらってこよ」
「食べきれないわよ、こんなに」
「食べきらなくていいから、ちょっとここで座ってたら、ってハナシ」
「『どんなに深く愛してるか言葉にして伝えましょう。黙っていては届かないの、愛は』
「年中イチの料理を食べてくれるし、イチも料理を作ってるってことよ? イチがそう思わなくても、愛みたいなもんよ」
「……ちがうもん」
「せっかくの祝日なのにそんな気持ちで寝たら地獄の背面サンタも逃げ出しちゃうし、しばらく座ってな」
「……」
「空になったら呼んでねー」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……はーい」
「失礼する、イチがここにいると聞いて、やってきたんだが……」
「さては喋ったな、あの二人」
「やあ、イチ。どうしたんだ、顔をそむけて」
「……別に。幸せそうだったじゃない」
「クリスマスパーティのことか。ハッピーホリデー、イチ」
「みんなのごはん、おいしかった?」
「うん。とてもおいしかった。沢山食べられて、幸せだったな」
「良かったじゃない」
「イチは、食べていないのか?」
「作ってたから食べてないわ」
「なっ、それはダメだ! イチも何か食べに行こう」
「いい。自分で作ったやつ、食べるから」
「……それなら、私も食べる」
「いつもとは毛色の違う料理だから、おいしくないわよ」
「なっ、イチ、何を言うんだ」
「今日一日、おいしいものいっぱい食べたんでしょ。わざわざ食べなくていいわ」
「イヤだ! 私が好きなイチの料理を、イチに否定してほしくない!」
「イチが作る料理で、美味しくないものなんてない」
「ま、まだ食べてもないのに」
「私は、イチとのごはんなら毎日だって食べたい。栄養も元気も、なにより素敵な時間を貰ってきた」
「……でも」
「今日は特別な日だから、イチと一緒に食べたい。二人で食べて、そのあとにおしゃべりする時間も楽しいんだ。なぜなら、私はイチのことが――あっ」
「……え?」
「分かってしまった、かもしれない」
「何によ」
「ああ、その……わ、私は、イチのことが――」
「はいイチのダンナさん、こっち向いてぇー!」
「えっ――わっ!」
「ちょっと、アンタたち!」
「おあおああ」
「口いっぱいにほおばるオグリなんて珍しくもないけど、撮っとこ」
「先に謝る! オグリにイチの居場所バラした!」
「でもこの方が上手くいくと踏んだんよ、ゴメンねー」
「このクリーム缶も二人にあげる! 私たちのことは追いかけなくていいからね、イチ!」
「それじゃおやすみー。早く食べないとお風呂間に合わないよー」
「なっ、ななな、逃げ足の速い」
「ああいおおうあっあ」
「飲み込んでから喋りなさいって」
「……ふう。嵐のような二人だったな」
「年中あんな奴らなのよ、オグリのことをダンナ呼ばわりして」
「ふふ」
「何がおかしいのよ」
「いや、嬉しいなと思ったんだ」
「はあっ、どうして」
「私はイチのことが好きだ」
「えっ」
「イチが私のことを好きかどうかは分からない。けれど、イチの友達が私のことをそう呼ぶのが、なんだか愉快だなと思ったんだ」
「……オグリ」
「不思議な気持ちだ。からかわれているとわかっていても、嫌じゃない」
「……ムカつく」
「ふふ、すまない、イチ」
「……洋食」
「ん?」
「いつもお弁当に入れてるようなお料理じゃなくて、お皿で食べるごはんよ」
「そうなのか!」
「鮭のムニエル。出来立てじゃないから、固くなってるかもしれない。もちろん温め直すけど」
「私も手伝う。その後、二人で食べよう。温めている間に、イチとおしゃべりもできる」
「……ホント、ムカつく。ガッカリしなさいよ」
「すまない、イチ」
「でも……ハッピーホリデー、オグリ」
「うん。ハッピーホリデー、イチ」
了
その2(≫97、≫99~108、≫110~115)
≫了船長22/12/30(金) 19:58:38
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「イチ、お疲れ様」
「あ、おつかれ、オグリ……忙しくないの?」
「少し忙しい。だが、イチに聞きたいことがあるから抜け出してきたんだ」
「うん」
「イチは今年、いつ地元に帰るんだ?」
「えーと……31日に帰る予定」
「もう一つ、イチが好きな食べものはあるか?」
「好きなもの? うーん……好き嫌いは無いから、なんでも食べるわよ」
「分かった、ありがとう。この後のトレーニングも頑張ってな、イチ」
「あっ、オグリ!……行っちゃった」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「頑張っとるなあ、モニちゃん」
「タマセンパイ、お疲れです。今日はヒマなんすか?」
「いや、オグリと一緒に進路相談やらインタビューやらでちょいとせわしないな」
「こんなことで油売ってていいんすか」
「あんま良くないなぁ。せやけど、モニちゃんに聞かなあかんことがあってな」
「はい」
「地元にはいつ帰るんや」
「家ですか? 31日に帰りますよ」
「好きなごはんのおかずはなんや?」
「えー……味の濃いヤツ」
「なんや、意外と子供っぽいやんけ。ほな、おおきにな!」
「どーいうことっすか! うわ、脚はっや」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「そうしたら、次の一本で終わりにしましょう」
「そうね。今年最後の走り込みだから、集中して」
私のトレーナーさんがストップウォッチを手に私たちの方を見る。モニーのトレーナーさんは、腕時計――スマートウォッチを何やら操作している。
12月30日、空がオレンジ色に染まり始めたくらいの時間で、私たちの今年最後のトレーニングが終わろうとしていた。息を深く吸うと、冷たい空気が心地よく体温を下げてくれる気がする。
隣では、モニーが少し肩で息をしながらも軽くその場で跳ね、気合を入れ直している。それを見て、私もぐっと脚を伸ばす。
「ラス1か。絶対負けないから」
「言ってなさいよ、モニー」
悪気はないんだけれど、モニーと一緒に走ると、トレーニングの時でも思わず挑発するような物言いをしてしまう。
ほとんどの場合は向こうが始めにケンカを売ってくるんだし、私は悪くないはず。買っちゃってるのは事実なんだけど。
冷え始めた気温と裏腹に、闘争心がメラメラと燃える。モニーもきっとそうなんだろう。
「年末にトレーニングで気合を入れ過ぎました、なんて冗談にもなりませんからね」
「やり合うのはとてもいいことだけど、怪我だけは避けなさいね」
私たちの心を見透かしているように、トレーナーさんたちが注意してくれた。はーい、と揃って返事をして、スタートラインに向かう。
ゴール板の前で待つトレーナーさんたちとの距離が開いていく。
彼らが遠くなればなるほど、さっき私たちが受けた注意の言葉の記憶も同時に薄れていくようだった。
「年末イチに勝って実家に帰る。これ以上の喜びがありましょーか」
「負けっぱなしじゃ終わらせないわ、絶対差し切る」
「ここは芝じゃなくてダートコースよ? 先行逃げ切りが鉄則ってワケ」
「クロガネトキノコエさんに走り方は叩き込まれたもの、逃がすわけないわ」
私たちはトレーナーさんが掲げる合図の手旗に意識を集中させる。いつ振り下ろされてもいいように。
今年最後の真剣勝負の火蓋が切って、降ろされた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
力を出し尽くした脚の痛みと、それを撫でる風の冷たさ。
隣から少しずれて聞こえる激しい呼吸の音と、ドクドクと早く鼓動を打つ私の心臓の音。
そして、私より少しだけ後ろにいるモニー。
私は今年最後の「大一番」を無事に収めることができた。
「お二人とも、はじめから忠告を忘れていましたね」
「レースさながらの気迫だったわよ。走る前から抜け落ちていたでしょう」
呆れているけど、少し口元が笑っているトレーナーさん。モニーのトレーナーさんは、ちょっとだけ真剣に怒っているようにも見えた。
擦れた声で「ごめんなさい」と謝る。でも、後悔の気持ちは全くなかった。
私はモニーの方を振り向いて、疲労感が残る上半身を何とか引き上げて胸を張り、座り込んでいるモニーに手を伸ばす。
「どんなもんよ、モニー」
「……来年の最初のトレーニング、絶ッ対に私と走って。次は負けない」
ちらりとこちらを見上げてから、私の手を取る。私はぐっ、と力を込めて、モニーを引き上げた。
まだまだ闘志が残る目線を送るモニーを見て、はあ、とトレーナーさんがため息をつく。
「なんにせよ、今年一年お疲れ様。よく頑張ったわね」
「これでお二人とも、冬休みです。ゆっくり療養してください。宿題の方も忘れずに」
「ありがとうございました。トレーナーさんたちも、良いお年を」
「また来年もお願いしまーす」
トレーナーさんたちと別れ、私たちは着替えるためにロッカールームへ向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ロッカールームで泥を落としたり着替えてるうちに、私たちはすっかり空腹を覚えていた。
カバンを持って寮へ続く道を歩く。道の両脇に植えられた桜の木も、すっかり枝だけになってより寒さを感じさせてくる。
「ハラへったぁ、今年最後のごはんは何にしようかな」
こらえきれなくなったように、先にモニーが音を上げる。あくまで学校での最後のごはんでしょ、と心の中でツッコミを入れる。
せっかく最後の日なんだし、冷蔵庫の中身も綺麗にしたいから、最後に何か作ってあげようかな。
「ねえモニー、何か食べたいものある?」
「え、どうしたの」
「残り物でよければ夕飯作ってあげようか、ってこと」
「マジで? やったー」
アイツに年がら年中料理を作ってるうち、「特技は何ですか」と言われたら「料理です」とすぐ言えるくらいには腕が良くなった、と思う。
こうしてルームメイトにさらっと提案できる自分がなんだか嬉しい。自信がついたっていうのかな。
自分が作ったものに、他の誰かが喜ぶ。その反応を見れるのも、とても嬉しい。
モニーと話しながら寮までたどり着くと、果たして私の自信の源になった「アイツ」が、寮の玄関の前に立っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おかえり、イチ、モニー」
「おつかれさん」
オグリとタマモ先輩が部屋着に袢纏を着て、寒そうに身体を揺らしている。
私たちはただいまを言う前に、同じ疑問が頭の中に浮かんでいた。
「あれっ、二人とも、まだ帰ってないの?」
「そうっすよ、タマセンパイは実家遠いっしょ」
私たちの問いかけに、二人はただ「ふふっ」「へへっ」としか返事をしなかった。
「カバンを持とう、疲れていないか」
「あっ、ありがとう……」
「ほれ、モニちゃんも寄越しぃ」
「鞄大きくないっすか? イケます?」
持てるわ何言うとんねん! とモニーがどつかれる。奪い取るようにしてタマモ先輩が鞄を持つ。打ち合わせでもしてるかのようなスムーズさ。
こちらに手を伸ばすオグリに、少し気後れしながら私も鞄を預ける。私の荷物を持っているにも関わらず、とても嬉しそうな顔を浮かべている。
「ほな、ひとまずカバン置きにいこか」
「うん。二人とも、こっちだ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
質問に答えないまま、二人は私たちの先を歩く。何を聞いても「まあまあまあ」と流されてしまう。
オグリが突然脚を止め、ばっ、という効果音を立てるようにこちらを振り向く。どこか誇らしげな顔をしている。
「さあ、ついたぞ二人とも」
「ついたも何も、私たちの部屋の前なんだけど……」
目をキラキラさせながら、うん、と大きく一つ頷く。
タマモ先輩に助けを求めて目配せする。しかし、ニヤニヤしているだけで何も言ってはくれなかった。
オグリが扉を開け、私たちを手招きする。二人が私たちの机に鞄を置いて、こちらを向く。
「お風呂を先にするか、それともごはんにするか?」
「はあっ!?」
「タマセンパイ、オグリ、なんか変なもの食べました?」
「アッハッハ、どうしても言いたいセリフってそれかいな、オグリ」
「うん。どうしても一度言ってみたかったんだ」
「もう、ホントにバカじゃないの」
モニーもタマモ先輩もいるのに、一体何を言い出してるの、コイツ。お決まりのセリフにしてはなんかちょっと短いし。
私が答えられずに固まっていると、いつの間にか「みんな冷え取るし、先に風呂にしよか」とタマモ先輩が話をまとめてしまう。
すると、オグリが屈んで、勝手に私のベッドの下を探り出した。それを見た私の身体は、レースの発バ機から飛び出すときと同じくらいの反応速度で動き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ちょっとバカ、何してんのよオグリ!」
「何って、着替えを取り出そうとしたんだが……」
「自分でやるからいいって、ていうか、なんで私の着替えの場所なんか知ってるのよっ」
「いつも寒い時、ここから上着やジャージをここから出しているじゃないか」
平気な顔をして、むしろ止めにかかる私の方がおかしいんじゃないかと思わせるくらいに自然な動き。
ここ、私の部屋なんだけど。
背後の笑い声でハッと現実に意識が戻る。振り向いたら笑いながらひっくり返ってるモニーと、その横でタマモ先輩ドアの枠にもたれかかりながら、顎に手を当てしたり顔をしている。
「ホンマに仲ええなあ」
「ひぃ~っ、アッハッハ」
どんどん顔に熱が上ってくる。オグリを見下ろすと、何か悪いことをしたと思っていない、ヘーキな顔をしていた。
それを見て、ますます顔に熱が上る。
「デリカシーなさすぎ、ムカつく、ありえない!」
私はオグリとタマモ先輩、そして勢いのままモニーも部屋から追い出した。
ホントありえない、知ってるからって二人の前で、バカ、バカ、バカっ。
「……あの~、ふふふっ、イチさん、私の部屋でもあるんだけどな」
「知ってる!」
私は手早く替えの服を取り出して、部屋を出る。廊下で申し訳なさそうにしているオグリを尻目に、浴場まで足早に歩いて行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「すまなかった、イチ、まだ怒っているだろうか」
「別にっ。怒ってない」
「ううむ、だが……」
オグリが私の横でしきりに謝っている。わたしはそれを無視して、シャンプーをするために髪の毛を前へ手繰りよせる。
二人が何やらやたらと私たちの世話を焼いてくる。意図はわからないけど、その気持ちはとても嬉しかった。
オグリが空回りしてるだけなのも分かっている。とはいえ、二人の前でいきなりあんなことを言うなんて。
「でも、自分のことは自分でやるからっ」
「うわっ、どうしたんだ、イチ」
思わず堪えられなくなって、声に出してしまう。分かっていても、怒りたくなってしまう。
嬉しい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、ありがたいなと思う気持ち。そこにトレーニングの疲れも重なって、私の心はまだ、このぽっと出にかき回されっぱなしだ。
シャンプーをする手にも力が入る。ロッカールームで落とし切れなかった砂や泥が乾燥していて、うまく指が入っていかない。
苦戦していると、ふと、腕と肩にかかる重さがふわりと軽くなった。驚いて鏡を見ると、私の肩越しにオグリの姿がある。
「手伝うぞ、イチ。その間に身体を洗っていてくれ」
「……ありがと」
「尻尾まで流したら、お風呂で暖まろう。その後に夕ご飯だ……イチの毛は、綺麗だな」
「まだ汚れてるけど」
「洗う手伝いができて嬉しい」
脱衣所を出るまで、オグリは私の側でずっと手伝いをしてくれた。浴槽から上がるときには手を差し出してくれたりして。
オグリがドライヤーで私の尻尾を乾かしている間、私の気持ちは疲れが抜けるのと一緒にだんだん落ち着いていった。
腰のあたりに当たる温風も、私の尻尾を支えるオグリの手も、どちらも心地よく感じていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お風呂の身支度が終わると、オグリは私をラウンジまで案内した。ついて行った先には、私たちより早めにお風呂から上がったモニーが少しだけぐったりしながら、ケータイをいじっていた。
「モニーと一緒に、ここで待っていてくれ」
オグリはそう言うと、パタパタと共用キッチンの方へ走っていく。
「もしかして、お夕飯って二人の手作りなのかな」
「そーだよ。タマセンパイもそう言ってた」
「モニー、大丈夫?」
「湯あたりした。もーちょい待って」
私の疑問に、モニーが答えてくれる。ていうか、モニーってお風呂苦手だったんだ。
「他にタマモ先輩、何か言ってた?」
「しんどかったら水飲めって。夕飯はすぐ来るってよ」
「理由とか聞いて無い?」
「理由?」
「どうしてこんなにしてくれるっていうか、そばにいるのかっていうか」
「聞いたけど全部『ナハハ』とか言ってはぐらかされた」
あいててて、と言いながらモニーが紙コップに口をつける。お代わりを持ってこようかと聞くと「お願い」と言うので自分の分も取りに行くことにした。
せっかくだからオグリとタマモ先輩の分も持っていこう。少し苦労しながら4人分のお水を持って戻ると、エプロンを付けたオグリが、先にごはんとお味噌汁の配膳をしているところだった。
「お帰り、イチ。いなかったからびっくりしたぞ」
「ごめん、オグリ」
「もうすぐだ。あとちょっとだけ辛抱してもらえるだろうか」
一番我慢できなさそうだけど、とは口に出さずに、「うん」とだけ返事をする。
早く食べたいからなのか、やはり小走りでパタパタとキッチンに戻っていくオグリ。
お茶碗に盛られたぴかぴかのごはんと、もやし、にんじん、厚揚げの入ったお味噌汁。もしも私一人だけだったら、これだけでもう十分だなと思ってしまうだろう――
タンパク質が足りません、ってトレーナーさんには怒られそうだけど。
合間合間にお水を挟むモニーと話しているうち、お盆を持ったタマモ先輩と、その後ろからついてくるオグリがやってきて、おかずを机に並べる。
「待たせてもてすまんかったなあ。もうすぐや」
「なにかお手伝いとか」
「ええねんええねんモニちゃん、座っとって」
料理が全て並べられて、みんなで席につく。モニーも椅子に腰かけ直して、オグリは待ちきれなさそうに尻尾を振っている。
タマモ先輩が一番に、パン、と快活な音を立てて手を合わせる。
「ほな、皆で食べよか。いただきます」
ごはん、お味噌汁に、お漬物。
まずは、お味噌汁を一口すする。お箸の先端をお出汁で湿らせると、ごはんや他のおかずが器にくっつかなくなって洗い物が楽になることを知ってから、一番最初に一口飲む癖がついてしまった。
鰹節の風味を聞かせて、少しだけうすくちに作った、お野菜の甘みが染み出すあっさり仕立てた味。温かさに気持ちまでほっとする。
「どや、ええ出汁、出とるやろ」
「はい。年越しそばにも使えそうですね」
2つあるおかずのうち、色の濃いほうに箸を運ぶ。噛み応えのある食感に、ごはんの進む濃いめの味付け。なるほど、だからお味噌汁はちょっと薄めなんだ。
もぐもぐと噛んでいると、オグリが私のことをじっと見ていることに気付く。
「イチ、おいしくできているだろうか」
「うん。これ、もつ煮?」
「どて煮なんだ。私の夢で、イチに食べてほしくて作ったんだ」
期待と、少しだけ不安が混じったような面持ちで、私が呑み込むのを待っているようだった。
煮詰めたお味噌の濃い塩気と、時々混じるしょうがと刻みネギのツンとした風味。味のリズムが心地よくて、ごはんをついもう一口食べてしまう。
お肉とこんにゃくの味の違いも美味しい。
「おいしいよ、オグリ」
私がそう伝えると、ぱあっと輝いたように表情を明るくして、食べるスピード上がったようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私の横では、モニーが先にもう一つのおかずを食べているところだった。
シャキ、シャキと音を立てながら、お茶碗を持ち上げてごはんと一緒にかきこんでいる。よっぽどごはんが進むみたい。
もやしが入っているのは一目見て分かったけれど、その横の白い具はなんだろう。
「ウマいか、モニちゃん」
「メチャうまいですよ、これ」
「もやしとはんぺん、それに豆苗のうま煮や。モニちゃんの口に合うてるみたいで嬉しいわ」
私も一口分をお箸でつまんで、口に入れる。なるほど、どて煮のお味噌とは違うけれど、確かにご飯と一緒に食べたくなる味付け。
もやしの食感を楽しんでいるところに、するりと入り込んでくるはんぺんの弾力ある噛みごたえ。味がしっかりしみ込んでいて、まったく水っぽくない。
「コツがあってな、火を通した後に一度粗熱を取るのが大事なんや」
「そうなんすか?」
「寮が多くて煮汁の少ないもんにとろみをつけるんは難しいから、冷ましてやってから片栗粉を入れると失敗せえへんうま煮ができるっちゅーワケや……モニちゃん、聞いとるか?」
タマモ先輩の話をそっちのけで食べ進めるモニーに、困ったような笑顔を浮かべるタマモ先輩。でも、耳はまっすぐ前を向いて並べられていて、嬉しい気持ちがあふれ出ていた。
4人ともお腹が減っていたからか、さっきの会話が終わってしばらくの間は、食べる方に集中していた。
オグリがごはんのおかわりをして、それにモニーもついて行って、私とタマモ先輩は食べてる途中。さっきよりも多い量のごはんをふたりともよそってきて、おかずのおかわりまでしていた。
「聞いてやイチちゃん、オグリのやつな、4人分作るだけでええ言うてるのに5パックも6パックも食材買おうとしてん」
「お肉をですか?」
「いや、ネギとか含めて全部」
オグリが食べながら、恥ずかしそうに答える。
「食べるのは得意なんだが」
「ずっと見ていればわかるわよ、そんなの」
「イチの真似をしたらうまくいくと思っていたんだ。普段からたくさん買っているから」
「たしかにクリークさんと一緒に買い込むけど、それは別に一食分じゃなくて、他の子のお夜食とか、アンタのお弁当の分とかがあるから」
「オグリの場合じゃあ、そんだけ買っても一食分かもねー」
モニーの言葉に、オグリが力強く頷く。
「せやからまあ、結果的には正解やったんやけどな」
そんな話をしているうちに、またオグリが「おかわりをしてくる」と言って席を立った。モニーを見ると、もう無理、と言わんばかりの表情をしていて思わず笑ってしまう。
私とタマモ先輩が最初に食べ終わり、次にモニー、オグリが食べ終わるのはそれからまたしばらくしてからだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ちょっとだけ食休みの時間を挟んでおしゃべりしていた時、オグリとタマモ先輩が突然ヒソヒソ話を始めたと思った矢先、オグリが立ち上がった。
「イチ、モニー、ハッピーバースデー!」
オグリの言葉を聞いたタマモ先輩が、顔を手で覆って椅子からずり落ちる。
「ちゃうちゃう、ハッピーアニバーサリーや」
「ああ、そうか。ハッピー……アニ……タマ、もう一度教えてくれ」
あちゃあ、と声に出して倒れこむ。
「なんすか、突然」
「ネタばらしするとな、オグリが二人のことを祝いたくなったんやと」
タマモ先輩が机にもたれかかる。
「ウチは全然かまへんし、ほんならいつやろか、って聞いたら今日がええねん言うんや」
「うん。驚かせてしまってすまなかった、イチ、モニー。だが、今日しかないと思ったんだ」
真っすぐな目に見つめられて――別にドキドキしたとかいうワケじゃないけど――私はなにか、あてつけられたように顔が熱くなった。
「ま、まあ悪い気はしないわね。考えたらずっと、私が料理を作ってばっかりだし」
「いつもありがとう、イチ。私たちも頑張って作ったんだ。喜んでもらえたら嬉しい」
「ウチも久しぶりに料理したわ。でも、モニちゃんにも――二人とも喜んでもらえて嬉しいわ。おおきにな」
「ほな、みんな明日は帰らなあかんから早いやろ。解散しよか」
タマモ先輩の鶴の一声で、私を含めた全員が席を立つ。あらかじめ持ってきていたお盆に空いた器を載せて、みんなでキッチンまで運ぶ。
洗い物をどうするかでちょっとだけ揉めた――というより、オグリもタマモ先輩も譲らなかったってだけだけど、絶対に私が洗うと言い張って説得した。
「私が一番キッチンの収納場所、知ってるので」という言葉が決め手になった。
「えー、今日はみんな、自分の部屋に帰る感じっすか?」
モニーがおそるおそると言った様子で、質問する。
「……フジ寮長って、もういないの?」
「確かいない。帰ったんじゃね?」
「……それなら、私がイチの部屋に行こう」
「モニちゃんが来るんか。分かった、構わんで」
ここに居る全員が悪いことをしている自覚があるからか、声のトーンを小さくして、寄り集まってヒソヒソ話のように相談する。
ラウンジでは他の子に聞かれてしまうかもしれないから、廊下まで出て行って、歩きながら話す。他の子たちから見たら、4人動きながら固まって顔を寄せ合う変な集団だ。
もうすぐ私たちの部屋の前だというところで、話がまとまりかけたその時、ドアのところにトランプが一枚張り付けてあるのに気付いた。思わず「わッ」と変な声を上げてしまう。
私の声で気づいたモニーがギョッとしながらトランプに近づき、貼りつけたそれをはがして裏面を見る。そこには手書きの文章が添えられていた。
『たとえ年末でも、寮のルールはきちんと守って早く寝ること!』
トランプの端に描かれた、富士山と2匹の鷹、3つのナスのイラスト。
そのカード一枚で、私たち4人へのメッセージとして十分すぎた。
「……あー、やっぱりちゃんと寝んとあかんよなあ!」
「そうっすねえ、寝ましょー! おやすみー!」
あまりにわざとらしいタマモ先輩とモニーの声。オグリも参加しようとしたところを、私が口をふさいだ。
「イチ、モニー、おやすみ。今年一年、とてもお世話になった」
「ほな、二人とも良いお年を」
「ありがとうございました、おやすみなさい。来年もよろしくお願いします」
「おつかれっす。また来年もよろしくです」
4人でそれぞれ、挨拶を交わす。すると、タマモ先輩がモニーの手を取って、頭が見えなくなる。
それはまるで、頬にキスをしているように――見えた。見えただけ。
でも、モニーが「うわッ」とか言ってるから、もしかしたら気のせいじゃないかもしれない。
「イチ」
オグリの声がする。そのあとすぐ、手を引かれる間隔。瞬間、私の身体は宙に浮くように引き寄せられた。
頬に冷たい風を感じた後、身体の前方と背中に、熱い感触。
それから、頬に少しだけ触れたような、唇ほどの広さの、熱。
「オグリ」
廊下は暗くて、オグリの顔は良く見えなかった。
でも、頬に残る熱だけは、私が思っていることが本当だと信じるに十分な証拠だった。
「……タマだけするのは、ずるいから」
「……ホント、何言ってんの」
せっかく言った別れの言葉を、私たちはもう一度言わないといけなくなった
「……タマセンパイも、来年また、元気で」
「なんや、急にシケるんちゃうぞ。ウチが恥ずかしくなってまうやろ……よう休んでな」
「来年もまた、美味しいお弁当を食べさせてくれ」
「なっ、それを今のうちから言うの、なんかムカつくわ。ポッと出のくせに、せいぜいお腹減らしておきなさいよ、オグリ」
「うん。来年も頑張ろう」
「もう一度、おやすみ」
「おやすみ、イチ」
了
その3(≫169~170)
≫了船長23/01/11(水) 00:28:06
「おめでとさん、モニちゃん」
「え、何がですか」
「何もなんもないけど、おめでとさんって言いたくなったんや」
「そうでっか」
「お、上手くなってきたなぁ。そういうわけでパーティしよか」
「年末にやってもらいましたけど、ていうかホントに何を祝うんですか」
「理由は分からんけど祝いたい気持ちがあるねん……なんや、前にもこんな話したな」
「わっかんないなー」
「ままま、祝われといて。何か食べたいものとかないんか」
「パーティしても、タマセンパイがたくさんは食べられないじゃないですか」
「それを言われてしまうとしんどいねんな。でも、祝う気持ちはあるんやで?」
「パーティのご飯の値段っすか? それとも量?」
「う~ん……どっちもやなあ。なんか、気後れしてしまうん」
「なるほど」
「とにかくモニちゃんを祝う会なんやから。どこでも言ってくれたらついてくし、席も囲むで」
「つまり、安くて量はそこそこ、種類がたくさんあればいいんすよね」
「まあ、そういうことやんな」
「え~……おし、センパイ、業務スーパー行きますよ」
「スーパー?」
「とにかくとにかく。にんにくとか大丈夫っすよね」
「平気やけど、まさか自分で作ろう言うんか」
「いや、もちろん楽するに決まってるじゃないですか」
「何買う予定なん?」
「パスタの乾麺とパスタソース。ここらのスーパーのやつ、全種類買い占めましょ」
「なんやと」
「パスタも買いまくりましょ。全部茹でて、買ったパスタソース全部かけます」
「うおー、盛大な計画やんけ」
「種類も量もあって、手間も楽でウマくて、何よりそこそこに安い。どうっすか?」
「賛成や。ええこと思いつくなあ」
「イチもオグリも、クリークちゃんたちも呼べるし。どうせなら皆に祝ってもらお」
「それがええ、それがええ。ほな、出かけよか」
了
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