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CL1-5-3
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■ 3:『世襲親王家』の誕生 〜歴史の危機が鍛え上げた究極のバッファ〜
前項で見たように、天皇の男子たちは臣籍降下や出家によって厳しく選別され、ごく一部の「親王宣下」を受けた者だけが皇位継承の有資格者となりました。しかし、歴史は時として、本流の直系すら完全に途絶えさせるような未曾有のシステム・クラッシュを引き起こします。
そのような絶望的な危機において、皇統を完全な死から救い出したのは、現代の左派が軽視する「遠い傍系の男系男子」たちの存在でした。
【承久の乱と後堀河天皇 〜武力支配下のシステム・リストア〜】
鎌倉時代の1221年、朝廷が鎌倉幕府を倒そうとした「承久の乱」は、武力による朝廷の完全敗北という形で終わりました。幕府は後鳥羽上皇らを流罪にし、幼い仲恭天皇を廃位しました。当時の本流(後鳥羽上皇の血筋)が完全に排除され、皇統は断絶の危機に瀕します。
この時、幕府と朝廷が次なる天皇として探し出したのが、すでに出家して世俗を離れていた守貞親王(後鳥羽上皇の兄)の息子、後堀河天皇(第86代)でした。
幕府という圧倒的な世俗の権力でさえ、「天皇を廃して自分たちが王(King)になる」ことはできず、はるか遠い傍系に遡ってでも「男系のパスワード」を持つ者を探し出し、皇統というシステムを再起動(リストア)させるしか道はなかったのです。
幕府という圧倒的な世俗の権力でさえ、「天皇を廃して自分たちが王(King)になる」ことはできず、はるか遠い傍系に遡ってでも「男系のパスワード」を持つ者を探し出し、皇統というシステムを再起動(リストア)させるしか道はなかったのです。
【伏見宮の誕生 〜「二つの太陽」が産んだ究極の防波堤〜】
時代は下り、鎌倉幕府の滅亡を経て、日本は皇統が二つに分裂する「南北朝時代」という最大のバグに突入します。
この激動の中で、北朝第3代・崇光天皇の皇子である栄仁(よしひと)親王は、政治的敗北によって皇位に就く道を絶たれてしまいます。しかし、彼は天皇になれなかった代わりに、その子孫が代々「親王宣下」を受け続けるという特別な地位を確立しました。
これこそが、皇室史上初の世襲親王家「伏見宮(ふしみのみや)」の誕生です。彼らは本流の皇位争いから一歩引きながらも、常に「親王」としての高い霊的格式を保ち続ける、完全独立型のバックアップ・サーバーとなったのです。
この激動の中で、北朝第3代・崇光天皇の皇子である栄仁(よしひと)親王は、政治的敗北によって皇位に就く道を絶たれてしまいます。しかし、彼は天皇になれなかった代わりに、その子孫が代々「親王宣下」を受け続けるという特別な地位を確立しました。
これこそが、皇室史上初の世襲親王家「伏見宮(ふしみのみや)」の誕生です。彼らは本流の皇位争いから一歩引きながらも、常に「親王」としての高い霊的格式を保ち続ける、完全独立型のバックアップ・サーバーとなったのです。
【後花園天皇と伏見宮の真価 〜バッファが機能した瞬間〜】
この伏見宮というバッファ(緩衝領域)が、日本史上最大の奇跡を起こす日がやって来ます。
室町時代の1428年、本流であった称光天皇が後継ぎを残さずに崩御し、ついに直系の血筋が完全に断絶してしまいます。この国家存亡の危機において、白羽の矢が立ったのが、伏見宮貞成(さだふさ)親王の息子、彦仁王でした。彼は後小松上皇の猶子(養子)として迎えられ、後花園天皇(第102代)として即位します。
室町時代の1428年、本流であった称光天皇が後継ぎを残さずに崩御し、ついに直系の血筋が完全に断絶してしまいます。この国家存亡の危機において、白羽の矢が立ったのが、伏見宮貞成(さだふさ)親王の息子、彦仁王でした。彼は後小松上皇の猶子(養子)として迎えられ、後花園天皇(第102代)として即位します。
伏見宮は、崇光天皇から数えて実に「3代(約70年)」もの間、天皇の位から遠ざかっていました。しかし、彼らが「男系のバトン」をひたすらに守り、世襲親王家として伴走し続けていたからこそ、本流の完全なクラッシュを寸前で回避し、皇統を未来へと繋ぐことができたのです。(※現代の皇室もすべてこの伏見宮の男系血脈に繋がっています)。
【「直系主義」という名のシステム破壊】
「直系の長子(女性)がそのまま継げばいい」という現代の女系天皇論者や双系論者の主張は、歴史の過酷さを全く知らない温室育ちの暴論です。
もし過去の日本が「直系至上主義」であり、伏見宮のような「傍系の男系男子」という防波堤を切り捨てていれば、承久の乱や称光天皇の崩御の時点で、日本の皇統は確実に消滅(あるいは別の王朝に乗っ取られ)していました。
もし過去の日本が「直系至上主義」であり、伏見宮のような「傍系の男系男子」という防波堤を切り捨てていれば、承久の乱や称光天皇の崩御の時点で、日本の皇統は確実に消滅(あるいは別の王朝に乗っ取られ)していました。
皇統とは、一本の細い糸(直系)だけで紡がれてきたのではありません。「世襲親王家」という太く強靭なバックアップ(傍系の男系男子)が常に並走していたからこそ、2000年の時空をサバイブできたのです。
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