目次
part33(124)

「あれー? おかしいわね」
真夏の日差しが煌々と砂浜を照らす中、我ながら素っ頓狂な上げてしまう。何せトレーニング後の休憩を兼ねたレクリエーション用に用意しておいたスイカが跡を残してそっくり消え去っていたからだ。それも二個。なかなかに大きく実ったものだったから何かに持っていかれることなんてないとは思うんだけど。まして転がっていった痕跡もないし。
こんな真っ昼間から怪談じみた出来事に遭遇するとは思わなかった。周囲を見渡してみてもやっぱりスイカの姿は影も形も見当たらない。
試しに他の娘にも聞いてみたけど見たという娘はいなかった。
一体全体どういうことなんだろう。不機嫌なのを誤魔化すように肩に掛かる髪先をつまんでいじる。本当に何処に行っちゃったんだろう。
もう少し話を聞いてみようか。そう思って当たりを見渡してみれば見知った芦毛が目に入った。
あまりいい情報は得られそうにないがこの際仕方がないか。短くため息を吐いた後、その背に声をかけた。
「おーいオグリー!」
声をかけられた瞬間、何をそんな驚くことがあるのか肩を大きく跳び上がらせる。
いったい何よ。そんなに驚くことないじゃない。
少し不満に思いながらオグリの正面に回り込んで尋ねる。
「あんたパラソルの近くに置いてあったスイカ知らな――」
そして私は絶句した。まず私の目に映ったのは顔を青ざめさせながら悪戯がバレて叱られるのを恐れる子供のような表情。そして――。
――げっ歯類にも負けないくらいパンパンに張り詰めさせた両頬だった。しかもその大きさは見覚えがある。用意していたスイカの大きさにそっくりだったからだ。
part32 (27~34)
(編集者注:続き物のSSでありますので、Partを飛ばして最新のまとめページに更新しています。)
某日、私は中央トレセン学園に再びやって来た。女神像前の通りに植えられている桜には淡い桃色の花に混じって青々しい葉が繁っていた。ここを訪れるのは”芦毛の怪物”、そして”オグリギャル”について取材した時以来だ。
あれからどれほどの時が経ったのだろうか。実際にはそれほど遠くの出来事ではないと頭では理解ってはいる。だが、それでも当時のことを思い返せばまるで遠くの景色を眺めるような気持ちになるのは、きっとそれだけ濃密な出来事があったからだろう。
かつては限られた者だけが知るのみだった彼女も一躍話題のウマ娘になっていた。
当時、私は彼女に接触し取材を申し込んだのだが残念ながら断られてしまっていた。彼女曰く「自分はまだ走っている途中だから」という理由だった。それでも、引退後なら取材を受けても良いといわれたのは幸いだったのだろう。
かの芦毛の伝説が幕を下ろしてから一年と数ヶ月。彼女の物語も無事に大団円を迎えていた。ついに話を聞くことができる。ほかの誰かを介して見た彼女の物語でなく、彼女自身の口から語られる紛れもなく彼女自身の物語を。
そう意識してからというもの、私は周囲に鳴り響いてるのではないかというくらい五月蝿く跳ねる心臓を抱えながらついにこの日を迎えたわけだ。
逸る気持ちを抑えながら私は守衛の方に取材の用件を伝えると、彼は受話器を手に取って何処かに(おそらくは事務だろう)掛けた。
二、三つほど言葉を交わすと暫く待つように言われる。言われるがまま待っていれば、校舎の方から見覚えのある緑のシルエットが目に入ってきた。トレセン学園理事長秘書を務める駿川たづな女史だった。彼女には以前こちらに取材させていただいた折にもお世話になった。
私達は挨拶もそこそこに済ませるとさっそく彼女の元へと向かった。
校舎の脇を抜けグラウンドへ向かう途中、新入生だろうか初々しさの残る幾人かの生徒たちとすれ違った。私は一歩前を歩く駿川女史に今の生徒たちのことを尋ねてみた。すると、彼女は笑みを浮かべて肯定する。
そうかもうそんな時期だったか。彼女たちもまた己の才能とありったけの夢を糧にしてトゥインクルシリーズに挑むのだろう。かつての彼女と同じように。
どうかその行く先が満足のいくものになりますように。私はひそかに胸の内で祈った。
そうこうしているうちに視界が開け青々としたターフが目に入ってきた。
観客席からグラウンドを見下ろしてみれば、授業の最中だったらしく幾つかのグループに分かれた生徒たちが教官たちに見守られながらそれぞれトレーニングに勤しんでいた。
おそらく彼女たちもまた先ほどの娘たちと同じく今年入学してきた生徒たちだろう。真剣に走るその表情にあどけなさとわずかばかり緊張の色が浮かんでいた。
それでもその走りはなかなかのものだ。さすが中央の生徒と思わずにはいられない力強さがあった。ふと、脇に視線を移せば早くから素質のある娘を見つけようとトレーナーたちが彼女たちの走りを見守っていた。すでに競争は始まっているのか。思わず舌を巻かずにはいられない。
少しして、それぞれのグループが教官の号令を合図にコースの脇に整列した。生徒たちが去ったターフの上には二つのゲートが教官たちの手によって設置される。
一体何が始まるのかとそのグループを注視していると教官の側に控えていた二人のウマ娘が教官と短く言葉を交わしたあとターフへと向かう。
その姿を見て私は思わず息を漏らした。
――彼女だ。
何度も追いかけた姿だ目を凝らさずともその姿を一目見て分かる。引退してからもあの頃と何ら変わらない何度も瞳に収めたあの姿だった。
しかし、なぜ彼女がここに。そんな疑問を抱いていると、察してくれたのか隣に並んでいた駿川女史が彼女は引退後サポート科に編入したと説明してくれた。
その話を聞いて私は納得した。確かに彼女にはうってつけの道だ。以前の取材の中にも彼女の周囲に対する気配りは私自身見事なものだと感じたし、実際サポートを受けたことのある周囲の評判も非常に高いものばかりだった。
走ることこそ己の道と豪語してならなかった彼女も引退した後、新しい夢を見つけたということだろう。そのことが不思議と誇らしく感じる自分がいた。彼女ならサポート科においても十二分にその実力を発揮できることだろう。
やがて彼女がゲートの前に立つ。私はかたわらの駿川女史と固唾を飲んでその光景を見守る。
彼女の隣に並んで立つウマ娘。たしかブラッキーエールだったか。彼女もまた私にとって覚えのあるウマ娘だった。幾つかの重症を勝利し中央移籍直後の芦毛の怪物と対戦したこともある。彼女もまた私の取材に快く応じてくれたウマ娘だった。
二人は僅かに言葉を交わすとゲート内へと進んでいく。
――ゲートイン完了。
周囲に緊張が走る。新入生たちの強ばる様子が目に映る。その気持は私にも痛いほど分かる。ゲートが開かれるまでのこの僅かな時間に私はこれまでにどれ程の祈りを捧げてきたことか。自分が走るわけでもないというのにこの瞬間に立ち会った度、胃袋を鷲掴みにされるような錯覚を覚える。眼下に並ぶ新入生諸君もきっと同じ思いを抱いていることだろう。
静まり返るグラウンド。ターフを撫でる風の音だけが響く。
今か今かとその時を待っていれば――機械的な音とともに二つの影がゲートから深緑の舞台へ飛び出した。
湧き上がる黄色い歓声。
正面を抜け第一コーナーにまず飛び込んだのはブラッキーエール。その背中を彼女が追いかける。差は1馬身以内といったところか。
第二コーナーを抜け向正面に入ると状況は大きく動きを見せる。ブラッキーエールがテンポを上げてリードを拡げにかかった。一バ身、二バ身と拡がる差。
こんなに差を拡げられてはたして平気なのか。心配になり私は思わず彼女の顔を伺ってしまった。
そして安堵した。そこには平静さを保ったまま冷静に自分の走りをする彼女がいたからだ。
相手がどんな走りをしようとも決して自らの走りを乱さず己の走りを貫く。それこそが彼女なのだから。
以前、レース後のインタビューで彼女が言っていたことを思い出す。
「自分は誰かと競い合うほど緻密な作戦は組み立てることはできないし、単純な能力の競り合いも満足にできない。だから、ただひたすら自分の走りを貫くだけだ」と。
まさしく、その通りの走りを――現役時代と変わらない彼女走りだった。
やがて、彼女が最終コーナーの半ばに入る。前方のブラッキーエールとは四バ身の差。おまけに相手は既に最終直線に突入していた。
――間に合うのか。誰もが息を飲む。
そして、彼女がもう間もなく最終直線に入ろうとしたその瞬間だった。
――彼女の体が前のめりに深く沈み込んだ。
観客席からはどよめきが、ターフの新入生たちの間からは鋭く悲鳴が上がる。
――転倒か。
彼女を知らない者が見たらそう思うのも無理はない。だが違う。
彼女をよく知るものはきっと同じ思いを胸に抱いただろう。
――ああ、これだ。これこそが彼女の走りだ。
最終コーナーを抜けるところで見せるこの姿。誰よりも怪物の側にいてその走りを見続けた。そして、誰しもが怪物と自分とは違うから――オグリキャップは特別だからと諦める中、ただ一人それをものにしてみせようとひたむきに挑み続けた。何度、理想と現実の板挟みになろうと決して諦めず自分なりの走りとして昇華させたその走り。
これこそが彼女――”レスアンカーワン”の走りなのだ。
ターフを強く蹴りながら大きなストライドで前へ前へと突き進む。
理想とする”それ”とは程遠くともその力強さとスピードには目を見張るものがあった。
残り400mの標識はとうに過ぎ去り残り300mに達したころ、四バ身あった彼女たちの差は今や二バ身にまで縮まっていた。
残り200m。さらに縮まる差。歯をむき出しにして疾走る二人。
残り100m。差は一バ身。
――あと少し。あと少しだ。
自然、爪が手のひらに食い込むほどに握りしめる。
そして、半バ身を切ったその瞬間――先頭を駆けていたブラッキーエールがゴールラインを駆け抜けた。
――負けた。
その事実を突きつけられた瞬間、ふっと全身に漲っていた力が霧散していった。わずかに届かなかった。
精一杯力を尽くしたのに負けてしまった。あくまでレースを見守っていた立場だとしてもこの光景だけは何度味わっても慣れないものだ。
二人が駆け抜けた後、見学していた生徒たちの間から歓声が上がった。もちろん、二人の健闘を称えたものだ。
――彼女は大丈夫だろうか。
そんな不安が胸を過り、私の視線を敗北した彼女へと向けさせた。
だが、そんな心配は無用のものだとすぐに分かった。
私の目に映ったのは晴れ渡るような笑顔を浮かべた彼女だった。全てを出し切ったかのような清々しさ。
かつて、敗北に、自らの拙い走りに苦悩し顔を歪ませていた頃の彼女はもういなかった。
そこにいたのは――ただ全身全霊でレースを楽しむウマ娘だった。
自然、私は自分でも意識せず拍手を送っていた。
何についてのものかは言うまでもないだろう。
part34 (76~)
軽快なジャズが店内を彩る。ピアニストが鍵盤を叩く度に音がスピーカーから飛び出してあちらこちらを飛び回る。トレセン学園の近所にあったのに今まで立ち寄ったことがなかった喫茶店。たまたま目に入ったので利用してみたがなかなかいいお店だ。店長さんの曲選も悪くない。暖色の光が降り注ぐなか手元のカップに注がれたコーヒーから立ち上った湯気がすぐ上の景色を歪ませていた。
近くの柱に吊るされた日めくりカレンダーが今日は9月4日だと告げる。暦で言えばもう秋口。私が幼かった頃ならそろそろ過ごしやすい気温になってもいい頃なのだが、昨今はそういうわけにもいかず相も変わらぬ蒸し暑さに毎日苦しめられていた。
何気なく窓から外を見れば、帰宅途中の道行くサラリーマンがうんざりとした表情をぶら下げて忙しなく汗を拭っている様子が映る。そんな人達を脇目にクーラーの効いた室内で温かいコーヒーを飲むというのはちょっと乙なもん、というのは少々意地の悪い感想かもしれない。胸の内で反省しながらコーヒーを啜っていれば目の前の同僚が口を開いた。
「――てなわけで、案の定宿題に追われるやつが続出。最後の三日間はものの見事に勉強合宿ってなもんよ」
「やっぱり、この時期はどこもそうなるのね」
「あんだけ口酸っぱく宿題は早めに片付けるか、計画的にやっとけよって言ったんだがな」
「ま、あの年頃の娘には無理もないんじゃない? 青春真っ盛りなあの時期の夏なんて遊んでなんぼなとこあるでしょ」
「だからって遊びやらトレーニングにばっかり身を入れられても困るだろ? それで結局宿題に時間を費やしてちゃ元も子もないっつの」
「流石、現役時代にその地獄を味わった方のお言葉ね。説得力が違うわ」
「ぐっ!」
言葉につまらせるとコーヒーを啜る彼女――ブラッキーエールの表情は苦々しい表情を浮かべている。
お互いすでに現役を退いて長く、今となってはそれぞれチームのサブトレーナーと教官補佐として活躍していた。現役時代にはとある芦毛も交えてひと悶着あったものだがそれも過去のこと。現在では良き友人として互いに相談したり手助けしたり。まあ、持ちつ持たれつWin-Winの関係に落ち着いていた。
「そんなことは別にいいんだよ! それよりも最近どうなんだ?」
「……どうって?」
「決まってんだろ! あの田舎もんのお姫様とのこったよ!」
「――ああ、キャップのこと? って、なんであんたに話さなきゃいけないのよ」
「いいじゃねーか! 別に減るもんじゃなし」
「減るわよ!」
「何が?」
「主に私の羞恥心が」
そこまで言って自分が失言をしたことに気がついた。顔を上げて相手を見れば、やっぱり嫌らしい笑みを浮かべていた。
「さっきのキャップ呼びと言い、相変わらずよろしくやってんのな。いや、お熱いことで」
「うっさい‼」
ニヤニヤと勝ち誇った笑みを浮かべるブラッキーエールを他所に今度はこっちがコーヒーを啜った。苦々しい表情を浮かべていたのは言うまでもない。
part34 (162~)
まあ、相手はそんなのお構いなしに鬱陶しく聞いてくるのだが。
「なあなあ? どうなんだよ? 卒業してからようやく一緒に暮らせるようになったわけだろ? それも相手からプロポーズされて」
「プロポーズ言うな! 別に向こうから合鍵渡してきただけでしょ?」
「いや、卒業してからだいぶ経って急に呼び出したかと思えば緊張した面持ちで合鍵を渡して『一緒に暮らさないか?』ってこれプロポーズ以外にねえだろ?」
「~~‼」
たしかにそう言われてみればそうかもしれない。現にあの時は他に誰もおらず二人だけだった。そんな状況で胸をときめかせていたのも事実だ。眼の前のこいつにはもちろんのこと、あまりにも恥ずかしいので他のやつには聞かせられないが。傍から聞けばそんな状況プロポーズにしか見えない。というか、今あらためてそのことを認識したせいか少し暑い。エアコンでごまかしが効かないくらいに熱がうちから込み上げてきた。
こいつに洗いざらい話すんじゃなかった。今更遅い後悔が私の頭を殴りつけた。
机に沈みこむ私の耳にクツクツと噛み殺すような笑い声が聞こえてくる。
ちくしょう。なんだって私はこいつに最高の娯楽を与えてやらなきゃならいんだ。これが酒の席でなくてよかった。酒の席だったら間違いなくもっと酷いことになっていたから。
まあ、私はそんなに飲めるわけじゃないからめったに誘われないんだけども。
「まま、そんなことは今はいいんだよ。それでどうなんだよ? せっかく同棲してるんだから浮ついた話の一つや二つあるだろ? 聞かせてくれよ」
強面、柄悪、乱暴と三拍子揃った彼女もどうやら人並みに乙女らしくそんな浮ついた話題に興味津々らしい。
私は深い溜息を一つこれ見よがしに吐くと身を起こして絞り出すように言った。
「何もない」
「――は?」
「だから、ほんとに何にもないのよ……。何にもね」
自然、私の視線は相手ではなく自分の前に置かれたコーヒーに突き刺さる。
「何もないって……」
「言葉のまんまよ。本当に何もないのよ。だって――」
カップの縁を指でなぞりながら”吐き捨てる”とまではいかないがいくらか投げやりな物言いで言う。
「最近、めったに会えないんだもん」
顔を合わせるのがすっかりご無沙汰になったあの芦毛のヒーローの顔がコーヒーに映った。
現役を引退してからもあいつの活躍は相変わらずだった。
――いや、正確に言えばレースやトレーニングに縛られなくなった分活躍の場が増した。
URAに請われるままにURA専属広報担当に就任したあいつは西へ東へ、北に南に大忙しだ。
最近じゃその日のうちに帰ってくることなんて滅多になくなり、今となっちゃ良くて相手の寝顔を見れれば幸い、普段はLANEや置き手紙での会話が続いていた。
最後に料理を囲って食事したのはいつだったか。
――せっかく一緒に暮らせるようになったのにな……。
胸のうちに冷たい風が吹きすさんだ気がした。
沈みきった私の耳に誰かの咳払いが飛び込んできた。ブラッキーエールのものだった。
「ま、まあアイツも忙しいからなそんなこともあんだろ。それに――」
そう言ってカップの取っ手を摘むと。
「きちんと料理の感想とか感謝とか精一杯アイツなりの言葉で伝えてくれてんだろ、どうせ? だったら安心しろよ。蔑ろにされてるわけじゃねえんだ。仕事が落ち着いたらまたゆっくり話もできるようになんだろ」
ぶっきらぼうな口調で「学生の頃みたいによ」と付け足すとコーヒーを一口啜り、視線を外へと逃した。
「……慰めてくれてんの?」
そう聞いてみれば「ちげーし‼」と男子みたいな否定をしたかと思えばバツが悪そうに顔を横に向けてしまう。
その横顔を私が黙りこくったままじっとブラッキーの顔を見つめていれば「なんだよ?」機嫌悪そうに聞いてくるので言ってやった。
「いや、明日は大雨かと思って」
「はあ? 急に何だよそれ?」
「あんたの口からそんな優しい言葉が出てくるとは思わなかったから」
「てっめッ……! 人が気ぃ使ってやればこの……!」
気色ばむブラッキーを見て笑い零してしまいそうになったのをコーヒーを啜って誤魔化すと「ありがとね」と正直にお礼を伝えた。
また、照れながら否定してくるだろうなと私が思っていれば。
「別にそんなんじゃねーし」
やっぱり否定してきた。
part35 (32~)
それからいくつか会話を交わした後、お茶会はお開きとなった。ブラッキーに「送っていこうか?」と聞かれたけど、お互い明日明後日はせっかくの休みなんだから申し訳ないと思って断った。
その帰り道。夕飯の買い出しをしようと近所のスーパーに向かっていると、ポケットの携帯が短く震えた。
画面を見てみればアイツからだった。若干の期待を胸にLANEを開いてみれば『すまない。今日も遅くなる。夕飯は食べてくるから先に寝ててくれ』という短いメッセージ。
ある程度わかっていた内容。開く前からなんとなく予想がついていたことだった。それでも僅かとはいえ今日こそはと期待していた分、落胆も大きかった。
私は道の端に避けると大きく息を吐いて返事を送る。通りがかる何人かの視線を感じたけど気にしない。
『了解! 帰り道気をつけてね』
『本当にすまない』
思わず苦笑してしまった。耳を垂らしながら泣きそうな顔で打ってるのが目に浮かぶ。私はもう一度大きく息を吐くと『大丈夫だって、それよりお仕事頑張ってね』と激励のメッセージを送ってやった。
しかし、そうなると今日もまた夕飯は一人か。だったら今日はちょっと遅くなっちゃったし簡単なものでいいかもしれない。たまにはお惣菜で済ませてしまうのも悪くない。
そう思ってスーパーに辿り着くなりお惣菜コーナーに向かうと、いくつか揚げ物やらカットサラダを手に取って籠に入れた。
他に何か必要なものはなかったか。フラフラと店内の棚を物色しているとき“それ”が目に入った――いや、入ってしまった。
誰もいない自宅に帰る。当然のことながら中は真っ暗だ。
明かりをつけてダイニングテーブルに買い物した物を置くと手洗いうがいと着替えを済ませて椅子に腰を下ろした。
そして袋の中から惣菜と“それ”を取り出した。
何を隠そう“それ”とはすなわち“酒”である。
完全に魔が差したとしか言いようがない。たまたま目に入った瞬間、最近失恋した同僚が『心に隙間風が吹いてるときはお酒で穴を塞ぐのよ』と声高に力説していたのを思い出してしまった。気がつけば缶チューハイを2本ほど籠に入れ、あれよあれよとレジを通していた。
まあ、現状のところ絶賛隙間風が吹きまくってる訳ですし? 少しでも気持ちがマシになるなら酔っ払うのも悪くないんじゃないかしら?
などと誰に対してでもなく言い訳を並べて、この余計な買い物を納得させると棚から皿を取り出して惣菜を盛り付けていく。
ま、たまにはいいでしょ? こんなのも。
温められてホカホカの惣菜を目の前にカシュっという軽快な音がひとりぼっちの食卓に鳴り響いた。
結論から言えばお酒を飲んだのは大失敗だった。頭がふわふわするし、瞼は重いし、意識はぼやける。詰まるところ酔いに酔酔いどれ、すっかり酔っ払ってしまった。
思えば1本目を飲んで平気だったのが罠だった。少しはお酒に強くなったと勘違いして2本目を開けてみればこの始末だ。
視界はやけに揺れてるし、身体は浮かんでるみたいにふわふわと軽い。極めつけは頭の重さだ。まるで重しを括りつけられたみたいにずっしりとした感覚を覚える。おかげで姿勢を保つことができず右へ左へ体が揺れる。
ふいに頭がかくんと前へ倒れた。
――あっ、これはマズイ。
そう思うのも束の間私の身体は机に倒れ込んだ。幸い食器は片付けたあとだったから良かった。コトリという音とともに横になる視界。身体を起こそうとしてみたけどまるで縫いつけられたみたいに持ち上がりもしない。
――あー……。久しく飲んでなかったから忘れてたわ……。私、酒弱いんだった。
他人事のように独りごちていると、不意に幕が降りてくるように視界が狭まってくる。
ボーっとする頭で降りてきたのが瞼だと気づく。
いけない……。まだ、食器も洗ってないし、風呂にも入ってない……。それに寝るならベッドに……。
もう一度身体を起こそうとするけどやっぱり身体は持ち上がらない。
机にもたれかかる身体に睡魔が覆い被さってゆくのを感じながら瞼が降り切る直前、アルコールに浸かりきった頭に浮かんだの照れたような笑みを浮かべた芦毛のあいつ。
――オグリに会いたいな。
そうして、暗闇に沈み込むように私は意識を手放した。
part35 (108~)
夢を見た。
それも随分懐かしい夢だった。
と言っても、わりかし最近の出来事だ。
冬の季節。トレセン学園。すでにサブトレーナーになっていた私はその日の仕事を終わらせると、お馴染みの“あの中庭”にいた。冷え込む空気の中、辛抱強く誰かを待っていた。
白い息を吐きながら冷える手を擦り合わせて待っていると、ようやくソイツはやってきた。
月明かりを受けて輝く葦毛。他でもないムカつくアイツだ。
『すまない! 遅くなってしまった』
息を切らせてやってきて、白い息混じりに謝ってくる。
『ホントよ! もう! こんな寒い日にこんなとこで待たせるなんて!』
「今来たとこ」なんてお約束は言ってやらない。少なくともあの時の私はアイツに妙な気遣いなんかしたくなかった。
そのまま何度も謝ってくるオグリの手を引いて隣に座らせると、すっかりボサボサに乱れた髪を整えてやる。
ちょこんと萎れる耳と正反対に手で梳かしてもらったのがそんなに嬉しいのか忙しなく暴れる尻尾。
『ほらマシになったわよ』
そう言って手持ちの鏡で姿を見せてやれば心底嬉しそうに笑ってお礼を言ってくる。そして、お礼とばかりに缶コーヒーを奢ってくれる。
そのまま、私たちは缶コーヒーで暖をとりながら並んで座った。
他愛のない話が続いた。お互いの近況だったり、見所のある新人の話だったり、広報で出向いた先のご飯の話だったり。
話しながら笑ったり、拗ねたり、慌てたり。
しばらくして私が思い出しように口にした。
『そういえば話ってなんなの?』
そう聞いてみればオグリは分かりやすくその身を固まらせてしまった。
不審に思っていればぎこちなく『ああ、うん』だの『えっとその』だの要領を得ない。視線と一緒に話の内容まで明後日に飛んでいくし。
いつまで経っても答えないオグリに業を煮やした私は両手でオグリの顔をガッチリ掴むと目を合わせて早く答えるよう促した。
当のオグリはほっぺたを潰されてなんとも滑稽な顔になっていたが、視線を合わせていれば驚愕の色はすぐに消え決意がその目に浮かんできた。
踏ん切りがついたのか自分の手を私の手に重ねて顔から剥がしたかと思えばそのまま私の手を優しく覆う。
『大事な話があるんだ』
いつになく真剣な表情なオグリに思わず胸が高鳴りを覚えた。視線も動かすことができない。だから気づけた。オグリの目にわずかばかり動揺の色や恐れが見えた。
こんな状況で相手のこんな仕草を見て、ある一つのことが頭に浮かぶ。
いや、オグリだぞ。そんなことあるか。と、否定してみるが頭の片隅にそれはしぶとく居座り続けた。
頭の中でけたたましく警報が鳴り響くなか、オグリが大きく深呼吸する。
『受け取ってもらいたい物がある』
そう言って重ねていた片手を上着のポケットから何かを取り出して私の手のひらに置いた。
その時の感触は今でも覚えている。冷気の中にあったからか少し冷たくてギザギザした物が手のひららに当たっていた。
恐る恐る覗き込んでみれば、そこに会ったのは一つの鍵。
『――これは?』
短く尋ねてみると視線を泳がせすっかり朱に染まった頬をかきながらオグリが言った。
『アパートの部屋の鍵だ』
オグリが言うにはトレセン学園から近く通いやすいところのものらしい。
『でも、なんで?』
正直言ってこの問は我ながら意地悪だとおもう。だって答えはもう分かりきっているんだから。
――それでもやっぱり聞きたい。
――オグリの口から直接言って欲しい。
そんな思いが自然私を意地悪にした。
言われた本人はまた口篭らせたり視線を泳がせたり。
でも、すぐに呼吸を整えると急に現役時代を思い出す武者震い。おまけに中庭中に響くほど強く自分のほっぺを張った。
――痛さで少し蹲ってたけど。
向き直ってオグリは言う。揺らぎのない真剣な眼差しで。
『イチ』
『はい』
『――私と一緒に暮らしてほしい』
言った。言ってくれた。胸のうちから喜びと興奮が吹き出してくる。
――それなのに。私はそれを表に出すことができない。
それどころか視線を逸しそっぽを向いて言う。
『……いいの? 私なんかで』
せっかくオグリが勇気を出してくれたのに。なんで私は素直になれないのか。胸中で自らを苛んだ。
オグリは黙ったままじっと私の言葉を聞いていた。
『私なんかと一緒にいたら一生憎まれ口が絶えないわよ?』
『いいさ。だから、私は背筋が伸びる』
『私、あんたの思っている以上に重い女よ?』
『だから、私はその場に踏み止まれるんだ』
『あんたが情けないところ見せるたびに蹴飛ばすかもよ?』
『おかげでこれまで何度も前に進んでいけた』
いつの間にか私はオグリの顔を見ていた。怯えも、焦りも、苛立ちもない。私の言葉を一つ一つ受け止めてくれる。優しく微笑んで私を見てくれる。
――私好きなオグリがそこにいた。
『――いいの? 私があんたの隣りにいて』
『ああ、イチじゃなきゃ嫌だ』
言い切った。そして再び私の手を取って言う。
『イチと一緒にいたいんだ!』
頬が濡れる。雨なんか降っていないのに。心なしか温かい。
顔が暑くなる。周囲は遅い時間にもなってかなり冷え込んでるはずなのに。
顔が動かせなくなる。ほんとはこんな情けない姿をこいつに一番見せたくないのに。
『ほんと……、ほんとにバカなんだから……』
意識する間もなく、私は涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままオグリの胸に飛び込んでいた。
part35 (173~)
一連のシーンが終わって唐突に周囲が真っ暗になった。一歩先すら見えぬ闇の中。目が覚めたのかと一瞬思ったがすぐにこれはまだ夢の途中だと気がついた。
なにせこんな闇の中だというのに自分の身体だけははっきりと見えていたからだ。
あらためて周囲を見る。やはりなにも見えない。それだけじゃない。なにも聞こえない。ひとりぼっち。
不意に寒気が襲ってきた。寒い。酷く寒い。
胸の内は孤独ということを認識してしまったからか、寂寥感と恐怖が湧き上がってくる。思わず胸を胸を抑える。
さっきまで暖かな夢を見ていた反動なのか、それらの感情は波のように何度も押し寄せてくるし、大雪のように容赦なく降り積もる。
ひとりぼっちの恐ろしさに耐えかねて辺りを見渡す。
今一番いて欲しい人がいない。
一番側についていて欲しい人がいない。
「オグリ……」
絞り出すようにその名を呟く。しかし、その声は暗闇に吸い込まれる。たまらずにもう一度震える声色で呟く。
「オグリ……!」
胸の痛みは増していき耐えきれずに蹲る。
知らなかった。自分がこんなに弱かったなんて。
改めて思い知った。自分にとってオグリがこれほど大きな存在だったなんて。
そして、初めて知った。当たり前のように一緒にいた人がわずかばかり会えなくなるだけでこんなに痛みを覚えるものだったなんて。
ギュッと目をつぶって痛む胸を強く抑えながらこぼれ出たのは――。
「会いたいよ……」
心からの言葉だった。
『――イチ』
オグリに会いたいと一心に思い続けていたせいか、ついに幻聴まで聞こえてきた。
『――イチ』
まただ。また、聞こえた。今度はやけに鮮明に。
『イチ』
三度目の声が聞こえたとき、プカリと身体が浮かぶ感覚を覚えた。
身体はそのまま上へ上へと上がっていく。まるでシャボン玉か水面へと向かう水泡のように。
不意に目の前に小さな光が見えた。
その光に向かって身体は進んでいく。進んでいくたびにその光は近づいて大きさを増す。
不意に私は気づいた。
――ああ、夢から覚めるんだ。
視界が真っ白な光に包まれた。
「イチ」
目が覚めたとき真っ先に見えたのは私の顔を覗き込んでいるオグリだった。
微睡のなかぼやける頭でようやく思い出す。そうだ、お酒飲んで私寝ちゃったんだ。目の前には横倒しになった空き缶とすっかり緩くなった缶チューハイが鎮座していた。
「こんなところで寝ていたら風邪ひいてしまう――って、イチ!? お酒飲んだのか!?」
オグリが机に並んだアルコール類を見て驚愕の声を上げる。
普段、家でもなかなか飲まないんだからさぞかし驚いてることだろう。
「……何か嫌なことでもあったのか?」
オグリに不安気な顔で尋ねられて思いを巡らせていくうちに頭にかかった靄が少しずつ薄れていく。
そして、靄が薄れるうちに私は朧げながらも夢の内容を思い出した。
「私でよければ話を聞こ――」
私は有無を言わせずオグリの胸元に飛び込んでいた。
「うわっ!? い、イチ!?」
急に飛びつかれたせいで尻餅をつくオグリ。
抱きついて顔を埋めているせいでオグリの表情は見えない。
声色から驚きと慌てていることだけわかる。
「急にこんなことしてくるなんて酔っ払ってるのか!?」
だけど、それもすぐに怪訝そうな声に変わる。「イチ?」と恐る恐る聞いてくるけど私は顔を上げない。体を震わせているだけ。
ああ、もう最悪。こんな情けない姿晒すなんて。さらに何が情けないって涙まで流してんだもん。
酔いから覚めた僅かばかりの理性が今の自分を呆れまじりに非難する。情けない。でも、体と心はそれを無視した。
「――みしかった……」
「え?」
「寂しかった」
オグリが息を呑んだ。言葉は出ない。
私の口からはなおも言葉が溢れてしまう。
「やっと……、やっと一緒になれたのに……。なかなか一緒に居られなくて……。ご飯だって一緒に食べられなくて……。私……私――」
涙が止まらない。じわりじわりと滲み出るように顔を押し付けたオグリの胸元を濡らしていく。
もはや取り繕うことすらしない。私は幼子みたいに体の震えを抑えることもせず、ただただ啜り泣いた。
そんな私の手にじわりと暖かな感触が触れる。オグリの両手だった。
「すまない」
違う。違うの。オグリに謝らせたかったんじゃないのに。罪悪感を募らせる私の背を優しく撫でながらオグリは言った。
「イチ、明日は休みか?」
私は顔を上げた。そこには優しい笑みを湛えたオグリ。
「ようやく山場を乗り越えて私も休めることになったんだ。しばらくはゆっくりできると思う。だから――」
オグリが指で私の涙を拭った。
「明日は二人で過ごさないか? 久しぶりにゆっくり話がしたい。イチと一緒に」
そう言ってニッコリと優しく微笑むオグリ。それは紛れもなくあの夢で見た――私が大好きなオグリの表情だった。
ずるい。本当にこいつはずるいやつだ。
いつも天然で抜けたところがあってドジばっかするくせに、こっちが本当に欲しいときに欲しい言葉を投げかけてくれる。して欲しいことをしてくれる。
私は返事をするかわりにオグリの首元に抱きついた。
part35 (43~)
窓から暖かな光が降り注ぐ。小鳥達が朝食を求めてけたたましく飛び回る朝。私は絶賛身の丈に合わぬ振る舞いの報いを受けていた。二日酔いである。
頭は締めつける痛さと内側から打ち破ろうとノックするような痛みが絶えないし、胃袋では中に何かが忙しなくぐるぐるぐるぐる動き回る。おまけに目が乾いて仕方がない。
しかも何が最悪かって私が酔っ払っても記憶はしっかりと残るタイプだったってことだ。
昨日の醜態だけでも赤面ものなのに、それに加えてオグリの親切に甘えて歯磨きも手伝ってもらったし、一緒にお風呂にも入った。終いには久しぶりにオグリに抱きついて寝て――。
そこまで思いまして私は頭を抱えて天を仰ぎ、思いっきり叫びたい衝動に駆られた。
まあ、実際には天を仰いだあたりで頭痛が勢いよく襲いかかってきてそのまま枕に向かって仰向けに倒れたわけだが。
それでも、天井を仰ぎながら昨日のオグリの言葉を反芻する。忙しくなっても、すれ違う日々が続いてもオグリは変わらなかった。その事実で頬が緩む。
――嬉しい。
そんな言葉がすんなり胸に抱けるくらいには胸のつっかえは取れていた。
いかんいかん。絆されすぎだぞ。慌てて緩んだ頬を揉んで表情を直していれば、何やら馴染み深い落ち着く香りが鼻腔をくすぐった。
これは――お味噌の香りだ。
しかし、窓は閉まってるし、私はこの通りだし一体誰が……。思考を巡らせていると扉を叩く音が聞こえる。
「イチ。起きてるか」
オグリの声だった。オグリが休みの日にこんな早起きするなんて珍しい。普段は寝ぼけ眼のオグリを引っ張ってダイニングに連れていくのが常だったのに。
といっても、それも最近すっかりご無沙汰だったわけだが。
ともあれ、オグリに起こしてもらえるという新鮮な出来事に少し胸をときめかせながら返事をする。
「う、うん。どうにか起きてる……」
ひどい声だった。まるで弱りきったカエル。声を出して自分が二日酔いに苦しんでいたことを思い出し、再び頭痛に苛まれる。
ギュッ目を瞑ってこめかみを抑えていると、扉を開けてオグリが入ってくる。
――見慣れぬエプロン姿でだ。
思わず呆気に取られ頭痛のこともすっかり頭から抜け落ちる私の鼻腔をまたも味噌の風味がくすぐった。今度はかなり強めに。
自然、視線を味噌の香りの漂う方へと追っていってその出処に気がつく。オグリが手にしたお盆の上に出来立てだと言わんばかりに湯気を立ち上らせたお味噌汁があった。
「やっぱりまだ辛そうだな」
苦笑しながら扉を閉め、味噌汁を落とさないよう慎重にベッドへ寄ってくる。
そのままベッドに腰をかけると「食欲はあるか?」と聞きながら私に味噌汁を差し出した。
「しじみの味噌汁だ。クリークに二日酔いに効く料理はないかと聞いたらこれを教えてくれてな」
楽しげに話すオグリをよそに味噌汁を手に取る。
私の醜態がクリークさんにまで伝わったのかとかオグリが料理したことへの驚きとかそういったことはすっかりどうでもよくて、オグリが私に朝食を振る舞ってくれたことがすごく嬉しくて、私は湯気の立つ味噌汁を見つめていた。
わずかに時間が過ぎたころ、おずおずとオグリが心配そうな声で「あの……、イチ……?」とこちらを伺ってきた。
ぼんやりとオグリの顔を見れば緊張した面持ちで「その、口に合えばいいんだが」と心細そうにつぶやく。
そんな仕草に思わず笑みを零して味噌汁を一口すする。
おいしい……。お出しのコクとお味噌のやさしい塩加減が喉を通って体中に染み渡っていく。心なしか寒気を感じていた体が温まる。
「おいしい」
私は思ってたことを素直に口にした。本当にそれ以外思い浮かばないほど美味しかった。
それを聞いたオグリといえば「本当か!」と喜色満面になり耳や尻尾がうるさいくらいに揺れていた。その仕草に、どれほど心配していたかが伺えてわたしは思わず笑ってしまった。
やがて、私が味噌汁を平らげるのを見届けるとオグリが「起きれるか?」と聞いてきたので「大丈夫」と短く答えてオグリの手を借りてまだ気怠さの残る体を起き上がらせた。
オグリに支えられてたどり着いたダイニングで私が目にしたものは、テーブルの上に置かれた料理だった。
形の歪んだおにぎり、少し焦げの目立つ卵焼き、盛大に破裂したウインナー。
チラリと横目にオグリを見ると、恥ずかしそうに頬をかきながらそっぽを向いていた。
「すまない。料理はできる方なんだが、その……。しばらくやってなかったせいか色々失敗してしまって……」
私は思わず声を上げて笑ってしまった。心底申し訳なさそうに耳が垂れているのが可笑しくて。
「むっ。そんなに笑うことはないじゃないか」
「ごめんごめん。ほら、早く席に着きましょ! もう、お腹減っちゃった」
2人でテーブルを囲う。目の前には温かな朝食。そして、大好きなオグリ。
――ああ、帰ってきた。何気ない日常が。
「オグリ」
「ん?」
「ありがとね」
「――どういたしまして!」
秋口のいくらか弱った日差しが照らすダイニング。
2人分の「いただきます」が響き渡った。
~Fin~
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