霊的な知識/人智学
オーストリアハンガリー帝国の町クラリェヴェク(現在はクロアチア領)にて生まれ、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者であったルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日<正確には25日誕生、27日洗礼> - 1925年3月30日)は、神智学協会の神智学運動から派生した人智学(Anthroposophie)と称する精神運動を創唱した。神智学協会は、諸宗教、哲学、人間の霊的本質などの探究を通して、人類的な友愛の共同体を作ろうとする運動体のことで、シュタイナーは『神智学』を執筆していた1904年当時は、自身の学問を神智学と称しており、神智学、神秘学、精神科学(霊学)のすべてをシュタイナー自身の立場として理解されるが、1913年以降、神智学のグループと袂別してから、自身の立場を神智学と呼ぶことはなくなり、人智学という言葉に統一された。シュタイナーの著作は厖大な量になり、その全体像の把握は困難であるが、それらの根底には人智学という根本思想が流れている。
シュタイナーは人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることができず、五感を超えた高次の感覚(霊的感覚、超感覚的認識)によって初めて事物の本性を把握することができるという立場を取っている。シュタイナーは幼い頃から、霊的な次元に対して、かなり敏感で、自分の見ている世界が他人の見ている世界と違うことに気付いていたらしく、透視能力によって得た超感覚的世界の実相に基づいて人智学を創始して、人類の霊的向上を促そうと啓蒙を行った。シュタイナーは、物質偏重に傾きすぎた今の文明の在り方を正すために、古代から受け継がれた秘教的・霊的知識を総合し、万人に公開し、それを近代的認識批判の立場からも受け入れられる言葉で語ることが必要と考えた。シュタイナーの霊に対する態度は以下の通りである。
科学は今でも、そしてどんな時代の科学であろうとも、決して霊を否定するように私たちを強制したりはできません。完全に科学の立場に立っていても、霊を認めるか認めないかは、科学次第なのではなく、私たちが霊を感じとれるか、とれないかという、人間の能力次第なのですから。
人智学と現代科学の根本的な違いは、前者が霊的な現実に出会うために死から出発するのに対し、後者は生から、子どもと成長と全身から考察を始めることにある。人智学が一つの学問になるためには、全ての人が彼の言う「超感覚的認識」を持つ必要があるが、シュタイナーはそれが少数の人だけでなく誰にでも獲得できる能力であると考え、霊的な教師のための精神教育の確立を重視し、人智学の方法に従った修行、特に「瞑想」(メディテーション、静観的思索)を行っていくことにより、霊的本性の中を生きるようになっていくと主張した。また、シュタイナーは感覚を超えた領域は、理性的な認識によっては捉えられないと主張している神秘家の主張に対し、明晰な判断を伴って超感覚的世界を理性によって認識することが大切であるという立場を取っている。このことは、一方で、物質主義的自然科学が切り捨てた超感覚的世界を復権させながら、他方で、神秘家が切り捨てた理性的な認識を擁護するという立場であると見ることができる。
今日の外面的な文明の中に浸って生きている人が超感覚的な諸世界を認識できるようになるのは非常に困難だとしながら、著書
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では、霊的体験を得るための修行についても記しているが、第二部を作る前に世を去った。シュタイナーによれば、修行の三段階を通って行けば、全ての人の霊的生活は霊界への参入をある程度まで許されると言い、その三段階とは、
準備、
開悟、
霊界参入であるというが、必ずしも厳密に順を追って進んで行く必要はないという。
死に対する態度
シュタイナーは、死は人生の終わりであるとする唯物主義に対し、死は人生の一種の場面転換なのだと見ており、死後の意識は、生前の意識とは異なっているものの意識であることに変わりはなく、別の意識が死と共に始まると見ている。
もちろん、唯物主義に支配されたこんにちにおいては、死は、人生の終わりであるとしか思えません。昔はそうではありませんでした。なぜなら昔の人は、古代の夢幻的な見霊能力のいくらかを身に付けていたからです。この夢見るような見霊能力は、霊界での体験と結びついていました。その頃の人びとの魂は、霊界の中でも意識を保つことのできる体的本性の中に受肉していましたから、死は、私たちの時代の死のように、決定的にいとうべき現象ではありませんでした。死が決定的にいとうべきものである、という受けとめ方は、もしも神秘学が開示すべき認識を私たちの時代に次第に有効にしていかなければ、ますますゆるぎないものになっていくでしょう。なぜなら現代人は、私たちが学んでいる神秘学が、神秘学そのものとしてというより、人間の体験全体にとって、重大な意味をもっているなどとは、頭から信じていないのですから。
また、霊的認識の問題に取り組んだことのない人にとって、物質界における時とは全く異なる世界体験、感性を超えた超感覚的世界などがあり得るとは思えない反面、この世を生きる私たちにとって、物質界を超えた、全く別の体験をすることが意識を変化させることによって可能になるのだという。そして、それは古代以来、「イニシエーション」(秘儀参入)によって可能になるのだと言い、死の門を通って、死後の世界に入った死者もそれと同種の体験をするのだという。また、シュタイナーは自分を死後の世界と関連付けるのは、人間感情にとって自然なことであると見ている。
死後の世界について、たとえどんなに曖昧な考え方しかまだできていなくても、そして死後の世界について何かを知ることができるとはとても思えなくても、自分を死後の世界と関連づけるのは、人間感情にとって、自然なことであり、ふさわしいことなのです。
一方、これに対して、特にこんにちの唯物主義の時代にあっては、多くの人がそもそも感覚世界を超えた超感覚世界など存在する筈がない、少なくとも人間にはその存在について何かを知ることなどできる筈がない、と思っています。けれども、この点に関しては、そのような高次の世界に「否定的」な態度をとるのは、そのように教えられてきたからだ、と言い返すこともできます。なぜなら、死後の霊的、超感覚的な世界を否定するのは、人間にとって「あたりまえ」なことではないからです。そのような世界を否定するためには、あらかじめいろいろな理論によって武装していなければならないのです。高次の世界、それをここでは霊界と呼ぶとしますと、そのような霊界をなんらかの度合いの真剣さで否定するには、そう「教え込まれ」なければならないのです。あたりまえな人なら、なんらかの仕方で、心の眼をこの霊界に向けようとする思いをもっているのです。
アカシックレコード
アカシックレコードは神智学協会のヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーが最初に使った言葉か、シュタイナーが作った言葉と言われ、シュタイナーは、透視能力のある意識のみが近づくことができる宇宙の超感覚的な歴史、「世界で起こったあらゆることが記録されている」「巨大な霊的パノラマ」を
「アカシャ年代記」「アカシアの記録」と呼んだ。近代神智学系の思想家・オカルティストたちによると、物理界・星幽界・神界・天空などの世界の果てに、それを取り巻くように不思議な境界線が遠く伸びており、ここには全宇宙の歴史が時間の流れにしたがって配列されており、これがアカシャ年代記・アカシックレコードであるという。シュタイナーは、アカシャ年代記には、この宇宙より前に3つの宇宙があったと記していると言い、このことはシュタイナーの霊的進化論における人間の諸構成要素の形成と関係してくる。
今日では、アカシックレコードなる語はニューエイジ、精神世界、占い、予言などのジャンルで使われるようになっており、瞑想状態や催眠状態などの変性意識下においてアカシックレコードにアクセスすることに成功している人がいると言われるが、世の中の発明の天才が突然アイデアを閃かせるのは、アカシックレコードを読むことで未来を読むことができるからだという説もある。アメリカの医学博士ウィリアム・A・マックギャレイは、アカシックレコードはそれを見つける人にとって、三次元的感覚を作り出すような仕方でもって理解できるように見えると言い、この世界での想念、感情、行為でつづられた織物のように見える人もいれば、巨大な図書館の中に納められた個人個人のための本のように見える人などもいると述べている。
また、アカシックレコードは現代にいたるまで、
心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した心理学の概念である
集合的無意識や様々な記録層の概念と同一視または類比されたり、関連付けられたりすることがある。
霊的進化論
シュタイナーは人間の本質に関する研究も行った。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を
、肉体(物質的身体 der physische Leib)と名付け、それを
「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」として位置づけ、それよりさらに「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとしている。精神科学はそれらの超感覚的「肢体」(精妙な体)を、肉体の上に認め、それら全てを
「全体としての人間 der ganze Mensch」としている
ここで、シュタイナーの言う人間本性の超感覚的要素と関連して、
物質体(Physischer Leib)、
エーテル体(Ätherleib)、
アストラル体(Astralleib)、そして
自我(Ich)という用語が登場する。
人間の構成要素(『ベーシック・シュタイナー』p.88より)
物質体
物質としての体、切り離された手足、いのちのない亡骸。
エーテル体
有機体をひとまとまりに保つ生命力、生命体(Lebensleib)とも言い換えられ、物質体はエーテル体がないと死んでしまう(鉱物は物質体ではあってもエーテル体をもたない)。健康な人の場合、エーテル体は若い桃の花の色をしていると言い、薔薇のような濃い赤から明るい白までの独特のニュアンスで輝き光る。
アストラル体
意識をもつ力、物質体とエーテル体だけでは、いのちはあっても意識をもつことがない(植物はエーテル体をもつが、アストラル体をもたない)。アストラル体は、じつにさまざまな色彩と形態を示すという。
自我
アストラル体だけでは感情が生じてもそれが持続する事はない。自我の働きがあって初めて時間的連続性をもった自覚が成り立つ(動物はアストラル体をもっても、自我はもたない)。
シュタイナーは、人類の進化について、地球と共に7つの段階を経て進化するとしている。それは物質的な肉体のみの存在である
第一段階(土星紀)、
エーテル体をもつ存在である第二段階(太陽紀)、アストラル体をもつようになる
第三段階(月紀)、そしてそれらに加えて「自我」を備えた存在となる
第四段階(地球紀)、そしてその後、
第五段階(木星紀)、
第六段階(金星紀)、
第七段階(ヴァルカン紀)と進んでいくという。すなわち、地球の7つの周期に住む人間は、その周期に関連しながら物質と霊の粗雑な混合物から精妙な存在へと、肉体・エーテル体・アストラル体・自我・霊我・生命霊・霊人という7段階の進化を遂げ、現在ははっきりした自意識を獲得した自我の段階であるという。
また、シュタイナーはこのような人類の歴史や宇宙の進化、人間発達プロセスだけでなく、人間の体験する生理的、心理的現象、さらには
トランスパーソナル心理学で言うところの変性意識、意識の変容を物質体、エーテル体、アストラル体、自我の組み合わせから説明することを試みている。例えば、人間が眠りにつくのは物質体+エーテル体とアストラル体+自我との間が切り離される現象であるとし、死とは物質体からエーテル体+アストラル体+自我が切り離された状態で、
臨死体験は一時的にこの状態を体験し再び物質体と結びつく現象であるとしている。シュタイナー自身、
『神秘学概論』の中で、
臨死体験(恐死体験)における人生回顧について、以下のように言及している。
生前のエーテル体も、例外的に、短い間肉体から分離することがある。たとえば、身体のある部分が圧迫されると、そこのエーテル体部分が肉体から分離する。そういうとき、「しびれが切れる」と言う。その時感じられる独特な感覚はエーテル体が分離したことによるのである。もちろん、唯物論的な考え方は、この場合にも、可視的なものの中の不可視的なものを否定して、「それは圧迫された肉体が特定の障害をしめしているにすぎない」、と言うであろう。
超感覚的な観察は、このような場合、当のエーテル体部分が肉体から押し出されるさまを見ることができる。人間が極度の恐怖を体験すると、ごく短い間、エーテル体の大部分にそのような分離が生じる。たとえば溺れそうになったり、断崖絶壁から転落しそうになったりして、突然死を身近に感じるときがそうである。そのような体験をした人びとが実際に真実を語っていることは、超感覚的な観察によって確かめることができる。そのような人びとは、その瞬間に、人生全体が巨大な回想像となって現れる、と語っている。
死後の過程についても、「死の瞬間、過ぎ去った人生全体が一つのパノラマのように死者の前を通り過ぎる」と語られるのは、エーテル体がその記憶の担い手であり、エーテル体が物質体の中にある限り、自らの力で全てを展開する事はできないが、人間が死ぬと、地上に生きていた間に自分の中に書き込まれた事柄を物質体の束縛なしに繰り広げることができるようになるからだという。この記憶映像は、一種のパノラマのような概観を示すらしく、苦痛はそこにはなく、苦痛を客観的に眺めるだけだという。この期間のうちにエーテル体は消えていくというが、エーテル体を解消した人間は、それに続く死後の諸体験の中で、アストラル体と自我からなる存在として、死の直後に現れる記憶映像とは全く異なり、自分の行為によって他者が感じたものを非常に正確に、自分が誰かの魂に与えた痛みや喜びをその人の側から体験させられるという。
転生論
シュタイナーは人間の人生を支配している法則についての研究を行い、死後の生活に関する記述や、再受肉、転生、生まれ変わり(Reinkarnation)の思想を説いた。霊的進化を伴う転生思想は、神智学から受け継ぎ発展させたもので、シュタイナーの超感覚的観照・生来の霊能力による霊視に基づくとされている。
物理的な世界において、現在は過去によって規定され、未来はその現在によって規定されているという点で、因果の連鎖から逃れることが出来ないというが、それと全く同様に、人間は、前世で作り出した状況以外の、いかなる状況にも生きることはできないという。そして、シュタイナーは前世から携えてきた力と死と再受肉の間の時期から携えてきた力を以て新しい身体を構築し、新しい身体の中に入っていくという。そして、その時、死後の直後とは逆の道を辿るらしく、これから入っていく人生を予告する画像を見るという。シュタイナーは転生について以下のように述べている。
私の中で説明のつかない運命となって支配しているように見えるもの、私の誕生に際して不用意に生まれついたように見えるもの、それは奇蹟でもなく、無から生じたものでもないのです。それは世界の中の凡てが何かの結果であるように、ひとつの結果なのです。その結果は、私の魂の祖先の中での魂以前の生の結果なのです。
シュタイナーは自分にとってもっとも才能のないものが、前世においてもっとも才能を発揮していたと思われるものだとも考えている。
また、自分に原因のある作用の結果が自分に帰ってくるというカルマ(Karma)の法則という霊的因果律から、ある人生における自分の行為の結果が次の人生に現れるのだと見ている。そして、カルマに関連して、人は死後、自分が他者に対して与えた苦痛を体験し、人間としてもつべきでありながら他者を害する事によって失われた完全性を取りも戻そうという傾向をもつようになるという。
ここで、わたしたちが人間の輪廻転生について知っていることがらを、このような考察の根底に据えてみましょう。先にお話しした例外を除いて、生まれてから死ぬまでの人間が有する意識は、人間が脳を道具として使用できることによって生じます。人間が死の扉を通過すると、別種の意識が現れます。その意識は脳から独立しており、本質的にほかの条件に結びついています。再受肉するまで持続するこの意識において、人間は生まれてから死ぬまでにおこなったことすべてを回顧するということを、わたしたちは知っています。自分が被った害の作用はほんとうにカルマ的に人生のなかに導き入れようとするなら、生まれてから死ぬまでの人生において、その害を振り返るという意図をまず持たねばなりません。死後、自分の人生を振り返るときに、人間はそのような害、そして自分がおこなったことがらを見ます。同時に、その行為が自分の魂になにをおこなったかを見ます。人間は、自分がある行為をおこなったことによって、自分の価値を下げたり上げたりしたのを見ます。
たとえば、他者を苦しめることによって、わたしたちの価値は下がります。他者を苦しめることによって、わたしたちの価値は下がり、わたしたちは不完全な人間になります。死後、自分の人生を振り返ると、「この行為によって、わたしは自分の価値を下げた」といわねばならない数多くの出来事を見ることになります。しかし、それにつづいて、自分が失った価値を取り戻すための機会があるなら、どのようなことでもおこなおうという意志と力が、死後の意識のなかに生まれます。自分が他者に加えた苦痛のすべてを埋め合わせようという意志が生じるのです。つまり、死と再受肉のあいだに、自分が生前になした悪しき行為の埋め合わせをし、人間として持つべきでありながら他者を害するという行為によって失った完全性を取り戻そうという傾向、意図を持つようになるのです。
さらに、シュタイナーは世界を霊的に観察すると、いたるところにカルマ的な法則性が見出されるといい、個人のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマ、宇宙のカルマなどの様々なカルマの流れが交差しているという。時代の、文化共同体の、あるいは人類のカルマを、私たちは個を超えた立場で認識していかなければならない言い、地球の様相は人間が前世で何をなしたかによって決定されるという。
最終更新:2025年08月02日 23:51