今日も欠陥車両が走っている-知らないのは無知な鉄道マニアだけ-【鉄道マニアからの反論】
桜井氏の2005年4月26日の「スーパーひたち踏切事故」論評への反論を、アマチャな鉄道マニアが、僭越にもやってみる。
読売新聞社は、今日、つぎのようなニュースを流しました(青色文字部分引用)。たしか、桜井氏は、
今後も読売新聞社の記者に対しては犬猫同様の扱いをしてやるから覚悟しておけ。(参考)
と仰せだが、これは本題ではない。また、この読売の見出しは、
常磐線事故、ブレーキ不備が一因…事故調改善求めるであった。
それにしても、これで毎日新聞の記事を採用していたら、今度は運転士の資質が云々となって、欠陥車両原因説を採りにくくなるので、わざと読売を採用したのではないか、と邪推。
JR常磐線特急脱線:運転士が信号見落とし 「踏切前で止まれた」--報告書 /茨城朝日が、非常ブレーキの制動力、常用下回る 常磐線事故で調査委、時事が、非常ブレーキで停止距離伸びる=全国に2000両、対策提言-事故調・・
こうなっては訳がわからなくなるので、まずは当時の状況から(ディリー)。
26日午後零時50分ごろ、茨城県美野里町のJR常磐線羽鳥駅近くの踏切で、脱輪し立ち往生したトレーラーに、上野発いわき行き特急スーパーひたち23号(11両編成)が衝突、先頭車両が脱線した。乗客の女性1人が軽いけが。トレーラーを運転していた同県鹿嶋市の男(31)も顔などに軽傷。現場は大型貨物車両は通行できない踏切。道交法違反などの疑いで、石岡署は男を逮捕した。大型車通行禁止の踏切に大型トレーラーが突っ込んで立ち往生。踏切の非常押しボタンは押し込まれておらず、発煙筒などで列車に知らせたというわけでもないのが、ケチのつき始め。
これでやれ非常信号の見落としだのブレーキ不備だの言われてしまう、スーパーひたちと中の人・・もとい運転士が不憫だ。
さて、こういう場合には、航空・鉄道事故調査委員会の報告書(pdf )に頼るのが王道である。
5 建議
航空・鉄道事故調査委員会は、本事故の発生に鑑み、以下のとおり国土交通大臣に建議する。この前に、運転士が「特殊信号発光機の停止信号現示にも気付かずに力行運転が継続」という事実説明があるが、これを事故原因とするのは安易な精神論に陥るので採用できかねる。
鉄道車両のブレーキ装置に関する建議
列車を急きょ停止させなければならない事態が生じた場合に使用される非常ブレーキは、事故防止の観点から可能な限り大きな減速度が得られる必要がある。
このため、鉄道車両のブレーキ装置について、常用最大ブレーキの後に使用される非常ブレーキの減速度は、常用最大ブレーキの減速度よりも低下しない構造とするよう、所要の措置を講ずること。
人間は不真面目でなくても、ミスをすることもあれば眠くなることもある。机に座って仕事をしている人でも同じ事はあるだろう。という考え方に、鉄道の安全対策が立脚している以上、
(略)
お客様に死傷者が出るような事故はシステムで守る。その他はなるべく人間の責任に任せた方がよい
(略)
運転士に自由に運転させるが、本当に危なくなったらシステムが護るのである。
(「なぜ起こる鉄道事故」p316-317山之内秀一郎・朝日文庫)
「本当に危なくなったときに護るべきシステムがうまくいかなかったのはなぜだ。(この事故の場合は、「なぜ非常ブレーキがきちんとかからなかったのか」)どう対策すべきか。」
を述べた部分に着目して論じるのが正当であろう。
少々本題からずれた。
確かにこの事故がない限り、常用→非常とブレーキをかけると逆に停止までの距離が伸びる、という事に気がついていたかどうかは不明である。しかし、この発言では事故調査委員会はいらないということになってしまう。実際には、毎日のように欠陥車両が走っていたのです。事故でも起らない限り、欠陥であることさえ気づかないのです。
鉄道マニアにはこの意味がわからないでしょう。
このようなことは、車両だけでなく、あらゆる商用技術に共通する問題なのです。エンジニアの設計能力などというのはその程度のものなのです。
不幸にして起きた事故から何を学び、より安全にするにはどうすればいいのかという地道な調査を否定している。
さらには。「エンジニアの設計能力はこの程度」とは、蔑むにも程がある。
完全に安全な移動手段を求めている発言ではあるが、そのようなものがあるのだろうか?このようなことは、車両だけでなく、あらゆる商用技術に共通する問題なのです。エンジニアの設計能力などというのはその程度のものなのです。
墜落しない飛行機、沈没しない船、脱線しない鉄道、転倒しない自転車、落馬しない馬、アキレス腱を切らない脚を求めるのと何が違うというのか。
残念ながら全て起こりうるリスクである。それから逃れるには、それこそ家に引きこもって達磨のごとき状態で生活するしかないが、それはできるのか、という問いに答えるようなものである。